第3話 そして紺碧の海に帆は白く煌めく

 「やぁだ!タシアもいくのぉ。」

 「駄目だよ。タシアにはまだ歩いたり渡ったり出来ないところに今日は

  行くんだ。今日はタシアはお留守番。」


 新緑の木陰が涼やかな緑の回廊となっている。若葉と花のむせ返る様な香りをのせて初夏の風がさやさやと吹き抜けるその道でペッタリと座り込んで半べそ状態で愚図る小さな少女に、やはりまだ幼いが少女よりはずっと年上の少年が困り顔で答える。


 「アナスタシア様、王女様の分まで僕がたくさんイチゴを摘んできますから、

  今日はどうか待っていてください。」

 「やっ!タシアも一緒に行くの!」


 零れ落ちそうなほど大きな菫色の瞳で見上げて主張する幼い王女にエリアス少年は途方にくれて王女の兄、つまり王子であるバシレイオスと顔を見合わせた。森を抜けて小さな川を渡った向こうまでイチゴ狩りに行くつもりが、まだ3歳になったばかりのタシアがどうしてもついていくといって聞かないのだ。いつもとは違う遠い森。丘を三つほど超えてまだ行った事が無い場所へ。ささやかな冒険行に、この歩くスピードもまだまだゆっくりとした妹を連れて行くのは中々大変だ。目指す場所への半分ほどもきっと行けなくなってしまうだろう。バシレイオスはそっと見つからないように王宮を抜け出すつもりだった。ところがそんなときに限って、この小さな妹は敏感に察知してついてきてしまう。 


 「仕方ないな。そらオチビ、俺が手をつないでやるから離れるなよ。」

 「タシアはタシアだもん!オチビじゃないもの!」

 「どっからどう見てもチビじゃんか。」

 「違うもん!」


 エリアスとバシレイオスの背後から声がして、もう一人の少年が現れた。姿形や顔の造作だけならエリアスと寸分も変わらない。違うのは髪と瞳の色合いが少しエリアスより明るい事、そしてエリアスが穏やかな砂糖菓子でこしらえた天使のような柔らかな雰囲気を持つのに対し、全身から野生の獣のような力強さを、瞳には大人すら射抜くような華やかな強さを感じさせる点だった。

 少年は座り込んでいるタシアに近づくとズイッとやや乱暴に手を差し伸べる。

 

 「そら、手をつないでやる。でも俺から離れて勝手に何処か行ったら

  知らないからな。」

 「タシア、一緒にいけるの?」

 「行かないのか?」

 「行く!大好き“・・・・・”」


 いつもからかわれた。時々意地悪で泣かされた。でも必ず手をつないでくれるの。もう歩けないって駄々を捏ねたら怒鳴って怒るのに、怒りながら背中におんぶしてくれたの。大好きだったのよ・・・・名前はなんだったかしら・・・・・・?



 「お姫さん、大丈夫?休んだ方がよくない?血だらけでお姫さんが見るような

  光景じゃないだろう?」


 少し心配げなニコの声にハッとタシアは我に返った。座ったままで夢を見ていたようだ。そしてギュッと胸の前で組んでいた両の手に力を込める。そうやって祈ってでもいないと全身が震えてしまう。


 「大丈夫、ここにいます。私を庇ってくれたせいでもあるのよ、一人だけ

  休んでなどいられません。」


 タラサドラコーン艦のカノンの船室。四肢を縛り上げて固定、猿轡をしたカノンの体からアルジュナが銃弾の摘出と処置を行っている真っ最中だった。アルジュナが中国商人から入手していたアヘンを使用しているが、処置を急ぐこと、万一でも暴れることがないようにオウロ、ディオン、ニコ、テオドロスがカノンの四肢を押さえつけている。

 イザークもゼノンによって数箇所の骨折や全身の打撲等の怪我を負った。幸い内臓への損傷はなく意外に軽症だったことに一同は安堵する。容赦ない攻撃を受けつつもギリギリのところで急所へのダメージは躱していたらしい。今はタラサが傍について見守っている。


 「さすがは蒼き龍と言うべきなのか、悪運が強いと言うべきかだな。3発とも

  内臓から外れている。だがスレスレだ。出血もかなり多い。傷口が化膿する

  危険もあるし熱も高い。今夜を無事越せさえすれば大丈夫だとは思うが正直

  油断は出来ん。後は運を天に任すのみだが・・・。」


 自身も額に汗を滲ませてなんとか手術を終えたアルジュナが深刻な表情で告げる。普段イザーク同様どちらかと言えば寡黙な方であるから、その言葉は重い。


 「いつもの旦那なら怪我くらいなんともないのになぁ。」

 「いくらお頭が特異体質とは言え、これだけの傷と出血だ。普通なら一発目を

  打たれた時点で痛みで動けなくなるものだ。それを動きまわって戦闘を行って

  いたこと自体が常識外れだといっていい。」


 テオドロスとドラコーンたちに重い沈黙が流れる。

 

 「くそっ!双頭の片割れなんぞ、俺がいれば相手してやったものを!」


 テオドロスが苛立たしげに船室の壁を叩いた。ゴンっと鈍い音がして部屋全体が微かに震えた。


 「お頭!いつもみたいにそんな傷、さっさと治しちまえよ!」

 「ニコ、声をかけるのはまだしも触っちゃ駄目ですよ。」


 ニコが今は昏睡しているカノンの耳元で叫ぶとディオンが宥めた。


 「あの・・・特異体質って・・・いつもは怪我をしても早く治るのですか?」


 ドラコーンたちの会話にタシアはひどく引っかかるものを感じて疑問を投げかけた。


 「ああ、カノンの奴はどういうわけか知らんが異常に傷の回復が早いんだ。

  ちょっとした切り傷くらいなら怪我した翌日には跡が辛うじて分かるくら

  いに回復してしまう。病気も同様なんだろうが、熱なぞ出して寝込むよう

  なタマじゃないから確かめようがないがな。ついでに言うとやたらと夜目

  が聞く。ウサギの親戚かってくらい耳もいい。嗅覚とか気配にも異常なく

  らい敏感だ。戦う相手としてはとにかく面倒な奴なんだ。」

 「なんだかんだ言って戦闘中も実力の7割も出してないんじゃないかなぁ。

  全開にすると艦隊指揮が疎かになるとかって言ってたもんなぁ。」

 

 テオドロスの後にニコが感慨深げな表情で呟くように言う。


 「その気になれば相手の動きが止まってるのかと思う程ゆっくり見えるらしい。

  それではつまらないから力を加減しているのだとも聞いた。まるでチャイナや

  インドの伝説に出てくる神仙とか言う超人のようだと思った事がある・・。」


 ようやく椅子についたアルジュナがお茶のカップを手にしたまま、暫し言葉を濁した。


 「今回も・・・三発ともスレスレで躱したのかも・・・いや、多分そうだ。」

 「銃弾をぉ??!!マジ??」

 「ああ、旦那なら・・・・ありうるな。」


自らの言葉を反芻しながら、アルジュナは控えめに結論付ける。ニコが頓狂な声を上げ、オウロが何かを思い出すかのような表情の後、アルジュナの言葉を肯定した。


  「そんな・・・・それってまるで・・・・・。」


 それってまるで聖騎士だわ・・・。ドラコーンたちの言葉にタシアは言いかけたそれを飲み込んだ。そして、ハッと瞳を見開く。


 「テオドロス、そのダガーを貸してください!」

 「どうしたんだ急に?」

 「お姫さん?」


 テオドロスが腰に帯びていた短剣をひったくるように受け取ると、傍らのテーブルにあったコップをタシアは手元に引き寄せた。そして一同が止める間もなく短剣で自らの掌をスッと切り裂く。ポタポタと鮮やかな滴りがコップの中へと落ちていく。


 「あ、そうか、グラウコーピス王女の聖なる霊血・・・・。」


 ディオンがハッと思い当たったように呟く。

ある程度溜まったところでタシアはコップを引っつかむように手にすると、カノンの傍らに立った。小憎たらしいほどに不敵な笑みと眼差しを浮かべているはずの男が、今は蒼白な顔で横たわるのみだ。


 「カノン、お願い。これを飲んで。」


 幾らでも揶揄っていい。横柄で偉そうでもいい。だからお願い、このまま死んだりなんてしないで。もう一度目をあけて。

 男の口元にそっとコップをつけて傾けるが、紅い雫は虚しくカノンの唇から嚥下されることなく流れ落ちていくばかりだ。まだ血を滴らせているタシアの手が震えた。

 お願い、一口でいいから飲んで・・・・。


 「お姫さん・・・・!」

 「ありゃりゃりゃ・・・・。」


 その場にいた全員が目を見開いた。

 タシアはコップの中身を自分の口に含むと間髪入れずにカノンの唇に自分のそれを重ね合わせた。横たわる男の上に身を乗り出すようにして、塩味のする赤い液体を懸命に閉じている口の中へと流し込む。

 数瞬の後、カノンの喉が動く小さな音がタシアの耳に聞こえた。


 「よかった・・・・・。」


 掌の痛みも忘れて安堵の溜息をタシアは漏らした。声もなく事態を見守っていたドラコーンたちとテオドロスもつられたように大きく息を吐き出す。カノンほどの体力と強さを持つ男だ。これできっと助かるはずだ、と不思議な確信を一同共通して抱いたのだった。


 その夜、艦隊は近くの小さな無人島の入り江に艦を寄せると臨時に停泊する事となった。他にも大小の負傷者がいないわけではなく、その手当てや艦の補修も必要だったからだ。昼間の戦闘が嘘のような静かな良く晴れた夜だった。


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 「カノン、カノン、待って!」


 少女の呼び声にカノンは振り返る。一体いつからそこにあるのかも定かでない、さほどに大きくもなければ小さくもない丸木橋が架かる崖の手前。緑の柔らかな草を踏みしめて、大きな菫色の瞳をした少女が立っている。少女と言うよりまだ幼女といった方が正しい。3歳になったばかりのその子がカノンの後を追いかけたくて仕方ないと言う眼差しを向けている。


 「そこで待ってろよ。あっちにたくさんあるイチゴを採ってきてやるからな。」

 「や!タシアもいっしょに行く!」

 「駄目だ。この橋はお前には無理だ。」

 「カノンと一緒ならヘーキだもの!」

 「ここだけは駄目だ。本当に危ないんだ。落っこちたら大怪我だぞ。」


 カノンが指差した方向を見てタシアは小さく息を飲む。底こそ見えているが、落ちれば無事ではすまない事は3歳になったばかりのタシアにも何となくわかる。高さと言うのは奇妙なもので本能的な好奇心と恐怖心の両方を呼び起こす。だが、今に限って言えば恐怖心の方が勝るようだった。頼りなげな丸木橋も、まだ普通に歩いていても意味もなく躓くことのある幼女には危険な代物だ。


 「いいな、すぐ戻るからちょっとの間だけ待ってろよ。」


 言い含めるようにしてカノンは丸木橋を渡っていく。その足取りは軽やかで地面の上と変わりない。代々国王に最も近い重臣の家に生まれたとはいえ小さな王国。そして女神アテナの恵み受けし国として優れた戦士であることが尊ばれる国柄である。子供達も幼い頃から野を駆け山や森を走り回ることは王族であろうと平民であろうと好ましいこととされてきた。そのような環境にあってすらカノン、そしてカノンの双子の兄エリアスと王子バシレイオスは大人たちが苦笑する腕白ぶりだ。

 トン!と、いとも容易く向こう側へ渡ったカノンがタシアの方を振り向いた。


 「イチゴ採ってきてやるからな。そこで待ってろオチビ。」

 「タシア、オチビじゃないもの!」

 「オチビだよ、ちっこくて丸いチビウサギみたいだ。」

 「違うもの!」


 すぐムキになって抗議する少女の声を笑い飛ばしてカノンは眼前の茂みに目をやる。崖を渡った向こう側もこんもりとした森が続いていて、その足元に艶やかで紅い小さな:紅玉 の如き野イチゴがたわわに実っていた。今年は天候に恵まれて豊作らしい。

 腰に結び付けた麻袋の口を広げると手当たり次第にカノンは摘んでは放り込んでいく。向こう側で待たせているタシアに好きなだけ食べさせてもまだまだ余るほどある。侍女に頼んでジャムやお菓子にしてもらおう。そんなことを考えながら夢中で摘んでいたときだった。


 「カノーン!怖い!」


 少女の甲高い悲鳴が聞こえた。

 弾かれたようにカノンは丸木橋のほうへ戻る。


 「カノン!カノン!」


大きな瞳いっぱいに水滴をためたタシアがカノンの姿を目にするや叫んだ。丸木橋の1/3ほどのところで座り込んで震えているのだ。


 「馬鹿!待ってろって言ったのに!絶対そこ動くなよ!」


 慎重にカノンは丸木橋の上に片足を踏み出した。カノン一人なら何と言うこともない橋だが、小さな子供とはいえ二人分の重みにこの古そうな橋が耐えられるだろうか?足元から伝わる軋みに一抹の不安を感じつつ、大きな瞳でカノンを見つめるタシアの方へそっと歩いていく。爽やかなはずの風さえ橋をゆする無用な刺激に思える。カノンはいつになく体が強張る感覚に拳を握り締めた。


 「カノン!」

 「タシア!大丈夫か!」


 タシアの悲鳴を聞きつけてエリアスとバシレイオスも駆けつけてきた。が、目の前の光景に見守るしかできない。カノンを手助けしようにも良策が思いつかないのだ。

 ゆっくり、ゆっくり・・・。息を詰めるように慎重に近づいてカノンはタシアの傍らに辿り着く。そっと屈むと震えている小さな手を握って大きく息を吐いた。


 「カノン!カノン!」

 「わ!馬鹿、抱きつくな!」


 泣きじゃくりながらタシアが首筋にしがみついてきた。柔らかなぬくもりと小さな腕に込められた力、その感触の不思議な心地良さと面映さに少し慌ててしまう。同時に感じる暖かな幸福感。このまだ小動物のような小さな少女が纏わりついて、時にムキになって自分を追いかけてくる感覚がカノンは好きだった。面倒だと思う一方で、自分が心から必要とされていて、守ってやらねばならないという気持ちが深いところから湧いてくるのだ。

 だがそれも一瞬のことだった。


 「カノン!」

 「タシア!」


 エリアスとバシレイオスが同時に声を上げた。朽ちかけていたのだろう橋がミシリと不快な音で軋んだかと思うと真ん中近くで折れたのだ。

 咄嗟にカノンはタシアを力いっぱい抱きしめる。片方の手を必死で目に付いた木の枝に伸ばして掴む。


 奇妙な浮遊感。


 そして急激な落下感に包まれる。掴んだ枝が瞬間たわんでバキリと折れる。本能的に抱きしめたタシアごと、カノンは頭と体を丸めた。崖の所々に生える木々や出っ張りにぶつかり体を打ちつけながら転げ落ちていく。全身を痛みが襲ったがひたすら固く丸くなったまま耐えるしかなかった。


 「カノン!カノン!」


 泣き叫ぶタシアの声が自分の名前を呼んでいる。全身を駆け巡る痛みに意識がぼんやりする。なんとか目を開ければ、ぼやけた視界に少女の泣き顔と崖の上の晴れた空が見えた。

 オチビ、無事だったんだ・・・・。

 遠のく意識の中でタシアの自分を呼ぶ声だけがカノンの耳に響いていた。


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 「お父様、カノンを助けて!タシア、もうお勉強も怠けない!嫌いな野菜も

  何でも食べる!なんでもお父様のお言いつけを守るからカノンを治して!」


 燭の灯りが揺らめく。大きな菫色の瞳に文字通り必死な色を浮かべて父王であるアルセニオスをタシアは見上げた。無事に保護されたタシアは手足に数箇所ほどの擦り傷と打撲が見られたのみだった。木の枝や崖の出っ張りに引っかかりながらで垂直落下を逃れたことが幸いした。何よりカノンがタシアを包むように抱きしめていたことが大きい。

 当然その代償としてカノンは重症だった。全身に渡る打撲と骨折、擦り傷や裂傷。頭にも傷があったから、打ち付けていることは明白だった。


 「父上!カノンは、カノンは大丈夫ですよね!?」

 「カノン!しっかりするんだ!」


 バシレイオスはすがるような眼差しを父・アルセニオスに向け、エリアスはカノンの手を握り締めて必死で呼びかけている。もう日も落ちて遅い時間になりつつあるが、タシアも少年たちも食事もとらず、カノンの傍から離れようとしなかった。

 アルセニオスはタシアに似た菫色の瞳を僅かに揺らして少年たちと、そして休ませようとしても頑としてカノンの傍を離れようとしないタシアに目をやった。


 「アナスタシア、どうしてもカノンを助けたいのだな。」

 「カノンを元気にして、助けてお父様。」


 父王の穏やかな問いかけにタシアは大きな瞳を水滴でいっぱいにして懇願する。私のせいなの。私がカノンのいう事を聞かなかったからカノンは怪我をしたの。ごめんなさい。ごめんなさい。カノンを助けてお父様。必死に訴えた。

 幼いながらも、幼いが故の心からの真摯な願いに、アルセニオスはその端正で何処かエキゾチックな顔立ちに微かな微笑を浮かべた。


 「ならばアナスタシア、お前の血をカノンに与えなさい。まだあまりにも幼いが

  カノンはお前を守った。お前の血を与えることでカノンをお前の聖騎士とする

  のだ。お前の血にはその力がある。」

 「血をあげればカノンは元気になるの?」

 「おそらくはな。だがこのままでは助からぬやもしれぬ。カノンは強い子だ。

  聖騎士としての力を引き出せば、おそらく黄泉の入り口から帰ってこれよ  

  う。」


 父王の言葉をじっと瞳を見開いて聞いていたタシアは真っ直ぐにアルセニオスを見上げると、幼い顔に毅然とした表情を浮かべて言った。


 「あげます。タシアの血でカノンが元気になるのでしょう?だったら、

  たくさんたくさんあげる!」


 幼い王女の迷いのない言葉にアルセニオスは微笑した。


 「少し痛いが我慢しなさい。」


 燭の灯りに黄金の短剣が鈍く光り、そこにマゼンタ色のワインが滴った。小ぶりの黄金のゴブレットにもワインを1/3ほど注ぐと、アルセニオスはタシアの小さな掌にスッと短剣で傷を入れる。白くまろく幼い手に容易く刃は裂け目を作った。キュッと唇をかんでタシアは痛みをこらえる。目に痛いほどの鮮血がゴブレットの中へ滴り落ちて、金と紅との息を呑むような対比に目を奪われる。


 「さあ、これをカノンに飲ませておやり。」


 アルセニオスから手渡されたゴブレットを両手で受け取るとタシアはカノンが横たわる寝台に歩み寄った。


 「カノン、カノン、目を開けて。元気になって。」


 そっと名を呼んで今は蒼白な少年の顔を覗き込む。


 「えっ、タシア・・・!?」

 「アナスタシア様!?」


 バシレイオスとエリアスが思わず驚きの声を上げた。アルセニオスもごく僅かに菫色の瞳を見開く。タシアはゴブレットの中身を口に含むと椅子の上にのぼり、横たわったままのカノンの口に直接それを流し込んだのだ。燭のゆれる灯りの中、そこだけ何か淡い光が一瞬覆ったような錯覚にエリアスとバシレイオス、そしてアルセニオスも襲われた。代々の女王の血肉に刻まれし記憶でもあるかのように、何の躊躇も澱みもない幼い王女の振る舞い。アルセニオスはその光景と娘である少女の行動に確かに人智とは異なる霊的な何かが自分たちの血統には脈打っている証を見たような気がした。


 「父上・・・あれって・・・。」

 「うろたえるでない。幼く無意識ではあろうがアナスタシア自身が自ら

  選んだのだ。宿命というものであろう。」


 少女のぎこちない口移しでのそれに横たわったままの少年の喉がコクリと動いた。


 「これでカノン、助かるの?」


 不安げにタシアがアルセニオスを見上げて問う。


 「さて・・・・あとはカノン次第ではあるがのお。カノンは強い子だ。きっと

  アテナと聖母、大天使のご加護もあるだろう。」

 「よかった・・・・。」


 カラン。少女の手からゴブレットが床の上に落ちて転がった。緊張の糸が切れたのだろう、フラリと倒れる幼い体を受け止めるとアルセニオスはそのまま抱き上げる。


 「そなたたちも疲れたであろう。今日はもう休みなさい。それから今見たことは

  決して他者に口外せぬように。本来なら聖騎士任命の儀は女王の即位の時に

  行うものであるからの。」

 「はい・・・父上。」

 「はい、陛下。」


 まだ夢を見ているような心地のまま、バシレイオスとエリアスは頼み込んでカノンの隣の部屋に用意してもらった寝床へともぐりこんだ。

 あれって、聖騎士の任命は任命でも確か・・・・・。

 日ごろ繰り返し習っている王家のしきたりや歴史をバシレイオスは懸命に思い出していた。そしてやっぱりそうだと確認する。


 「エリアス、俺たちももっともっと鍛えて強くなろう。タシアを守れる戦士に

  ならなくちゃ。カノンもきっと大丈夫だ。父上が言うようにアテナの加護が

  きっとある。」

 「うん、そうですね。アナスタシア様がカノンに血を分けてくださったんだ。

  僕ももっと勉強も鍛錬も今までよりがんばるよ。」

 「俺たちでタシアとグラウコーピスを守っていこう。」


 二人一緒の寝床にもぐりこんで少年たちは指切りを交わす。まだ幼い少年たちが

はっきりと自分たちの将来への目標と自覚を意識した始まりだった。



 「僅か3歳にして己が運命の戦士を選んだ女王も未だおるまい。この先

  どうなることか、楽しみなことよ。」


 寝台にタシアを横たえてからアルセニオスは窓から星空を見上げて呟いた。初夏の星空は数こそ少ないが、厳かな光が紫紺の空から地上へ向かって降り注ぐように瞬く。


 「だが一筋縄ではゆかぬ・・・かの。あのやんちゃ坊主と負けん気の強い

  お転婆娘だ。どうなることやら、見物かもしれぬ。これは長生きをせね

  ばなるまいて。」


 思慮深げなその貌に優美だが、これまたバシレイオスと良く似た悪戯な微笑を一人アルセニオスは浮かべるのだった。


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 波の音が聞こえる。


 今日はどうやら凪いでいるらしい、穏やかな音だ。ぼんやりと覚醒し始めた意識の中で耳を傾ける。だがこの音は海上ではないな。岩に波が当たる音だ。停泊の指示は出していなかったはずだが・・・・。


 ゆっくりと目を開ける。見慣れた船室の天井が視界に映った。まだ夜が明ける前なのか、ひんやりと肌に触れる空気が心地良い。窓の外には夜の名残をとどめた空が見えていて船室の中もほんのりと明るい程度だ。随分懐かしい夢を見ていた・・・・とカノンはおもむろに上体を起こした。


「ツッ!」


 瞬間走った痛みに顔をしかめる。まだ半覚醒だった意識がはっきりと目覚めた。


 そうだ、俺は黒龍のタイタニスとか言う男と闘っていて、それから・・・・?


 掌を額に当てて一連の戦闘を思い起こす。それからチッと舌打ちをした。ざまあない、ゼノンの銃弾をむざむざ3発も受けたのだった、と自嘲の笑みを浮かべる。それからふと、自分の寝ているベッドの傍らにかかっている重みに気づいた。


 「王女・・・・タシア?」


 タシアだった。上半身をカノンの寝ている寝台に預けて座ったままの姿勢で突っ伏して眠っているのだ。カノンは改めて自分が全身包帯だらけであることに気づき、状況を把握した。この気丈な王女が自分の看病をしてくれていた事は容易に理解できた。 

 流血と戦闘。砲撃の飛び交う音。あのような状況で仮にも王女の身分である者が恐怖や疲労を覚えぬわけがない。それが海賊の看病とは・・・・。

 座ったままで昏々と眠る姿に知らずカノンは口の端に笑みを浮かべた。絹糸のような長い艶やかな髪が幾筋かベッドの上に散らばっている。潮風と太陽に灼かれて出会った頃よりは幾分かは黒くなったものの、やはり白く滑らかな磁器の如き肌に睫が濃い影を落としている。何かと勝気な言葉で向かってくる唇も今は僅かに開かれて、規則正しい寝息を紡ぐばかりだ。


 「あの丸くて小さい子ウサギみたいだったオチビがこうなるとはな・・・・。」


 何故俺は忘れていたのだろう・・・?


 内心でカノンは自身に問いかけた。あの時の騒ぎで頭も随分打っていた。一時は死んでも不思議ではない状態からの回復だったらしいから記憶の混乱や欠損が激しかった。しばらくエリアスのことすら記憶が曖昧だったくらいだ。チャイナやインドの技術や薬を持つ優れた医師がいるからと言う事でロードス島へと移されて3か月ほどをそこで過ごした。体調が完全に回復した後、戦士の鍛錬と修行の為に師と共に船に乗りこんだのが海上生活の始まりだった。だが今の今までキレイさっぱり忘れていたとは・・・・。


 「とんだじゃじゃ馬になったものだな。」


 髪の一房を手に取る。しっとりと柔らかな手触りのそれを口元に持っていくと、潮風とは違う香りがほんのりと鼻腔をくすぐった。そう、忘れていた。おかしな話だ。王子であるバシレイオスと兄のエリアス、三人で遊びまわった子供の頃の記憶はちゃんとあるのに、そこからタシアの事だけが今まで綺麗に欠けていたのだ。理由はカノンにもわからない。だが、一番最初にタシアを見た時から時々感じていた奇妙な既視感。寄港したキティラでダモンに茶化された時に感じた不可解な感覚にカノンはようやく合点がいった。

 

 オチビの方は本当にチビだったからな。俺のことを覚えてないのは

 当然か・・・。


 師と共に船での生活を始めてからは双子の兄弟とは言え、エリオスとも一年に2度ほど顔を合わせる程度でその間に見た目の印象も雰囲気も随分互いに変わってしまった。海賊と一国の宰相が双子だなどと考える者もまずいない。タシアがカノンと相対してもそれと気付かないのは無理もないことだった。


 「ん・・・・。」


 僅かに身じろいだ後、タシアが目を開けた。ぼんやりと定まらぬ視線をカノンに向ける。


 「・・・カノン!目が覚めたのですか?熱は、痛みは?気分はどうですか?!」


 数瞬の沈黙の後、ガバリと起き上がるや興奮した口調でタシアはカノンににじり寄った。額に触れて熱を確かめ、包帯で巻かれた体のあちこちに視線を忙しなく往復させ、カノンの顔を覗き込んだ。大きな菫色の瞳とカノンの蒼い双眸とが真正面でぶつかる。


 「ご覧の通りだ。生きている。」


 ニヤリといつもの不敵な笑みを男が見せる。その笑顔にタシアは言葉を失って固まってしまった。が、見る見るその瞳に水滴が溜まりだすからカノンの方が内心でギョッとした。


 「お、おい・・・・・」

 「よかった!カノン!」

 「痛っつつ!」


 体を走る鈍痛と共に甘い匂いがカノンの鼻腔いっぱいに広がった。泣きながらタシアがカノンの首筋にしがみついたのだ。包帯を巻いただけの素肌に重みとぬくもりが懐かしい思い出と共に伝わってくる。幼い少年の頃の至福感がカノンの中にフワリと甦った。


 暖かい・・・。オチビの頃はよく抱っこやおんぶをせがまれたな・・・。


 無意識に華奢な体に手を回してカノンはタシアを抱きしめていた。胸に、腕に柔らかな感触が心地良く広がる。

 だが・・・・。同時に湧いてきた別の感覚にカノンは内心密かに苦笑した。ガキの頃と変わらないのは考え物だな、とおかしいような困ったような気分になる。


 「王女様にそれほど心配していただけるとは光栄の極みだが、この体勢は

  どうなのだ?気前よく報酬の前払いをしてくれるのなら、それはそれで

  俺はありがたく頂戴するが。」

 「前払い・・・・?」


 カノンの言葉におもむろに体を離してタシアはキョトンとした。唐突に告げられた言葉の意味が解らなくて、思わずカノンの顔を見返してしまう。それから自分の体勢とカノンの姿を改めてマジマジと見直した。


 「・・・・・・☆●☆!!」


 声も出せずにタシアは狼狽した。忽ち首から耳まで真っ赤に染まる。

 ベッドの上で包帯を巻いているとはいえ、上半身裸の男の上に半ば馬乗りになっている自分に気付いたのだ。腹部の手術も行っているから、シーツで隠れてはいるがカノンが下半身も裸であるのは明白だ。そしてシーツで隠れた一部分が奇妙に盛り上がっていることに気づく。そう、奇妙に・・・・。


 「気付いたか、お姫様?」 

 「・・・・・あっ・・・その・・・っ!!!!」


 男があの意地の悪げな笑みを浮かべてタシアの顔を覗き込んだ。蒼い双眸に射抜かれてタシアは金魚のように口をパクパクさせる。顔も体も発火したように熱くて言葉も声もうまく出せない。

 

 「っ・・・・馬鹿!野蛮人!ならず者!大嫌い!」


 真っ赤になったまま、それでもありったけの悪態をついてタシアは船室を飛び出していった。ベッドの上でカノンは傷の痛みとそれでも収まらぬ笑いにくぐもった声を上げる。


 「揶揄うとムキになるのもガキの頃のままなんだがな・・・・。」


 無防備すぎるだろう・・・・・。


 クシャリと蒼銀の前髪をかきあげて額に手を当て、口にすることなくカノンは呟いた。




 バカバカ、心配したのに!やっぱりカノンは意地悪だわ!


 一方、無我夢中で甲板に駆け上がったタシアは真っ赤なまま内心で悪態をつき続けていた。いつ飛び出してもおかしくないほど心臓が悲鳴を上げて息が苦しい。艦首の先の先まで行って両の手で熱いままの頬を押さえる。


  想いだしたのに・・・・。オチビじゃなくて今度は子供扱いなのね・・・・。


 艦首から吹く海風を正面から受け止めてみるけれど、火照った頬は冷めてくれない。


  何も変わらない。乱暴で意地悪で・・・でも一番優しくて守ってくれる。

  変わってないはずなのに・・・・・。


 吹き付ける風に髪が踊って真っ赤なままの顔を隠してくれるのが救いのような気がしてタシアは俯いて目を閉じる。途端、自分の顔を覗き込んだあの意地悪な蒼い双眸が浮かんで息苦しさに身震いした。


  あの大好きな蒼い色も同じなのに、この息苦しさは何なの・・・?

  何が変わったっていうの?


 そしてふと思い当たる。


  カノンは?カノンは私のことを覚えていない・・・・?


 急速に体温が冷めていった。今の今まで自分だって忘れていたのだという事実に思い当たってタシアは小さく息を呑む。

 前方から吹き付ける風にタシアはその後も無言で吹かれ続けていた。



  ◆--------------◆------------◆-----



 「それじゃ、ちょっと行ってくる。カノンの馬鹿に早く傷を治すよう

  言っておけ。」

 「テオドロスの旦那も気をつけて。」


 夜も更けて人気のない海岸に手漕ぎのボートが一艘着岸した。オウロとテオドロスである。軽い身のこなしで岸に上がったテオドロスは剣を腰に差しながら岸から離れるオウロに手を振る。


 「おっと旦那、忘れ物!アルジュナからの特製おまけつき。」

 「ふん、どうせ取り上げられる事になると思うんだがな。じゃあ、

  また後日だ。」

 「暴れるのも程々に願いますよ。俺たちの出る幕が無くなっちまう。」

 「ま、一応は努力するよう考えておこう。」


 オウロが小さな皮袋を投げてよこすのを片手でキャッチするとテオドロスはそのまま歩き出した。小さな島は視界の向こう側にうっすらと蒸気を吐く火山が夜の闇の中、ほんのりとした月明かりに浮かんでいる。その手前にはなだらかな森と丘陵地。


 「久しぶりだが・・・レヴァインの奴、どんな顔をするだろうな。」


 二日目の頼りない月明かりにすら輝く豪奢な金髪の下、混じりけの無いサファイアの瞳が悪童の光をたたえる。暗い夜道をまるで感じさせぬ足取りでテオドロスは森の向こう、こじんまりとした石造りの、転々と灯りが灯る建物、宮城を目指して歩き出した。



 「海賊だと?」


 部下からもたらされた報告に、書類に目を通していたレヴァインは怪訝な声で問い返した。燭の灯りに最高級のピジョンブラッドを思わせる黒味のかった紅玉の色の髪と瞳が浮かび上がっている。端麗で気品ある顔立ちに微かに不信の色を滲ませる。ハッと目を惹く容姿とは裏腹に深い知性と思慮深さを伺わせる眼差しは威圧感が無いにもかかわらず、見る者に虚偽が通じないと思わせる不思議な雰囲気を備えていた。

 グラウコーピスの近衛長官、レヴァインである。小さな王国であるから王宮の警備は無論の事、実際には国内の治安や国防までを担当する軍事司令官である。

 海賊を名乗る不審な男が王宮への侵入を図ろうとしていた。見たところ一人のようだが、何らかの狙いがあるのは確かなようです。略奪を目的としたグラウコーピスへの奇襲も考えられますが、捕らえた男はまるで何も話そうとしないばかりか不敵な態度甚だしい。

 報告の内容にレヴァインは眉を顰めた。確かにアルジェの海賊たちは沿岸の村や町を襲うが一人で行動するなどという話は聞いたことが無い。報告に来た下士官が退出すると、手にしていた書類を机の上に置いて思案顔になる。ふと思い浮かんだ脈絡のない思考、所謂「カン」という類のモノが気になったのだ。まさか・・・と思うのに頭を離れない。


 「君の考えている通りだと思うよ。蒼き龍、カノンがそろそろ本格的に

  動き出したってことだ。その海賊、君自ら「尋問」しに行った方がいいね。」


 応接セットのソファに優雅に腰かけていた美しい貴婦人が口元にうっすらとした笑みを浮かべて言った。淡い色の髪と瞳の、息を呑むような美女はだが随分と背が高い。


 「大事な証拠書類も無事渡せたし、私は退散させてもらうけど。」


 肩が凝ったと言う風情で小首を左右に数度ほど傾げた優美な貴婦人。女性らしからぬ低い声と口調にレヴァインはクスリと小さく笑う。


 「流石だな。私には奴の手元にあるのはわかっても在処すら突き止められ

  なかったのに、こうあっさりと入手して来るなんて。」

 「あっさりなんかじゃないよ。久々にフルメイクでこんな格好までして、

  コルセットが苦しいったらなかったよ。部屋付きの側近の兵士を誘惑

  するにも幻覚薬の効果がでるまでは体に障られまくるし、ばれないか

  ヒヤヒヤものだ。」


 はぁ、と大きな溜息をついて美女・・・ではなくクリストスは結い上げていた髪からどんどんピンを引き抜いた。パサリとプラチナの色をした髪を解放するように降ろす。それから無造作に右手をドレスの胸に突っ込んで「詰め物」にしていた布の塊を取り出す。香水代わりのポプリが詰め込まれたサシェを女装の際のバストに使っていたのだ。レヴァインが呆気にとられて凝視しているのにはお構いなく、そのままドレスもペチコートも洗いざらい全部脱ぎ去って女装を解いてしまった。ほとんど素っ裸になったかと思うと、ドレスの内側に仕込んでおいた男物の自分の服を取り出して、またこれもさっさと着込む。

 小ぶりの剣を腰に帯びてすっかり身繕いを済ませると、にっこりとそれだけは女装の時と変わらないように思える笑みをレヴァインに向けた。


 「じゃ、私はひとまず今晩は退散させてもらうよ。明日にはロードスに早船を

  出さなくちゃいけないからね。」

 「あ・・・ああ、気を付けて。エリアス様とバシレイオス様にもくれぐれも

  お気をつけて、とお伝えしてくれ。」

 「君もね。いよいよ大詰めも近い。」


 艶やかな笑顔でウィンクをして見せてから、やはりドレスの中に仕込んでいたロープをバルコニーから投げてクリストスは軽やかに出て行った。いくら女物のドレスが膨らんでいるからと言って、剣やら着替えやらよくも色々仕込めるものだと感心する。流石は諜報活動を統べるエキスパートだとレヴァインは単純に尊敬の念を抱いた。

 が、脱ぎ捨てて残された「残骸」に眼をやって、さてこれはどう処分したものか、と考えてしまう。うっかり従者や下士官に頼むわけにもいかない。

 

 ともかくも、最も重要な証拠も手に入った。確かにクリストスの言う通り大詰めが近い。


 机の上にいったん置いた書類をレヴァインは丁寧にたたむと、鍵つきの引き出しの奥にしまった。それからおもむろに椅子から立ち上がる。首元の白いボウタイを鏡の前で軽く結びなおした。立場上は上着もタイもキチンと身につけねばならないし、それが当然だと思う。だがレヴァイン本人はそのような格好が好きかと言えば否である。剣や武術の鍛錬でのラフで動きやすい格好の方が余程好みには合っている。だからこのような格好と立場の堅苦しさがどうにも嫌で逃げ出して雲隠れしてしまった親友の気持ちはよく解るのだ。

 最も王宮務めの女官たちから言えば、レヴァインとエリアスの二人ほど幾重にも布を重ねたスペイン風の豪奢な貴公子の出で立ちも、緩やかな文官のローブも夢のように美しく麗しく似合うものはいない、ということなのだが・・・。

 戸棚からワインを二本取り出してバスケットに入れる。夕食に差し入れられて手付かずだったパンとチーズも追加すると捕らえた海賊が入れられている地下牢へとレヴァインは向かった。


 「夜遅くまでの勤務、ご苦労だ。私からの差し入れだから遠慮せずに

  食べてくれ。」


 薄暗い地下の入り口、奥に続く牢の番をしている男たちにバスケットを差し出して穏やかにレヴァインは微笑んだ。最上部の上司からの思わぬ差し入れに男たちは恐縮と共に喜色を満面に浮かべて礼を伸べる。退屈な牢番と夜勤での思わぬ好事に早速レヴァインにすすめられるままに飲み食いを始める。各々に二杯づつほど振舞われたワインを飲み干してしばらくした頃、気持ちよさげなイビキと寝息が地下牢の入り口に響き始める。彼らが完全に寝入ってしまったのを確認してからレヴァインは奥へと入っていった。


 

 「ふわぁあ、牢屋ってのは退屈なものだなぁ。せめて酒でもあればなぁ。」


 盛大に大きな欠伸をして石造りの壁にもたれテオドロスが呟いた。


 「牢屋が楽しくては牢の意味が無いだろう。」

 「そりゃそうだが、相変わらず生真面目な答えだな、お前は。」

 「お前が破天荒すぎるんだ。」


 廊下から聞こえてきた声。テオドロスはニヤリと口元に笑みを浮かべて立ち上がる。鉄格子の向こう側に姿を現した赤い髪の青年、レヴァインと向き合った。


 「よっ、親友!元気そうだな、レヴィ。」

 「ああ、お前も元気そうで何よりだ、テオ。」


 互いの手を差し出してしっかりと握り合うと、格子の隙間越しに額をくっつけあった。


 「近衛長官殿、板についてるじゃないか。」

 「何を言う。元々お前がやるはずだった役職だ、これでも苦労したんだぞ。

  お前と来たら海賊退治に行くといってミイラ取りが完全にミイラに

  なってしまって・・・。私がどれだけ心配したと思ってるんだ。」

 「悪い悪い。どうしてもカノンとの勝負がつかなくってな。」

 「言い訳はいらん。海賊の気ままな暮らしが性にあって楽しいだけだろう。」

 「んーまぁ・・・・・悪い!」

 「全く・・・お前という奴は。」


 責めるような口調とは裏腹にレヴァインが苦笑を浮かべた。テオドロスが鼻の頭をかいて申し訳なさそうにするが、すぐに一転して子供のように笑う。テオドロスとレヴァイン。数年ぶりの再会を喜ぶそれは親友同士である。テオドロスもまたグラウコーピスの本来なら近衛長官を務めるはずの武官だったのだ。生来が冒険好きで肩書きや役職に伴う束縛を嫌う性分の男なのだが、海賊退治の名目でカノンに勝負を挑み決着がつかない事を理由に海賊艦隊に居座ってしまって今に至っている。要するに海賊暮らしの方が性に合っていた、というだけの話なのだが。

 

 「この奥がアルセニオス様か?」

 「ああ、お年を召されたとはいえ聖騎士。お元気ではいらっしゃるが・・・。

  一刻も早く外にお出しして差し上げねば。」

 「だがそれもあと少しだ。ちょっとばかりゴタゴタしたが、カノンたちが

  王女を連れてこっちに向かってる。そちらも王子とエリアス様が動いて

  いるのだろう?」

 「ああ、手筈はほぼ整った。各地に散っていた騎士たちもダモンとクリス

  トスが招集に回っている。それにお前も来た。」


 レヴァインは2本の鍵と小さな皮袋、一振りのダガーをそっと差し出した。


 「お前の荷物だ、返しておくぞ。それに牢の鍵だ。剣のほうは目立つから

  今渡してやれないが。」

 「なあに、ここを出ればその辺の奴から拝借する。」

 「事が終わったら、再会を祝して飲もう。」

 「美味いのを頼むぜ。」


 もう一度互いの手をしっかりと握り合う。


 「その皮袋の中身、火薬だな。使うのは構わんがあまり派手に王宮を

  壊してくれるなよ。修理に無駄な費用がかかる。」

 「妙に細かいところも相変わらずだな。」

 「お前が大雑把過ぎるんだ。」

 「ま、違いない。だから俺はお前が好きなんだろうけどな。俺と違って

  細やかで計画的、かつ真面目とくる。」

 「お前の褒め言葉は後が怖いからな。話半分で聞いておこう。」

 「そういうところも相変わらずだなぁ。」


 肩をすくめて無邪気にテオドロスが笑ってみせるから、レヴァインも苦笑を浮かべた。この奔放で何処かいつまでも子供のような親友も何も変わらない。だがひとたび戦闘となれば獰猛な肉食獣の如き空気を纏うのもやはり変わらないのだろう、と思う。


 時は近づいてきた。

 この国から陰謀とその手先を一掃するその時が。それは新たな女王による新しい治世の始まりの為の露払いとなろう。

 短い再会の会話の後、レヴァインは何ごともなかったように地下牢を後にし、眠りこけている牢番たちを起こしたのだった。

 

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 「やっぱお頭って化けもん~。もう完璧に人外って奴だなぁ。」

 「何だ、そのしみじみとした言い草は。」


 ニコが心から感嘆しているらしい声と表情で言うからカノンはやや憮然とする。


 「しかしグラウコーピス王女の聖なる霊血の力なのでしょうが、1週間ほどで

  ここまで回復するとは・・・私もニコと同感です。」

 「ま、なにはともあれ天下の蒼き龍が無事死の淵から舞い戻ってきたのは

  めでたいじゃないですか。どうやら旦那は死神からも嫌われるみたいですね。

  それに旦那、お姫様に頭上がらなくなったんじゃないですか?」

 「馬鹿いえ。」

 

 カノンの包帯を巻きなおしながらアルジュナもニコに同意すると、オウロが陽気な口調でそれに続く。カノンはムスリとした表情を見せた。

 海賊艦隊はあれからしばらく停泊を続けていた。天候もよいとは言えず、何よりカノンや負傷者の回復を優先したからだった。今も船室でアルジュナの手当てを受けつつドラコーンとタシアが集まってのお茶の時間となっていた。アルジュナが中国の茶葉を大量にストックしていることもあり、タラサドラコーン艦では当時としてはまだ珍しいティータイムがしばしばみられるのだ。汗臭くむさ苦しい海賊船の生活でタシアはこの時々気まぐれに始まるティータイムがお気に入りとなっている。今もカップから立ち上る香気を胸いっぱいに吸い込んでいた。


 カノンの回復は驚異的以外の言葉が見つからないものだった。最初の3日間ほど痛みで思うようには動けなかったが、5日目には普通に生活し始めたのだ。無論頭目がいつまでも寝台に横たわっている状態は乗組員たちの士気に著しく関わるから、これには多分にパフォーマンスの要素もあるわけだがそれにしても、なのだ。

 イザークも生来の強靭さで回復は順調だ。ゼノンに折られた左腕を肩から吊っているが、何とか動けるようにはなっている。カノンの重傷という事態に沈んでいた艦隊の士気も今はほぼ元通りになっていた。


 「その事で疑問なのですが、王女。」

 「はい?」


 ディオンがふと想いだしたようにタシアに問いかけた。


 「聖なる霊血の効能は確かに私たちもこの目で拝見しました。確か昔ローマ

  法王の重病を癒した女王がいて、グラウコーピスは聖母マリアと大天使ガ

  ブリエルの祝福受けし不可侵の聖王国と認められたのですよね?」

 「ええ、その通りです。」

 「キティラに寄航した際に調べたのですが、別の記録ではその当時、女王には

  既に二児の存在があったとなっています。純潔の王女の血にしか効力がない、

  と一般には言われています。でも記録自体は正確なもので信頼性もある。

  これは単純な私の疑問、好奇心でしかありませんが・・・。」


 ディオンは元々下級ではあるが貴族の出でもある。下級貴族と言うものはそれほど裕福とはいえないから、少しでも自分の家に有利な役職にありついたり、コネクションを作る為に情報収集は欠かせない。生来、知識欲旺盛でそういったことも得意らしくディオンは種々の事象の背景や歴史などを調べるのを趣味としている。そこから思わぬ発見や有益なヒントが得られることも多いから半分は実益もかねているのだが。


 「一口で言うと誤解です。純潔であってもなくても構いません。」

 「えっ?」

 「はっ?」


 あっけらかんとした風情で出されたタシアの回答に船室にいた全員が一瞬呆けたような表情をした。


 「カトリック教会は聖母マリアの例もあるから、純潔にこだわるでしょう?

  法王の件と前後して周辺諸国でいつの間にか“純潔の王女の血”という誤解と

  幻想が定着してしまったのです。女神アテナも永遠の処女神ですし・・・。」

 「なーるほど、そりゃ聖なる乙女の方が霊験あらたかそうには聞こえるなぁ。」

 「確かに。」


 タシアの言葉にオウロとアルジュナが頷く。


 「王女の血の霊力は正確には女性でなくなるまで、その・・・加齢で妊娠出産が

  出来なくなるまではずっと保たれます。更に言うなら妊娠中の期間が最もその

  効力が高いと言われているのです。それこそ不老長寿の効力があると・・。」

 「妊娠中・・・・。そうですね、わかるような気がします。そのときの女性は

  新しい生命そのものを体内で育んでいる訳だし・・・。」


 ディオンが顎に手を当てて感慨深げに呟いた。


 「でもそれって・・・何か俺ヤバイ気がする。」

 「あー解る!絶対妊娠中の女王を狙う連中が出てくるし、イカレタ奴らが

  胎児を引っ張り出してその血を飲もうとか考えかねないわ。」


  ニコの言葉にオウロが物騒な発言で続いた。


 「まさにその通りです。随分遠い時代に妊娠中の女王を拉致して手にかけようと

  する賊がいたらしく、そのこともあって誤解を誤解のままにしてあるのです。

  女王が結婚してしまえば狙われる心配も大幅に減りますし・・・。」

 「賢明だな。いつの時代も金と権力を手にした馬鹿が次に考えるものは決まって

  いる。それに処女限定で常に手に入らない方が有り難味も増すというもの

  だ。」

 「カノンの言うとおりです。」


 馬鹿馬鹿しい、という風情のカノンの言葉にタシアが賛同した。


 「よく解りました。ですが結構大きな秘密ですよ。よかったのですか、

  私たちに喋ってしまって。」


 カップを手にしたディオンが問うた。


 「あら、ここには不老不死なんかに価値を見出している人なんていないでしょう?

  それならとっくに私も縛られて血を採られているはずです。」


 タシアが花がほころぶような笑顔を見せて答える。荒くれ揃いの海賊ではあるが、身重の女や胎児を手にかけるような輩ではない、と言う確信と信頼に満ちた回答に一同は何ともむず痒いような、だが心地良い感覚に沈黙した。カノンとは全く違うが、この王女には不思議と人を惹き付ける物があるとディオンは思う。この王女がいるだけで男たちの士気が異様にあがるのはテオドロスも指摘していたところだ。理屈はない。いや、理屈なら幾らでも後から並べられるのだろうが、この王女には何故か守りたい、と強烈に思わせるものが確かにあるのだ。或いはそれこそが神秘の霊血以上にエーゲ海の本来なら取るに足らぬ小国を不可侵の国たらしめている力なのかもしれない。

 

 「生憎と敵はそうは思ってないから狙われているわけだがな。ディオン、

  オウロ、物資の点検と補給を確認しておけ。テオドロスが一足早く出

  ている。俺たちもグラウコーピスへ乗り込むぞ。」

 「了解です。」

 「オウロ、火薬類の補給はどうなっている?」

 「足の速い船を一番近くのキュロス商会のある島へ行かせてますから、

  明日には帰ってくると思いやすぜ。」


  包帯の交換が終わってカノンは立ち上がってシャツを着込むと剣を手に取る。


 「よし、全艦に指示を出せ。明々後日にグラウコーピスに向けて出航する。

  今回の仕事の総仕上げだ。準備をぬかるな。」

 「イエッサー!」


 蒼き龍・カノンの復活。艦隊全体の空気が俄かに活気付き始めた。



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 「ええい、忌々しい!」


 ダン!と男は握り締めた両の拳で重厚な木の執務机を叩いた。勢いでバラバラと数枚の書類が床に落ちる。端正で睫の長い、どちらかと言えば女性に近いやわらかさを持つ容姿だが、そこにはやや神経質そうな空気が混じっている。栗色に近い色の薄い金糸の髪は先祖に北方の血が入っているのかもしれない。グラウコーピス筆頭執政官、エヴァンゲリスである。宰相エリアスが外交上の話し合いに出かけ、王室付きの主要な騎士たちがエリアスの護衛と国内の任務でそれぞれ王宮を出ていた隙を突いて現国王アルセニオスを捕縛、地下牢に幽閉した。つまり今回の謀反劇の実行犯である。

 ちなみに王子バシレイオスは王宮は愚か国内にいないことも多く、当時も不在だった為、この突然の事件に遭遇しないですんだわけだ。


 エヴァンゲリスは苛立っていた。国王を人質にしたことで有力で厄介な騎士たちの抵抗は封じ込んである。時間をかけて近衛長官レヴァインを仲間に引き入れたお陰で、王宮内外の混乱もない。後は逃亡潜伏中の王子バシレイオスと宰相エリアスを捕えるのがエヴァンゲリスに課された仕事だ。だが二人の行方は依然として掴めない。

 国外から帰ってくる王女は黒幕であるアイドーネウスが捕縛すると聞いているが未だに捕まっていないばかりか、あの蒼き龍の海賊を味方につけて乗り込んでくると言う情報まである。この国では王女、つまり次期女王の影響力は計り知れない。何処からともなく王女が謀反人を誅しに帰ってくるという噂は小さな王国内に浸透している。国民たちは表立った動きは見せないものの、ルネの政策や命令に消極的な反抗を見せ始めていた。

 地中海沿岸諸国を襲っている海賊への対策と討伐の大義名分で物資や労働力を徴収しようとするのだが一向に集まらないのだ。そればかりか月に一度、国内の都市の幾つかを行幸するはずの国王が姿を見せなくなったことで拝謁を求める声が王都を中心に高くなっている。大天使の異名で人気の高い宰相に対しても同様だった。小さな王国は一般国民と王家との距離も極めて近い。王族は雲上人ではなく、親しく国民と語らい、その声に耳を傾ける為政者として存在する。次代の女王が即位するまでの繋ぎとはいえ現国王アルセニオスと宰相エリアスの執政は高く支持されているから、クーデター側のエヴァンゲリスに不信や不満の声が上がるのは当然だった。


 「何が気に入らぬと言うのだ!特に増税する訳でもない。スペインや

  イングランド、目と鼻の先にいるオスマン、それに海賊ども。貧弱な

  軍事力しか持たぬこの国が生き残るには、強国の庇護の下に入るのが

  最も有益だと言うのに!経済や外交なぞ圧倒的な武力の前には消し飛

  ぶと言うのが何故解からん!」


 強大な武力を持つ為には経済力が必要。限られた小さな国土で生産性を上げる為には、或いは軍事力に頼らずとも列強と対等に渡り合って行く為に今後何が必要であり何を国として為していくべきなのか。国王アルセニオスがタシアを遠くネーデルラントに送り出したのは次期女王として国の行く末とその政策を見定め学ばせる為だ。譬え技術や戦略の質と内容がどれ程高度であってもグラウコーピスは所詮スペインの一地方にすら及ばない小国だ。圧倒的物量を持つ武力の前にはほぼ無力と言っていい。短期決戦や局所戦に勝利できても所詮そこまでなのだ。神の力の如き兵器でもない限りは単純な武力強化には限界があると見越しているわけだが、エヴァンゲリスには無謀で無能な政策にしか思えない。執政官としては有能な男だが、それはグラウコーピスという小さな国内の業務を運営する能力であって世界を視野に入れた思考には適していない。まして権力に目が眩んで大国の傀儡となっている男には、「国」や「為政者」を支えているのが「国民」であるという最も根本的な原理が抜けている。民衆の不満の声は彼には全く理解しがたいのだった。愚昧な民衆には所詮国家の運営など分からないのだとすら思っている。


 「アイドーネウスからの援軍はどうなっている?」


 一段下がった入り口に近いところで書類の処理をする文官に尋ねる。


 「使節が出かけたのが7日ほど前です。順調に行けば今日の午後には

  艦隊が到着するはずです。」

 「むう、ならば海賊どもが来ても安心だな。」


 グラウコーピスの海軍は小規模だ。国が小さいのだから当然だが、不可侵の聖王国という信仰が何よりの守護の力として働いてきた。軍事に国力を傾ける以上に代々巧みな外交で平和と均衡を保ってきたことも大きい。単純な軍隊組織としてのグラウコーピス軍は確かに船の数や装備のどれをとっても貧弱なのは否めない。

 それを理由にエヴァンゲリスは海賊対策としてアイドーネウス海軍の援軍を要請した。治安と国防の名目で合法的・実質的にグラウコーピスに乗り込み、実質は属国として支配しようという訳だ。噂どおりに王女が海賊を従えて帰ってきたとしても、たかが海賊。軍事国家として名高いアイドーネウス正規軍相手で勝ち目があるとは思えない。最悪、海賊もろとも王女は巻き添えで死んだと言うことにすればいい。後は王子と宰相をじっくり探し出して捕えてしまえば心配の種もなくなるというものだ。

 エヴァンゲリスは権力を手にし、アイドーネウスは聖王家を傀儡にすることで近隣諸国に精神的な影響力を持てる。小さいながらも生産力の高いグラウコーピス国土もあまり農業生産力が高いとはいえないアイドーネウスにとっては実に有益といえた。小国といえど手中に収める価値は高いという訳だ。


 「執政官!エヴァンゲリス様!大変です!」


 変化は突然訪れる。転がり込むように入ってきた男の報告にエヴァンゲリスは仰天した。


 --------◆--------◆---------◆--------


 「やあ、久しぶりだねエヴァンゲリス。とは言っても君とはそれ程面識が

  なかったかな。」

 「バシレイオス・・・王子。」

 「手土産代わりに連れて来てあげたよ。探してたろう?」


 咄嗟に言葉が浮かばず呻くようにエヴァンゲリスは声を絞り出した。

 謁見の間ににこやかな笑顔で現れたのはバシレイオス。その足元に両手を後ろ手に縛り上げられて長身の男が転がっている。見覚えのある暗い蒼銀色の髪。自分を鋭く睨み上げる端正な顔立ちと眼光。男の顔にエヴァンゲリスは再び仰天する。


 「宰相・・・・エリアス・・・様。」

 「バシレイオス!貴様何のつもりだ!気でも狂ったか!!」


 殴られたのだろう。端正な顔の一部を紫に腫らしたエリアスがバシレイオスを睨みあげて声を張り上げた。


 「うーん、まあ何と言うか、長いものには巻かれろって事かな?下手に事を

  構えるより、手を組んで持ちつ持たれつで王位に納まるほうが楽だし、無用な

  戦いをする必要もないだろう?私は実利的平和主義なんだ。」


 のんびりとした口調で肩をすくめてバシレイオスはにこやかなまま答えた。


 「貴様!それが仮にも王子の言う言葉か!父王陛下や親友の私まで売ろう

  というのか!」

 「親友?まあ、そう言えばそうだったな。実に有能な親友のお陰で面倒な

  国政も外交もしないで遊んでいられたから君にはいつも感謝していたよ。」

 「何・・・だと。本気で言っているのか?」


 バシレイオスはのんびりとした笑顔のままで感謝の言葉を歌うように吐きだした。エリアスの眉間に皺が現れ、秀麗な眉毛がピクピクと小さく動く。


 「ああ本気だ。有能なくせに変なところでお人よしのエリアス。いつまでも

  子供の頃のように兄弟同然の仲良しでいられると思ってたようならお目出

  たすぎるぞ。お前はもう少し人を見る目を養うべきだな。」

 「貴様・・・・!」


 ギリリと奥歯を噛み締めてエリアスはバシレイオスを睨みつけた。睨まれたバシレイオスの方は変わらずにこやかなままだ。しかし・・・ある種ゾッとするほど冷徹な光を浮かべて見下ろしている。

 

 本気なのか、この王子は・・・・?

 当然のようにバシレイオスが謀反を誅すべく動いているはずだと思っていた。まさに青天の霹靂だ。エリアスの宰相家と王家は代々近しい間柄で彼らが兄弟同然に育っていることも周知の事実であるから、目の前の事態はエヴァンゲリスには俄かには信じかねる。むしろ下手な芝居を打ってきたに違いないと思った。


 「という訳だ。正統な王子である私と手を組まないか、エヴァンゲリス?

  父上には健康が優れない、という理由で引退いただき、王としての業務

  を私が行えば国民の不満は解消される。国政に関しては君が好きにすれ

  ばいい。現在君が頭を悩ませている難問の殆どは解決するはずだ。」

 「確かに・・・・。」

 「バシレイ・・・!」


 エリアスの叫びは中途で途絶えた。エヴァンゲリスの目の前で類稀なる政治手腕を発揮していた大天使が低く呻いて床の上に苦しげに転がり激しく咳き込む。バシレイオスに足先で強か腹を蹴り上げられたのだ。蒼銀色の瞳に怒りの炎を燃やしてエリアスは裏切り者と化した王子と謀反人の執政官を這いつくばったまま視線で射抜いた。華やかな笑顔のままで眉ひとつバシレイオスは動かさない。対して後ろめたさが無い訳ではないから反射的にエヴァンゲリスは怯んでしまう。同時に見るからに人好きのする笑みを湛えたままで、縛られて動けない人間に容赦ない蹴りを入れる若者にうすら寒い物を感じた。どうやら芝居ではないらしいと、それでも頭の隅で考える。


  「エヴァンゲリス様、アイドーネウス艦隊、入港です!」


 その時、艦隊入港の知らせを告げる声が響いた。


 来た!内心で快哉の声をエヴァンゲリスは上げる。これでもう怖いものはない。窓の傍に駆け寄って眼下の向こうに小さく見える港に目をやると、確かに黒いアイドーネウス旗を掲げた船が一団、入ってくるのが見えた。


 「いいでしょう、バシレイオス王子。そのお申し出、私にとってもアイドー

  ネウスにとっても願ってもないものです。」

 「艦隊が入港してきたらしいね。アイドーネウスの実力者がいらしているの

  なら是非私も今後のことを会ってお願いしたいが、可能だろうか?」


 弾むようなエバンゲリスの言葉にバシレイオスが切り出す。


 「大丈夫でしょう。軍事と友好の協定調印の為にアイドーネウスからも国王の

  御弟君にして宰相であられる方がお越しになる予定です。先日交わした書簡

  にその旨が記してあった。」

 「それは僥倖。」


 バシレイオスは満面の笑顔を浮かべた。それからクルリと壁際のカーテンの方へ向かって声をかけた。


 「お聞きになられましたか、老師ゲオリギス?」

 「おう!しっかとこの耳で聞いたわい。」

 「書簡もあるとの事、私も間違いなくお聞き申し上げた。」

 「何?お前たちは一体!?」


 低く年老いてはいるが快活な声、続いて厳かな老人の声が響いた。分厚いカーテンの陰から二人の人物が姿を現す。一人はオスマン風の衣装に身を包んだ小柄だが明らかによく鍛えられた体躯に東方の血を感じさせる容姿の男。鼻から舌を覆う豊かな髭も眉毛や毛髪も八割が白髪の老人だが眼光には炯炯とした覇気の光が輝いている。いま一人は重厚な衣にカトリック僧侶の帽子を頂いた細身の老人。袖や裾回りなどに配された刺繍、上質な布の質感、何より胸にかけた大ぶりの華麗な装飾のロザリオが理知的で静かな空気を漂わす。かなり高位のカトリック聖職者であることが伺えた。


 「先代女王に仕えた聖騎士ゲオリギス様とグレゴリス枢機卿だ。お二人とも

  普段はロードス島におられるが、この国の危機をお知らせしてお越し頂い

  たのだ。」

 「枢機卿・・・・?」


 バチカンの重鎮の一角が何故・・・・?いや、まさか。目の前に現れた人物にエヴァンゲリスは驚きに口を開けたまま停止する。バシレイオスが更に室外へ向かう扉に声をかけた。


 「レヴァイン!」

 「ここに。アイドーネウスとの証拠の書簡は既に押さえました。謀反側の

  兵力も現在城内を中心に捕縛を進めているところです。」

 「レヴァイン!貴様、裏切ったのか?!」


 バシレイオスに応えて扉から入ってきたのは近衛長官レヴァイン。恭しくバシレイオスに跪いて冷ややかな一瞥をエヴァンゲリスにくれた。 


 「人聞きの悪いことを。私は忠実なグラウコーピス騎士の家系に生まれた騎士の

  一人だ。最初からお前と背後の陰謀の全容を掴む為に組したに過ぎない。」

 「と言うことだ。枢機卿というこれ以上ない証人もいらっしゃる。陰謀は全て

  今や明るみに出た。謀反人エヴァンゲリス、大人しくしてもらおうか。」


 ニッコリとバシレイオスが今度は太陽の如き笑みで微笑んだ。あまりの急展開にヘタヘタと脱力して床に膝をついたエヴァンゲリスをレヴァインが指示して捕縛する。


 「ふ・・・ふふ。だがもう遅い。アイドーネウス軍が入港しているのだぞ。

  この国の貧弱な海軍で太刀打ちできるものか。お前たちも捕えられるの

  が落ちだ!」


 後ろ手に縛り上げられながらも歪んだ笑いを浮かべて叫ぶ。


 「残念じゃのぉ。今、港におるのはロードスから儂が連れてきた助っ人じゃ。

  黒い旗だけであっさり騙されるとはお主、文官とは言え読みが甘いのぉ。」

 「なっ・・・・!」


 カラカラと快活なゲオリギスの声にエヴァンゲリスは喉を引きつらせた。


 「助っ人はあれだけじゃない。こういうときの為にボンクラのふりして

  周辺諸国の状況を見てきた結果を父上に報告してきたんだ。こまめな

  外交で緊密な友好関係を築いて有事の際には助力や援護を請えるよう

  にね。それにこの地中海はおろか、おそらく今の時点では世界最強の

  海軍が間もなくこのグラウコーピス沖に現れる。アイドーネウス軍も

  問題にならない程の・・・。」

 「まさか・・・・!」


 一陣の風が開け放たれた窓辺から吹き込んできた。海からの潮風だ。


 「おおっ!あの悪ガキめ、随分立派な艦隊を率いておるではないか。」

 「ゲオリギス殿、あれが噂の・・・?」

 「おう!蒼き龍の海賊。儂の不肖の教え子の艦隊よ。」


 煌く水平線の上に現れた船団。楽しげなゲオリギスの声にグレゴリスはやや顔に窪んでついている眼を感嘆に見開いた。遠目で小さくしか見えないが白い帆が光に煌く艦隊は艦数20は余裕で超えている。海賊を名乗る艦隊があのスペインの正規艦隊に迫る規模とは・・・・。


 その時、轟音が響いた。微かな振動がカーテンや窓枠をカタカタと揺らす。


 「レヴァイン様、地下牢で爆発が!例の囚人が脱走した模様です!」


 王宮の北の一角が崩れて煙が上がっているのが窓から確認できた。


 「どうやら父上も無事脱出されたらしいな。」

 「あの馬鹿。派手に壊すなと言っておいたのに・・・・。」


  城の一角から黒煙の上がる様子を見たレヴァインが眉間に皺を寄せて呟く。


 「さあ、我らも一丁暴れるか、バシレイオスよ。」

 「はい。王都内と港近辺の謀反勢力を一掃せねばなりません。レヴァイン、

  王宮と父上の方は君に任せた。」

 「はい、了解しました。」 

 「腕が鳴るのぉ。」


 髭の老騎士と共に王子バシレイオスは嬉々として謁見の間を飛び出していく。


 「おい、バシレイオス!私をこのまま放っていく気か!」


 縛られて床に突っ伏したままのエリアスが自分の存在が忘れられていることに抗議の声を上げた。


 「よっ、エリオス様。しばらく会わないうちにSM趣味にでも目覚めたか?

  あんたのそんな格好、なかなかそそられるぜ。」

 「ダモン!」

 「宰相閣下、お久しぶりです。ああ、顔が腫れてる、冷やさなくちゃ。」

 「クリストス!お前たち戻って来てくれたのか。」


 簡素な甲冑を身につけた二人の騎士が現れた。淡い色の髪と瞳をした美女と見紛う騎士がエリアスを拘束した縄を解いて心配げに顔を覗き込む。銀灰色の髪の男がおどけた調子で肩をすくめて見せた。


 「こういう時の為に私たちを国の外に配置されたのはあなたでしょう、

  エリオス?」

 「主要な奴らはみんな呼び集めた。既に城内外でエヴァンゲリスの手勢の

  処分やらに皆走り廻ってるぜ。」

 「それにしても先程の、私たちも隠れて見ていましたが王子は勿論ですが、

  迫真の演技でしたね。」

 「いや・・あれは・・・。」


 クリストスの褒め言葉にエリアスはしどろもどろになる。いきなり縛り上げられたと思ったら、訳がわからぬうちに連行されてきた。バシレイオスに何か考えがあるのだろうとは思ったが、一言の説明もないままに正面から王宮に入ったかと思うやこの状態だ。おまけに力いっぱい蹴り飛ばされて正真正銘怒っていた。演技などではなかったのだ。


 「演技のわけないじゃん。この人、外交や交渉では滅茶苦茶冷静なくせに

  演技しろとなると、からっきしなんだぜ。あの人の悪い王子はそれを

  よぉーく知ってるから絶対不意打ちしてるに決まってるし。」

 「・・・・・嘘が苦手なだけだ。」


 すかさず入れられたダモンの正確すぎる突っ込みにエリアスは苦りきった顔をした。クリストスが小さく笑う。


 「エリアス、さあ貴方の剣です。大天使のもう一つの顔の元に指示を。

  王子が前線に出て行かれた以上、国王陛下を保護して王都の平穏を

  早急に取り戻せるよう全体の指揮を取れるのは貴方だけです。風の

  大天使、ラファエルの異名を頂く我らが筆頭騎士エリアス。」


 クリストスが控えめながら紅玉と碧玉で彩られた剣を差し出した。グラウコーピス王家に代々仕える筆頭騎士、その証の剣だ。差し出されたそれを静かにエリアスは手にする。いつの間にかレヴァインも傍に来て控えていた。


 「筆頭騎士の名の下に告ぐ。レヴァインは早急に国王陛下の保護を。ダモン、

  クリストスは各自一個小隊を率いて王都と周辺に配置されている反乱側の

  兵の鎮圧。くれぐれも民を傷つけることのないよう、すみやかに!」

 「はっ!」


 3人がいっせいに剣を携えて広間を出て行った。自らも剣を腰に差してエリアスは窓の外へ視線を転じる。光に白い帆を輝かせた艦隊がくっきりとした輪郭で海上を進んでくるのが小さく見えている。そして視線を右に転ずれば、やはりくっきりとした鮮やかさで急速に迫る黒い船団が見えた。まだまだ遠いがあれこそがアイドーネウス艦隊であることは間違いない。


 「カノン、王女とグラウコーピスの命運、お前にかかっているぞ。」


 小さく呟くと、踵を返してエリアスも広間から出て行った。


◆----------------◆--------------◆-----


 「大艦隊だねぇ。ざっと数えて35か36ってな所かな?」

 「アイドーネウス正規艦隊にオスマンの援軍を加えた混合部隊だな。」

 「数で物を言わそうって発想がいかにも軍事国家って感じ?単純~♪」


 望遠鏡をのぞいていたオウロが呆れた口調で肩をすくめて見せる。アルジュナが同様に望遠鏡をのぞいて旗を確認する。ニコはマストの上に腰掛けて面白そうに眺めながらタガーを片手で弄んでいる。艦首で黙って前方を見つめていたカノンがニヤリといつもの不敵な笑みを浮かべた。


 「おそらく旗艦にアイドーネウスの大物が乗っているはずだ。ようは

  そいつを二度と手出ししたくなくなるほど痛い目にあわせてやれば

  今回の仕事は成功だ。」

 「囲み手で行きますか?」


 ディオンが問うた。数日続いた曇天が嘘のような眩い陽光の下、潮風がカノンの、そして乗組員たちの髪を踊らせている。


 「そうだな。オウロとニコは右翼、アルジュナとディオンは左翼だ。

  イザークは俺と全体指揮に当たれ。弾も火薬もタップリつんだ。

  遠慮はいらん、派手にぶちのめせ!各自配置へ!思う存分やっていいぞ!」


 カノンの声にドラコーンたちが各々の艦へ移動していく。


 「お頭、グラウコーピスから中型のガレー、急速接近してきます。」

 「・・・・嫌な予感がするな。」


 イザークの言葉にカノンが珍しく眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。白旗を掲げたガレーが見る間に至近距離に近づいてくる。と、何かがガレーから真っ直ぐ飛来してきた。弾丸の類ではない。


 「オレンジ?」


 パシッと左手で受けた瞬間、続いて飛来したそれをカノンは殆ど無意識に剣で叩き落す。カランと鈍い音がして二つに折れた矢が甲板に落ちた。


 「ほぉ、悪ガキめ、腕もカンもまずまず上がっておるようではないか。」

 「カノン!元気だったか!」

 「ゲオリギス!バシレイオス!」


 現れたガレーの上の人物に思わずカノンは目をむいた。あの事故の後、奇跡的な回復を遂げたばかりか、まだ少年の年齢の段階で聖騎士としての力を持つことになったカノンを船に乗せ、戦士として、船乗りとしてのあらゆる武技と技術、能力を授け鍛え上げた師。グラウコーピスを離れて10年近い年数を過ごした育ての親とでもいうべき人物こそがゲオリギス。カノンがこの世で唯一どう転んでも頭の上がらない人物なのだ。


 「ほぉ!良い面構えになっておるの、カノンよ。噂は色々聞こえておるぞ。」

 「今ならあんたからも一本は取れると思うぜ、お師匠。」

 「それは楽しみじゃのぉ。そこらの海賊どもと儂を同じにしておるまいな?

  一本とれなんだら昔のように逆さにして木に吊るすぞ。」

 「じゃあ二本はとってやるよ。」

 「相変らず口の減らぬガキじゃ。」

 「師匠が師匠ですから。」

 「ぬかせ!」


 テンポの良い言葉のじゃれ合いを交わす。親子とも旧友ともつかぬやり取りはゲオリギスとカノンの師弟の繋がりの深さを示していて、カノンの瞳がいつになく柔らかい。

 

 「バシレイオス兄様!」

 「お帰りタシア!キレイなレディになったな!」


 当然のようにさっさと乗り移ってきたバシレイオスに、船室から転がるように飛び出してタシアは飛びついた。兄の無事を実感する。


 「兄妹感動のご対面は悪いが後にしてくれないか。老師ゲオリギス、

  恐れ入りますが二人をそちらのガレーに乗せて港のほうへ避難して

  いただけますか?これから始まる艦隊戦では操船と足並みが大事だ。」

 「おう、部外者では足手纏いにしかならんからのぉ。不肖の弟子のお手並み

  のんびり見物させてもらおうか。」

 「ありがとうございます。」


 アイドーネウス艦隊との距離もゆっくりと詰まってきていた。戦闘開始までの時間はあと少しとなりつつある。


 「カノン。」

 「なかなか楽しい旅だったがここで終わりだお姫様。奴らを片付けたら

  今回の契約も終了する。報酬の件はこれが終わったら交渉といこう。」

 「カノン!」

 「また船の上で戦闘にならないとも限らん。足手纏いだから降りてくれ。」


 いつもの揶揄い口調ではない。冷たい、有無を言わせぬ命令のそれ。返す言葉が見つからずタシアは唇を噛む。いつものように食い下がる事が出来ない空気がカノンから痛い程の圧力となって伝わってくる。


 「タシア、カノンの言うとおりだ。」

 「行きましょうか、姫。ご立派になられましたなぁ。」

 「ゲオリギスおじい様・・・。」


 タシアとゲオリギス、バシレイオスを乗せたガレーが離れると同時に蒼き龍の艦隊は一斉に動き出した。陸の方へ視線を移せば一筋の白い煙が上がっている。無事に国王アルセニオスを地下牢から救出した合図をテオドロスがあげたのだ。


 「さぁて、わしらは港に残っている謀反人どもでも叩くとするか。陸の方は

  エリアスたちがじきに鎮圧するじゃろうが、船で逃げ出そうとするものが

  おるはずじゃ。」

 「老師ゲオリギス、どうあっても暴れたいようですね。」


 バシレイオスが苦笑を浮かべる。


 「当然じゃ!海上の方は船の装備から何からあの悪童の独壇場なのは

  致し方ないが、わざわざロードスから出向いてきたのじゃ。アルセ

  ニオスと違って儂はまだ現役の聖騎士のままじゃ。戦場に来て暴れ

  ずにおれるか。」

 「年寄りの冷や水にならぬよう願います。」

 「ぬかせ、この小童が。カノンと言い子供の頃からお主は口が減らぬのぉ。」

 「それは当然です。俺はあの食えない国王アルセニオス、つまり貴方の親

  友の息子ですから。」

 「わははは、違いないわい。」


 豪快な笑いの後、ゲオリギスは船の進路を陸へと向けなおした。



◆--------------◆--------------◆-----



 「命が惜しくないならかかってこい!久々の陸戦で俺は上機嫌だ。一撃で

  天国だか地獄だかしらんが送ってやるぞ。」


 豪奢な黄金の鬣をなびかせて獣が走り抜ける。エヴァンゲリスが引き入れていたのであろう、黒い防具を纏ったアイドーネウス兵たちが次々と剣を振り上げ襲い来るのを、悉く一撃で腹を裂き、喉を掻っ切って切り捨てる。青いサファイアの瞳は確実に獲物の急所を捉え、手にした剣が冷酷にその急所へと叩き込まれる。


 「やれやれ、私の仕事がまるでないではないか、テオドロスよ。」

 「国王陛下はご老体、大人しく助けられていてください。」

 「誰がご老体だ、この寝小便たれの常習犯だった小僧が。」

 「・・・・昔の話です!」


 最初に刺された釘は何処へやら、地下牢を派手に爆破してテオドロスは国王アルセニオスを救出、レヴァインと合流すべく移動中である。城内には思ったよりも多くのアイドーネウス兵がいた。エヴァンゲリスが自己の保身と安心の為にわざわざ仮兵舎まで建ててまとまった人数を置いていたからだ。地下牢周辺の庭にも多くの人数が配置されていて、今はそれを相手にしているのだった。

 一人一人の技量はテオドロスにとっては子供も同然だが物量でこられると面倒だ。血と度重なる斬撃で剣の切れ味はとっくに鈍りただの鈍器同然となっている。元来剣というモノは突いたり殴りつけるように使う事の方が多いが、いい加減鈍らになってきた。

 アルジュナに手頃な投げ爆弾ももらっておけばよかった、などと思う。城内の鎮圧が出来次第レヴァインはこちらに向かうはずだから、あと少し・・・。

 柄で勢いよく後頭部を殴りつけた男から新しい剣を取り上げたときだった。

 馬の嘶きが聞こえた。


 「陛下!わが師アルセニオス!」

 「国王陛下!」


 群がる兵たちを蹴散らして騎馬の騎士が現れる。長く真っ直ぐな髪を背中で一つにまとめた優美な印象の男と、バシレイオスによく似た明るい金茶色の髪と瞳の青年、そして堂々たる巨漢に長さも太さも普通の2倍はあろうかという見事な長槍を携えた男だ。


 「おお、ラビスにアリオン、ハリラオスも。」

 「お待たせいたしました。城内謀反勢力はほぼ鎮圧。首謀者のエヴァン

  ゲリスも近衛長官レヴァインが捕えました。」

 「現在、エリアス様の指示の下、ダモンとクリストスが王都内外に配置

  されていた謀反側兵力を着々と平定。港から脱出を図る一部は王子と

  老師ゲオリギス様がロードスからの艦隊で叩いています。」


 馬を下りて肩膝をついたラビスたちの報告にアルセニオスが頷く。


 「ハリラオスよ、王都内の市民の様子はどうじゃ?」

 「ご安心を。王子が王都に入られた時点で、礼拝の名目で殆どの

  者は教会と神殿に非難させております。」


 跪いて平伏したままのハリラオスの答えに満足げに微笑した。


 今回の謀反劇を利用して国内の不穏分子をも洗い出し一掃する。長く不可侵の聖王国として平和を享受してきたグラウコーピスの見えざる膿をかき出すという密かなる計画がほぼ成功したことに安堵したのだ。

 大航海時代の幕開けと共に世界の交易の舞台は地中海から外洋へと移り始めたこの時期。アルセニオスは時代の変化の波を感じて国内の空気の刷新の必要性を感じていた。航海術や武器などの技術の革新。長らくカトリック教会によって提示されてきた常識は覆され、地上は丸い球体である事が証明された。それは神や聖性そのものへの一つの大いなる疑問と不信となったことは否めない。聖王国への信仰だけでエーゲ海のとるに足らぬ小国がこれからを生き残っていくことはおそらく困難となるのは必定。国家というものの存在意義と必要性について思うところはあれど、次代のために打つべき手や準備は打っていかねばならない。現国王として、父親としてのそれは務めだ。

 それ故次代の女王たるアナスタシアを国外に勉強に行かせた。カノンが海賊として暴れまわるに任せ、これからの海軍力のあり方を注視してきた。今や海ははるか新大陸にまで広がり、エーゲ海の経済的重要性は明らかに薄れてきている。それら現実を踏まえた上で、今目の前にいる者達をはじめとした若き騎士たちと新たなる女王アナスタシアに次代を託すには何をすべきか・・・。

 海賊を提督に任じ、国家自ら奴隷売買や略奪を行うイングランド女王。そのやり方には眉を顰めるが、間違いなく大スペインは近い将来イングランドに世界の覇者の座を奪われるだろう。カノンやバシレイオスを始め柔軟で、時に型破りな思考と行動をとれる若い世代に憂いなく国の将来を手渡すための、全ては周到にして遠大な布石だったのだ。

 

 「さて、あのじゃじゃ馬娘が幼くして自ら選んだ聖騎士の小童のお手並み、

  じっくり観戦といこうか。」


 城内はほぼ平静を取り戻し始めているのか、空気のざわめきも感じられなくなっていた。ラビスたちを従えてゆっくりアルセニオスは歩き始めた。



◆----------------◆--------------◆-----



 「全艦スピードを上げなさい!何としても敵艦列に食いついて艦尾に

  集中砲火!」

 「間隔が遅い!飛距離で負けている以上近づいて間を開けずに砲弾を

  叩き込め!」


 ゼノンとアクタイオンの怒声と指示が飛ぶ。風がある今日、アイドーネウス艦隊はゆっくりと左右から囲まれつつあった。

 グラウコーピスを目前にして現れた見覚えのある艦隊。白い帆を煌めかせ滑るように航行するガレオン船から最前衛の船に打ち込まれた一発が戦闘開始の合図だった。謀反人エヴァンゲリスが失敗、聖王国側が反撃に転じてきた事をその一発でゼノン、アクタイオン、タイタニスの三人は理解した。それは同時に王女のグラウコーピスへの帰還であり、何より先日の借りを返すべく蒼き龍が牙をむいてきたと言う事に他ならない。こうなった以上は目の前の敵を撃破、武力でもって聖王国を傀儡にするしかない。カトリック諸国の批判は無視できないが、行方がしれない王子か老王の地位を保証して要は実効支配してしまえばいいだけの話だ。王女を捕獲できなかったのは残念だが聖なる霊血は王族の一人がいれば確保できる。それこそアイドーネウス王家から王女を嫁がせれば表向きには同盟として充分成り立つ。だがそれも目の前の艦隊を片付けねば不可能だ。蒼き龍との2回目にして決戦となるであろう闘いの幕が上がったのだった。

 ゼノンとアクタイオンは苛立っていた。風がある今日は前回以上に敵との距離を詰めることが出来ないからだった。

 ガレーの機動性をフルに発揮して敵の艦列に穴を開けるべく2列、もしくは3列での突撃を開始していたが、こちらのスピードのほうがむしろ思うように上がらないのだ。敵に舷側を晒している前衛艦は完全な弾除けだが囲まれて集中砲火の憂き目に会うくらいなら多少の犠牲はやむをえないとゼノンは考えている。だが弾除けにされる方はたまったものではないから、ガレーの機関部ともいえる漕ぎ手たちが消極的ではあるが指示に従わないためだ。艦列を分断、切り込んで敵艦を乗っ取る戦法なら積載している人員の多さでは圧倒的にこちらが有利だ。何としても艦列を突破せんとするのだが、前回の戦闘での記憶が兵や水夫たちをあきらかに怯えさせていて士気が上がらないのだった。


 「タイタニスよ、あの海賊どもとでは随分船も大砲の種類も異なるようだな。

  このエーゲ海でガレーでもガレオスでもなくガレオン船とは。」

 「私も驚きました。ですが微風であっても恐るべき機動力を持っています。

  大砲の性能も威力もはっきり言って奴らの方が上。しかも海賊、思いも

  かけない武器や戦法を仕掛けてきます。」

 「ほぉ、お前がそのように評価するとは。」


 タイタニスの回答に黒と銀とで豪奢に飾られた甲冑に身を包んだ男が感嘆の色を声に滲ませた。肩よりも少し長い漆黒の髪を潮風が揺らし、陽光に艶やかな光沢を放つ。やや浅黒い顔立ちは整っているが黒曜石の瞳はどちらかと言えば無機質な印象だ。前方の海賊艦隊に向ける表情はあくまで冷静だが、タイタニスの返答を聞くと口の端を僅かに上げて笑みを形作る。アイドーネウス王弟にして宰相を務めるイアニスである。元来はタイタニス同様陸戦の将でもある。


 「グラウコーピス、赤子の手を捻るようなものと思っていたが意外な戦力を

  引き入れたものだな。」

 「奴らは確かに海賊ですが、その実力は本物です。」

 「ゼノンから聞いている。陸上でないのが残念だな、タイタニスよ。

  今すぐにでも切り込んで目指す相手と刃を交えたいのであろう?」

 「はっ・・・いえ。」

 「よい。より強き者を欲する。そなたの武人気質は私個人としては同感故な。」


 イアニスの言葉にタイタニスは無言で平伏した。カノンは回復したのだろうか、と頭の隅で思う。先日以上に早い操船と間断ない砲撃でまだ接舷どころか距離を詰めるのも容易ではない状態が続いているのだ。いかにタイタニスといえど、目指す敵に近寄れないのでは闘いようがないから、ゼノンたちとは別の意味で苛立ちを募らせている。


 「今や新大陸への遠洋航海が交易の主流になりつつある。遥かな外洋を

  超えるためには人手のいらぬガレオンの方が補給と実質兵力の確保も

  容易。内海であるエーゲのみをガレーでうろついている時代ではない、

  ということだろうな。」

 「・・・・。」


 黒い瞳を前方に据えたままイアニスは話しかけるともなく口にした。タイタニスはただ平伏したままだ。直属の司令官でもある王弟は類稀なる軍才の持ち主であるが、時代と国家の先を憂えて国内の生産力を高めるよう常々王に進言していることも知っている。戦馬鹿を自認するタイタニスには何と返答していいものか正直何も思いつかないからだ。





 「奴ら、やはり食いついてきましたね。」

 「当然だ。得意の切り込み戦法に持っていくためには一番有効だからな。」


 イザークにカノンが答える。青い双眸をはるかな海上に向けていたが、口の端にフッといつもの笑いが浮かんだ。


 「イザーク、信号旗を上げさせろ。ゆっくりと2時の方向を開いて奴らを

  囲むように見せかけるんだ。距離を大砲がギリギリに届く位置で維持し

  ながらな。完全に食いついたら右翼は全速反転!ガラ空きのどてっぱらに

  一斉放射だ。火薬庫に徹底的にぶち込んでやれ!」

 「了解!信号旗上げろ!総仕上げが近い!」


 艦列がゆっくりとある一点で開いていく。艦隊がアイドーネウス軍を完全に囲まんと左右に分かれたように見える動きだった。当然、敵側はこの間隙を逃がすまいと全速力へとスピードを上げる。このままのスピードでどちらかの艦尾に食らいついて一気に接舷へ持っていこうというのだ。そうでなければ圧倒的不利が確定する。


 「撃て!」


 海賊艦隊の砲撃の速度と密度が一気に上がった。アイドーネウス軍も小回りの利く中型艦で距離を詰めて矢のような砲撃を浴びせかけてくる。だが時を同じくして遠回りに敵後方へ回りこんでいたアルジュナとディオンの艦隊が風上に切りあがり始めた。


 「ゼノン様、後方斜めから敵艦隊来ます!」

 「風下から?!」

 「何だ、あの速さは!?」


 敵艦の動きは把握していたが計算外の速度にゼノンとアクタイオンが声を上げる。


 「敵艦発砲!来ます!」

 「なにぃ!この距離でか?!」


 轟音が響いた。着弾した後方艦が僅かに揺らぐ。一部の艦では火の手が上がっている。例の炸裂砲弾が打ち込まれたらしい。


 その様子をディオンとアルジュナは正確に把握、すぐさま次の砲撃方向と進路調整の指示を飛ばす。敵の動揺に追い打ちをかけるように、矢継ぎ早に、そして確実に砲撃を加えていくのだ。


 「慌ててるようですが、もう遅いですよ。蒼き龍の艦隊は確かに艦も大砲の

  装備も常に力を入れています。ですがそれらは道具にすぎない。そうでし

  ょう、アルジュナ?」

 「ああ、風と潮を読み、速度と方向を正確に捉える操帆の技術、弾を無駄撃ち

  することなく目標に当て、尚且つ間隔を開けずに砲撃にかかれる砲手の連携。

  100%以上に使いこなせる人間あっての道具だ。」

  

 容赦ない砲撃を敵艦隊の後尾から叩きつけ、航行不能へと次々に追い込んでいく。


 「そしてそれらの道具と人を束ねる我々ドラコーンがいる。何よりその我々を

  含めた艦と武器と人を余すことなく最大限に使いこなす司令官。蒼き龍、カ

  ノンの存在こそが、この海賊艦隊を最強たらしめている。その男を真っ向から

  敵にまわして海で勝とうだなんて、甘いにも程があります。」

 「私はディオン、君を敵に回すのも充分怖いと思う。」

 「それはお互い様でしょう、アルジュナ。」


 ディオンが優美な笑みを浮かべる。今やアイドーネウス艦隊は前方に開かれた一点へと殺到せざるをえなくなっていた。こちらからの反撃は届かない。届いても動揺が手伝って正確さに欠けるから大きなダメージになりえないのだ。


 「アクタイオン様!敵艦隊反転、猛烈な速さで迫ってきます!」

 「何だと!」


 反転は予想していたが早すぎる。アクタイオンは敵の操船スピードに舌打ちした。よもやこんなに早く船首を変えることが出来ようとはと思うと同時に、味方の艦隊スピードの遅さに怒りを覚える。一応主力は正規軍だがオスマンからの借り物の艦隊も混じっているから元々の艦隊の動きと統制にシャープさが欠ける事が災いしていたのだ。借り物である以上艦や兵の士気は当然低い。彼らにはアイドーネウスに対する忠誠や生命を賭してまで闘う動機はない。形成が不利となれば尚更だ。

 浮き足立ち始めた敵艦隊の動きにカノンはクッと喉を鳴らした。蒼銀色の髪が風に踊る。


 「来たぞ、イザーク。狼煙を上げてハイサムに指示を。」

 「狼煙の種類は?」

 「敵旗艦の周辺を集中撃破。脅かしてやれ、とな。」


 水平線を切り取って白い帆が煌く。出口を求めるアイドーネウス艦隊の前方、水上をすべるように新たな艦隊が現れて急速に近づいてきた。

 

 「ゼノン様!前方に新たに艦隊確認!ガレオン船です!」

 「まさか!」


 ハイサムの新造船部隊だった。元々ハイサムが率いていた六隻を加えたその数二十二隻。この時点で海賊艦隊は総数四十を超える大艦隊となりアイドーネウス艦隊の包囲がほぼ完成したことになる。しかもその九割が完全武装の軍用艦なのだ。ちなみにイングランドがスペインの無敵艦隊を撃破した有名なアルマダの海戦。この海戦でのスペイン艦隊の構成は正規の軍艦二八隻に武装商船一〇二隻と記録されている。


 轟音と炎が高々と吹き上がった。


 「何だこれは!まさかあんな遠方から!?」


 ありえない距離からの砲撃だった。海賊たちの砲撃は確かに通常よりも飛距離も長いから苦戦を強いられていた。だが新たに現れた艦隊のそれは交戦距離の常識を逸脱していた。全く考えられない遥か前方からの攻撃。あたかも大神ゼウスの雷の如く着弾と同時に炎が吹きあがる。甲板の床やマストが粉々に吹き飛んだ。補助帆が見る間に燃え上がり、周囲にも火の手が広がる。穴の開いた甲板から大砲の火薬に引火するまでに然程の時間も要せず、再びの爆発の火花が真昼の海上に不穏で黒い狼煙となって上がった。一瞬で艦が大炎上を始めた光景に兵士たちは呆然とする。

 この時代、実際には大砲は未だ単なる鉛か鉄の球体でしかなかった。火薬の爆発力で射出された弾は重力とスピード、慣性の法則に従って放物線を描いて落下していく。大砲が大砲として有効な威力を発揮する距離はまだ極めて短く、その破壊力も現在の大砲のイメージとはおよそ遠い。ヨーロッパにおいて爆裂する砲弾の登場はずっと後の時代、19世紀に入ってからのことだ。

 続いて砲撃が襲う。旗艦周辺で次々に被弾、炎上が始まり辺りに黒煙と熱風が立ち込める。水夫たちに恐怖と動揺が蔓延し、不運にも着弾の巻き添えで負傷した兵士たちが燃える甲板でのたうって悶えている。アイドーネウス艦隊から統制が急速に失われつつあった。接舷での戦闘に持ち込むどころの話ではなくなっている。爆炎の向こうに敵艦隊は見えていても反撃はまるで届かないのだ。よしんば届いたところで、与えられるダメージのレベルが違いすぎる。立ち込める硝煙に視界は悪くなる一方だ。


 「全艦隊、強行突破の上、撤収せよ。」


 抑揚のないイアニスの声が響いた。


 「損失はやむをえない。全速力で離脱せよゼノン。」

 「御意・・・・。」


 ゼノンはギリリと奥歯を噛みしめ平伏した。今や敗北は完全だ。火力に子供と大人ほどの差がある上に勝てるはずのスピードと機動性で負けている。この状況から退却しおおせるのかすら怪しいがやるしかない。


 「そうだ。今回だけは見逃してやる。二度と手を出してくるな。」

 

 朗々とした声が響き渡り、空気が騒めいた。


 「貴様、いつの間に!」


 タイタニスが咆えるが如き怒号を発する。が、その手は剣の柄に触れる前に止まる。


 「お前が噂に聞く蒼き龍か?」

 「お初にお目にかかる、と言う所だが、あんたがこの艦隊の総司令官だな?」


 イアニスの後頭部に拳銃が突きつけられていた。爆風と海風とに揺れて見えるのは蒼銀色の髪と長身。タイタニスは驚愕と共に凄まじいまでの闘志を全身から吹き上げる。

 蒼き龍が、敵の司令官である男がいる・・・!有りうべからざる光景にその場にいた者の全てが目を見開いている。イアニスがまるで背後から己の頭に押し当てられた拳銃など無いかの如く静かに口を開いた。


 「そうだ。我が名はイアニス。アイドーネウス王弟にして宰相を務めている。

  素晴らしい艦隊、そして運用を拝見させてもらった。賞賛に値する。」

 「お褒め頂き光栄の至りだが、王弟殿下には一つお願いがあって参上した。」

 「ほぉ。願い事を?」

 「実に簡単な内容だ。今後聖王国に一切の手出し無用。」

 「成程。」


 周囲ではいくつかの艦が炎上し、その熱と匂いが流れてくる。立ち込める硝煙に紛れ足の速い小型艇でカノンはアイドーネウス側の旗艦に乗り込んできたのだった。戦艦同士の砲撃船で接舷不可能な状態、加えて圧倒的に不利な形勢からアイドーネウス側に生じた混乱と隙をついての奇襲だ。海上が本分でないとはいえ、気配に気付けず、イアニスを生命の危険に晒してしまった失態にタイタニスはその瞳に煮えたぎる怒りを映し出している。


 「確かに簡潔な内容だが、私の一存では決めかねる難問だな。」

 「答えが出せない、と言うのならこの艦隊丸ごと今沈めてしまっても構わ

  ないが。」

 「ハッタリと笑いたいところだな。」

 「証拠をご覧にいれようか?」


 ニヤリと笑みを浮かべてカノンが片手を頭上に掲げた。一瞬チカリと何かが光る。


 ドゴーン!イアニスの僅か50cmほど前を何かがかすめた瞬間、甲板の床が弾け飛んで床に穴が開いた。小さく煙が上がり焦げ臭い匂いが漂う。 


 「火薬は抜いてあるが御覧の通りだ。この10倍の威力のあるモノを各艦に

  一個づつお見舞いしてやってもいいし、小型のものでピンポイントに頭を

  吹っ飛ばすのがお好みならそうしよう。うちの乗組員は狙いが正確なのが

  自慢だ。ゼノン、それ以上動くと王弟殿下とお前、両方首が吹き飛ぶ事に

  なるぞ。」


 カノンの斜め後方にいたゼノンが常は冷笑を浮かべている顔を歪めた。密かに銃を取り出していたことを見抜かれていた事に舌打ちする。


 この男、この距離で己の後方にいる私の気配と動きを読み取っている・・・。


ゼノンは驚愕に打たれていた。しかも敵艦から自分たちの一挙手一投足は正確に狙われている。少しでも不穏な動きをすれば瞬時に肉片に変えてやれるぞ、とカノンは証明して見せたのだ。アクタイオンもゼノン同様、剣の柄に手をかけたままで動きを止めていた。己の艦隊と乗組員への絶対なる自信と信頼。単身敵艦に乗り込んでくるという不敵な、有りうべからざる振る舞い自体が蒼き龍の艦隊とその頭目である男の圧倒的な力量を否応なく示し、その場の空気をも支配していた。宿敵と定めた相手を眼前にしながら動きを封じられた状態のタイタニスが一人、ビリビリと怒りと凍気を全身から無言で吹き上げて、周囲の空間を震わせている。


一瞬の静寂・・・。


クツクツとイアニスが低い笑い声を発し、次いで大声で大笑しだした。


 「見事だ。実に爽快にして愉快ですらあるぞ、蒼き龍よ。叶うならば我が

  片腕として迎えたいものだ。」

 「勿体なすぎて逃げ出したくなるお言葉だな。だが俺は誰にも膝を折る気

  はない。気に入った仕事と報酬があるなら請け負うがな。」

 「龍は飼いならすこと叶わぬと?」

 「無理な話だ。」


 再び轟音が響く。すぐ近くの艦が豪奢な炎を高く噴き上げて真昼の篝火となる。熱風が断続的に吹いてくる。船倉の火薬庫に引火したのだろう。


 「さあどうする、王弟殿下?」

 「グラウコーピスに手を出せば、今度はアイドーネウス本国を叩くつもり

  であろう?最初から選択肢など無いも同然ではないか。」

 「俺としては有無を言わさず文字通り海の藻屑にしてもよかったんだ。

  十分すぎる選択肢だと思うが。」

 「なるほど。」


 イアニスが幾度目かの薄い笑みを浮かべた。無機質に思える瞳にも何処か愉快気な色が見える。


 「仕方あるまい。火力、兵力、船の機動力。全てにおいてわが軍の方が

  遅れている。無謀な戦で国力を削ぐは愚の骨頂。我が兄、国王陛下は

  暗君ではない。」

 「少なくとも王弟殿下は賢明のようだな。」


 武器を収めよ。全軍速やかに撤退する。


 イアニスの朗々たる声が響き、その命が全艦隊へと伝わっていく。海に投げ出された者を回収しつつ、アイドーネウス艦隊は崩れた艦列を整えて撤退準備へと入っていく。


 「これでこの前の借りは返したぞ、タイタニス。」

 「貴様・・・!」


 蒼い双眸を煌めかせ、ニヤリと笑うとカノンは海へと身を躍らせた。


 「カノン!」

 「蒼き龍に手出し無用、撤退を急げ!」


 微かな水音が響いたような気がした。タイタニスが艦の縁に駆け寄り、イアニスの声が響く。煙の中に急速に離れていく小型艇を見つけてタイタニスはギリリと奥歯を噛んだ。


 「海賊もなかなか義理堅い。其方からの借りゆえにあの男、我らを今回は

  見逃すということらしい。益々もって再戦が楽しみだな、タイタニスよ。」


 再び大笑したイアニスにタイタニスは無言で平伏するしかなかった。




 「信号旗あげろ、狼煙もだ。追撃は不要だとな。」


 タラサドラコーン艦へと戻ったカノンの指示が飛んだ。砲撃の止んだ海上、歪な平行四辺形を思わせる包囲網の中を全速力で敗走していく艦隊を見送る奇妙な、だが敗走する側からしてみれば息の詰まるような時間が流れる。

 撤退していく艦隊の中、一際大きなガレーに立ってこちらを見据えている男がカノンの視界に入った。暗い黄玉色の瞳に静かで鋭い炎を燃やした男がカノンただ一人を凝視している。黒い鎧をまとった長身から噴き出す闘気が炎となるのが見えそうなほどだ。。


 腰から剣を引き抜くとカノンは一度頭上に掲げてから切っ先をその男、はるかな前方を横切る形で移動していく艦に立つタイタニスへと真っ直ぐ向けた。答えるようにタイタニスもまた剣の切っ先をやはりこちらに向ける。

 互いに睨み合いながら艦が徐々に遠ざかる暫しの間それは続いた。


 『お前との再戦、楽しみにしているぞタイタニス。』

 『次こそは必ずや決着をつけよう、カノン。』


 眩い陽光が踊る下、戦いは静かに終結した。


◆----------------◆--------------◆-----



 エキゾチックな弦の調べが月明かりの中を静かに流れていく。絡み合うように横笛の軽やかな音色が寄り添う。グラウコーピスの、あまり大きいとは言いがたい港にひしめくように船が碇を下ろしていた。その中の一つ、白い帆の大半を畳んだ船の甲板。控えめな月明かりの中、ハイサムの爪弾くウードとディオンの横笛に耳を傾けながら男たちが杯を傾けている。


 「何度聞いてもウードってのは不思議な音色だなあ。」

 「おっ、オウロもそう思うんだ。異国情緒って奴?」

 「異国情緒には同感だけど、ダモンが言うと今いちその情緒が行方不明に

  なる気がするのは私だけだろうか?」

 「いや、実際全く最初から行方不明な者もいるからクリスの言う通りだと

  私も思う。」


 自身も酒盃を傾けながらアルジュナが苦笑交じりに視線を投げた先では、ニコととテオドロスが山盛りのご馳走を前にひたすら口を動かしている。


 謀反人とその勢力の一掃。背後で謀反を手引きし、混乱に乗じて進撃してきた隣国艦隊との戦闘における完全なる勝利と撃退。事の顛末と混乱の終結が宰相エリアスによって宣言された。小さな王都は大した被害もなく今は平穏にまどろんでいる。明日は帰国した王女の、女王への即位式が催されることになった静かな前夜。

 ドラコーンたちとダモンとクリスが甲板で気楽な酒盛りに興じている。


  「はあ、しっかしダモンたちも新たな聖騎士さまに名を連ねるとはねぇ。

   もうキティラにいっても、あの飯が食えなくなると思うと辛いねぇ。」


 オウロが溜息混じりに愚痴った。


 「あっ、その心配は無用!聖騎士になったって俺らの任務は基本的に

  変わらねーから。」

 「酒場は健在。あんなに色んな情報を集めやすい場所はないからね。」

 「正直王宮や王都で騎士様やるより、酒場のオヤジの方が気楽でいいしなぁ。」


 ダモンが陽気にのたまい、クリストスが優美に微笑んで言った。


 「聖騎士ってテオドロスもふぉうなんふぁふぉう?」

 「口に食い物が入ったままで喋るなニコ。俺も同じだ。海賊暮らしのほうが

  性に合っているからこのままのつもりだが、問題はカノンの奴だろう。」


 テオドロスがカノンがいるであろう船室の方向を顎でしゃくって見せた。


 「まあ頭目が聖騎士に名を連ねるとなると、我々艦隊全員その配下、という事に

  なりますね。肩書きなんて私たちは何でもいいんですけどね。」

 「俺たちが海賊であることは変わらない。グラウコーピスに専属で雇われた、

  というだけのことでいいと思う。」


 ディオンがフゥと溜息をつき、イザークが酒盃を手に無表情なまま言葉を口にした時だった。小柄な少女が甲板に姿を現した。


 「王女。」

 「お姫さん?」

 「ごめんなさい、寛いでいるところに。もうこの船に乗ることもないかも

  知れないと思ったら少し寂しくて・・・。それとカノンとも話がしたい

  から来てしまいました。」


 タシアだった。頭に巻いていたターバンは外しているが、艦にいたときの衣装のままだ。


 「頭目は船室にいますよ。珍しく一人で飲んでます。」

 「そう、ありがとう、ディオン。」


 やわらかく微笑んでタシアは船室へと向かう。その後姿を無言で一同は見送る。


 「あー、酒が切れてきたなぁ。場所変えてパア-ッとやるか?」

 「おっ、いいですねぇ!ダモンの旦那のおごり!ということで。」

 「ああっ?オウロちゃん、持ちつ持たれつで行こうよ。」

 「奢りはともかく、いい夜だ。場所を変えてみんなで飲むのは賛成だ。」

 「ならば善は急げだ。」

 「俺は出来れば美味いラムが飲みたいところだな。ハイサムも好きだろ?」

 「ああ、それはいいな。テオドロスほど量はいらないが。」


 誰が言うともなく、男たちは立ち上がるとゾロゾロと船を下りていく。白くほんのりと煙るような月明かりがタラサドラコーン艦を程なく静寂で包み込んだ。



◆----------------◆--------------◆-----



 船室の扉が開いた音に、カノンは窓の外に向けていた視線を移して小さく驚いた。


 「何だ?何か忘れ物でもあったか?明日は即位式で忙しいはずだろう。」

 「準備はもう全部終わったわ。後はそう、明日になるのを待つだけ。」


 すぐに背中を向けて素っ気無い声で尋ねた男にタシアはキュッと小さく両の手を握り締めた。数瞬ほどを躊躇った後、歩を進めて男の傍まで歩み寄る。


 「だったら今日は早く休むんだな。明日には女王様なんだ。海賊風情のところへ

  気軽にくるものじゃない。」


 こちらを見ようともしない。どっかりと椅子に上体を預けて両足は傍らのテーブルの上に放り投げてある。出会った時の、いやそれ以上の横柄で無関心な態度にタシアの胸が小さく軋んだ。

 意地悪・・・・。心の中で呟く。そう、小さな子供の頃と変わらないのね。時々こんな風に意地悪で冷たくて、それから怒鳴られたわ。


 「でも・・・・私はまだ貴方に報酬を払ってないわ。」


 ピクリ、と男の肩が一瞬震えた。


 「いらん。国王から謝礼はたんまり頂くことになっている。」

 「でも約束は約束だわ。貴方が出した契約の条件を私が承諾した。貴方が

  請け負った仕事をキッチリやる主義なら、私は一度交わした約束を有耶

  無耶にしない主義です。」


 突き放さないで・・・・。震えそうになる声を何とか気力で平静に保つ。


 「王女様の覚悟の程を試しただけだ。生憎だが俺は小娘に興味はない、帰れ。」

 「カノン。」

 「帰れ、もう仕事は終わった。」

 「カノン!」

 「帰るんだ!」


 ガタン!と大きな音を立てて椅子が転がった。白い月明かりが柔らかに差し込んで、広くはない船室を穏やかな光で満たしている。生半な者なら男でも竦みあがるような怒声と共に立ち上がったカノンは、だがそこで固まってしまったように動きを止めた。菫色の大きな瞳が真っ直ぐに見上げる、その視線に暫し言葉を失って立ち尽くす。


 「カノン・・・。」

 「バシレイオスから聞いたはずだ。俺とエリアスは双子の兄弟。今回の仕事は

  兄からの依頼で受けたに過ぎん。バシレイオスとも幼馴染だからな。兄と親

  友と、一応は祖国の為に一肌脱いだという訳だ。もちろん報酬ももらってい

  るから、王女様が支払う義務はない。わかったら帰るんだ。」


 青い双眸が今まで見たことがない穏やかな色を湛えてタシアを見下ろす。諭すような口調が逆に有無を言わせぬ拒絶を感じさせた。

 子供扱いしないで・・・・。王女って言わないで。そうやっていつもオチビ扱いして。でも・・・いつも手を差し伸べてくれた・・・。

 喉の奥で何か大きな塊がつかえている。出したいのに声が出ない。知らず握り締めたままの両手が小さく震えてタシアはそっと息を吐き出した。


 「嫌・・・・。ここに・・・貴方のそばにいる。」

 「言うな。」

 「ここにいるの!帰らない!」

 「駄目だ。」

 「嫌!」

 「アナスタシア!」


 声が響いた。さっきよりも更に腹に響くような大きな声に反射的に身がすくむ。カノンが眉間に皺を寄せて、片手の掌で額を覆うようにして顔を背けている。


 「それ以上・・・俺を煽るな・・・。」


 絞り出すような声だった。


 「カノン・・・こっちを、私を見て。」


 そっと近寄って、額に当てられた大きな手を掴んで引き下げる。あの幼い頃と何も変わらない、光で時折色を変える蒼い蒼い瞳。大好きだった瞳がタシアに注がれた。


  「肝心なときに言うことを聞かない。ガキの頃のまんまだな。」


 何処か諦観したような、呆れたような、低く艶のある声がタシアの耳に心地よく響く。


  「違うわ。子供なんかじゃない・・・。そうでしょう?」

  「・・・ああ、その通りだ。」


 大きな手に捕えられて一瞬で引き寄せられた。苦しいほどに抱きしめられて唇をふさがれる。汗と潮の香りに包み込まれて、嵐のように口腔を貪られて息が詰まる中、夢中で首筋や背中に腕を回していた。

 窓から月が見える・・・。白く柔らかな月の光は、けれどもすぐに弾けるように粉々に、閉じた瞼の裏で砕け散った・・・。



 全ての感覚がカノン以外のものをとらえなくなったようだった。痛いほどに抱きしめられて肌の隅々まで触れる硬い手と、汗と潮の匂い。耳元や額や頬、首筋を掠めてタシアの名前を呼ぶ低い声と吐息に震える。心地良い重みとぬくもり。視界を埋めるのは蒼銀色の髪とあの蒼い瞳。それがタシアの今は全てだった。全身を包む至福感に知らず体が震えて、深い吐息が零れ出る。広い胸の中に閉じ込められて、幾たびも唇を塞がれて、素肌と素肌をぴったりと重ねた。やがて体を貫いた熱さと痛み、その甘さに夢中で腕を伸ばす。固く広い、暖かなカノンの、そのまるごとを抱きしめる。


 「何だ?」

 「何でも・・・。やっぱりカノンは変わらない。優しいと思っただけ。」


 菫色の大きな瞳で見上げて微笑んだ。幼い頃からそれこそ変わらない、真っ直ぐな瞳に見上げられてカノンも小さく笑う。


 「煽るなといっただろう。これでもかなり自制しているんだ。」

 「煽るって?自制って何故?」


 カノンの言う意味が解らない。真面目に問いかけたタシアに、またカノンはクスリと笑った。キョトンとしたタシアの顔が可笑しい。幼い頃のままの、王女の時には見せないだろう表情。こんな顔を今この時に無防備に見せられては堪らない。前髪をかきあげて額に口付けを落としながら、より深くタシアの中に身を沈めた。


 「一晩中でも、もう止めてくれって言うまでこうしていたくなる。」


 途端全身を走った痺れにも似た甘い感覚とまだ残る痛みにタシアは一瞬体を強張らせて、それから大きく息を吐いた。カノンの背中に回した腕にキュッと力を込めた。


 「かまわないわ。」


  今はお互いが全てなのだから、そうでしょう、カノン?


 言葉にしないまま問いかければ、言葉にしない答えが吐息と口付けになって帰ってくる。もう言葉もいらない・・・。


 場所を移しての宴会は未だ続いているのだろう。異国の調べを乗せたハイサムのウードの音色が二人の耳にも切れ切れに聞こえていた。



◆----------------◆--------------◆-----




 その日、空は高く澄み渡り、柔らかな風は王宮の大広間にも清涼な空気を運んでいた。オリーブで編まれた冠を頂き、女王の証である黄金の杖を手にした若き女王が誕生した。 

 ローマ法王庁からの使者としてグレゴリス枢機卿が祝福の洗礼を授け、即位式は恙無く行われていく。女王を助けた最大の功労者としてドラコーンたちも即位式と祝宴への招待を受けて列席していた。堅苦しい儀式への参加はカノンは無論、全員が揃って渋ったのだが、タシアの懇願に加えて国王アルセニオス直々の招待に、流石に無碍に断ることも出来なかったのだ。列席に当たっての式服着用、それに従う身だしなみと称して入浴から着付けまで、姦しい女官たちの恰好の玩具にされるというおまけつきだ。即位式の後はそのまま女王に仕え守る聖騎士の任命の儀式が行われる事となる。

 聖騎士は女王即位の時に任命する慣わしなのだ。新女王アナスタシアの前、両脇に今回選ばれた騎士たちが並んだ。


 その佇まいと聡明さから大天使の異名で呼ばれ、国政と外交に優れた手腕を発揮する宰相にして筆頭騎士エリアス。

 近衛長官として王宮は無論、国内の軍事・警察業務を掌握する冷静にして思慮深き武人、レヴァイン。

 サガ直属の騎士として諜報・情報のネットワークを一手に管理するダモン、そしてクリストス。

 アルセニオスの弟子として優れた武具・甲冑の製作者でもあるラビス。

 比類なき長槍の使い手でありながら実直で穏やかな性格で慕われる巨漢ハリラオス。

 バシレイオスやタシアとは従弟でもある若く勇猛な剣の使い手アリオンはバシレイオスと容姿もよく似ている。

 本来なら近衛長官になるはずが、退治に言ったはずの海賊に加わっていたテオドロスも国王救出の功績によりお咎めなしの上、やはり聖騎士に加えられた。

 先代女王に仕え、カノンやバシレイオス立ち、若き騎士の指導者でもあるゲオリギスは老体ながら騎士たちの長老として引き続き聖騎士の地位にとどまる事になる。

 知略・戦略の飛びぬけた才能と大らかな性格で女王と国政を多方面から支える、女王の兄、王子バシレイオス。


 そして、宰相エリアスの双子の弟であり、アイドーネウスの大艦隊を退けた文字通り今回最大の功労者である蒼き龍、カノンもまた聖騎士に列せられた。勿論これについてはカノンは最後の最後まで拒否していたが、最終ゲオリギスに首根っこを掴まれて無理矢理承諾させられた。ドラコーンたちからは茶化され放題だったのは言うまでもない。


 

 儀式は黄金の短剣を用いて黄金のゴブレット、聖杯に注がれた女王の血とワインを混ぜたものを戦女神アテナと大天使ガブリエルの名の下、女王への宣誓と共に順に一口ずつ飲んでいくというものだ。聖なる霊血を与えられ、分かち合った同志として生きることを誓いあうのである。

 その儀式もやはり恙無く進み、全ての儀式は終わった。


 これで本当に終わりだな。

カノンは内心で何とも形容しがたい感慨と共に呟いた。この国を脅かす要因は今回の件で一掃された。グレゴリス枢機卿の証言と証拠の書簡があるため、アイドーネウスの不穏な動きはスペインをはじめとしたカトリック諸国からも今後監視されることになるだろう。ローマ法王が認めた聖王国に手出しをしようものなら、ヨーロッパのカトリック信仰国全てを敵に回すことになる。力の差を見せつけ、「手出し無用」と釘を刺しておいたから当分はアイドーネウスが脅威となる事は無いだろう。未来の事などどうなるか分からないから、さしあたって当分の間ではあるのだろうが。

 バシレイオスの情報を基に近隣諸国との友好・協力関係も長年にわたって強固で親密なものとしてきた。これだけの優れた騎士たちが揃った以上国内も安泰といえよう。これからは国力を充実させ、小国は小国なりの存在価値を世界の中で高めていく道を模索していくことになる。その為にアルセニオスは自分を含めた様々な布石をグラウコーピス国内外にうってきたのだから。

 唯一残念なのはテオドロスが聖騎士となった以上、艦を降りるだろうことぐらいなのだ・・・。新造船も揃ったし新大陸へいよいよ乗り出すか・・・。アジアやその東の果てに行くのも悪くない。

 そんな事をぼんやりと考えていたときだった。


 「カノン。」


 名を呼ばれた。黄金の杖を手にしたタシアが手招きをしている。装いだけで人の印象は随分と変わるものだが、やはり生まれついての女王だなとカノンは思った。

 気品と威厳に満ちた、まぎれもない女王の姿がそこにあった。あの戦闘の最中、ゼノンすら一瞬怯ませた気は偶然ではなかったのだ。呼ばれるままに歩み出て、玉座のある壇の下で片膝をついて頭を垂れた。

 衣擦れの音がした。黄金の杖をアルセニオスに預けタシアが降りてきたのだ。


 「カノン、顔を上げてください。」


 澄んだ声が告げる。これで見納めになるだろうと、カノンが顔を上げたときだった。


 「えっ?」

 「アナスタシア様!?」

 「女王・・陛下?」

 「あーららら・・・」


 どよめきと種々様々な呟きと驚きの声が飛び交う。何よりもカノンが度肝を抜かれて固まってしまった。


 タシアの顔が目の前にあった。


 否・・・・正確にはタシアは中腰の姿勢になると、片膝をついて顔を上げたカノンの唇に自分のそれを重ねたのだった。あまりに予想外の驚きに目を見開いているカノンの口内に甘い液体がタシアから口移しで注ぎ込まれ、殆ど条件反射のようにカノンはそれを飲み込んだ。

 コクンと喉が小さく鳴る。

 それを確認したように唇を離したタシアは、これ以上ないほどの満面の微笑を見せた。


 「はい、おめでとう!これで婚姻成立だ。」

 「はっ?」


 バシレイオスが高らかな声で宣言した。


 「婚姻!?どういうことだ、バシレイオス?!」

 「そうだ!私も訳がわからんぞ、バシレイオス!」


 殆ど同時にカノンとエリアスが叫ぶ。周囲にいた者たちも皆呆気に取られて声も出せずにいる中、アルセニオスだけがやれやれという表情で苦笑を浮かべている。


 「どうもこうも、たった今新女王アナスタシアと聖騎士にして蒼き龍、

  カノンとの婚姻が成立したんだ。」

 「だからどういうことなんだそれは!」


 思わず立ち上がったカノンの勢いは何処吹く風でバシレイオスはエヘンとわざとらしく咳払いなどしてみせる。その傍らでタシアは艶然と微笑んだままだ。


 「簡単に説明するとだな、グラウコーピス王家のしきたりでは女王から三度、

  口移しで血を分け与えられた聖騎士が女王の夫となるのだ。」

 「はぁ?三度だと?」

 「一度目はカノン、お前が崖からタシアと転落して死にかけた子供の時。まだ

  3歳だったタシアはお前を助けたい一心で口移しで血を与えた。これは俺と

  エリアスと父上が証人だ。二度目はつい先日。お前はアイドーネウスとの

  戦闘で銃弾を三発も受けてヤバイ状態となり、これまたタシアが口移しで

  血を飲ませないといけなかった。これが二度目でドラコーンの皆さんが証

  人だ。そして今が三度目。一度目はまあ聖騎士の任命だ。二度目の口移し

  は女王からの求愛と婚約の意味となる。三度目はもう解ると思うが、婚姻

  の誓いが成立した、とそういう訳だ。俺も親友で幼馴染のお前ならいう事

  はない。タシアもまだ3歳のオチビの頃からお前が一番のお気に入りだっ

  た。まあこれから妹を頼むよ、兄弟!」


 ポン!とカノンの肩を叩いてバシレイオスは太陽の如き笑みで笑った。


 「なっ・・・・ちょっと待て・・・!」

 「カノン。」


 さしものカノンも予想外どころではない展開に頭がいまひとつ回っていない。タシアはズイッとそのカノンへにじり寄った。


 「貴方は大海原を駆ける大海賊。エリザベス女王陛下のように収奪と人身売買を

  国の商売にする気はないけれど、海賊をナイトにする国があるのなら海賊を

  夫にする女王がいてもいいでしょう?それに聖王国への信仰だけでこの先こ

  んな小さな国が生き残っていけるとも思えません。新大陸やアジアとの交易、

  霊血の効能の科学的な解明、この国が大国からも大切に遇される国となる

  よう、やることは沢山あります。そのためにも貴方ともっともっといろんな

  国に出かけて学ぼうとおもいます。」

 「いや、だからちょっと待て!」

 「父上のお許しは頂いてます。それとキュロス商会のジノヴィオスとも

  この国のオリーブ油や、貴方と出かける先の国との交易に関して流通販売の

  専属契約を結ぶことになっているの。これからは経済力と情報も重要。ネー

  デルラントやエリザベス女王陛下のところで学びました。」


 若き女王様は満面の笑顔だ。


 「おめでとう、カノン。インドや中国の希少な物品、楽しみにしているよ。

  東洋はこれから一番の商売ネタになる。専属契約が出来て私も嬉しいよ。」

 「ジノヴィオス!お前どうしてここに?」

 「新造船に僕もどうして乗ってみたくてね。ハイサムに頼んで乗ってきた

  ついでに女王とアルセニオス国王陛下にも謁見して商談成立、という訳

  です。」


 あろうことかジノヴィオスまで現れた。本心なのか、営業スマイルなのか、相変わらず不明な優美で人好きのする笑顔を振りまいている。


 「国政は俺と父上、それにエリアスがいる。お前は今まで通り海の上でも

  全く問題ないぞ、カノン。」

 「バシレイオス!」


 バシレイオスが暢気な声で茶々入れをするのをアルセニオスも肩を震わせながらも笑いをこらえて見ている。そしてタシアが艶やかな笑顔で爆弾発言をした。


 「順序が逆になってしまったけど、初夜もすんだでしょう?

  やり逃げは許しませんよ、カノン。」

 「カノン!貴様よりによってアナスタシア様に手をつけたのか!?この愚弟!

  しかも下品な言葉までお教えして!」

 「俺が教えた訳じゃない!」


  再び場内がどよめきと驚きの声で沸き返り、エリアスの怒声が飛んだ。


 「よっ!さすが旦那。おみそれしました!」

 「俺はこうなるだろうと最初から思ってたぞ、カノン。」

 「いいじゃん、お頭!俺たち、お姫さん気に入ってるし。あ、もう女王様か。」

 「まあ、ニコの言うとおりだな。」

 「頭目、素人女性に手を出したのなら自業自得ですね。」

 「おめでとうございます、お頭。」

 「俺も祝福します。」

 「お前ら・・・・!」


 オウロが手を打って茶化し、テオドロスが腕組みでドヤ顔をする。ニコが頭の後ろで手を組んで賛同の言葉を述べる。ハイサムは微笑し、ディオンが冷ややかに告げた。アルジュナとイザークが真面目に祝辞を述べる。


 「わははカノンよ、大人しく観念せい!お前とて本心から嫌なわけでは

  あるまい?」

 「ゲオリギス・・・・。」


 呵々大笑するゲオリギスにカノンはガックリと項垂れる。見事にハメられたとしか言えない。最早会場にいる聖騎士、ドラコーンたち全員がある者は人の悪い、ある者は心から祝福せんとする笑みを口の端に浮かべてカノンに視線を集中させていた。


 「カノン、大好きよ。子供の時も、海の上で出会ってからも・・・。


 タシアはそっとカノンに近づくと再び満面の笑みで見上げた。片方の掌で己の額を覆って、カノンはそれら全ての視線をしばし遮る。それから深々と溜息を吐き出してタシアに向き直った。蒼い蒼い双眸が深い穏やかさの中に、ほんの少し呆れた色を宿している。


 「・・・・・船の上では俺が絶対だ。女王様扱いはないぞ。」

 「望むところです。それでも貴方はちゃんと守ってくれる。

  そうでしょう、カノン?」


 そう、貴方はいつも私を守ってくれた。どんなに乱暴で意地悪に見えても、貴方の蒼い瞳はいつも優しかった。大好きよカノン・・・。


 俄かに国中の鐘が鳴り響き始めた。新たな若き女王の即位とその婚礼を祝う喜びの鐘だ。この日、小さなグラウコーピス国中が祝賀の空気に包まれ、海賊たちも陸の騎士たちもごっちゃになっての飲めや歌えの陽気な時間が飽くことなく続いたのだった。


 この後、エーゲ海の小さな王国は希少な香辛料や茶葉などの交易、医療を中心とした優れた技術と情報を抱える国として周辺諸国との緊密で平和な外交で独自の地位を築いていく。 天下に鳴り響く無敵の海賊王とその仲間たち、戦女神の加護を受けし女王との恋と冒険の物語は海をゆく者たちの夢と憧憬として語り継がれ、そして帆船の輝かしい時代の終焉と共に消えていった。



◆----------------◆--------------◆-----



 昇りたての朝日に白い帆が輝く。海からの反射と朝日の両方を受けて豪奢な金の髪をなびかせてテオドロスが剣の切っ先をカノンに突きつけた。細身のレイピアだ。


 「さあカノン、今日こそ記録を逆転してくれるぞ。勝負だ!」

 「お前もいい加減飽きない男だな。今日も俺は生憎絶好調だぞ。おい誰か、

  剣をよこせ。」


 蒼銀色の髪をなびかせてカノンが、甲板に集まった男たちの一人が投げてよこした剣を手に取ってスラリと引き抜く。


 「お頭~今日も儲けさせてくださいよ~!」

 「蠍の兄貴、今日こそ大逆転!大穴いってください!」


 タラサドラコーン艦の「恒例の日課」が今日も始まった。男たちの野次と歓声が飛びかい、剣と剣がぶつかり合う金属音が響く。それをマストでのんびりとニコとオウロは見下ろしている。


 「オウロ、まだかなり遠いけど、あっちにぼちぼち陸が見えてきてない?

  お頭に知らせる?大陸じゃなくてもそろそろ補給したいし。」

 「あ~大丈夫だと思うよ、ニコちゃん、ほら。」

 「はは!お出ましだ。」


 パァーン!乾いた音が響き渡って、やんやの大騒ぎをしていた男たちがピタリと静まりかえる。


 「毎日毎日、楽しそうで結構だけれど、前方をよく見て!

  そろそろ補給が必要なのよ、目的地確認と進路調整、急いで!」


 小ぶりの銃を片手で頭上に掲げたタシアの言葉に男たちがアタフタと働き出す。空砲でも撃たないとまるで人の声など聞いてない!と、ある時オカンムリになって以来のタシアのこれまた恒例の日課だ。


 「女王様は船の上でもすっかり女王様ですね。」

 「いいではないか。心なしか乗組員たちの行儀もよくなったような気がする。」

 「以前よりは艦が清潔になったかもな。」


 ディオン、アルジュナ、イザークが苦笑交じりに呟いた。


 「妙に不機嫌だな、どうした?」

 「どうもしません。」


 剣を持ち主に返して前方を確認しながら問うカノンにツン!とタシアはソッポを向く。


 「何だ、夕べのベッドが不満だったか?」


 意地の悪い笑みを浮かべ、後ろから逃げられないように捕えて、カノンがタシアの顔を覗き込んだ。わざと耳元で低く囁くから、忽ちタシアは耳まで真っ赤に染まり上がった。

 もうすっかり日も登って明るいのに!何だってこんな恥ずかしい事を言えるのかしら!?いつもまで経ってもタシアはカノンのこういう行動には慣れなくて恥ずかしさでいっぱいになるから、口を突いて出るのは有りっ丈の悪態だ。


 「バカ!ならず者!野蛮人!スケベ!大嫌い!」


 これまた恒例の日課が繰り広げられ、男たちの陽気な笑い声が甲板に響く。

よく晴れた空のした、遥か前方に陸地がはっきりと輪郭を現し始める。


 「各艦、帆を調整しろ!目標前方の陸地、船足上げろ!」


 白い帆が風をはらんでまぶしく輝いた。            (終)

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海駆ける戦乙女と蒼き龍 はるか @halukamori

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