Prelude
四月朔日 橘
Prelude
地に溜まるは天から降り落ちる雫の破片。頬を伝っていくそれを乱雑に拭って、目の前の男を見た。片手に剣を持った状態で。解くことのない警戒心をキリキリと張り詰めた状態の俺を、奴は軽く流す。強いさっきに当てられているにも関わらず、気にしてないようにというよりかは無視している。
「坊主、そう警戒すんなって」
カラカラと笑う男。無表情の俺は剣を握る力を強めるが足は動かせない。まるで地に強く強く、縫い付けられているように。それは本能。この男は俺よりも遙かに強い。それを身体が分かっている。見た瞬間、俺も分かっていた。脳で瞬時に判断された。この男は危険だと。
雨に濡れる中、男は笑いながら俺に向かってこう言った。細めた瞳はいつの間にか黒から琥珀色に変わっていた。
「なあ、死んでんな坊主」
言われた意味は結局今になっても分からないままで。ただ、あの日俺はこの男と出会ったことで世界が全て変わった。一瞬にして変わりゆく世界の光景は、夜の黒からだんだんと朝のオレンジに変わっていくような、そんな光景に思えた。
血生臭いこの世界にいつから居て、もう何人この手にかけたかなんて覚えてない。ボンヤリと霞がかっていく過去に、いつから嘲笑を零していったのだろう。そんな腐った世界で、この男の言葉は確かだった。
死んでいた。家から捨てられて、生きる意味合いも持っていなくてただただこの手を血で濡らすことでしか満たせなかった飢餓感。苦しいと、思えば思うほど滑稽に思えて仕方のなかった世界はようやく壊されたらしい。
しかし、これは突如として整えられた残酷な運命を飾り、彩る始まりに過ぎず。そうして、世界はまた回り巡って罪を成していく。
背負うは永遠なる業――――誰かの、重たき哀しみと罪を背負うことになるとは知らず。
*・*・*・*・*・*・*
俺、スレイトラ・アルノードベイルは貴族だった。アルノードルベイル家といえば数多くの魔術師と魔剣士を輩出してきた王族にも名を連ねし名門貴族。幼い頃から膨大な魔力と剣の技術があった。周囲も期待していた。いずれは大物になるであろう、と。だがそれは俺が7歳の時に一変した。
弟が生まれた。俺よりも弱い魔力を持って、けれど魔剣士として、魔術師として。両方の際を持つ弟はアルノードルベイル家歴代の天才だと言われた。
俺より魔力量が少ないと言っても魔術師と魔剣士を十分両立できる程の魔力量だったし、天才でありながら努力家だった。俺が努力しても親は見てくれない。むしろ、彼らは「カルセドみたいになりなさい」という。
兄が弟のようになれと。弟は可愛いし俺のことも分かってくれていたから好きだった。弟を恨む要素なんて何もなかった。
いつしか俺のあだ名は「アルノードルベイル家の恥さらし」となっていた。別に気にしなかった。気にしてもどうしようもないし、その分もっと努力すればいいと本気で思っていた。けれど現実というのは残酷で、どうしようもなくこの世界を恨みそうになった。
『お前には出て行ってもらおう』
父からの、非情な宣告。それは俺が父の執務室に呼ばれた時に悟ってた。弟という天才が居ればクズは用無し。そういうことなのだろう。だから、嗤った。こんな世界だからこそ、こんな結末になるのだ。そう思うとやはり笑いが止まらなかった。
当時弟は5歳で俺は12歳。頭角を露わにしてきた弟が居る限り、この家は繁栄する。大人の自分勝手で汚い思惑に弟は呑まれていくのだろう。それでも、たとえ弟が可愛くても俺にとってはどうだっていい話に過ぎない。成長するにつれてできあがっていく人を切り捨てていく思考回路。こうしていかないと、こんな世界では生きていけないと思った。そうしないと、俺はいつか俺というまやかしに殺されてしまう。甘く甘い、何も知らない子供である俺に殺されてしまう。
父に家を出て行けと言われたこの日、俺の根底にあったあの幼い頃の、「努力をすれば報われる」「強くなればいい」というそれは簡単に潰えて消えた。
父に言われてからはい、としか言わず。俺は何も持たずに外に出た。その日は雨が降っていた。水音が跳ねる音がする。待って! 、と声がした。雨に濡れた弟は、俺を追いかけてきた。
『……カルセド』
『待ってよ、兄様! 何でお家を出て行くの!?』
幼すぎる弟は知らなかった。知らされてなかった。だから、きっと。弟を抱きしめて、耳元でゴメンな、と呟いた。弟はその謝罪の意味を今でも知らないだろう。弟からゆっくり離れて、俺は背を向けて歩き出す。ぐっしょりと濡れた服も張り付く髪も、心の奥底でぐるりと黒い渦を巻くその感情さえもが鬱陶しくて堪らなかった。まだ12歳の俺はこの時から、こんな世界に何も思わなくなった。
この手を生きるためだけに血に染めた。血に染めて、感情をも殺していつしかそれすらも不必要なものとして認識して。狂っていくように剣に血を吸わせた。したたり落ちるアカを無表情に見るようになったのはいつからだっただろうか。
思考回路さえも狂っていく。初めてこの手にかけたのは盗賊だった。剣術の才はあったから、そこに最早人を殺すことへの抵抗はなかった。襲ってきた盗賊を一刺しした。肉を立つ感触が手に伝わってくる。ただ、それだけだった。
血に塗れたそれはどれほど重かったのだろうか。もう、そんな感覚を忘れてしまっていた。人の命は重きものである。そう教わったあの頃のことなんか記憶の片隅にもなかった。ただ無表情に無感情に。人であろうと獣であろうと――――魔獣であろうと。ただ屠っていく日々が続いた。
血塗れの俺を誰も気にかけなかった。たまたま見つけたギルドに立ち寄って、血塗れたその姿に慌てたギルドの職員に風呂に放り込まれたこともあった。アカに染まっていく手に何の感情もない。
ギルドの職員は俺をしきりに心配していた。この時、13歳――――正式にギルドに加入できる歳であった。それまでは盗賊を殺したり、獣を殺したりして生活していた。ギルドに加入すれば、依頼をこなして報酬がもらえる。もうそんな、歳になっていたらしい。
ギルドには形だけ加入した。たまに立ち寄って依頼を受けたりしていた。殺すことに躊躇いのない俺が大抵行く依頼は魔獣の討伐ばかりだった。そうして、自分を保ち続けた。そうじゃないと、あの日の俺に殺されそうだった。人の優しさに触れて、おかしくなったのだろうか。そんな考えばかりが頭の中をぐるぐると回った。手に残る感触と、一面を覆い尽くす湿ったアカだけが信じられるものだった。
そうしていくうちに、また歳は回る。世界が動く。アルノードルベイル家の長男は学園に進学したらしい。そんな話を聞いても、何も思わなかった。思えなかった。捨てた感情を拾い上げて感傷に浸るくらいなら、狂っていく執行を落ち着けた方が何倍もよかった。
その日はあの日と同じ、雨だった。周りに沈むのはアカを纏う魔獣の残骸。歪すぎて、原型も分からぬそれ。だんだんと、手にかけていくことが衝動となっていた。切り刻んで、叩き切って。それが残酷だと誰も言わない。だから、狂ったようにいつだって。
雨音に紛れる足音。視界の先に居たのは1人の男。腕を下に下げた。地に溜まるは天から降り落ちる雫の破片。頬を伝っていくそれを乱雑に拭って、目の前の男を見た。
「坊主、そう警戒すんなって」
カラカラと笑う男。無表情の俺は剣を握る力を強めるが足は動かせない。まるで地に強く強く、縫い付けられているように。それは本能。この男は俺よりも遙かに強い。それを身体が分かっている。見た瞬間、俺も分かっていた。脳で瞬時に判断された。この男は危険だと。
雨に濡れる中、男は笑いながら俺に向かってこう言った。細めた瞳はいつの間にか黒から琥珀色に変わっていた。
「なあ、死んでんな坊主」
そう言われた意味が、分からなかった。死んでいる?何故?俺はココに生きているのに。生きるために、ここに居るのに。何を言ってるんだ、この男は――?
男をじっと見れば、男は寂しそうに笑った。まるで、何かを失ったかのように。対峙していたのは数秒だったか数分だったか。ほんの一瞬のような出来事だった。
バシャ、と背で水が跳ねた。上から落ちてくる雫が強さを増す。目の前は影と真っ暗な曇天だった。そこから降りてやまない雨は俺を押し倒して覆い被さるあの男をひたすらに打ち続ける。首にかけられた手が、それを物語っていた。ああ、俺は死ぬのか。生きるためだけにここに居た。生に執着しているはずだったのに、感情は酷く穏やかだった。
剣は水溜まりに転がって、透明な水の中にアカが混じり始める。俺を押さえつける男のひとみは酷く酷く、哀しそうだった。
「……お前、俺と来いよ」
「は?」
「生きたいくせに、諦めた面しやがって」
「んなもん、お前には関係ねぇだろ」
「言っとくけど、俺は思えなんて簡単に殺せるんだからな」
だろうな、とは思ってた。膨大すぎる魔力。それをここまで押さえ込むとは。ただの冒険者とかじゃなさそうだった。だから、この男の口からその言葉を聞いた時は納得した。そうだったのか、と。
「俺はこの世界に飽きて、厭きた魔族だ」
魔族。人とは違い、人ならざる者。膨大な魔力を持って全てを塵にさせる敵。その敵が世界に厭きて飽きた。聞いたこともない話だが、その感覚は俺にも分かった。縛り付けられた世界の概念。その全てを投げ捨てて、感情もないもかもをいらないと排除してこの世界にただ居るだけの。生にしがみついているだけの無力な存在。
「だから、お前は俺にもう一度この世界がまともだったことを証明しろ」
全ては狂った歯車が用意した舞台の1幕に過ぎない。それに頷いた俺はその時何を思っていたのかすらも分からない。差しのべられた手が温かかった、そしてそれが導くのはいつだって光のある場所だった。そう、信じていた。信じていたからこそ、その一つの結末に何も言うことはない。
瞳を閉じて、息を吐いた。そうして、苦しみ朽ちていく姿を俺はどうやったって免れることはできないと、心の奥底で知っていたはずだった。
―*―*―*―*―*―*―*―
思えば、それは決められていた運命だったのかもしれなかった。俺がアルノードルベイル家を追い出されるのも、ヴァルダに拾われるのも、そして――――
「レイ?」
「あ?」
俺の隣に居る少女はカレア。ヴァルダに拾われて1年。俺は15歳になっていた。ヴァルダが住み始めたのはとある辺境の森の中。本気でこんなところに住むのか!? と思ったが本気だったし、いざ住んでみれば住み心地はいい。住めば都、とかそういうのは置いておいてだ。もちろん、家は森の木を切って作り上げた。ヴァルダが魔術でくみ上げた代物だ。
あれ以来、俺は殺しを行ってないし剣を常時握ってない。敵は居ない、生きるためだけにしてきたその行いはヴァルダが居ることによって抑制された。最初の頃は落ち着かなかったが、次第にそうではなくなった。
カレアはこの辺境の森の近くにある街に住む少女だ。森で木の実を採集していた時に鳥の魔獣に襲われたところを助けた。それ以来来るようになっている。
「大丈夫?」
「ああ」
ため息をついて、返事をする。ここ最近あまりよくない現象ばかり起こっている。この森の魔獣共はヴァルダが一番の強者であることを知っているからヴァルダを警戒して人を襲いはしない。むしろ、俺はなつかれている。魔獣は本来、人をあまり襲わないらしい。俺が幾千と殺したであろう魔獣もそうだったのかもしれない。なのに、カレアが来てからはそれが増えた。それは何かを警戒しているように。
「そう、なら……」
「カレア?」
ギャアギャアと、魔鳥が煩く騒ぎ立てる。その瞬間、風が頬を横切る。液体が頬を伝う。平和ぼけしていたであろう思考回路。目の前の、少女は嗤っていた。ぞわり、とわき上がる警戒心と恐怖。一気に距離を取る。
カレアの手に握られていたのは鋼鉄で作られ、人の肉を意図もたやすく裂くことができる彼女の半分ほどの背丈の刃。
「何で、避けるの?」
「カレア、お前……」
「楽しかったよ、でも、ね」
彼女はまた嗤った。仄暗い、狂気を纏うその笑みは。まるで彼女ではなかった。彼女じゃなかった。背筋が凍り付く感覚に襲われる。ひとたび平和ぼけしてしまったらこうも鈍くなるのか。気づけなかったのか、違和感に。
何故魔鳥に襲われていたのか、何故街に店があるにも関わらず森にまで木の実を摘みに来ていたのか。何故、ヴァルダに会おうともしなかったのか――――。
「君はこの世界に要らない存在なの」
蒼かった彼女の瞳は黒に染まっていた。滑り落ちていく言葉。要らない存在。もしそうだったとして、何故知っている。
「だから、殺してあげるね」
鋼鉄の刃が俺に向かって突きつけられる。咄嗟に生成した剣で受け止める。少女の力ではない強さに舌打ちをした。どういうことだ、何で。
「お前は誰だ」
「……面白いことを聞くね」
「答えろ」
カレア出会ってカレアでない者。目の前の少女は感情を無にして答えた。
「私は世界の管理者」
「……。」
「君は世界に要らないと決定された存在だ。だから、君はあの日に死ぬ予定だった」
あの日――――それは、多分。やはり、そうなる予定だったのか。世界に見放されていたとは、知りもしなかったし何とも滑稽なことだろう。所詮はそんな世界だというのだ。切り捨てられた存在は、居場所なく朽ち果てる。それを世界が望んでいたというのに、なのに。
――――世界に抗うように、仕立て上げられてしまった運命はなんと哀しくて滑稽なものだろうか。
「あの魔族が君を殺さなかった。だから、世界が狂っている」
魔獣の沈静化、
「カルセド・アルノードルベイルが行方不明になっている」
全ては定められた世界の概念。それをねじ曲げ変えた俺を排除することで元に戻るらしい。それはそれで本当に滑稽なことだ。そうしないと世界は戻らない。狂った歯車は延々と回り続ける。回り回って、巡るのは欠けた世界で成されていく物語。
「だから、俺が死ねばいいと」
「そうだ、そうすれば元に戻る」
「……悪いが断る」
まだヴァルダに恩は返せてないし、まだ生きたい。生にしがみついて、ただがむしゃらに生きていた頃の俺じゃない。持っている剣を握り込み、一歩踏み出す。風を切る音と同時に少女の懐に入る。切り裂かれる頬。瞳を見開く少女から距離を取る。
「おま、え……!」
「悪いが、俺は躊躇いなんて持ち合わせていないからな」
かつての、1年前の感覚が蘇る。人を殺すのに何の躊躇いもなかったあの頃に。ただただ、それが義務のように、機械的に行っていたあの頃に。少女は唇を噛みしめて、俺を睨む。そして、低い声で呟いた。
「ならば、その命を持ってこの世界に逆らったことを後悔するがいい!!」
少女は俺の間合いに瞬時に入ってきたかと思うと、俺の構えていた剣にその身を沈めた。口から流れる赤き雫。肉を刺した感覚がハッキリと直に伝わってくる。何を、した……? この少女は、何を……!?
鮮血がしたたり落ちる。少女は俺の頬に、自信の貫かれた胸に触れてその手をアカに染めた後に触れた。そして微笑む。剣を離したくとも、身体が言うことを聞かない。
「貴様が背負うのは永遠の業だ――――この世界の重き哀しみと、貴様がこの世界に存在するという罪を貴様の魂が朽ち行くまで背負い苦しむがいい……!」
身体の硬直が解ける。力の緩んだ手は剣を落とし、貫かれた少女の身体は塵となって消えていく。脳に木霊する少女の声。響く笑い声と、この世界に対する貴様の業を忘れるな――――。そんな声が永遠に響き渡る。
瞬間、流れ込んできた膨大な映像。地は果て、人々は涙を流し慟哭していた。時間は残酷にも流れていき、王族は血を流し、民は泣き叫び、この世界は酷く酷く慟哭していた。これが言っていたこの世界の哀しみか。随分と酷いものだ。そして、これを背負っていかなければならないということも。
だから、この世界は嫌いだ。
これは、単なる序章。この業は俺に永遠に、魂が朽ちて果てるまで纏わり、縛り付ける永遠の鎖。蝕まれてこの身が消えるまで背負うことになったこの業は、残酷すぎた。
これは俺のこの世界の、いかに幾千となる哀しみと罪を負っているのかを突きつけた苦しみの前奏曲でしかなかった。
―Fin―
Prelude 四月朔日 橘 @yuu-rain
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