君は狂ってしまった
眠れなかった。
ベッドの上でぼんやりと過ごしていた。
天井を見つめることにはもう飽きていた。しみの数なんて覚えてしまった。
すぐ脇の窓ががたがた鳴り出した。
風だろうか。
そちらを見ると、向こう側の夜に人の顔が浮かび上がっていた。
長い髪を振り乱して黒マントを羽織った女がぼくをじっと見ながら窓を揺らしている。
「ひっ!」
よく見れば薫だった。
ため息が出る。
「またこんな夜中に出歩いて……」
窓を開けるや否や、薫は身を乗り出してぼくの手を引っ張った。
「いでっ」
「いくぞ」
「どこに」
もう時計は夜中の十二時半をさしていた。父さんや母さんもいいかげん寝入っているはずだった。薫だって明日、っていうか今日、学校があるのだからもう寝ていなければならないはずだった。
「準備が出来た」
「何の」
「純の足をなおす準備だ」
「……」
ぼくは薫の顔をまじまじと確かめた。夜で薄暗くともわかった。薫は目を爛々と光らせていた。息がとても荒かった。走ってきたせいだろうか。
薫はいつものように変だった。
本当はかわいい顔をしてるのに色々と台無しだった。
三年前、ぼくが交通事故にあった日から薫は少しおかしくなってしまった。
小学校六年のときだった。ぼくが病院で目覚めたとき、一番最初に目に入ってきたのは誰よりも薫の顔だった。それは異様だった。大怪我を負ったぼくが案外すぐに意識を取り戻して、ぼくの家族も薫の家族も、どちらかといえば安心したかのように泣いていたけれど、その中で薫だけが顔を蒼白にして立ち尽くしていた。
事故当日もぼくは薫といたのだ。もう理由も覚えていないけれど、薫とぼくは喧嘩していた。男女の幼馴染関係にも限界が来ていて、家が近いからというだけでは友情関係が成立しなくなっていたのだろう。冴えなくてのろまなぼくは薫をいらつかせてばかりだった。
薫はぼくを置いて車のいない隙に赤信号の横断歩道を渡ってどこかへ行こうとした。
ぼくは泣きながら薫を追いかけた。
車が走ってきた。ぼくは運悪く転んだ。そして足の上をひかれた。何の冗談か知らないけど、ぼくに気がつかなかった数台に連続して引かれ、何台目かのブレーキを踏んだ車のタイヤにぼくの足は巻きこまれた。極めつけとして、最後の車がハンドルを切って標識にぶつかり、標識が折れて倒れてきてぼくの両足を膝下で切断した。
正直記憶にない。途中からぼくの意識はとっくに飛んでしまっていた。
でもきっと薫の記憶にそれはしっかり残っている。ぼくの悲鳴で振り返った彼女は、ぼくの足がぐちゃぐちゃにされてから切断される現場を目の当たりにし、幼馴染が泣き喚きながら悶え苦しむ様を前に立ち尽くし、誰かの呼んだ救急車が来るまでの十数分微動だにできなかったらしい。仕方のないことだ。小学六年生の女子に何ができただろう?
事故の後遺症はとても重かった。
ぼくは両足を失った。
薫はぼくから離れられなくなってしまった。
きっと彼女の精神は罪悪感ですりつぶされてしまったのだ。
薫は毎日お見舞いに来たし、退院してからも毎日会いに来た。ぼくは不登校と化したけれど、たまに学校へ行くときはいつも薫が車椅子を押してくれた。階段の移動が必要なときは苦労して運んでくれた。家にいる時ときでさえ上がり込んでぼくの世話をしたがった。それはどう見ても病的だったから、かつての薫の友だちはドン引きしたし、ぼくの両親と薫の両親は適度に引き離そうとした。しかし引き離されたら引き離されたで薫は人の目を忍んでこうして時々ぼくの所にこっそりやってきては意味不明なことを言うのだった。
例えば今みたいに。
「乗るんだ」
薫は車椅子を窓の下にぴったりつけていた。
車椅子の背をペしんと叩く。
よく見ればそれはぼくの車椅子だった。
部屋の中にあったはずのそれがなくなっていた。どうやらいつのまにか薫によって外へ運ばれていたらしい。つまり薫はぼくや家族に気づかれないうちに家に忍び込んで車椅子を持ち出したっていうこと? たぶんそうだ。夜に目が覚めるとたまに薫が枕元にひっそりと立っていることすらある。最初の頃は不思議に思っていたけどもう慣れた。
ぼくは少し迷ったふりをしてから窓へ身を乗り出し、手を滑らせて窓から車椅子の上に落ちた。薫が驚いたように声を上げて、痛くなかったか、と慰めてくれた。
もちろんわざとだ。下手したら怪我をしたかもしれなかったけれど別によかった。パイプに腰をぶつけただけだった。もっと痛い目にあえばそれだけ薫が強く慰めてくれただろう。
ぼくは薫がこうして異様にかまってくれることが嫌ではなかった。というか、とても嬉しかった。今でこそ薫はクラスで浮いていて友達もいないけれど、もともとはそうじゃなかった。彼女は真っ直ぐで華があって人気者だった。事故がなければ、今頃ぼくなんかと縁が切れてクラスの上位カーストで女子のリーダーでも張って、イケメン彼氏の二人や三人でもできていただろう。それが今やぼくにかかりっきりなのだ。
薫にはこのままでいてほしかった。こんなふうに突然夜中ぼくを訪ねてきてわけのわからないことを言って連れ出して車椅子で夜の街を走ってしまう薫のままでいてほしいと切に願っていた。願うくらいしかぼくにはできることがない。
願いは通じ、彼女は順調にいかれてきている。
三年前の事故の後、薫はぼくの足を元通りにすると宣言した。ぼくや周囲は彼女が医者になるつもりなのだろうかと思ったものだけど、彼女が手を出したのはオカルトだった。薫はさっさと正気を失って、謎の生命パワーによってぼくの足が生えてくる方法だとか、異次元の高位存在に頼んでぼくの足を作ってもらう方法だとか、手作りの奇妙な義足だとか、本当に色々と試してくれた。もちろんうまくいくことはなかった。周囲の人たちは薫に失望してうんざりし、ぼくだけが心の中で狂喜していた。
ぼくのせいでおかしくなっていく薫はとても可愛かった。ぼくはたまに絶望するふりをした。うまくいかなくても仕方ないよ、でも歩けないのは辛い、もうずっとこのままなのかな。すると薫は泣き出すことすらあった。お前を死なせたりはしない、と薫が言うことすらあった。どうやら薫の中の設定でぼくは死にかけているらしかった。単に足がないだけなのに。
安い犠牲で高い効果だった。
ぼくの部屋には薫がくれた謎のお守りが腐るほど積み重なっている。それがぼくから禍を遠ざけるのだそうだ。今もぼくはその一つを肌身離さず首にかけている。薫に厳命されているのだ、絶対に離しちゃダメだと。もちろん離すつもりなんてない。
今日も今日とて、薫は車椅子を押して夜の通りを歩きながらしゃべっている。魔術がなんだの、呪いがなんだの、儀式がなんだの。わけがわからない。いつものやつだ。とても耳に心地よい。最高だ。
「……?」
薫が車椅子を押していく方向が彼女の家の方向ではないことに気がついた。これまでにいろんな儀式を試してみたけれどそれはいつも彼女の部屋だったり家の前の空き地だった。これまでにないタイプの設定の儀式なのだろうか。でも流石に、長いこと車椅子を押され、郊外の山へ向かう坂を登りはじめたときには不安を覚えた。
「どこへ行くの?」
「工房だ」
薫は不気味に笑って答えた。
「工房?」
「最近、蔵書が増えてきたからな。工房を持つことにしたんだ。魔術師の仕事場みたいなものだ。坂の上の屋敷をおぼえているか? さる魔術結社の持ち物で、ずっと空家になっていたのだが、そこを借りている」
「……へぇ」
薫は真面目な顔をしていた。狂ってはいるけれど、薫はくだらない嘘をついたり話を盛ったりしない。ということは結構遠くまで連れて行かれることになる。ぼくは少し気味が悪くなってきた。でも車椅子は薫が押しているし、そもそも足がないのだからどうしようもなかった。
二十分ほど運ばれて、坂の上にある廃屋敷に到着した。小さなの頃から知っている場所だけど、この屋敷がどういう経緯で建てられて、いつ捨てられたのかは知らなかった。ぼくが初めて知ったときからすでに廃屋敷だったのだ。
夜の廃屋敷は単なる心霊スポットにしか見えなかった。わりと真剣に帰りたくなってきた。薫はためらうことなく錆びた鉄柵の門を押し開いてそのまま玄関へ進んだ。
「そうだ。これから決行する」
薫が誰もいない宙に向けて話しかけはじめた。
「大丈夫だ。私がどれだけ予行演習してきたと思ってる」
薫は透明人間と口論しているようだった。
これまでにないくらい不安がふくらんでいく。
ひどく埃っぽいロビーを抜け、まるで吸い込まれるように一室へと向かっていく。薫は誰かとすれ違いざま挨拶を交わすかのように声を出す。そこにあったのは花瓶だった。
重苦しい設えのドアをくぐってぼくはギョッとした。
その部屋は割と広くて埃っぽさが多少薄かった。ろうそくがたくさん灯されていた。本棚は全て本で埋まり、部屋の床にはおびただしいほどの本やノート、紙きれが積み重ねられ、今にも雪崩が起きそうだった。昔、薫の部屋で見たはずのクッションや学校かばんなども置かれていた。端にはコンビニの袋があってゴミ袋替わりなのか色々詰められていた。
一言でいえば生活感があった。
「……住んでるの?」
「ん? あぁ、食事や睡眠は家でとってくれと親が言うから可能な限りそうしてるが、後は大体ここにいる。すごくはかどるんだ」
何がはかどるのか。
「学校は?」
ぼくの質問が聞こえなかったのか薫は答えてくれなかった。
薫は机の上に置かれていたノートを取ると、持っていろ、と言ってぼくに渡してきた。ぱらぱらとめくるとノートには小さな文字でびっしりと何かが書かれていた。日本語でもなければアルファベットでもない文字だった。
じゃあ行くぞ、と言って薫は車椅子を押して部屋を出る。
「どこへ」
「お風呂だ」
「お風呂?」
「あぁ。別室に用意している。そこでシュンの足を治す」
「なるほどね。お風呂に入ったら足が生えてくるわけだ。すごいや」
ぼくはことさら冗談みたいに茶化す。
「まぁな。全部私に任せておけ」
薫は真顔だった。
「どんな形質で作っても組成した足が定着しないのは、純にかかっている呪いがそもそも周囲の魔力を引き寄せて消化し、自らの出力に変換するタイプの呪いだったからだ。込めた魔力が呪いに消化されず、しかも同時に呪いの力を殺す足を作ろうと思っていたのだが、どんな義肢も目的を果たすには至らなかった」
ぼくは戦慄した。
薫がペラペラ話し出すこと自体は昔からの癖だ。彼女はぼくと二人きりのとき、考えていることをほとんど全て口に出す癖があった。そうして考えを整理しているらしい。ぼくはこの癖が好きだった。シャーロックホームズみたいでかっこいい。ぼくは小さい頃にこれを真似したことがあるけれど頭の中がこんがらがるだけだった。
でも今これをやられたらただのホラーだった。
「しかし、当初から別のプランもあったのだ。呪いそのものの書き換えだ。純にかかっている呪いの出力を禍の引き寄せではなくて、言ってみれば、足の生成にしてしまえばいい。そうすれば逆に、周囲の魔力を吸収して恒久的に維持される最高の義足が出来上がる。だがもちろんそれは難しい。お前の存在書式を直接書き換えなければならないのだから。しかし、これをようやく実行に移す目処がついたんだ」
薫は愉快そうに鼻を鳴らした。
「……そうなんだ」
ぼくは小さく震えた。
薫はぼくを車椅子で運び、廊下を進んでいく。しばらくして奇妙な臭いが鼻を突きはじめた。廊下の突き当たりで灯りがついている別の部屋を見つけた。薫はぼくを中へ連れ込んだ。すると奇妙な臭いがより強くなった。
その部屋は別にお風呂とかでなく脱衣所でもない、フローリングの普通の部屋だった。しかし部屋の片隅にはウレタンのマットのような物が敷かれていて、その上にバスタブが置かれていた。なぜか赤い色をした水のようなものが張っていた。別に湯気は出ていない。臭いの元はそこだった。
何かの腐っているかのような、甘く、しかし頭を灼くような臭いがする。
血を連想させる赤さだった。
絶対にやばい。
これはダメなやつだ。
「薫」
「ん?」
「薫、ぼく帰りたい」
「大丈夫だ。私に任せろ」
何を?
「すごい臭いんだけど」
「あぁ。だから隅の部屋を使うことにしたんだ」
「帰りたい帰りたい帰りたい」
懇願していると薫が前に回ってぼくの手からノートを取り上げ、何のためらいもなくぼくの服のボタンに指をかけ、脱がそとした。
「え! ちょ!」
ぼくは薫の手を振り払おうとした。
「あぁ、すまない。きちんと説明するとも」
そういうことじゃない、と言い返そうとしたら薫は縄を取り出してぼくの口にぐるぐると噛ませはじめた。驚いて抵抗しようとしたら、順序を間違えたな、とつぶやいてから手を縛りはじめた。手と口を縛った後は太ももも縛られた。
どこからともなくハサミを取り出してぼくの服をじょきじょきと切りはじめる。
「うううああああ!」
ぼくのうめき声を意に介した様子もない。
「調べた結果から端的に言うと、純にかけられた呪いは災厄を呼び寄せる死の呪いだ。約五百年前のフランスで黒死病が流行ったときに構成された魔術のうちの一つだ。クラシカルでマイナーなものだった。しかし同時期に同形式で作られた魔術はそこそこあったから、書式のテンプレートもたくさんあり、書き換えの草案自体は容易くまとまった。しかし問題が一つあった。呪いはお前の臓物や皮膚、髪、爪など、全ての器官に別々に染みついているんだ。基本的に、魔導書は一つの部位としか接続できない。ちまちまやってても結局は呪いが感染してお前を蝕んで元通りになってしまう。その点を解決するためにあれを使う」
薫が異臭のする赤い水の張ったバスタブを指差した。ぼくの視界外だった。しばらくしてから気がついたらしく、車椅子を動かし、硬直して動けないぼくの視界に入るようにしてきた。例の赤くて臭い風呂だった。
「ううううううううううううううううううう!」
「あれは同化剤って言ってな、自らに含まれているものを魔術的な意味で一つのグループとして定義できる。だから純をあの風呂の中に沈めて十分に液体を体内に染み渡らせれば、皮膚も内臓も脳もなにもかも一つのグループとして定義できる。全てを単一なものとして定義できるんだ。そして単一なものと化したお前を魔術的な線で魔導書とつなぎ、存在書式を読み出して、呪いを直接書き換える。……存在書式の書き換えは初めてだが、安心しろ。予行演習は死ぬほどやった。あと、この同化剤は人の血肉に近い成分だ。そのまま成形して足の素にする」
ぼくの服は全て切り裂かれてしまった。恥ずかしいとかそういう問題じゃない。薫の頭がおかしすぎてやばい。薫はゴム手袋のようなものをすると裸のぼくを抱えあげた。そのままぼくをバスタブへ運んでいく。近づくにつれ鼻がいかれそうになった。
マジだ。たぶん薫はマジでぼくをバスタブに沈めようとしている。ぼくの恐慌に気づいたのか薫はぼくににっこりとほほ笑みかけた。
「安心しろ。痛くもないし苦しくもない。同化剤に入ったら勝手に意識はなくなる」
「ううううっ! ううううううううううううっ!」
「うーうーうるさい。少し黙っていろ」
ぼくはバスタブに沈められた。
全身浴とかそういうレベルではない。頭も何もかも全て沈められた。
猿ぐつわのせいで口を閉じることもできない。
視界が赤色に染まってぼやけていく。
息が苦しくなる。
そして何もわからなくなった。
――。
「あれ?」
目が覚めると、知らない部屋のベッドの上だった。見たことないパジャマを着ている。
外から小鳥のさえずりが聞こえる。朝になっていた。
ぼんやりと辺りを見回し、ふと自分の下半身を見ると足が生えていた。
「ぎゃああああああああああああ!」
ぼくは絶叫した。
廊下からばたばたと駆けてくる音がした。
勢いよくドアを開いて入ってきたのはやっぱり薫だった。
「うわああああああああああああ!」
ぼくは再び絶叫した。
まくらを投げつけたけど簡単に払いのけられてしまった。
薫はまたぼくを縛りはじめた。今度はベッドから起き上がれないようにしてきた。
「まだ足が安定していないし歩くための筋肉もできあがっていないんだ。寝てろ」
意味不明。
混乱の極みの中で気が狂いそうになった結果、足をなくしたということ自体が妄想だったのかもしれないと思った。六年生のときに交通事故にあったことなんて夢だったのだ。だってぼくの足があるのだ。事故にあっていたらなくなっているはずだ。でもあるのだ。ならばぼくは事故に遭っていなかったということではないのか?
気持ち悪かった。ぼくはベッドの上で何度も吐いた。全て薫が処理したみたいだった。やがて考えることに疲れて天井を眺めて過ごすようになった。
何度か昼と夜が通り過ぎていき、薫がもう大丈夫だと言ってぼくをベッドに縛っていた縄を解いた。そう言われたってぼくはすぐに立ち上がる気にはなれなかった。ぼくはベッドに寝転がったまま天井を見つめて置物の振りをし続けた。
しばらくしたら薫がイスの上で居眠りをしはじめた。そのときに初めて気づいたのだけれど、薫の目の下にはひどいクマがあったし顔色も悪かった。つまり逃げるなら今だと思った。
周囲に車椅子はなかった。
困ったけど、でも映像や感覚として、今のぼくに足があった。事実としてはないのだけれど、現象としてはあるのだ。とても奇妙だった。恐る恐るぼくはベッドを降りた。ぼくは床に崩れ落ちるだろうと思っていた。だってぼくの足はないはずだったのだから。
しかし床に足がついた。
ぼくは立つことができた。
ゆっくりと歩いてみた。痛みも違和感もなく歩くことができた。久しぶりの感覚だった。まるでちょっとド忘れしていた英単語を何かの拍子に思い出したみたいに。ディスイズアペン! ぼくは足を高く上げて床を踏んだ。ダンッ! なんともなかった。ぼくはなんども地団駄を踏んだ。
確かに足があった。
体から力が抜けてぼくはベッドに腰掛けた。
「ふわぁ」
いつのまにか目を覚ましていた薫が大きなあくびをかましていた。
そしていすの肘掛に頬杖をついて満足そうに笑った。
「大丈夫みたいだな。……三年だ。三年かかった。しかしやってやった」
ぼくはただぼんやり薫を見つめ返した。
しばらくはそうすることしかできなかった。
「薫って魔法使いか何か?」
「はぁ?」
薫は呆れたように眉をひそめた。
「魔術師だ。お前はこれまで一体何を聞いていたんだ?」
「……嘘でしょ」
「嘘じゃない。何回も説明した。しかしお前、話をずっと聞き流してたからな。どうせろくに理解してなかったのだろう。もっとも、耳をすっかり塞いでる他の連中よりましだったが」
「本当に魔法使いなんているの?」
「魔術師って言ってるだろ。いるだろ、目の前に。でなければなんでお前がまた立てるようになったと思ってる」
「薫がぼくの足を直したの?」
「風呂に入ったら勝手に生えてきたとでも?」
薫は自分で言ったことに対しておかしそうにけらけらと笑った。なんだが長く笑い続けていると思っていたら、やがて、涙を浮かべ、それをぽろぽろと流しながら小さく笑い続けるのだった。
よかった、本当によかった、と。
ぼくは薫の笑みと涙を数年ぶりに見た気がした。昨日だって見た。その前だって見た。でも本当の意味では、とても久しぶりにそれを見た気がした。ぼくはしばらく盲目だったのではないかと思えた。
目の前が急にすっきりと晴れ渡っていくようだった。
この三年のことが全て思い出されていく。病院で目が覚めたときから、今までの様々なことが。ぼくが両足を失ってから、誰もが腫れ物に触るように接してきたり、あるいは離れたりした。家族とはろくにコミュニケーションを取らなくなったし、学校の友達のほとんど縁が切れた。今ではお見舞いに来る奴なんていない。今目の前にいる一人を除いては。
薫はずっと側にいてくれた。ぼくはそれを病んだが故の奇行だと思っていた。だってそうだ。心を病みでもしなかったら、ぼくなんかとっくに見捨てただろうと思ったから。だって他のみんなはそうしたみたいだから。
挙げ句の果てには魔術とか言い出すし。
でも。
知っていたはずだ。小学校の頃、薫は愚図なぼくを友達だと言ってはばからなかったし、ぼくがいじめられていたときも助けてくれた。小さい頃はそんなことがたくさんあった。たくさんあったのだ。
薫が狂っているだなんて、どうしてそんなふうに思っていたのだろう?
「薫」
ぼくは思わず名前を呼んでいた。
「なんだ」
「薫!」
「なんだって言ってるだろ」
薫はうっとおしそうに涙をぬぐった。
「嘘だろ!」
ぼくは震える声で叫んだ。
「お前は目の前のことすら信じられないのか?」
薫はいい加減うざったそうに眉をひそめていた。涙をこぼしながら。
「だって、こんなの!」
「もういい。しばらく適当に混乱してろ。落ち着いたら来い」
薫は再び大きなあくびをかました。
「お前のせいでもう三日も寝てないんだ」
薫はぐしぐしと目をこすりながら部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
ぼくは慌てて追いかけようとしてドアを開きかけ、手を止めた。ドアの向こうから大泣きしている声が聞こえてきたのだ。泣き声はわりとすぐにやんだものの、ぐずぐず言いながら足音は遠ざかっていった。
ぼくは呆然として立ち尽くした。そのままへなへなと床に座り込んだ。
頭の中でいろんなことがぐるぐると渦を巻いていた。もう本当にわけがわからなかった。薫に謝りたかったし礼を言いたかった。もう一生薫の奴隷か召使として生きていってもいい気がした。
短編集 千景 @thousand_paysage
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