鏡沿線
不定
[本編]
「ちょっと! こんな状況になってまであんたの血ィ見たくないわよ!」
おれの左後ろに立っていた彼女は叫号する。こちらは全然痛くないのだが。
煉瓦が上に流れるというよりは、おれたちが下に落ちているのだった。昇降機の、凝った細工を施された鉄の冊の隙間から指を出した次第である。おれの指は暫くして、水蒸気が冷えたグラスに凝結するが如く、散った血液や肌や骨や肉が煙となって集まり、いつの間にやら再生していた。再生というよりは、再構成と言ったところだが。
まぁ、どうやらこうやら、おれは死んだみたいだ。
すくなくとも、おれの右後ろに立っている黒い袈裟のような衣をまとった奴が言うには、だが。
「未だに信じていらっしゃらないんですか。その指や、この私を目の前にして」
黒衣のそれは、たぶん表情の一切を変えずに声色だけで呆れを示した。いっぽうの左後ろの彼女はあれ以来黙り込んだままである。
「……死神が、さも死神といった格好で現れてくれたことは、わかりやすくて随分気が効いてらっしゃいますねと閻魔大王に感謝状をお送りしたいくらいだ、が」
「まぁこれは、ユニフォームですから――では、もう大人しくしていてくださいね」
死神は職業らしい。さも仕事のタスクを消化するような態度である。人の生き死を左右するなんていうただならない役職を負う割には、その顔――今は背中さえ見えないが、声しか聞こえないが――その顔にはまったくもって思うところがないようであった。
「すこしばかり誤解をなさっているようで。死神は人間を殺したりしませんよ、ただ導くだけです」
よくある解釈だ。本物だってこんな陳腐なことを言う、事実は小説より奇なりとも言うが、あの諺は怪しいな。
「信じているよ、死は。このおつむにしっかりと刻み込まれている」
ちょうど海馬の位置を、中身があるかどうかわからないが指で示しながら。
おれは、自分のプロフィールを――名前を、歳を、住所を、職業を、小学校を、中学校を、高校を、大学を、趣味を、最後に読んだ本を、足のサイズを、BMIの数値を、人間ドッグの診査結果を、昨日の晩飯を、星座を、血液型を、好きな食べ物を――好意を募らせていた彼女を。
そして、友人を思い出していた。
「なんでかは、全くわからないが。あの最寄り駅で、いつものように、左から迫る列車が目の前を横切る直前、おれは――親友に背中を押された」
背中を押されたというのはいささか、皮肉の香辛料が効きすぎているような気もするが。大航海時代なら大喜びであろう。左後ろで息を呑む音が聞こえた。
「そして死んだ。それは知っている。大昔からの常識のように胸にストンと落ちる。試験勉強のために教科書を丸暗記した気分だ。わけがわからなくっても、それに疑う余地がないかのように――」
――疑うべきじゃないかのように、知っている。
そうやって、親に幼い頃から躾をつけられていたかのように。
おれの右手前にある、昇降機の現在の位置を表すランプはそろそろ、一番下まで到達しそうだった。おれはずっと流れる煉瓦を眺めていた。
「ええまぁ、死というのはおおかたそのようなものです。あなたがた人間が想像する死など、そのように曖昧模糊な概念です。生きている間に明確な死を形づける人間が少なすぎるから、こういう扱いなのです」
無表情の中にすこしだけ、死神の心が滲みているような臭いがした。
「今度は随分、饒舌になったな」
「私情ではありません。死を説明するのも私の仕事の一つですから」
錯覚だったかもしれない。死してなお気のせいなどと言えるものだろうか。存命の人間たちは霊を気のせいなどと意識の外に追いやっているようにも思えるが。しかし、霊か――
「……ねえ、なんであたしなのよ。それに、押されたって……」
おれの思索を遮るように、今まで沈黙を堆積させていた彼女は、堰を切ったように吐き出した。
「先ほど説明致しました通りですよ。二度目になりますが。その詳細については、本人からお聞きになった方が良いでしょう」
死神がまたもや呆れ風味の声色で答える。思考の中で、時はすこし前に遡る、と言っても正確な時刻はもうわからない。数十分のように感じた数秒ってやつなのかもしれない。
おれはなんだかよくわからないところにいた。幼い頃に行った遊園地のような感じもするが、大学時代を思わせるようなキャンパスの、しかし生気に満ち満ちた同志の影すらなかった。ただ暗い空間のようにも感じるが、あまりとらえどころのない空虚なものだった。
暫く惚けていると、十メートルほど先から黒衣のそれが歩いてきたのだ。のけぞることもなく、ただそれが目の前まで来るのを淡々と待ち続けた。その足取りが、耳に残るほど正確なリズムを刻んでいる。
「あなたは死にました」
「はぁ」
随分突然やってくるものだなと思った。
「あなたは死亡しました。現行の冥界の制度ですと、現世からあなたの望む人ひとりを見届け人として連れてくることが出来ますが、如何致しましょうか」
念を押すような口調だった。
「あんまり、実感が無いのだが……本当に死んだのか」
「ええ、私は死神ですから」
「趣味の悪いドッキリではないのか」
「これが証明です」
そう言って死神は、懐から身分証明書のようなものを取り出した。たしかに死神、それと閻魔大王と記された指紋が捺されていた。
「それで、見届け人は如何致しましょうか」
見届け人。すこし逡巡した後、咄嗟に親友の名前を言いかけたおれは、しかし自分で喉を絞めるかのように息が詰まった。
「あなたの死因は――そのご様子だと、わかっていらっしゃるようで」
「……」
嫌な記憶がおれを覆うが、しかしながらそれに溺れることはなかった。自分の記憶と感情が全く連動していないようだった。
そして、暫く考えた振りをして、おれは生前好意を寄せていたある女を指名した。
「そうですか、ではその方を連れて参りますので、少々お待ちください」
死神はそう言って来た道を戻っていった。
後ろを振り向くと、床と空間の境目さえよくわからない虚ろの中にひとつ、建物が見られた。煉瓦で出来た小屋のようだが……それに近づき、周囲を見る。ただのシンプルな立方体――
「お待たせしました」
再び振り向くと、さっきまで俺がいた(らしい)場所に、ふたつ人影があった。
「ちょ、ちょっとあんたなんなのよ! いきなり現れて、ちゃんと説明しなさいよ! 今こっちは知り合いが事故に遭って大変な、の……よ」
死神の隣の彼女は、途中でおれを見て、静止した。
「説明は先ほど致しました通りです。この方があなたを選んだのです。では、準備は整いましたので、向かいましょう。そこのそれから降りられます。かなり時間がかかりますので、その中でもお話は出来ますから」
そう言って死神はおれと彼女を煉瓦の中に押し込んだ。逃げられないこともなかったが、他に行く場所もなかった。
思い出しながら、目で追える速度ではない煉瓦に鼻先が削られそうな位置で呟いた。
「事故、か」
あれは明らかに故意だった。理由は未だに思い当たらない。
「ねぇ、さっきのって……彼から、不注意による事故だって聞いたんだけど。上半身しかないあんたを抱いて、泣いていたわ」
そう、根性が悪いような演技をしていたと聞かされても、腹立ちさえしない。なぜそんなことになったのかは気になれども、怒りや悲しみなどは思うほど湧いて出てくることはないのだ。
「それも私の務め、ですがね。さて、そろそろ着きます」
古臭い音を立てて鉄冊は開いた。出ると、煉瓦造は、広い空間になっていた。殺風景で、部屋の四隅に花瓶が置かれているくらいだった。さしずめエントランスといった印象か――
「ここが、鏡沿線です」
死神は先導するように煉瓦の出口を示した。促されて出ていくと、鏡が広がっていた。
「うわっ、なにこれ……」
「鏡沿線ねえ」
地平線の(と言うと差し支えありそうだが)、見えるところまで、すべてが鏡のような水面で覆われていた。すこし足下が沈み込んでいるからわかるが、水銀のように全反射しているから遠目ではわかりづらい。
この鏡の裏側は、
「ね、ねえ。さっきの質問に答えてもらってないんだけど。なんで、あたしなの」
彼女は終焉を感じ取ったのだろうか、食い気味に訊いてきた。
「……ああ、うん。おれがお前を選んだ理由――ただ単に、死ぬまで最後に好きだった女だから、だ」
彼女は折り紙を軽く潰したような、よくわからない表情をした。
「まあ見ての通り、振られることさえ叶わぬまま死んでしまったがな」
「……し、死人にそんなこと、今更言われても……!」
すこし怒りの声色だった。
「そこは安心してください。これが済んだ後、私があなたの、これに関する記憶をすべて消去しますので」
この方を中心とした話、ですので。死人に口はないのです。あるべきではないのです。死神は言う。
「それにしたってあんた、いや、あたしはまだ信じていないけれど、あいつに殺されたってことでしょ」
「そうだ」
「……じゃあ、なんでそんな平然としているのよ……!」
「さあな、自分でもよくわからないくらい落ち着いている」
おれは彼女に向き直り、すこし俯いた。
「それについても説明しておきましょう。私がその、本来ある昂りや、生への執着を絶っているのです。絶たねば大人しく沈んでいただけませんから」
「しかし、では生前聞いたような、悪霊とか霊障とかは、何なんだ。お前の話だと皆、大人しくこれの下に沈むようだが」
死神はその質問が返ってくることを予想していたように、一切の表情が動かない。
「あれは例外です。そもそも、ここでは現世に影響は及ぼせません。見るとおりにここは鏡。上をご覧頂けるとわかるでしょうが、空はありません。あの暗い雲のような上には現世があります。それを移すこの鏡の中に入ることで初めて、現世に干渉できるのです――」
確かに、上空は雲のような何かで覆われていた。ここ自体は明るくて、昔どこかでみた塩湖のようだった。同時にあたりを見回すと、鏡の中にひとつ、石で出来た台のようなものと、その下に薄く、線路のようなものが引かれていた。
「――悪霊と仰られましたが、ああいうのは恨みつらみが大きすぎて、死んだときに既に暴れ始めてしまい、我々死神が取りこぼした死人たちです。それが不当な手続きでこの鏡の中に飛び込んでしまったから、ああなるのです」
認められる範囲の干渉なら、あちらでも出来るんですがね。
「なるほど、おれはじゃあ、あいつにそこまで怒ってはいなかったのか」
よかった、思った。殺されてまで。
「迎えが来ました」
死神は手で示す。先程まで何も無かった線路の上に、いつの間にか古めかしい列車が停まっていた。
「あの駅から、この鏡沿線に乗っていただいて、冥界に進入できます」
おれは自分でも不思議なほどに、軽やかな足取りで列車の前に立っていた。
「……あたしは」
すこし遅れて小走りに着いてきた彼女。
「ん」
「あたしは、結局何のために連れてこられたのよ。何も、出来ていないじゃない」
台の下から睨みつけるようにして言う。
「別に、成仏できずに困っているわけでもないんでしょ。でも、あたしは連れてこられて、あんまり知りたくもないことを知らされて、死人に告白されて、結局何も出来ずに去られるの」
「……」
俺は台の上から降りた。
だから、見届け人と言うのです、と死神が言うかと思ったが、言わなかった。
「いや、おれはお前の顔が見られただけで今、十分満たされているから、気負うことは無い」
「でも……」
言いかけてやめてしまった。表情は、俯いてしまって見えなかった。
「ごめんな」
おれは彼女の肩に手を置いた。すごく暖かかった。
「嫌なところまで、付き合わせてしまって――きちんとそこの死神とやらに、記憶を消してもらってくれ。おれは事故で死んだんだ」
肩が、震えていた。
すこしだけそのままでいて、その後おれは黙って台に登り直し、振り返って、
「さようなら」
とだけ、自分にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。
「お疲れ様でした。どうか安寧な死後をお過ごしください」
死神の業務的な挨拶に、しかしすこしだけ親しみを感じつつ、後ろの扉は閉まった。
彼女たちの姿が見えなくなってから、座り心地があんまり良くない座席の、一番右端に座って、すこしだけ微笑んでみた。自分が今、笑えるかどうかわからなかったからだ。そして、すこしだけ安心した。
もちろんおれとて男、彼女が鏡の上に立っているから、俯いたついでに、見逃さなかった。彼女がミニスカートを履いていたことは幸いだったな。
「冥土の土産には、随分豪華な贈り物だった」
そう、独りきりの涼し気な車両の中で、確認するように、もう一度笑った。
列車は鏡に沈んでいった。
鏡沿線 不定 @sadamezu
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