吉祥寺鮮魚店

北山景輔

第1話

 その小さな鮮魚店は吉祥寺の東、もう少しで杉並区にぶつかるという場所にあった。

 吉祥寺というとお洒落な繁華街のイメージだが、それは駅前周辺だけの話。駅から一五分も歩くと武蔵野ならではの静かな住宅街が広がり、その住宅街の一角に夫婦二人で切り盛りするその鮮魚店はあった。

 私がなぜその店に週一回通ったかというと、その店の高校生の息子に数学を教えるためだ。当時腹をすかせた大学生の私は、仕事が終われば刺身をおかずにして夕飯が食べられるという先輩の誘いに乗り、魚屋の息子、高校一年生の浩の家庭教師になった。

 鮮魚店を営む主人と奥さんは、まさに朝から晩まで働きづめで、一人息子をかまっている余裕はなく、それを負い目と感じたのか、息子にはきちんとした教育を受けさせたいという願望があった。つまり浩には十分すぎる教育費をかけていた。

 水曜の夜八時半ごろに、店の二階の浩の部屋で今日の個人授業が終わる。解放された浩は小躍りしながらマンガを読んだり、プロ野球中継を観たり、ポテトチップをほおばったりした。木造のきしむ階段を私が下りてゆくと、夕飯の支度ができている。

「お腹すいたっしょ、こんな物しかないけど食べていってね」と奥さんの声。

 お刺身、海苔、たまご、温かいご飯にしじみの味噌汁。盛り付けはかなり雑で、ところどころ茶碗のふちが欠けているが、鮮度は抜群。時には今まで食べたことのない高級魚も切り身もあった。

「せんせい、おかわりしてくださいね、若いんだから」

「いえ、もうお腹いっぱいです。ごちそうさまでした。そろそろ失礼します」

 おかわりしたいという本音を隠し、鮮魚店を出る。

 胃袋が満たされ散歩がてら駅へ戻る道は、腹ごなしにちょうど良かった。そして私のささやかな楽しみでもあった。前方左手にはZ座の劇場が見え、その先に吉祥寺のビル群が淡くネオンを点していた。そして後ろを振り返ると、薄オレンジの電燈がひとつだけ灯った夜の鮮魚店が幻想的な姿をみせる。ゴッホの名作「夜のカフェテラス」にも似た光景だといえばおおげさだが、ともかくこの光景が好きだったのだ。


 もちろん家庭教師も、楽しい思い出ばかりではなかった。きっかけをつかみ成績が上がってくるのがこの仕事の醍醐味だが、浩の数学の成績はなかなか伸びてくれなかった。伸びるどころか低迷というほうが正しかった。

 高一から始まる「数学Ⅰ」は、中学までのいわば基礎工事ができていないと建てられない建物のようなものだ。浩の基礎は相当グラグラしていて中一のレベルも怪しいかった。定期テスト前には、約束の二時間を延長し、二時間半や三時間かけ気合を入れて教えたが、効果は薄かった。

 ある日、僕と浩は、三角関数・三角比で悪戦苦闘していた。例題を何度繰り返しても、できない浩に僕はイライラしていた。感情的になり教え方がどんどん下手になっているのがわかった。頭がすっかり煮つまった浩がつぶやいた。

「ねえ先生、これが解って何の役に立つの?」

「・・・。面白くないか、三角関数?」

「ぜんぜん」

 浩にはどこか憎めないところがある。

 おこる気にもならず、僕は天井を見上げてふうーっと息をした。いくら考えても浩を納得させられる答えは一つも思い浮かばない。自分を振り返れば、やっとの思いで世間的にはいい大学へ入ったものの、専攻へのヤル気はとっくに失せ、将来の不安は募るばかりだった。浩の質問は、胸元をえぐるように「難しい大学に入っていったい何になるの?」と問われているようであった。

「まあ、そのうちわかるさ。さあ、あと三十分やるぞ」

「三十分で終わるよね、今日観たいドラマがあるんだ」

「はい、集中集中。もう一度、公式をおさらいするよ。まず余弦定理、これ憶えているよね、これをつかって…」

                ★


 今振り返れば、家庭教師の思い出は、自分のなかでだいぶん美化され、学生時代の思い出の一ページを飾っている気がする。

 大学卒業間近の三月に、僕は浩の家庭教師をはずれ、ゼミの後輩に引き継いだ。そして大手出版社に内定していた私は、四月から新米編集者になった。編集者の仕事は面白く最初の十年はあっという間に過ぎた。ところがいい時ばかりは続かない。脂がのってきた三十五歳の時に上司と決定的な衝突をしてしまい退社せざるをえなくなった。退社と前後して離婚も経験した。

 退社した後は、フリーのビジネスライターとして糊口をしのいではいるが、仕事がふんだんに来るわけではない。来年は四十になるというのに、収支はいまでも自転車操業だ。

 職業柄、自宅のアパートには様々な雑誌が送られてくる。先日ある地域経済誌をめくっていたら、突然ある見出しが目に入った。

『魚富グループ5年連続増収増益 さらなる成長へ』

 魚富って、吉祥寺のあの店と同じ名前だな。えっ、もしかして?

 驚いたことに、あのバイト先の小さな魚富商店が多店舗展開していたのだ。そして記事中央の自信に満ちた顔写真は、なんと青年社長の浩であった。

「浩が社長か、ハハハ、こんど取材に行ってみるか」

 浩が眉間にしわをよせ財務諸表分析をしていると思うと、おかしくて仕方がなかった。久々に私は朗らかな気分になった。

「おれも負けてはられない。人生これから。四十にして惑わずだ。」

 私は背筋を伸ばして机に向かう。最近たるんでいたが、今日こそはK社に依頼された予測のレポートを仕上げよう。

 執筆の合間に、人なつっこい高校生の浩のあの笑顔がふと脳裏をよぎる。

「はい、集中集中」と自分にいいきかせる。

 どうやら今宵の仕事は長丁場になりそうだ。


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