或る青年の体験談
沖村ミリ
1 高架下にて
カヲルは赤子が泣く声を聞いた。オギャア、オギャアという発情期の猫のような声は、どうやら少しくぐもっているように思えた。足を止めて耳をすませてみる。頭上を電車が通った。高架下を支配する振動音の上に、赤ん坊のなきごえが覆いかぶさっている。おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、と呼んでいる。カヲルは目玉だけを動かして辺りを見回した。声がする方向に真新しいコインロッカーを見つけた。数週間前にここを通ったときにはなかったはずだ。日陰のなかの僅かな光をつかまえて、白い扉たちは輝いている。それからオギャア、オギャアと鳴いている。カヲルは細く長い息をひとつ吐いてから、コインロッカーへ近づいた。彼の気配を察したのだろう、赤子は鳴き声を変えた。喉元から泡を作りながら出しているような声になった。エーッ、エーッ、エーッ。そこでカヲルは近づくのをやめた。
これは見つけるべきではない。
或る青年の体験談 沖村ミリ @smack_smack
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