後世の評価 織田家の新年会

織田家新年会

 前年に目覚ましい働きを上げた者が招かれるとされる。この会に招待され、さらに信長が直接座る大広間に座を与えられるのは、家中でも抜群の働きをしたとみなされ、一目置かれる存在であるとされる。


 永禄十三年正月。信長は家臣に触れを出した。新年のあいさつには可能な限り妻子を伴うべしと。そして大広間でのあいさつの際に、正室の帰蝶を膝の上に座らせ、夫婦睦まじくと訓示したとされる。また信長はそのとき、妻への愛を声高に宣言し、家臣もそれに唱和した。柴田勝家の愛妻家の評判はここから始まったとされ、彼の逸話によく出てくる妻の名を叫んだエピソードもこの時が初出である。


 信長は家臣が十分な働きをするのに、家庭が円満であることが大事だと考えていた。岐阜城下で失火を出した家臣は、本来死刑であったが、彼が単身で岐阜城に詰めていることを知ると、すぐに家族を呼び寄せることを命じ、死を免じた。のちに単身赴任の馬廻の武者には家族を呼び寄せるよう厳命し、従わない者は家族の住む家を破却させ、強制的に同居させたという。また、家族手当を史上初めて適用したのは信長とされる。これは彼の弟の秀隆が提案したものともいわれる。


 信長は家臣がその妻をないがしろにすることを許さなかった。木下秀吉が京に詰めていた時、帰蝶と仲の良かった秀吉の妻、寧々が秀吉が浮気をしているともらしたことを聞き、彼に折檻状を送りつけている。これは秀隆との連名であったとされる。

 内容は、寧々と結婚できなければ死ぬと言ったことや、秀隆が聞きだした妹のあさひからの逸話など、多岐にわたったとされる。ちなみに手紙をもらった秀吉はすっ飛んできて寧々に土下座してわびたという。


 以後、織田家の伝統として、妻を大事にできない者は半人前という風潮が広まる。これは幕府にも受け継がれ、日本の伝統となってゆくのであった。

 現代にも続く伝統を生み出したとして、織田信長の名声は語り継がれるのであった。

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