迎撃準備

 天正12年 蝦夷地

 伊達政宗は硬軟使い分ける方法で、アイヌ民族を支配下に置いていった。秀隆よりの援助で物資は豊富にあり、ジャガイモなどの新しい作物を広めることで現地人の指示を確実にものにしていった。また交易の条件や、工事などの際に渡す報酬も日本人と同じにすることで、急速に支持を得ていったことも大きかった。

 様々な氏族が入り混じっている中で、アイヌ語で悪い者を意味するウェンペと呼ばれるものがいた。働かず生活に困窮する者という意味合いであるが、そのウェンペたちが反旗を翻し、あっさりと鎮圧される。数度の戦いはあったが、もともと人口が数万人という民族である。平定には時間はかからなかった。

 また樺太の地もアイヌの氏族が治めており、平定された士族の族長を派遣することにより緩やかな支配体制を敷くことで配下に入れた。ここで強硬な攻勢をかけると、今支配下にいる氏族が動揺する可能性があったことも大きい。

 アイヌの居住地はじつは沿海州にも及んでいる。政宗はこちらにも使者を派遣し、日ノ本の支配権および経済圏に組み込もうとした。産物の買い付けと、こちらより作物の援助を行い、抱き込んでゆく。また南下すれば女真の支配地に接することとなり、女真族とは同盟関係にあることを考えれば、彼らにとっても利がある話であった。女真族と地続きになる利点もあり、政宗の北方政策は織田政権の後ろ盾により推し進められることとなる。無論弱冠18歳の若者である。補佐をする家臣たちが優秀であったことが大きかった。片倉景綱は政宗の片腕として辣腕を振るい、伊達成実は常に先頭に立って戦った。盟友戸沢盛安は軍事、政治両面から政宗を支えた。そして、実は真っ先に織田に降っていた津軽為信は、抜け目なく北方開発団に潜り込み、地歩を築いている。

 そもそも織田軍に木っ端みじんに敗れ、反抗心をへし折られていたことも大きい。そして彼らの旧領は3年後に没収が決まっている。北方に活路を求めないとそもそも後がない。彼らはアイヌ氏族から嫁をもらったりして同化政策に前向きに取り組んでいった。言葉の壁などはあったが、厳しい自然に手を取って立ち向かううちに大きな連帯感ができていったのである。


 信忠の政権は目標ができたことにより今までよりもしっかりと動き出した。真っ先に行ったのは事業の実行を行う顧問官に、父と叔父である秀隆を任命し、彼らの顔でまず九州の防備を整えさせた。秀隆は東海地方にて水軍の増強を命じられる。九鬼水軍とは顔が利く秀隆を送り込むあたり信忠はちゃっかりしていた。フィリピンからもたらされる情報をもとに、南蛮船の仕組みを取り入れた船の建造を行う。来年には大船団がアジアに現れるものと想定してあわただしく動き始めていた。

 九州では、防備を固めると同時に、敵船への斬り込みの訓練が行われた。大安宅の横に小舟を付け、鍵縄でよじ登り切り込む。また朝鮮からも船団が派遣され、合同訓練を行っていた。

 琉球と台湾ではは沿岸にを配置し、接岸できないようにする。場合によってはここが最前線になると考えての対応であったが、秀隆からの命によって、このあたりの防備は取り払われた。さらに明の支配下にある地域であることを広め、ここに手を出すと明が黙っていないとフィリピンあたりでうわさを流す。そして、秀隆の悪辣な策はここからだった。南蛮船団に補給をさせる。ただし、水と食料には弱い毒を仕込む。これによって敵戦力を弱体化させる。同時に、厦門などで南蛮船が補給に現れたときには、物資の中にネズミを仕込む。これによって、物資を食い荒らしてもらうことと、場合によっては疫病の発生を狙ったものだった。明も宣教師や南蛮人たちの態度に腹に据えかねる者があったようで、この策には同意してくれたようだ。無論、上層部には建前があるがゆえに、現場にひそかに指示が下されたらしい。

 そもそも地球を半周しての遠征である。地の利などあるわけがなく、秀隆の作り上げた罠の網の中にわざわざはまりに来てくれているかのようだった。

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