閑話 帰蝶と信長

 天文18年2月。

 美濃より嫁入りしてきた斎藤道三の娘、帰蝶が名古屋の城に到着した。

「はるばる美濃よりよくいらっしゃいました」

「平手殿ですね。出迎えご苦労です」

「はは!姫…いや奥方様のお部屋はこちらとなります」

「はい、して三郎さまは?」

「はい、川狩りに出かけております。姫に大きな魚を食べさせたいと」

「ほほ、ありがたきお言葉です事」

「いま使いをやっております故、間もなく戻られますでしょう」

「わかりました。身支度をしてお待ち申し上げます」

「はは!」


 帰蝶は奥の間に通された。彼女にとっては2度目の輿入れであるが、一度目の結婚は策略によるものだった。まだ幼い彼女を父は策略の駒として用い、夫となった土岐頼純を油断させ、だまし討ちにして滅ぼした。形式上は夫と死別している未亡人であった彼女であったが、尾張のうつけとして悪名をはせている信長には嫁の来手がないと言われ、この訳ありの結婚が成立したのである。

「帰蝶よ。尾張のうつけがまことにうつけならばこの懐剣で首を取るのじゃ」

「かしこまりました。ですがわたくしはまだ女になっておりませぬ。夫が愛しくなればこの剣先は父上を討つものとなりますがよろしいか?」

「はは、そなたのような女を惚れさせるは真の英傑であろうよ。そのようなものなれば儂の跡取りとなってもらおうぞ」

「では、今のお言葉も三郎さまにお伝えしますわ」

「はっはっは、義龍よりも器量が良ければそれも良し。もはや老いぼれた儂にはそれくらいしか楽しみがないからのう」


 帰蝶は美濃を発つ前のやり取りを思い出していた。そしてつまらぬ男なれば本当に討ち取って美濃勢を引き込むくらいのことはやりかねない。そういう意味で、正しく戦国の女だった。

 そうして思索にふけっているとどかどかと足音が聞こえてくる。この城でこれだけ傍若無人にふるまえるのは城主いかいない。声をかけられることなく無遠慮にふすまが開く。そこには乱髪を茶筅髷に結い上げ、虎革の羽織に縄を帯の代わりに締める。要するに傾いた若衆のいでたちをした信長がいた。

 帰蝶は初めて見る信長を品定めしてゆく。体躯は引き締まり細身ながら鋼のように鍛え上げられている。武芸の稽古は欠かさず、手はごつごつとしていた。腰に下げた袋には数日は食いつなげるだけの携帯食料が入っている…らしい。それも乱世の備えとしてはまあ、アリだろう。

 そして帰蝶は彼の目線にくぎ付けとなった。意志が強く、天を睨みつけるかのようなぎらついた目。じっと見つめあっていると信長の顔が赤くなる。ふと気づいてにっこりとほほ笑んで見せた。信長は首から耳まで赤くしていた。その有様を見て、うつけ殿は案外に可愛らしい方じゃと場違いな感想を抱く。

「お、おぬしが美濃の姫か?」

「はい、帰蝶と申します。不束者ですがよろしくお願い申し上げます」

「でで、であるか。うむ、うむ」

 顔を真っ赤にして噛みまくる信長を見て、帰蝶は笑いがこみ上げる。ころころと笑う彼女を見て信長もぎこちなく微笑む。後日本人が漏らしたところによると、一目ぼれだったとかなんとか。

「殿。父上よりの伝言をお伝えいたします」

「申せ」

「尾張のうつけがどうしようもなければ首を取れと」

「ほう?」

「そして英傑なれば心の底より惚れぬいて、天下取りを手伝えと」

「惚れっ!?」

「うふふ、して、わたくしはどうしたらよろしいですか?」

「決まっておろうが。天下取りの手伝いじゃ!」

「あら、自信家です事。わたしは今日初めて貴方様にお会いしました。今のところ、惚れる要素はまだありませんよ?」

「ふん。そんなものこれからいくらでも見せてやるわ!」

「あら頼もしい。うれしいです。今の一言はわたくしグッときました」

「ほほう、そなたはどのような男が好みか?」

「そうですね、いちいちわたしのことを気にされない堂々とした方がよいですね。そのうえでわたくしをよく見てくださる方がよいです」

「であるか」

「そして、わが父は美濃一国を乗っ取った下剋上の英傑です。それ以上の方でないといやです」

「…ならば俺は今ここに誓うぞ。帰蝶、そなたを天下人の正室としてやる!」

 大真面目に突拍子もないことを宣言する信長を思わず見つめてしまった。そして今の一言が自分の胸にすっと沁み込みとくとくと息づき始める。

「ではお早めにお願いします。でないと私はあなた様の子を産めなくなってしまいます」

「子…子供…うっ!?」

 子供を作るところを想像したのか、殿は真っ赤な顔をさらに赤くさせてのぼせたようにつぶやいていました。というか、婚礼の儀式の後お床入りがあることを理解しているのでしょうか?

 けれどわたしにはもうこの人の首を打つところが想像できなくなりました。このほら吹き男がどこまで昇りつめるのかのか見てみたくなったのです。

 父への手紙には一言こう添えました。「懐剣は三郎殿に預けました」と。

 その後、正徳寺での会見で殿は父の度肝を抜いたそうです。帰ってきた殿の姿を見てわたしもあっけにとられました。装束を整え、古式の作法をきっちりと身に付けた貴公子がいたのです。改めて惚れなおしました。え? どういうことかと? 私も一目ぼれだったのですよ。恥ずかしいからもう言いませんよ、信長様。

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