閑話 明智十兵衛と妻

 秀隆のもとに訃報が届いた。明智光秀の妻、尋子が死去したとのことだ。光秀はこの時代の武将には珍しく側室を持たなかった。彼女との間に一男二女をもうけ、嫡子の十五朗光慶は父譲りの才を発揮し、信長の近習として働いている。娘の一人は腹心の秀満に嫁ぎ、もう一人は細川藤孝の嫡子、忠興に嫁いでいた。

 妻を亡くした光秀は自らを追い込むように立ち働き、坂本から京、自身の本拠亀山までの街道整備や、佐久間信盛から引き継いだ本願寺への対応、与力となっている大和、摂津の諸侯への調整などである。特に奈良は東大寺をはじめとする大寺院が勢力を持っており、松永久秀が焼き払ったのも武家と寺社の後送という側面が大きい。

「十兵衛殿、久しいの。奥方のこと、誠に残念です」

「秀隆様。わざわざのお越し、誠にありがとうございます。妻も喜んでいるでしょう」

「御位牌はそちらか。なれば焼香させていただきたい」

「はい、ありがとうございます」

 秀隆は位牌に向けて焼香し、手を合わせる。戦国の世を文字通り手に手を取り合って生き抜いてきたのである。光秀は生きる支えを失ったかのように憔悴していた。

「十兵衛殿。おぬし働きすぎじゃ。兄上も心配しておる」

「お心遣いありがたきことにござる。ですが妻の望みは太平の世でござった。それを成し遂げるまでは儂は休んでいる暇はないのですよ」

「うむ、お主の志、まことに尊い。それゆえに俺は貴殿を失いたくないのだ」

「…秀隆様、私はそれほどに?」

「うむ」

「なればしばらくお休みをいただきます。美濃にて静養をお許しいただけますか?」

「年内いっぱい休むがよい。そして奥方と向き合うがよい。存分に悲しみ泣くがよいぞ。時は薬じゃ」

「はい、私は明智家当主として気を張りすぎていたのですね。弱みを見せられぬ、しっかりせねばならぬとばかり…」

「たとえとしてよいものかわからぬが、兄上も先日妻の一人をなくされた。その時は政務の最中に涙を流したり、妻の墓所を日を開けずに訪ねておられた。大切な人を亡くして平気な方がおかしいのじゃ」

「そうですね…そう…です‥ね…うわああああああああああああああああああ!!!」

 光秀は顔を畳に伏せて大声で泣き始めた。妻の名を何度も呼び、答えがないことに悲しむ。苦労も喜びも分かち合えなくなったことに悲しむ。半身を失ったことが悲しい。ただただ悲しい。今まではそれを必死に抑え込んできた。面に出してはならぬと思い込んでいた。だが泣いていいのだと、悲しんでいいのだと諭された。声を上げるたび、涙を流すたびに、彼の胸にどんよりと覆いかぶさっていたものが流れ落ちてゆく。妻を失った胸の穴はぽっかりと開いたままだ。結婚して夫婦となったとき。初めての子が生まれたとき。仕官が成ったとき。昇格したとき。いつも彼女は微笑んでくれた。失敗したとき、落ち込んだ時、病に倒れたとき、そっと傍で支えてくれていた。光秀のすべては彼女のためにあった。けれど、脳裏に浮かんだ妻の微笑みがよみがえったとき、報われたと感じた。妻は生涯を生き切ったのだと、太平の世を託してくれたのは子らが安心して暮らせる世をと願ったのだ。子供たちの未来を光秀に託し、信じて逝った。それを改めて感じた。

 光秀は十五郎を呼び、胸にかき抱いた。母を失った悲しみは光秀に優るとも劣らぬ。そのことをいまさらに思い知る。二人でひとしきり泣き、光秀は秀隆の勧めで飛騨の下呂に湯治に出かけた。

 そして再度亀山に戻ったとき、光秀は往時の活力を取り戻していた。悲しみを乗り越え新たな一歩を歩み出したのであった。

後書き編集

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