河越野戦

 武蔵国、河越城

 城は織田勢に取り巻かれている。城内には3000、岩付から後詰めが出たとの報を受け、士気は高揚していた。城門前には土塁が築かれ、場内からの出撃に対応できる備えになっている。城の内外から呼応して挟撃をするのが後詰め戦の基本である。

 北条氏照率いる1万2千が南方から迫ってきた。織田勢は一度包囲を解いて迎撃に向かう。城内からも兵が撃って出て織田勢の背後に陣取った。城兵の抑えには佐久間勝正に2000を預ける。先陣は鬼玄番こと佐久間盛政に、初陣の源次郎信繁が加わる。

「よいか、ただ前だけを見て突っ切れ。さすればいつの間にか敵は敗走しておる」

「いやいやいや、そんなんでいいんですか?」

「あとは殿が何とかしてくれる。儂らの役目は敵を蹴散らすことだけでいい」

「は、はあ・・・」(父も大変だ)

 盛政のあまりの脳筋ぶりに信繁の背中に冷たいものが走るのだった。


 一方、北条氏照は困り果てていた。兵糧がない。補給線は寸断され、城兵と合流できなければ引き返すことすらままならない。行軍中にも夜襲を受けており、兵の士気も上がらない。正面兵力はこちらが勝っているがきっちり食事をとっている軍と、疲労が蓄積しているこちらの軍ではすぐ勝負にならなくなる。

 先陣に猪俣を置き、ひたすら前進させることとした。また鶴翼の備えとし、両翼にも兵を置く。予備兵力がほとんどないが、短期決戦にはひたすら突破するか包囲して押し返すしかない。だが突破は迎撃陣を敷く相手には効果が薄いどころかこちら壊滅しかねない。勝つための方策という読炉は一か八かのばくちに近い状況であった。


 北条軍は一斉に前進を始める。短期で敵を打ち破らねば待っているのは全滅だ。それ故被害を顧みない我攻めを仕掛けてくる。柴田は前衛に方陣を下知した。猛将として名高い盛政だが、攻守ともにこなす良将である。与力衆の前田の鉄砲隊の支援を受け敵の攻勢を受け止める。次々と前衛を入れ替え繰引きの攻撃を仕掛けてくるが、陣を横に延ばしたせいで枚数が少なく、すぐに疲弊を始める。矢も補給されていないのか射撃の回数もまばらである。

 ここぞとばかりに織田の弓衆と鉄砲隊が火を噴く。鉄砲で水平射撃を行い盾を真横に向けさせて時間差で曲射を行う。昌幸の指示で、中軍と右翼部隊の境目に射撃を集中させ、頃合いを見てこれも与力の真田の騎馬隊が突撃を行う。500の馬蹄が敵陣を切り裂いてゆく。さらに号令一下、方陣から陣立てを変えた前衛が中央を突破する。これは氏照の必死の防戦に阻まれるが、騎兵によって分断された右翼は勝家本隊から派遣された拝郷と佐久間安正の部隊に一気に突き崩された。そしてそのまま半包囲を行い、一気に押し込んでゆく。とどめとなったのは又左の槍であった。鉄砲を三段連射したあとで、自ら先頭に立って突撃を敢行し、瞬く間に数名の兵を槍玉にあげる。この場には尾張からの家臣は利家親衛の兵だけで、ほかは信濃衆である。ここが手柄の立てどころと勇躍して敵陣を食い破ってゆく。

 戦況が不利となると士気を保つのは難しくなる。氏照は先ほどの突撃を阻むためにすべての予備兵力をつぎ込んでいた。そこに前田勢の突撃を受け一気に突破を許してしまったのである。

 そして真打が現れた。ここで不幸が起きたのは、近習が権六に水と間違えて焼酎を飲ませたのである。権六は情に篤い。配下の兵にも厚情をもって接している。まだ給金の安い下級武士を集めて酒をふるまったりもしており、彼のことを親父殿と呼んで慕うものは、前田利家をはじめとして枚挙にいとまがないほどだ。だが彼にも困った悪癖がある。酔っぱらうと嫁の名前を叫び出すのだ。戦場で鍛え抜かれたその喉は居館から城下にまで響くと言われていた。さすがに誇張ではあるが、彼の大声は味方を鼓舞し敵を恐れさせる。そしてここで権六は新たな異名を得ることになるのだった。


「おつやあああああああああああああああああああ、愛しておるぞおおおおおおおおおおお!!!!」

 権六は唐突に戦場のど真ん中で愛を叫んだ。それを聞きつけた利家は、「親父殿の豪胆なことよ、儂も負けてはおれぬ」と腹に力を入れ、渾身の力で叫んだ。

「おまつうううううううううううううううう!!!!」

 そんな彼らに乗せられたか、織田の将兵が次々と最愛の家族や想い人の名を叫び出す。

 異様な光景に北条の兵が動揺する。武士たるもの云々で、妻の名を叫ぶとか、愛しているとわめくとかありえない光景だった。さらに権六の叫んだ名、おつやに、貴様らの通夜の準備はできたか? と意味不明な深読みをした兵が悲鳴を上げて逃げ出す。権六の咆哮はそれだけで敵兵の士気をくじき、瓦解させたのである。

 後は追撃戦であったが敵兵の崩壊の理由に気付かぬ権六は歴戦の氏照を警戒し、すぐに兵を収める。援軍が大敗する姿を見た城兵は、退去を条件に降伏したのだった。

「柴田様の肝っ玉はさすがじゃの」

「うむ、戦場のど真ん中で愛を叫ぶとかなかなかできぬわ」

「しかしあれじゃ。嫁のことを考えると戦場でも何か力が湧いてくるのう」

「まことに。あいつの顔を二度と見れないとか、死んでも死に切れぬ」

 何かいろいろとやらかした結果ではあるが、兵の鼓舞に成功し敵兵を追い払った権六は愛染明王の化身と呼ばれるようになった。

 愛染明王を現す言葉に、愛は人の本能に根差すもの故に、愛をもって人を向上させ、正道を歩ませる功徳ありと言われる。のちに柴田の菩提寺には夫婦仲をよくするご利益があると参詣する者が後を絶たなかったという。そして鐘を衝きながら、最愛の人の名前を全力で叫ぶと、一生添い遂げられると言われるのである。


 河越城陥落の報を受け忍城は動揺する。こちらも樋口兼続の説得に寄り、成田家を織田の直臣とする条件で降伏を受け入れた。そのまま上杉軍は忍城にとどまる。再び成田家が背かないかの警戒と、下野お抑えとなっている城だからだ。下野の宇都宮、結城などの諸侯が降ってくるので、その処理にかかりきりになっていた。

 岩付城は野戦兵力をほぼ喪失しており、兵力もわずかな留守居の兵力だけであった。ここが落ちたことで下総は分断され、一応江戸城と海路でつながっているが半ば飛び地であった。

 氏照は小田原方面に落ちており、城将不在のこの城も開城する。この時点で武蔵は過半が織田の手に落ちた。だが落とした城の守備兵がおらず、後方をおろそかにして孤立などは阿呆以下の所業である。武田勢は八王子につながる街道を拡張しており、退路を確保していた。そろそろ冬も深まっており、伊豆に攻め込んでいた徳川勢も一度興国寺まで退く。これ以上の戦は来年に持ち越しとなったが、新たに広がった地を治めるための仕置きも必要である。というか北条の領土は半減どころではない。

 もはやいつ降伏するかが焦点となりつつあったのである。

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