中国仕置きと鬼の目の涙

 備中国高松城そば蛙が鼻堰。


 官兵衛は使い番頼、使者の来訪を告げた。

「殿、毛利より軍使が参りました」

「おお、通せ」

 使い番に案内されてきたのは僧形の男。安国寺恵瓊であった。


「羽柴様にはご機嫌麗しゅう」

「恵瓊殿、久しぶりじゃの。まずは用件を聞こうか?」

 恵瓊は織田との折衝を何度か行っており秀吉とも面識がある。

「毛利は織田様に降伏し、備中、伯耆、美作をお譲りいたします」

「そうか、わしゃあ耳が遠くなっての。年かのう?」

(すっとぼけおって…だが3国では無理か。まあそもそも半分織田に占領されておるしなあ)

「拙僧としたことが、口上を間違えておりました。お許しを」

「おう、そうかそうか。まあ人間ゆえ間違うこともありゃあすな」

「おお、寛大なお言葉、ありがたき幸せ」

「よいよい。して、毛利家の口上を聞こうでねえか」

「はは、されば備中・備後・美作・伯耆・出雲をお譲りし、輝元公を安土にご挨拶に伺わせましょう」

「ほほう、豪儀なこっちゃ。だがご主君を大殿のところに向かわせるっちゅうのは恵瓊殿の一存でよいのか?」

「そうですな。殿に確認をしますが、ほぼ受け入れられると思いますぞ」

「そりゃあなんでまた?」

「…いやあの…これだけ追い込んでおいてそれはないのでは?」

「ぶははははは、すまんすまん。やりすぎたか?」

「お戯れが過ぎましょう」

「何、この期に及んで値切ろうと考えた図太い使者に現実を見せただけよ」

「これは手厳しい」

 恵瓊の背中に冷や汗が流れる。

「うむ、そんでな。大殿を即決させる条件がある」

「それは何でしょうか?」

「わかっておろうが、石見銀山じゃ」

「ぐぬ、それは…」

「毛利の生命線と言いたいのじゃろ? だがな、戦って取ろうと思えばとれちまうぞ? おそらく半年もかかるまい」

「そうなったときは、今のような生ぬるい和睦ではなく…」

「要求は毛利一門断絶に及ぶじゃろうなあ。わしゃあそんなことはさせとう無くてなあ…」

「御恩情、痛み入り申す」(白々しい、先陣切って追いつめたのはどこの誰じゃ…)

「して、いかがか?」(時間稼ぎはそっちの不利になることを言うてまうか…)

「は、銀山の件は一度ご報告せねば…」

「そうか、先日荒木摂津殿から使者が来ての、淡路を明日発つそうじゃ」

「むむむ、承知いたしました。明日にでも又うかがわせていただきます」

「おう、お役目ご苦労さんじゃ」


 恵瓊は織田の陣を後にした。高松城自体ももうあまり持ちこたえられぬであろう。交渉を急がねばと恵瓊は焦りを内心に押し隠して自陣に馬を走らせた。

「石見銀山をよこせというて来たか…まあ当然か」

 隆景は嘆息する。毛利氏勃興の資金源となっていた銀山は尼子氏との激しい抗争の末手にした。忍原崩れの敗戦はいまだに家中の語り草となっている。

「正直受けるしかないと思われます」

「であろうなあ…」

「して輝元さまは?」

「あの腑抜けならば寝込んでおる。まったく、どうしようもない奴じゃ」

 この時ばかりは隆景の表情に憤怒が見え隠れする。普段冷静な彼であったが、ため込んできた何かが噴出しかけていた。

「うーむ。どういたしますか…」

「兄上も元長を亡くしてから精彩を欠いておっての」

「となりますと…」

「致し方なし。儂が全責任を負う。銀山の件もくれてやれ。家が滅んでは元も子もない」

「かしこまりました」

 恵瓊は隆景がまだ冷静に話ができることに安堵し、翌日の交渉内容を脳裏にまとめ始めた。


 翌日、羽柴陣。

「恵瓊殿。ご苦労」

「はは、恐れ入ります」

「して、返答やいかに?」

「は、銀山の件も承知されるとのことです」

「そうか、なれば儂も肩の荷が下りたわ。誓書を用意していただこうか」

「はは!」

「して、高松城の将士じゃが」

「はっ」

「和睦が成った暁にはこの堤を切る。後は退去していただこう」

「ありがたきことです」

「宗治殿には、見事と申し伝えられよ」

「はは、必ずや」

「船を出すことを許すゆえ、和睦の件を伝えてくるがよい」

「はっ!」

 恵瓊は羽柴の陣を出ると、供の兵を本陣に戻し、秀吉の許可を得て船で高松城に入る。そして和睦の件を宗治に伝え、勇戦をねぎらった。


 さらに翌日。小早川隆景と安国寺恵瓊は並び立って羽柴の陣に入る。

「良くいらっしゃった。わしが羽柴筑前にござる」

「小早川隆景にござる。此度はよろしくお願いいたす」

「お噂はかねがね、こちらこそよろしくですぞ」

 お互い条件を確認し、詳細を口頭にて詰める。問題ないと判断し、互いの責任者が血版を押して書を取り交わす。

「では、確かに」

「はい、こちらも」

「では輝元公にはよしなにお伝えくだされ」

「はい。これより当家は織田家に従いますゆえ。織田様にはよしなにお頼み申す」

「おそらくじゃが正月の宴に招かれることとなろう。その時は…まあお楽しみにじゃの」

 秀吉の含み笑いに隆景は嫌な予感がよぎる。だが、何かを企んでいるというよりいたずらを仕込んだ子供のような笑みであった。


 3日後、伯耆国八橋城。

「主家よりの命令ですぞ?」

 使者の若者は声を荒げる。だが元春は表情一つ変えず答えを返した。

「だからなんじゃ?」

「だ…」

 あまりの返答に絶句する。

「これはいかなる仕儀にございますか。ここで織田との和睦が破れれば、毛利は滅亡しますぞ?」

「儂はな、元長の仇を取らねばならぬ。それ以外のことはもはやどうでもよい」

「ですが、討ち死にするは武家の習いでございましょう!?」

「そうだな、だがもはや儂にその手のきれいごとは届かぬ。あの子の仇を取る事しか考えられぬ」

「そんなことをして兄上は喜びますまい!」

「そうだな。儂もそう思うぞ」

「ならば!」

「自己満足と言われようとも、儂自身が討たれてもよい。もはや止められぬ」

「ならば私は父上を討たねばなりませぬ」

「そうか、是非に及ばず。だが儂もそなたに討たれてやるわけにはいかぬ」

「父上!」

「広家、もはや儂は止まらぬ。だが、もし許されるならばそなたが家を継ぎ、毛利に尽くせ」

 元春の目つきは昏くもはや会話が通じない。吉川広家はやむなく本城に戻る。困り果てていると、織田秀信から使者が来た。書面には八橋城引き取りの使者をよこすとのみが書かれている。

 場は色めき立った。あの様子だと使者がいかなる者であろうが斬られる。そうなっては毛利はおしまいだ。そして書面を見てさらなる絶望に突き落とされる。使者が赴くのは明朝で、もはや郡山城からは早馬を飛ばしても間に合わない時間であった。それでも一縷の望みをかけて広家は馬を走らせる。毛利の命運がかかっていると信じて。


 翌朝、八橋城周辺は雨が降っていた。そんな中、笠を目深にかぶった若い武士が声を上げる。

「織田家よりこの城を受け取りに参った!」

 その口上を聞いた兵はすっ飛んで元春を呼びに行った。

「織田の使者とはお主か…笠を取ってはくれぬか?」

「はい」

「お、おおおお、おおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 元春の両目から滂沱と涙がこぼれる。

「これはしたり。鬼の目にも涙ということですかな?」

「馬鹿者! 親をからかうでない!」

「いや申し訳ありませぬ。あれだけ啖呵を切った挙句、生き恥を晒して居り申す」

「生きることに恥などない! ないのじゃ…ううううううう」

「ですが命は助かったのですが、肩の筋をやってしまいまして、私はもう戦場に立てませぬ。それでも良いのですか?」

「先陣で槍を振るうだけが大将ではない。かの戸次は輿の上で兵を鼓舞しておるではないか」

「そうでしたね。まあ、身の振り方はまた改めて考えましょう」

「うむ」

「で、私はいま、織田秀隆様にお仕えしております。父上もいかがですか?」

「毛利を離れると申すか?」

「一度は」

「いずれ戻ると申すか?」

「ええ、広き見聞をもって、新たなる知識を携えて、毛利をさらに高みにもたらすために」

「なればよい。わしは輝元を叩きなおす。お主は思うままに生きよ」

「はい」

「よき面構えじゃ。死線をくぐったまことの武者じゃ」

「おお、父上が初めて私をほめてくださった。これは珍しい」

「茶化すな。だが本当に良かった」

 こうして元春は再び号泣する。城は無事織田家に引き渡された。そしてそこに駆け込んできた広家は死んだはずの兄が立っているのを見て腰を抜かした。そのそぶりを見て父と兄は大笑いしており、必死になっていた自分が滑稽すぎてヤサグレるのであった。

 元長は織田の陣に戻ってゆき、広家は父を伴って城を明け渡したうえで帰還する。のちに元春と隆景の間に相談がもたれ、小早川家は毛利家を離れて独立することとなった。そしてそのうえで毛利との同盟を結ぶ。吉川も半ば独立し、毛利に対して従属関係となった。毛利本家の力は三等分され、各々で織田家に従属してゆくこととなる。

 小早川は早くも織田に服属の意を示し、河野家を攻める軍に加わる。毛利との和睦成立で進路を変えた荒木の手勢は讃岐に上陸し陸路を進み、伊予に侵入した。三方向から攻められた河野家は会えなく降伏し、所領を大きく削られたが服属大名として家は残した。

 こうして中国と四国が織田の勢力圏に入って平定されたのである。

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