高松水攻め

 天正8年5月。

 毛利輝元は足利義昭の要請を受け、織田討伐の兵をあげる。その矢先に吉川元春が同数の兵に野戦で大敗し、元長討ち死にの報を聞くと途端に怖気づいた。出陣の日を引き延ばしにかかり、高松への救援は遅れてゆく。小早川隆景が輝元を叱り飛ばし郡山城を発ったのは5月も下旬のころであった。

 山陰方面での勝報を聞き、秀吉は官兵衛の策を実行に移す時が来たと判断し、播磨、備前、摂津あたりの兵力を動員する。宇喜多の居城たる岡山城は織田の工兵部隊が街道を拡張し、城下町も拡張する。近隣の職人や野鍛冶を俸給を与えて呼び寄せ、工人街を作り、軍需物資の生産を担う。織田本家の投入した大量の資金は備前を対毛利の前線基地へと生まれ変わらせる。その資金力と技術力は宇喜多配下の国人土豪にも大いに見せつけられ、織田に降った直家の判断は褒めたたえられることとなった。

 実際問題として、大量の投資を呼び込み、国人から農民までが利益を得たのである。直家の声望は高まった。さらに民衆に人気の高かった楓姫が秀隆の嫡子と婚姻を結んだことで、宇喜多の家は安泰じゃと先行きに希望を持ったこともあり、商人は行きかい、治安も安定し、発展は急速に進んだのである。


 秀吉らが高松城を望む陣屋に到着したのは5月8日であった。

「官兵衛、図面を」

「はは!」

「説明を頼む」

「かしこまりました。まず、ここの線をご覧ください。ここに土塁を築きます」

「まて、どんだけこっからここまで距離があるんじゃ?」

「小六殿、大体一里ですね」

「ふむ。割普請をやるか?」

「さすがですね、西の備えは五郎様が担当してくださるそうです。そちらで敵を防ぎつつ、我らは築堤を行います。ここからここまでは小六殿、ここからは…」

 官兵衛の説明が続く。高松城のそばを流れる足守川の上流には堤が築かれ、すでに水をため始めていた。そして季節は梅雨に移ろうとしている。雨が降り注げば水はけのない低湿地の中にある高松城は水没するに違いなしと言われるが、羽柴勢の中にはその光景を思い浮かべることができる者はいなかった。


 羽柴勢は近隣の村や集落に高札を掲げていった。

「何々…これはなんて書いてあるんじゃ?」

「ふむ。土嚢を積むための米俵を集めると。一俵に付き…なんじゃと!?」

「おい爺さん、勿体付けんなよ」

「ああ、すまん、とんでもないことが書いてあってな」

「だからそういうのはいいから早く教えてくれよ」

「うむ、銭百文と米一升らしい」

「なんじゃと!?」

「こうしてはおられん、すぐに藁束を集めよ。この褒美があれば年越しは楽になるぞ!」

「「「おおおおう!!」」」

 こうして羽柴の陣地にはおびただしい量の米俵が集まり、それを持ち込んだ農民や土豪らを更なる褒美で釣って人夫として雇い入れた。彼らを編成し、物資を振り分け、食料を手配する。これらはすべて秀吉配下の奉行衆によって行われた。竹中半兵衛が頭を取り、その下に付けられた若き官僚たち、石田佐吉や小西行長、大谷吉継をはじめとする若い世代が育っていたのである。


「なんと…」

 城将清水宗治は羽柴勢の意図をはじめ理解できなかった。近隣の農民をかき集め、土嚢を作る。それで付け城を築くのかと思っていたが、周囲を囲む山の間をつなぎ、城を取り囲むように堤を築いてゆく。そこで宗治は気づいた。梅雨時にかかっているのに川の水が少ない。これは上流で意図的にせき止められている。だが、溜めた水を流しても城には被害を及ぼさない。湿地がさらに深くなるだけで、結果として城の守りが高まるだけである。

 物見が持ってきた報告はさらに宗治を悩ませた。山の上に船があるというのだ。湿地を船で渡ると言っても逆に底を打って止まる。まだあの集めた土で湿地を埋め立ててくる方が理解できた。


 築堤工事はわずか12日で終わった。そこで足守川の堰が切られ、水が流れ込む。しかし下流は完全にせき止められ、さらに連日続く雨によって徐々に水がたまり、水位が上がりだす。事ここに及んで、宗治も織田勢の意図を理解したが、城一つにここまでの動員と費用をかけることが理解できなかった。

 高松城はほぼ水没し、必死に兵糧や弾薬を高い場所に押し上げて何とかしのいでいる。だが、完全に外部との連絡や補給は断たれた。

 そうしているうちに毛利輝元の援軍が現れた。4万を号するが、荷駄などを含んだ人数で戦闘員の兵数は羽柴勢と同数であった。堤の西側には織田五郎率いる5000が築塁したうえで待ち構える。堤防を切ろうと軍を進める場合には、どこから攻めるにあたっても邪魔になるという絶妙の配置であった。


「高松城に籠る味方を救うのじゃ!」

 輝元の激も毛利軍の士気は振るわない。実際問題として、5月初めに出陣していれば高松城はここまでの窮地に陥っていなかったのである。だが味方を救わないという選択肢はなく、毛利の先手が秀信の陣に攻めかかる。

「ひきつけよ。慌ててはならんぞ…うてーーーーー!!」

 小頭が弓衆と鉄砲隊に指示を出す。兵たちはそれに応え、一斉に射撃を行う。毛利の先手の兵はここまで濃密な射撃を予想しておらず、バタバタと倒れ伏す。慌てて盾兵を前進させるが、鉄砲隊の水平射撃と、弓隊の山なり射撃の組み合わせで被害を増やす。早合を使って、毛利軍の常識を外れた速度で発射される鉄砲隊にどんどん被害を増やしていった。

「何をしておるか!」

 輝元の怒号もむなしく響く。わめくだけで的確な手を打てていないのだ。

「殿、増援を送りなさいませ」

「うむ、して誰がよい?」

「宍戸と渡辺を」

「いいだろう、行け!」

 隆景はひとり嘆息する。自分の打った手が悪手と思わないが、自分の考えを持たず、人の言うことをうのみにする。平和な世であればお人よしの殿様で済むかもしれないが、今は乱世で、それも存亡の危機を抱えた会戦の真っただ中である。

「兄上が生きておれば…」

 隆景のつぶやきは誰に聞かれるともなく宙に消えた。夭折した隆元は内治に長けていたが、さらに優秀な人物であったのである。少なくとも、自身と元春が主と仰いでよいと思えるほどに。だが今の輝元の体たらくに、鬱屈だけが高まっていった。


 第二陣の投入とともに秀信は出撃の下知を下した。先陣は毘沙門天の旗印を掲げる騎兵である。八橋城の戦いで、元春を打ち破った将の一人がかの上杉謙信であったと追う話はすでに伝わっている。渡辺通は勇躍して攻めかかり、宍戸隆家は怯んだ。そこに前進速度の差ができる。宍戸勢に堀久太郎が指揮する鉄砲隊の射撃が浴びせられ、さらに足が止まった。

 信虎の騎兵は渡辺勢をかすめるように機動し、宍戸勢を突いた。さらに騎兵に気にとられていた渡辺勢に森長可が殴り込んだ。

 輝元はまるでキツネにつままれているような心地であった。先陣を救援すべく出した二備えが瞬く間に崩れ去ったのだ。一瞬我を失ったのは隆景も同じであった。だが彼は自らの頬を張り、我に返ると輝元を差し置いて前線の兵に撤収を命じた。輝元はその光景を見ても、越権行為だと怒りを見せるでもなくただ茫然としていた。

 この瞬間に毛利家としての抗戦の意思が残らずへし折られたのである。

 そして追い打ちをかけるように悲報がもたらされる。河野氏からの援軍要請が来た。長宗我部が三好と和睦し、織田と同盟を結んだこと。瀬戸内海の海賊が織田に降りつつあること。備中付近までは織田に制海権を奪われつつある。ということは、水軍を利用して、毛利本隊の背後に兵を送り込めるのである。摂津衆の荒木村重が、淡路に上陸したとの報が流れてきた。

 一連の報告を聞いて、隆景の顔色もすでに蒼白であった。山陰の兵力は撃破され、そして今毛利本軍がくぎ付けになっている間に、三好、長宗我部が中立から敵対に回った。さらに背後の九州には因縁の多い大友氏が控えている。門司を巡っての争いは今和睦しているが、毛利がこの状況にあると分かればすぐにでも兵を出してこないとも限らない。

「詰んだ」

 隆景のつぶやきは静まり返った本陣の全員の耳に届いていた。

 そして輝元は幸せなことに状況を理解しておらず、キョトンとしていた。

「叔父上、ここから状況をひっくり返す策があるのでしょう?」

 能天気極まりない質問に佩刀を抜いて脳天に振り下ろしたくなる衝動を必死に抑える。自分が感情を激させるなど今までに何度あったかと振り返ることで何とか衝動を抑えることに成功した。そして平坦な口調で輝元に答えを返す。

「ありませぬ。この期に及んでは挽回は不可能ですな」

「え? マジデスカ?」

「マジです」

 隆景の返答に輝元は床几から崩れ落ちた。下履きの色が変わっていくことは武士の情けとして見て見ぬふりをした。

「恵瓊殿。何とか毛利の血脈を残してくだされ。それ以外にはなにも望まぬ」

「いや、あの…その…どうしろと?」

「さあ?」

 隆景は何かが吹っ切れて、肩をすくめてお手上げのポーズをとる。本陣に詰めていた重臣たちはあまりの光景と状況にまだ呆然としていたのだった。

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