天正8年正月

 天正8年、正月…安土城大広間。

「皆の者、前年は大義であった。今年もよろしく頼むぞ」

 いつも通り帰蝶は信長の膝の上である。今年は普通の着物姿であったが、布地としては金糸をふんだんに使い、贅を凝らしたものとなっている。

「殿、このようなところで余計な費えを使っては…」

「天下人の妻が質素な着物であってはそれこそ名折れよ。それにじゃ、美しい妻をさらに飾り立てたく思うのは儂のわがままじゃ。帰蝶よ。そなたは年を経るごとに美しいのう」

 いつにも増して信長が情熱的である。それには理由があった。信忠の母である吉野が前年他界していたのである。尾張より支えてくれた妻を亡くした信長は憔悴した。そこで、一人の侍女が信長を献身的に支え、新たな妻としての座を得ている。信長は彼女をお鍋と呼ぶことにした。

 ちなみに、上座の末席には彼女も座っている。お鍋は身ごもっていたため膝の上に乗るのは控えていた。

 信忠と松姫の間には男の子が生まれていた。三法師と名付けられた赤子は松姫の手の中ですやすやと眠っている。そして孫誕生に有頂天になった信長は景気よく引き出物をばらまいた。高松城にまで使者が赴いて門前払いされたが、織田にとってこんな城はその程度の認識かと兵がどんよりと落ち込んだのはまた別の話である。ついでに、ばらまいた費用で城下が潤ったが、信長は嫁たちに怒られ、小遣いをしばらく抜きにされたと秀隆にぼやく姿が見られたという。


 六郎と楓姫は睦まじく食事を楽しんでいた。隣には直政とひなた夫妻がおり、彼らは若者らしくはつらつとした笑顔を見せている。彼らの輪の中に五郎秀信もいて笑顔を見せるが、六郎も直政も二言目には嫁を構っている。仲の良かった兄信忠も妻と子にべったりで、彼は多少の孤独を味わっていた。

 信長は上機嫌で相撲大会を見ている。そして今年は別室で、秀隆主宰の囲碁大会が開かれていた。ちなみに、上位者に挑戦して勝てば褒美がもらえる内容であるが、その役目を追うのは上杉不識庵であった。

 戦術の天才である彼は、当たるを幸いと挑戦者をコテンパンにしてゆく。余興として秀隆も挑戦したが、とても相手にならなかった。本因坊でも読んどけばよかったなと秀隆が考えていると、一人の少年が不識庵の前に座る。

「よろしくお願いいたします」

「うむ、お主は…?」

「五郎秀信です」

「おお、大殿のご子息か。であっても手加減せぬぞ?」

「はい、ご指導お願いいたします」

 パチリ、パチリと碁石が盤上に並んでゆく。五郎は年に似合わず堅実な打ち筋で自陣を確保する。不識庵も勝負が続いており、わずかな疲労からか石を打つ場所を誤った。そして次の五郎の打った手に凍り付く。

 ぐぬぬと冷や汗をかきながら挽回を試みるが、一手の悪手から切り崩されてゆく。不識庵の陣列はずたずたに切り崩され、どんどん地を取られていった。やや不識庵有利の手から一気にひっくり返されたのである。

 最後には顔色を真っ白にして投了を告げた。

「うぬぬ。おそろしや。信玄といくさをしているときより手ごわく感じたぞ?」

「ほう、其れはまことか?」

「おお、殿。この子は天才にござる。儂をして及びもつきませぬ」

「なんと、それほどか!」

「いえ、不識庵様の一手のほころびがありましたゆえなんとかつけ込めました。ですがそれがなくばじりじりと押され、わたしが投了しておりましたでしょう」

「ぱっと見で悪手とも思えぬが、10手も進めば確かに誤りとわかる程度じゃのう」

 自らも碁をたしなむ信長が棋譜を見返す。だが、悪手とは言えず、最善手ではないという程度の手ではあった。だが其れを綻びであると見抜き、最善の時期を図って打った一手が戦況をひっくり返したのは間違いない。

「儂の五郎は天才じゃ!」

 信長は上機嫌で家臣に酒をふるまったという。最も恩恵を受けたのは不識庵であったらしいが、これもまたお約束というべきものだろう。


 酒が回ると宴会場は混沌としだす。今年も先陣を切って権六が叫んだ。まさに織田の先駆けにふさわしき猛将である。嫁にべた惚れしていることも、織田家ではプラス要因であった。

 権六の組下で武勇を誇る利家は、妻との間に8人目の子供が生まれていた。彼の長子利勝は、父上が戦に出るたびに母上といい雰囲気になって子供が増えるのですよと、何か悟り切った表情を浮かべていた。そんな彼も信長の娘と婚儀を結び、尻に敷かれている。だが妻の尻の下ほど居心地の良い場所はないと、父の薫陶を受けまくっている名言を放つのだ。

 酔っぱらった六郎と直政。妻への愛を大声で競いだす。

「直政、おめえ主君に逆らうのか? あ?!」

「はん、兄上ーとか言ってきてたガキが何をぬかすか! うちのひなたが日ノ本最高なんだよ!」

「ああん? うちの楓がどんだけかわいいか、貴様に何がわかる?」

「んだとコラ! 上目遣いで「兄上さま」とか呼ばれてみやがれ、もうたまらんわけよ!!」

 横で利家がうなずく。そしてその姿を見たまつが利家を〆る。「恥ずかしいでしょ!」

「ああん? ちょいとうらやましいが、うちの楓はな、とってもおしとやかなのだ。一緒に歩いていると俺の袖をつまんで、ちょこちょこついてくる姿は…あああああああああああ!!」

 うん、若さが溢れかえっている。

「っく、だがひなたは俺の太陽だ!」

「楓は俺をやさしく包んでくれるんだ!」

「俺は嫁のためならなんだってしてやんよ!」

「ああん? 何当たり前のことほざいてるんだごるぁ!」

 お互いの嫁は顔を真っ赤にして各旦那の膝の上で身をひそめている。だが耳まで真っ赤になりながらも夫の手を握って離さないあたりほほえましい。

「声のでかいほうが勝ちだ、いいな?」

「望むところだこの野郎!」

 はた迷惑な愛情絶叫大会は、彼らの母の手で実施前に止められた。

「六郎殿、万千代…おいたが過ぎますね?」

「「ハハハハハ・・・・母上ェ!?」」

 二人の声が恐怖に震える。同時に返答する当たり息はぴったりだ。

「楓殿、あさひ。やっておしまい」

「「はい。お母さま」」

 嫁二人の手がすっと首筋に伸ばされ、夫の首に絡まる。そして膝の上からするっと立ち上がり、キュッと締め上げる。

 秀隆も驚愕するほど見事なチョークスリーパーで、二人の若者は悲鳴を上げる暇もなく締め落とされた。だがこいつらの救いがたいところは、振りほどこうとすればできたのである。だが、後頭部に当たる感触が失われることを躊躇した結果、失神の末路となっていた。

「やれやれ、困ったもんだ」

 秀隆のボヤキは酔いつぶれ始めた周囲の家臣たちと、幸せそうに鼻の下を伸ばす最愛の息子たちに向けられていたのだった。

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