元亀騒乱ー信玄西上ー
元亀2年9月末。信長のもとへ報告に現れた十兵衛は後ろに老齢から若者まで禿頭の者を引き連れていた。
「殿、これなるは我が仲間にて、みなキンカ頭の盟と申します。学識豊かな者もおります故、我が家臣に加えることをお許し下さい」
「ほう。そちらのご老体は以前に都でお会いしたことがある方によう似ておるの?」
「はは、他人の空似という言葉もございますれば、我が頭に免じ御赦免を」
そう言い放つと自らの頭頂部をぺしりと叩く。その振る舞いに信長は顔を真っ赤にして…笑い転げた。
「ぶはははははははは、おぬしは真面目一辺倒と思うておったが、なかなかに茶目っ気があるのう。意外なものを見せてもらった褒美じゃ。キンカ同盟のこともさし許す」
「はは! ありがたき幸せにございます」
「秀隆にも礼を言っておくように」
「殿、ばれておりましたか」
「ばれいでか、だがその茶目っ気も時に必要となろう。笑う門には福来る、じゃぞ」
「この十兵衛、肝に銘じます」
「うむ」
重々しくうなずく信長だが、頭を下げる光秀を見てさらに笑いの発作が湧き上がる。
「おい光秀。おまえ強くたたきすぎじゃ。頭に手形が残っておる。ぶふっははははははは、わははははははははあはははは」
珍しく光秀も赤面し、信長に合わせるかのように笑い出した。
「さあさあ、皆の衆。新しいはやり歌だぞ!」
河原では黄色に白や黒を染め抜いた派手な着流しを着た男が、ちょび髭をつまみながら宣言する。最近人気の芸人で、名を彦太郎といった。
彼が声を上げると、河原者や町民が集まってくる。台に上がると軽快な調子と節回しで歌い始める。
「片手に信!」
手に持った半紙には「信」と墨痕鮮やかに書かれている。
「もう片手には者!」
同じく半紙には「者」と書かれていた。
「ふん!」
裂帛の気合でその2枚を重ね合わせる。そして彦太郎の手には「儲」と書かれた半紙が1枚だけあった。
「信と者を合わすとどうなる? 儲けになる!」
観衆がどよめく。どういう意味じゃ? と周囲の者に聞くものも多かった。
「信者があつまりゃ寺が儲かる♪ 儲かった銭は坊主の懐♪ 我らの得にはなりゃあせぬ♪ 太る坊主と痩せる子供♪ わしらが仕合せはどこにある? 来世は極楽というけれども 誰も見た者はおりゃあせぬ♪」
彦太郎は軽快な足取りで表情豊かに唄う。首から下げた着流しと同じ模様の布を振り、ひらひらとたなびかせ、観衆の目を奪う。
「さあ、みんなで一緒に歌おうぞ!」
彦太郎の煽りに観衆は興奮し、唄の内容を理解した観衆は怒りを覚える。そこに流しの坊主が現れ、織田の領国は税が安いとか、治安がいいとか、孤児の世話をする役人がいるなどと噂を流してゆく。読み書き算盤を学ぶことができ、孤児院のある村では、勉強の後野良仕事を行う。希望者には剣術や槍の指南を行うという。現世の極楽を作り出そうとする信長の政策は、秀隆の補佐もあって急速に実を結びつつあったのだ。
元亀2年11月、秀隆は三河を行軍していた。副将に佐久間半介。林通政。平手汎秀らの尾張衆である。武田軍は遠江の北から侵入し、国境の城をいくつか落としていた。同時進行で山県勢が奥三河に侵攻し、作手などの諸城を寝返らせ、そのまま軍を転じて遠江の軍と合流している。
西信濃からは猛将秋山虎繁を先鋒に岩村城に攻め寄せた。城主遠山景任が死去した直後で動揺していたが、岐阜より派遣されてきた明智十兵衛が援軍として参戦し、狭隘な地形を利用して射線を集中させ敵の前進を食い止めていた。織田の鉄砲隊の第一人者としての面目を施す働きであった。
遠江二俣城を囲んでいた信玄は水の手を切ることに成功し、後詰めの徳川軍も武田の包囲網を突破できないでいた。二俣を落とされれば浜松は孤立する。徳川軍は果敢に攻撃を仕掛けたが、包囲を破れず、ついに二俣城は開城した。
失意の家康は浜松に帰還する。家康の手勢は8000あまりで、武田軍の半分にも満たない。勇将も武田に劣るものではないが、いかんせん兵力差をひっくり返すほどの決め手に欠けていた。
「織田安房守さま御着陣です!」
「おお、秀隆殿が参られたか、すぐにお通ししろ!」
秀隆が応接の間に入る。家康は秀隆の手を取り伏し拝むように迎えた。徳川の苦境はここに極まっていたのである。
「徳川殿の存念をお聞きいたそう」
「武田の攻勢限界は近いと思っております。持ちこたえて2月。ですがいいようにやられ国を荒らされた、その現状を閉じこもって震えていたと思われれば遠江は徳川の手から滑り落ちましょう。武田に何か一度でも反撃を加えねば、先はありませぬ」
「うむ、私も同じ意見じゃ。だが、甲斐の虎と呼ばれしは伊達ではない。並の一手ではこちらがやられるであろう」
「ですなあ…正直打つ手がないのです…」
「三河殿。大きな賭けですが、やってみますか?」
「それはどのような?」
「まずこの策の前提は、精強極まりない三河武士がいないと成り立ちませぬ」
「なんと、それほどまでに我らを買ってくださるか」
「織田は姉川の恩を忘れておりませぬ。あの時の三河武士の働きも」
「ありがたき、ありがたきことにて…」
家康は家臣の前ではない、秀隆の前故に弱音を漏らした。清州同盟のあと秀隆は岡崎を訪ね家康と交流を持っていたのである。国民を富ませることで強き軍を持てること。産業の育成や商業の助言などを行い、三河の民は今川支配の時代に比べて豊かになってもいた。それはそのまま家康の支配基盤となっていた。こうして助けてくれた秀隆と信長を家康は心より信頼していたのである。
「そういえば、長島に逃げ込んでいたもので、松平の被官であったものを連れてまいりましたぞ」
「はて…?」
「入りなさい」
入ってきた青年を見て家康は目を疑った。三河一向一揆の際に家康と袂を分かった股肱の臣、本田弥八郎がそこにいたのである。
「弥八郎、久しいな。よく戻ってきてくれた」
「殿、私は秀隆様に仕官しております。そのうえで、徳川家に出向せよとの命を受けました」
家康はハタと気づく。一度出奔した家臣をやすやすと迎えては、長年仕えてきたものに不満を抱かせよう。秀隆は徳川家中でも声望が高い。その秀隆が間に入ることにより、徳川家臣団の軋轢を減らそうとしてくれているのである。弥八郎ほどの知恵者、秀隆も手元に置けば大きな利を生むだろう。そこをあえて徳川に貸し与えるという形にしてくれている秀隆の気遣いに感極まった。
「では、弥八郎殿。この三河守に力を貸してくださるか?」
「秀隆様の名を辱めぬよう、粉骨致します」
「話はまとまったかな?」
「はっ!」
「そうそう、三河殿。そこな弥八郎の家族だが、来春にも浜松に送り届けるので、受け入れの支度を頼みますぞ。弥八郎もしっかりと働くのじゃぞ?」
「「はは!」」
「では、弥八郎、策を」
「はっ、戦場はここ、三方が原。武田はここにわが軍をおびき出そうとするでしょう。平野が広がり信玄得意の野戦に持ち込むことができます。して、わが軍はその誘いに応じ、敗北します」
「なんと?!」
「それは振りです。そのまま撤退戦を行い、ここに敵を誘い込みます」
「ふむ」
「ここは木々が生い茂り、兵を伏せるのに向いております。黒鍬衆を用いて野戦陣を張り、1500の鉄砲隊による十字砲火で敵の追撃部隊を撃破、のち伏兵の奇襲に寄り敵中軍を叩きます」
「ふむ…やりましょう!」
「浜松の支城が落ちて今この城は丸裸です。ここで逆転せねばじり貧になる」
「うむ、ここで乾坤一擲、賭けに出るしかない!」
家康は重臣を集め軍議を開いた。家康と秀隆は並んで上座に座り、家康の傍らにいる本多弥八郎を見て驚きの顔を見せる者も多い。
「織田喜六郎秀隆にござる。此度は三河殿の危地を救うべく駆け付けた。姉川の恩を織田は忘れておらぬ。武田に目にものを見せてくれよう!」
「「おお!!」」
「こちらの本多弥八郎は我が軍師にて、武田を破る策を立ててくれた。此度兄上の命で、徳川家に出向して三河殿に与力することとなった」
徳川の重臣にざわめきが起こる。徳川を捨てて出奔した弥八郎にわだかまりがある者もいる。本多一族には特にその傾向が強い。だが徳川家でも声望の篤い秀隆の家臣となっていることもあり、ざわめきは次第に収まる。
「弥八郎、策を述べよ」
秀隆の指示により、地図上で策を説明し始めた。三方ヶ原で敗れ、敵を浜松の近辺まで誘い込み、陣列の伸び切った敵軍を分断して撃破する。
成功すれば戦術の妙というべきだろう。だが、あの信玄相手にどこまで通じるかは未知数である。だが、武田に痛撃を加えたとなれば徳川の武名も盛り返すというものである。
「この策は武名の誉れ高い三河武士の精強さが土台になっている。貴公らがいなければそもそもこんな策は成り立たぬ。貴公らの勇戦を大いに期待する。あと、徳川だけに危ない橋はわたらせぬ。殿軍は当家の佐久間勢が担当する」
「うえっ!?」
「おお、半介殿。雄たけびを上げるには気が早いぞ?」
「いやいやいやいやいやいやいあいあいあいあや」
半泣きで信盛が首を全力で横に振る。
「そうか、退き佐久間の手並みを見せてくれると。楽しみじゃ」
「おお、我らは余力を残して退却し、武田に反撃するのじゃ!」
「「「おおおおお」」」
もはやここまで盛り上がっては今更辞退するわけにはいかない。信盛は涙目で秀隆をにらんだ。秀隆は涼しげな顔で、兄上への報告は委細漏らさず伝えよう。いやあ、素晴らしき武功で兄上は喜ぶじゃろうなあ。
すべてをあきらめた信盛は、昏い目つきで自らの部下のもとに赴くのだった。
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