本圀寺の変

 11月末ごろにひょっこりと秀隆が現れ、明智十兵衛に指示を出していた。門の外に鹿砦を連ね、櫓を立てること、山崎屋から物資が運び込まれていった。特に冬場の戦闘では、暖をとるための油は非常にありがたいものである。おびただしい数の小石と、素焼きのツボは懐炉とするように言われていた。

 そして秀隆は一丁の銃を十兵衛に渡す。新型の銃であり、可能な限り一人で練習することを指示された。専用の早合と玉薬も預けられたが、十兵衛は実際に撃ってみてこの銃の性能の高さに驚いた。鉄砲の妙手として織田家に仕官したことを考えると、これは名物の刀剣をもらうよりも自身にとって価値のあるものではないか、そう思い秀隆への感謝の念と信長への忠誠の心を強くしたのである。


 そして永禄12年正月5日、堺から上陸した三好党は岩成主税を先頭に本圀寺を取り囲んだ。

 秀隆の作り上げた諜報網により、十兵衛のもとに注進が上がる。すぐに兵を集め、2000をもって本圀寺に立てこもると同時に近隣への早馬が飛んだ。

 巨大な寺といえど2000の人数は入りきらず、半数ほどは門前に陣を構えることとなる。四辻に鹿砦、逆茂木を連ね、篝火を焚く。今かと待ち構える御所勢に、明け方、雪を蹴散らして三好党が襲い掛かってきた。

 三好勢の先陣は薬師寺九郎座衛門であり、槍先を連ねて突撃してくる。迎え撃つ御所勢は、近隣の浪人などが集い、ここで手柄を立てて取り立ててもらおうとする陣借りの者が多くいた。内応されても困るのでそういった者は門の外で迎撃するが、衆寡敵せず、次々と討たれてゆく。ある種の自業自得ではあるが、無念の声を上げて倒れ伏す彼らも哀れであった。

 美濃出身の武者、赤座七郎衛門は武辺を知られていた。すさまじい勢いで敵中に付き入り、数名の兵を槍玉にあげる。それでもじりじりと押され、門の前に迫られたあたりで、明智十兵衛の采が振られた。

 一斉に放たれる銃弾にバタバタと三好党の兵が倒れ伏す。一瞬敵兵がひるんだすきを見て門外の兵と呼応して門を開いて打って出て、敵の先陣を蹴散らす。そのまま早朝から日暮れまで戦って決着がつかず、三好党はいったん兵を退いた。

 将軍義昭は寺の境内に床几を置き、陣を構える。一旦敵兵が退いたと聞いて、安堵の息を漏らす。追手を退けるための戦いは経験していたが、多数の兵がぶつかり合う前線に身を置いたことがない義昭の顔色は蒼白であった。しかし、将軍家は武家の棟梁であるとの誇りでその身を支えていたのである。

 翌朝、三好党は再び攻勢をかけてきた。手負い死人が多く、門外に兵を配する余力はなくなっている。幾度か門外に打って出て、敵兵を蹴散らすが、そのたびにさらに負傷者を出し、兵力はじりじりと削られていく有様だった。

 明智十兵衛は、秀隆より預かった尾張筒を手にやぐらに上がっていた。戦場を見渡し、その中で華美な装いの騎馬武者を見つける。旗印から敵将の薬師寺であるとあたりを付け、銃の狙いを定める。普通の銃ならば着弾すら難しい距離を、光秀の技量と新型銃の性能が相まって、放たれた銃弾は薬師寺の眉間を撃ち抜いた。

 先手大将を討たれた三好勢は混乱する。光秀は早合を使用して、短時間で銃を撃ち、その都度物頭や将を撃ち抜く。岐阜城で見せた手並みを再現するかのように、戦場にあり、命のやり取りをしている最中としては驚異的な命中率であった。

 ここで留守居の尾張衆を率いる野村越中が門を開かせ一気呵成に打って出る。そして切り込む武者の中に将軍義昭がいた。

「公方様の前で手柄を立てるのじゃ!!」

「あれが敵大将じゃ、討って手柄とせよ!!」

 互いの兵が欲に目をぎらつかせて切り結ぶ。義昭自身も刀を振るい、数名の敵兵を討ち取って見せる。

「公方様が武辺を示したぞ。者ども続け!」

 物頭が叫び、意気上がる御所勢は敵の攻勢を押し返していった。そこに摂津から来援した池田勢が後方に現れる。

 退路を断たれるかと慌てた兵が動揺し、敵の陣中から叫び声が上がった。

「敵の援軍が来るぞ」「我らが倍の兵だというぞ」「信長が来たら我らは皆殺しじゃ」

 次々と上がる声に三好勢は動揺する。そこを機とみたか、わずか500の池田勢が敵中に斬り込んだ。19の若武者伊丹親興は郎党80とともに突っ込み、自ら3か所の手傷を負うが、兜首を上げる殊勲を上げた。

 続々と三好義継、細川藤孝らが来援し、四辻を利用して包囲する。これで三好勢の士気は完全に崩壊し、潰走を始めた。野村の懇請で義昭は本圀寺内に引き上げる。三好勢の追撃は援軍に任せることとした。

 1月10日早朝。信長は亰に着いた。半日遅れで浅井の兵1500が到着し、京の治安維持を行う。

 最初の早馬で集まった援軍が本圀寺を中心に駐屯しているが、移動中に出した動員令により続々と諸国の兵が集まる。このとき山科言継の記した日記には、五畿内の兵ことごとく上洛。八万人ばかりという。との記載があった。

 諸国は信長の底力を目の当たりにし、尾張の田舎侍との認識を改める必要に迫られた。ただ命じるだけでなく、その兵力を養いうる経済力がその真骨頂である。この一連の騒ぎを裏で操っていたのが秀隆であったことは信長しか知らないことであった。

 そもそも、三好一党の反撃を防ぐならば、それ相応の兵を守りに残すべきである。それをせず、あえて京を手薄にしたこと。京への経路を確保するため、難所の整備を行っていたこと。岐阜からの途上で物資を集積していたため、信長の移動を速めたこと。あらかじめ根回しをしており、援軍が即座に対応できるようにしていたこと。何より、本圀寺の防備を整えておき、半月は持ちこたえる備えにしておいたこと。

 無論、人のなすことに絶対はない。だが、あえて義昭の周囲を手薄にして三好党の攻撃を誘い込み、それを撃破する手はずを整える。同時に、京の危機には信長が必ず現れ、その危機を打ち払うという印象を付けることに成功していた。

 神輿となる将軍が討たれれば信長の権威は地に落ちる。将軍は今の信長の最大の武器であり、最悪の泣き所でもあるのだ。

 信長は集まった兵を使い、各所に圧力をかけた。寺社には矢銭を要求し、商家にも臨時の税を要求する。今回三好党の上陸から本圀寺襲撃の手はずを助けた堺には詰問の使者が赴いた。商業都市堺を支配するのは、豪商の共同体で自治機構でもある会合衆である。一部の商人が信長に通じているとのうわさはあったが、ここまで動きはなかった。京で派手に辣腕を振るう信長の陰に隠れていた秀隆の存在に目が向かなかったのである。

 今井宗久の声掛けにより、織田への降伏が決まった。矢銭二万貫を献上し、その富を織田家のために使うことを強いられることとなる。しかし秀隆によって飴も与えられる。椎茸と焼酎のほか、織田家からの物資調達の依頼に応えることで、彼らのもとには相応の利益が転がり込むこととなるのだった。

 本圀寺の変は、ある種秀隆乾坤一擲の賭けであった。わずか2か月足らずの準備期間で様々な用意を行い、見事に乗り切って見せたのである。

 これにより、畿内の織田の権力基盤は強化されてゆくのだった。

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