戦後処理と信長の飛躍
本圀寺に入った信長は、義昭に戦勝の祝辞を述べる。
「阿波衆を見事退けられた由、公方様のご威光一方ならぬ故と存じます」
「弾正忠も早速の上洛、誠に大義であった」
信長は守りに立ち働いた将士たちに褒美を与える。そして義昭立会いの下、首実検を執り行うこととなった。実際に自ら刀をとり何名かの兵を討ち取ってはいるが、気が高ぶっていた時と違い、今頃になって恐怖が心中を貫く。差し出される生首をみて、自らもこう成り果てていた可能性に思い至り、悪心をもよおしていた。
信長は義昭の有様を見てこれは人の上に立てる器にあらずと、改めて確認し、岐阜に戻っている間に作成した掟書きを思い出してゆく。
必死に体面を保っているが武士にあるまじき小心に、信長の部下からもあきれのまなざしを向けられていた。
信長は亰の守りが手薄だとして、二条勘解由小路の義輝御所跡地に新たな城を築く触れを出した。襲撃を受けた以上、対策をとらねば信長の沽券に関わる。人夫は二万五千にも及び、連日土煙を蹴立てて普請が行われる。信長は軽装のまま手に鋤を持ち、人夫に入り混じって働く。それを見た諸侯やその兵たちも見習うように先を争って働いた。
普請は新たな将軍の御世を祝う祭りの側面があった。振る舞い酒が出て、酔って狼藉を働くものが出る。しまいには各国の兵がにらみ合いを始め、ある時ついに破局が訪れた。織田家の兵と浅井の兵がにらみ合いから乱闘に発展したのである。
「てめえ、どこ中よ?」
「浅井家中だ文句あるんか?お?」
「ああ、観音寺では犬っころほども役に当たたなかった腰抜けどもか」
「てめえ、もういっぺん言ってみろ!」
この言葉の後最初は殴り合いであったが、ふと誰かが気付く。工具持ってるじゃねえかと。もともと合戦慣れしている兵たちである。いつの間にか手に持った獲物での壮絶な叩きあいが始まる。いつの間にか乱戦となり、撲殺されるものも出始める。双方の指揮官が出張ってくるが、頭に血が上った兵たちは聞き入れない。そもそも酔っ払いが多数いるのである。収拾できるわけがなかった。
そこに朱槍を手に一人の武者が割って入る。抜き身の槍を振るい、大音声で名乗りを上げる。
「われは織田家中、前田又左衛門利家なり! この無駄な争いをやめよ! やめねば儂が相手になるぞ!」
なんか本末転倒なことを叫びながら全身に気合を込め仁王立ちする。ある者は利家の殺気にあてられて手にしていた鋤をとり落とした。そして、一人の兵が叫びを上げながら利家に襲い掛かる。
利家は軽く槍を振るうと相手の持っていた鍬の柄が真っ二つになる。そして石突きが胴に叩きこまれあっさりと昏倒した。あまりの手並みに兵たちの頭に上った血が下がってゆく。まだやるか!との大音声に兵たちは静まり返った。
「ほー、あの犬がそこまでの武者になったか」
「おい、秀隆。その言いようはあまりではないか? 一応儂の親衛隊長なのだが」
「なるほど、あ奴は忠犬にござるな」
「やめて、もうやめてあげて…」
利家と彼が属する織田の武名は上がったが、この騒ぎで両方合わせて500の死傷者が出た。何ともやりきれない結果である。
石垣を築くための石が不足していることを聞き、秀隆と諮って近隣の寺社の石仏などを用いることとした。その際に秀隆の注進で、民につらく当たり、財を蓄えた寺社は真っ先に没収の憂き目にあった。逆に貧民に炊き出しなどをしていた寺社は厚く褒賞を受けたという。この硬軟織り交ぜた信長の施策に各々の諸勢力も従うほかなかったという。
「秀隆よ、おまえあざといな」
「まあ、否定はしませぬが、わかりやすい政治を行うのです。そうなると多少はあざとくなりますよ」
「であるか」
普通は3年ほどはかかりそうな普請を信長は2か月で成し遂げた。二条の城の居館は本圀寺を解体し移設したものである。将軍家の威光を示すため、内装は贅を凝らし、庭園は大岩が置かれ、名木が移植された。しかし内情はすべて織田家の財布から出ており、将軍家の威光はすべて信長から出ていることは明らかである。
また、このたびの変事にあわせ、9か条の掟書きを義昭に認めさせた。これは将軍としての権力を大きく制限するものであり、手紙一枚出すのにも信長の許可がいる。部下に褒賞を与えるならば織田の分国より出す。勝手に与えてはならない。訴訟の取り決めなどである。
その後さらに七か条を追加し、がんじがらめにしてしまった。
義昭は激怒したらしいが、織田の兵力、経済力がなければ何もできない。そのことを改めて思い知らされ、細川藤孝が必死になだめる羽目になったという。
明智十兵衛が将軍家の使者としてやってきた時も、しれっとした顔で将軍の大暴れを報告してくる。
「織田の大殿に付いたほうがどうも先行きがありそうで…」
「おぬし、ひどいことを真顔で言うな」
「はあ、私にもいろいろとあったのですよ。もうね、妻に髪を売らせるようなことはしたくありませんし…」
「そうか、十兵衛殿も苦労していたのだな…」
秀隆にしんみりと告げられやや悄然とした表情で頷く光秀。信長はひとまず、光秀になんか特別手当をこっそりつけてやろうと考えていたのだった。
永禄11年12月。武田信玄は兵を起こして駿河になだれ込み、駿府城を制圧した。今川家は事実上滅び、今川家の所領は武田と松平で分割された形となっている。今川氏真は北条氏に保護され小田原に逃れた。
信長は岐阜に戻るのがもう少し遅れていたら、武田の矛先がこちらに向いていた可能性が十分にあったと考えている。勝頼室となった冬姫は嫡子となる男児を産み落とした後死去していた。当面の同盟関係は続いてはいるが、油断も隙も無さすぎる相手である。
松平家康は家名を変え、徳川とした。父祖伝来の名乗りを変えることについては賛否あったようだが、清和源氏の末裔との系譜をでっちあげ権威付けすることはうまくいったようである。
今川と武田の同盟破棄のごたごたがあったころ、そういえば秀隆はふらっと姿を消していた時期があった。秀隆の近習の中に見慣れない青年が加わったのもこのころである。騎馬の扱いが巧みで、織田の騎馬武者への指導もやってくれていた。秀隆のそばにあって野戦の進退や陣列の組み方など、非常に理にかなった戦術を身につけていた。
信長はうっすらとその青年の素性について考えていたが、明るみになったら怖いことを本能的に気づき、あえてそのことを放置していた。
話を京に戻す。信長は在京時、常に御所に付け届けをしていた。正親町天皇が公家たちに鯨の肉を配布したことがあり、それが言継卿記に記されている。これはなかなか手に入らない珍味であったこともあるが、各地の御料所を諸侯が押領し、天皇家の窮乏はここに極まっている。
信長は天皇の権威を回復することで国体を統一し、平安な世の中が来ることを願ってやまなかった。
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