秀隆の暗躍と京の平定
永禄11年 京。
秀隆は山崎屋の紹介状を手に商家を訪ねまわっていた。尾張の塩や陶器の売り込みである。ほか、伊勢でとれた真珠を持ち込んだところ、その粒の大きさと質に海千山千の商人が驚きを隠しきれなかった。しかも在庫が豊富にあると伝えたところ、秀隆への誼を通じようとする商人が増えてゆく。
尾張改造計画は秀隆がぶちあげた計画で、永禄8年ごろから徐々に進めていた。河原者をあつめ開墾を進めた成果は大きく出ており、鍛冶屋に作らせた金属の入れ物で酒を加熱し、酒精を濃縮して蒸留酒を作り出す。各地に派遣した行商人や、河原者のネットワークで、様々な情報を得ることができる。米よりは安価に入手できる穀物である麦を使った酒も開発し、行商人に持たせて巨利を稼ぎ出していたのである。
河原者の行商人を多く京に送り込んだ。山崎屋を拠点とし、行商人たちの逗留費用なども支払っていたことと、商品の仕入れなどに協力しており、お互いに利益を出す関係を作ることができていた。
同時に彼らは情報をばらまくことができる。織田家の領内ではいかに生活が豊かか、織田の殿様はいかに慈悲深いか、治安が良いことなどのうわさをばらまく。同時に下京には税、賦役を軽くし、今まで収奪する側に回っていた上京の住人を締め上げる。
庶民の支持を得ることが、国を治めるのに重要であるということで、信長と秀隆の意見は一致していた。それゆえに京の住民の支持は京都を維持するうえで最重要である。そしてここ京で織田家の名声が高まれば以後の進撃に大きな意味を持つのだ。
美濃攻略はもう1年前倒しにできたのである。だが、あえて1年待ったのは、周囲の状況を鑑みたことと、尾張を徹底的に開発するためである。織田家本貫の地であり、今後の織田家の飛躍を支えるための大量補給を支える一大生産拠点とすることが目的である。
物を作れば次は輸送である。物流を支える仕組みづくりは、尾張から美濃、北伊勢に及ぶ。街道を整備し、公道として税を執らない経路とする。実際関所破りは横行しており、それを取り締まる労力を別のところに振り向けようとしたことが発端であるが、便利で歩きやすく、治安のよい街道があることで、領内の商業発展は急速に進むのである。
美濃鍛冶の歴史は古く、関の孫六は有名な刀鍛冶である。金属加工のノウハウが大量に蓄積されていることでもある。秀隆は刀剣を作る以外の鍛冶師を集め、鉄砲の製造と改良を命じた。また、大鉄砲や大筒などの作成も命じている。
浅井との同盟で、近江国友村との交流ができたことで、技術の発展は急速に進んだ。というか、人員を国友村に秘密裏に送り込み、鍛冶師や職人を引き抜いた。これがばれたら浅井との関係が非常に悪化するであろうが、まあそうなったらそうなったで、軍事力にものを言わせるつもりの秀隆であった。
さて、今更だが秀隆は未来の歴史を知る身である。今のところ史実に準じて軍を進めていたが、これは秀隆の予想の範囲内で物事を収めるためでもあった。そして、尾張の生産力の向上や、街道の整備、商業本位の国造りで、織田の経済力は他の大名の追随を許さないものとなっている。
そして前年、秀隆は自重をやめた。まあ、今まで書いてきた政策の中にもそれをうかがわせるものはあったが、本格的に表立っての手を打ち始めたのである。
本願寺との戦いに備え、尾張南東部の城郭を軒並み強化した。外からはうかがい知れないが、城門、城壁の強化と耐火性の向上。投射兵器と食料を大量に備蓄し、長期間の籠城に耐えられるようにした。同時に番衆も増やし戦力は強化されている。
ほか、とりかかったばかりであるが、近江の街道の強化と街道を繋ぐ城の増築を指示している。また、近江南部から北伊勢に抜ける間道の整備も行っている。これは万一の浅井の離反に備えた一手であった。
将軍義昭の滞在場所として本圀寺が選ばれた。ここには光秀ほか護衛の兵が在番することとなっている。鉄砲の訓練を受けた兵が多く配され、弾薬も多く蓄えられた。
10月26日、信長は近江、山城の国衆に留守を任せ岐阜に帰還した。その前日、信長への褒賞を訊ねられ、管領や知行を辞退したうえで、大津、堺の支配権を得た。土地から上がる収益よりも、商業を支配したうえで物流を握ることがより大きな利益をもたらすことに気付くものはわずかであった。
岐阜に帰還した信長は真っ先に子供たちのところに向かう。目じりを下げて子供を膝の上に乗せ、撫でまわす姿はとても戦国の覇王とか言われる人間の姿ではなかった。京で入っときたりとも気の抜くことができない時間が続いており、疲れ切った信長はひと時の安らぎを得るのであった。
秀隆は妻子を連れてひそかに京に舞い戻っていた。行商人の拠点となる場所を山崎屋に集中すると一事あったときに機能不全になる。本能寺を訪ね、行商の上りを寄進することを条件に、行商人の保護を依頼した。今後ここは京での信長の拠点となる。そして秀隆による本能寺の改造が始まった。といってもひそかに地下通路を掘らせることと、堀を巡らせ櫓を建て、砦としての機能を強化した。
堺の商人、今井宗久とつなぎを付ける。鉄砲や弾薬の調達と、三好党の情報を流させること。見返りは干し椎茸の販売であった。実は椎茸の養殖が成功したのは昭和に入ってからである。それまではマツタケのように、山に分け入り収穫するしか事実上入手ができず、精進料理で大量に使うため寺社に持っていけば高値で売れる、文字通り高級食材である。
「安房守はん、どうやってこんだけのお宝を手に入れはったんですかのう?」
「宗久殿。おぬしは商品の仕入れ先を漏らすのかね?」
「これは儂としたことが、ご無礼を」
「いやいや、おぬしとはこれからも良き商売をしたいものじゃ」
「お互い様にございますよって」
この場では干し魚や昆布などの乾物を買い付け、逗留している宿に戻る。護衛の兵を引き連れ酒場に入った。そこでは尾張の麦焼酎が入荷したと張り紙に書かれていた。一杯頼むとやたら高い上に、水増しがはなはだしい。それでも頼む客は多く、普通の酒に比べて、これだけ水増ししても酒精が強い。秀隆はつまみに炙った干し魚をかじりつつ、酒の値上げを決意していた。
明けて永禄12年正月5日。本圀寺に三好党が攻め寄せていると注進が入った。信長はわずかな近習だけを率いて岐阜城を飛び出す。
将軍義昭と信長の最初の正念場である、本圀寺の辺の勃発であった。
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