美濃攻略と下剋上

 信長の下命により藤吉郎と小六らは井口を望む瑞龍寺山に潜み機をうかがっていた。半兵衛の残した爪痕は深く、竜興は国衆からの信望を失い、義龍の頃に彼を支えていた西美濃四人衆、すなわち稲葉良通、氏家直元、安藤守就、不破光治らも稲葉山に出仕することは少なくなっていた。

 特に安藤は半兵衛に積極的に協力したため、竜興の恨みが深くそのため織田の調略に飛びつくように応じたのである。

 竜興は斎藤飛騨の讒言を信じ込み、政務を彼に丸投げして酒色にふけったとされる。師とも兄とも慕っていた半兵衛の仕打ちに心を折られ落ち込んでいたようでもあるが、そもそも自分の立場を考えるとそんな暇があるわけもなく、刻一刻と破滅の淵に追いやられていたのである。


 ここで冒頭に話を戻す。井口の守りは固く、美濃一の堅城たる稲葉山は織田勢の侵入を阻み続けていた。ふもとの各務野の平原は兵を隠すにたやすく、織田勢を伏兵で撃退し続けた。先日半兵衛が用いた十面埋伏の計はその戦術の粋ともいえる。

 稲葉山南東の加納口は井口の守りを固める砦があった。藤吉郎は川並衆の精兵を率いてこれを焼き討ちし、砦を奪取せよとの命令である。

 ただ加納を攻撃しても陥落は難しく、小六と語らって兵を二手に分けた。小六が井口で放火し、混乱に乗じて加納から兵をおびき出し叩く。手薄になった砦を藤吉郎が奪いとる。

 口で言うのは簡単だが、美濃に潜伏できる兵の数には限りがあり、あまり大人数で入ってことが露見すれば彼らの命はない。

 初冬に入り寒風吹きすさぶ中、北寄りの風月要否を選んで小六は煙硝火薬を用いて井口の各所で火付けを行う。混乱に乗じて現れる番兵を倒し、夜陰に乗じて荒れ狂う。そして加納の砦に救援要請を装った偽伝令を送り込み、城兵をおびき出した。

 砦からも井口の火の手は見えており、そこに救援の要請があれば疑いをさしはさむことなく兵を出す。そこに藤吉郎率いる本隊が現れ、出撃した兵を一気に殲滅し砦を奪い取った。

 加納の地は川並衆の将領のうち、坪内兄弟が城代となった。坪内党の兵500がここに入り、先日落とした鵜沼の大沢党と合わせてこの地を守る手はずを整え、藤吉郎は小牧に帰還した。


 一方そのころ、都では変事が起きていた。近年畿内を支配していた三好筑前が身罷り、その先年嫡男の義興も不慮の死を遂げていた。養子の義継が後を継ぐが、一族の三好三人衆に権力を壟断され対立する。そのさなかに勢力を伸ばしたのが、長慶の家宰であった松永弾正である。三好に半ば降り、その中で対立をあおっていた足利義輝の存在が義継と松永には邪魔に見えたのであろう。

 松永弾正の誘導にかかって、三好三人衆は室町御所を襲撃し、足利義輝は無念の討ち死にを遂げる。

 内容は単純なもので、義継に長慶のついていたご相伴衆の役職を与え、同時に三人衆の追討令を出させるというものだった。これより彼らは3年の長きにわたって畿内で騒乱を起こし続ける。

 将軍家の血を引く興福寺門跡、覚慶は細川藤孝の手により救出された。

 兄の義輝に倣い、朽木谷に潜むが、三好党と手を組んだ六角承貞により追討の手が伸びたため、さらに北上し越前の朝倉氏を頼り落ち延びていったのである。


 明けて永禄8年、美濃の内紛は流血の沙汰にはならないが、稲葉山とそれ以外といった風で分裂の傾向を強めていた。ただし外的には共同して当たる方針は崩さず、大垣方面に出張ってきた浅井の兵を稲葉、氏家の兵が迎撃し、稲葉山からも援兵を出している。

 織田家は先年からの富国強兵をさらに推し進めた。幸い収穫は台風などの自然災害にも合わず、例年以上の取れ高であり、各城砦で食料の備蓄は昨年に倍する量に至った。

 小身の商人を保護し、税などで優遇した結果、行商人が増えた。彼らは無課税の公道を利用して領内の隅々まで入り込み、物流を担ったのである。

 モノが動けばすなわち銭が動く。織田家は減税した結果より多くの経済的発展を遂げ、より多くの税を得た。

「今は動くときにあらず。美濃は熟れすぎたる熟柿にていずれ自ら落ちてこよう」

 この信長の言葉は翌年、事実となるのである。

 道三の孫婿である秀隆はそのコネを最大限に利用した。特に稲葉、氏家、安藤の3名は、道三直筆の書状を見てほぼ転んだ。大垣に道三を連れてゆくのは当人が事あるごとに逃走を図るのでかなり難儀だったが、孫がかわいくないのか、ひ孫に会わせないぞとの脅しが功を奏し、西美濃大垣を含む一帯は事実上織田家の支配下になったのである。彼らは信長が挙兵したときに呼応して寝返ることとなっていた。


 また美濃北西部の不破氏も織田に降った。その際に菩提山の竹中重矩も降伏の密約を交わしていた。彼は半兵衛の弟にあたり、彼の妻女は近江の樋口家からきていたのである。


 秀隆の配下に北尾張に勢力を張っていた坂井一族が降っていた。坂井政尚を筆頭にその兵力を指揮下に置くことができた。木下兄弟は秀隆の与力から外れ、信長の直臣となった。軍政のできる部下をよこせとの秀隆の要望に応え、塙直政が派遣されてきた。武辺者だが、兵站などにも明るく、秀隆の後方支援を一手に担うのである。

 そして永禄9年、墨俣にはもともと一色の番所があった。渡河しやすい場所で、稲葉山の西を押さえることができる地点であったが、わずかな番衆がいたのみである。藤吉郎と小六は上流より、川の両岸に兵を伏せ、雨の降りしきる晩に奇襲をかけた。番衆はすべて討ち取られ、一色方が異変に気付く前に電光石火の業により墨俣の番所は壁と櫓が建てられ、砦としての構えを備えていたのである。切り込みを入れた木材を筏に組み、現地で組み立てるだけにしたことで作事の時間を大幅に短縮した。ひとまずの防御手段として竹束盾を大量に流し、これをもって矢玉を防ぐ。材木で柵を真っ先に作り、これにより敵軍の突進を阻む。そして要所には竹束盾を配置する。まず外を固め、そののち内部を整える。これは以前秀隆が策で偽の城を作ったときのやり方をさらに発展させたものだった。

 普請に気付いた美濃勢が押し寄せるが、鉄砲隊100と短弓兵を用いて敵を近寄らせないように防ぎ、その後方で黒鍬衆が決死の働きを見せ、築塁を急ぐ。最初の外部の柵は破られるが、そこで稼いだ時間で土塁が作られ守りは固くなる。一進一退の攻防が続くが、美濃勢は藤吉郎の防御を突破できず、砦のが見る見るくみ上げられてゆく有様を目にするのだった。そして頃合いを見てのろしを上げ織田本隊を呼び込む。

 さらに増援の2000ほどの一色勢が再度攻勢をかけてきたが、そのころには信長本隊が到着しており500の鉄砲隊の一斉射撃に蹴散らされ、美濃勢はついに退却していった。ここに墨俣築城はなったのである。

 木曽川の渡河点を抑えたことにより補給線や、出撃拠点を前に大きく押し込むことが可能になった。稲葉山は西美濃との連絡を絶たれ、もはやこれまでと稲葉山からは城兵の逃散が起き始めている。


 明けて永禄10年8月。信長は1万の兵を起こし、墨俣経由で井口に乱入した。同時に稲葉ら重臣折り犯が続出し、稲葉山は孤立する。さしもの堅城もこれではひとたまりもなく一色竜興は半月は粘ったが、秀隆の降伏勧告に開城を決意し、投降した。秀隆が使者として入ったときに同行していた老人がいたという。

 ここに信長の美濃攻略はなったのである。

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