閑話 長良川の戦い
弘治2年4月。美濃斎藤家、道三と義龍父子の相克は抜き差しならぬところまで来ていた。自らを前国主土岐氏の末裔と称し、父道三に反旗を翻したのである。両軍は長良川をはさんで対峙していた。
事の起こりは、義龍の決起であった。隠居して家督を譲られたのち、自らの支配力を縦横に広げた。そして、旧土岐家の勢力を支配下におさめたのち、弟二人を殺害して反旗を翻したのである。その時点で道三のもとにはそれまでの1割にも満たぬ兵力しか集まらない。尾張に救援をもとめるが、信長が動けないことは誰より道三自身がよくわかっていた。
「兵介。婿殿はいかに?」
「は、かなり厳しいお立場のご様子」
「ふむ、やはりか」
「はい、御舎弟とにらみ合い、今川の侵攻もあり、尾張北部の城主は義龍殿の手が及んでいるようです」
「ふむ、いっそこの状況で援軍を出せたら逆にすごいな。四面楚歌そのものではないか」
「さようですな。ですが、婿殿は項羽にあらず、韓信にござる」
「ほう、何をもってそう見た?」
「実は、清州のお城に赴いたとき、婿殿は兵を集めて御座った。舅殿を必ず救い出すと」
「ほう、しておぬしは何を言うてきた?」
「はい、手助け無用と」
「はっはっは、よくわかっておるわ。このしわ首一つに婿殿の手勢を傷つけてはならん」
「この猪子兵介、泉下までお供を仕る」
そこに使い番が駆け込んできた。
「申し上げます。義龍が手勢、迫ってまいりました」
「わかった、出陣じゃ!」
「殿、もう一つご報告が」
「なんじゃ?」
「織田上総介様、2000を率いて北上中です」
「今なんと申した?」
「織田の婿殿が救援に向かっております!」
「待て、おぬし、何者じゃ?」
「おお、もうばれましたか。拙者は織田上総が舎弟、喜六郎秀隆と申します」
「ほう、して何用にて参った?」
「はい、マムシ殿が身柄、私に預けていただけないでしょうか?」
「なんだと?」
「京都、桔梗屋のご隠居の女性をお忘れではないでしょう?」
「ぐ、むむ。貴様…」
「マムシ殿が国盗りを支えた内助の功。まさかお忘れと?」
「むむむ…降参じゃ。どうしたらよい?」
苦悩の表情を浮かべた道三だったがすぐにぱっと笑みを浮かべる。
「打って出てはなりませぬ。城を固めてくだされ」
「してその後はどうするのじゃ? 義龍が軍は15000、儂はいいところ2000じゃ。婿殿も2000ほどと聞いておる」
「ええ、そして我が麾下の蜂須賀党1500です」
「待て、貴様川並衆を手懐けたというか?」
「いえいえ、彼らの友となっただけですよ」
「なん…だと?」
「大したことじゃありません」
「うわっはっはっは。婿殿の舎弟か、面白い奴じゃ。よかろう、おぬしの策を話せ」
「墨俣に楔を打ち込みます」
「なんと? 確かにあの地を押さえられれば井口はのど元に刃を突き付けられた状態となろう」
「今頃小六殿が砦の修復を始めています。明日の朝には義龍殿は慌てふためくでしょうね…」
喜六郎の笑みに道三は背筋に冷たいものが走った。そもそも尾張北部を制しなければただの飛び地だが、逆にそこに拠点を築くことはすなわち尾張平定が成り、進出を仕掛けてきたとも見える。むろんただの脅しであろうが、それに気づいたときにはすでに遅い。義龍は歯噛みすることとなろう。
翌朝、長良川南岸に織田の旌旗が上がった。だが義龍の軍は動きに精彩を欠いている。墨俣が落ちた知らせが入っているようだ。状況は後詰め戦であるが、城方と援軍を合わせても寄せ手の3割ほどである。勝負にはならない。しかし、後方を遮断され本拠が脅かされているため士気が上がらない。そのまま丸1日にらみ合った。このまま手をこまねいていれば雑兵の逃散が始まりかねない。
翌朝、義龍軍は総攻撃を仕掛けてきた。城兵は果敢に戦い、攻撃を3度まで跳ね返す。その有様を見た織田軍が川沿いに東へ進みだす。それを見た義龍軍の一部がこちらに食らいついてきた。川を挟んで5000ほどの軍が織田軍に引き寄せられる。城の中からそれを見た喜六郎が動いた。
「マムシ殿。落ちる支度を。寄せ手は動揺しており精彩を欠いております。さらに、兄上の軍が墨俣へ向かうそぶりを見せたため、さらに動揺しております」
「うむ、打って出るか」
「一当たりしたら戻り、城に火をかけ、間道ぞいに脱出します」
「承知した。皆の者、よく戦ってくれた。おぬしらは義龍に降ってもよい、落ちるもよい。好きに生きよ」
城兵たちは主との別れを惜しみ涙にくれる。その後、道三自ら槍を振るい、数名の兵を突き伏せた。そこで討ち死にするものも出るが、寄せ手をさんざんに蹴散らす。そして、日が落ちるのを待って居館に火を放った。
寄せ手は慌てて城に攻め寄せるが、火の勢いが強く内部に入れない。すでに彼らには道三の生死を確認するすべはなかった。
墨俣に駆け付けた義龍の軍は、焼け落ちる砦を見て呆然としていた。織田勢は一人足りとも見えず、そこに軍がいた痕跡すらない。近隣の住民に話を聞き、怒声を上げた。布と紙を使って遠目に城に見えるようにしていただけだと、柵くらいしかたっておらず、中にいたのは兵ではなく野武士や山賊の類だったと。
報告を聞いた義龍は憤慨のあまり失神したとの報告を聞き、マムシ殿が大笑いしたと伝わっている。
半年後、稲生の戦いの戦後処理も終わったころ、清州の町で一人の行商人が新たな名物となっていた。永禄銭の穴を通して油を注ぎ、わずかでも銭に油が触れたらお代はいらぬと言う。すでに老齢であるが、かくしゃくとし、油を注ぐ手には一切の迷いがない。その横には穏やかな笑みをたたえる老女が付き添っていた。見事油をツボに注ぎ終わった後、観衆は拍手喝さいを上げる。油売りの老夫婦はお互い顔を見合わせた後穏やかに笑っていた。
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