稲生の戦いー内訌ー

 長良川の戦いの後、美濃斎藤の後ろ盾を失ったとみなされた信長への土豪たちの態度は急速に冷えていった。犬山の信清とは盟約がありすぐに攻められることはないが、失陥した鳴海には今川勢が入り、徐々に浸食を進めている。

 さらに決定的な出来事として、信勝が弾正忠を自称した。織田弾正忠家の当主の名乗りを僭称したことにより、信長との対立は抜き差しならぬものとなってゆく。


「ええい、あの戯けが。佐渡ごときにいいように操られよって!」

「兄上、落ち着きましょう。どうどう」

「ひっひっふー、ひっひっふー…って儂は馬か!?」

「兄上、いつから妊婦になったのですか?」

「お前が先日心を落ち着かせる呼吸だと吉乃に教えていたんだろうが!」

「子を産むときに心を落ち着かせる呼吸法だとはお伝えしましたよ?」

「なんじゃそりゃああああああああああ!」


 気を取り直して話を続ける。正直うつけ者と思われているこちらの陣営に味方する豪族は少ない。はっきりというならば劣勢である。

「して、信勝にどう対する?」

「兄上の腹案は?」

「一戦せねば収まらんだろうな。だが各方面の守りを考慮して、出せるのは1500だ」

「末森方は2500は出してきますでしょうな」

「ふん! 林佐渡ごときに負けるようでは尾張統一など夢のまた夢よ」

「して、いかに戦をお運びになりますか?」

「ふむ、あ奴らが出てくるとなると、篠木あたりであろうな」

「織田本家の倉入り地ですな、弾正忠の名乗りを正当化しようと?」

「そういうことじゃな」

「ふむ、なれば後詰め戦をしましょうか」

「ほう?」

「ここ、名塚の地に砦を築きます。そこを包囲させ、背後から敵を叩きます」

「なるほどな。なれば佐久間大学に命じよう」

「それがよいかと。まもなく刈り入れ時ですからな」

「実ったところを狙うということか。まあ道理じゃの」

「ですが、迷惑をこうむる農民が哀れです。可能な限りの手当てを」

「そういうものか…いや、そうだな、そうしよう」

 これまでの常識として戦の被害を領主が補償することはあり得なかった。だがそれは長期的に見れば自分の足を食らいつくすタコのようなものである。領民の力が衰えればそれは領土の衰退につながる。食っていけない農民の逃散はよくある話だった。だがそれを許していれば尾張の地は衰退し外敵の侵入を許すこととなることは明白であった。


 弘治2年8月24日、佐久間大学が築いた砦に向け、林美作率いる兵700が襲い掛かった。砦を守る佐久間勢は300あまり。折からの雨で足元はぬかるみ、川は増水していた。東から柴田権六が1000ほどの兵を率いて来援する。

 天候を見て、信長の援軍は来られないと高をくくった両名は包囲をし、佐久間に降伏を呼びかける。だが、信長から必ず加勢に行くと言い聞かせられていた大学はその言葉を退ける。林美作は急造りの砦を見て侮り、我攻めに攻めかかるが、足元がぬかるみ斜面を滑り落ちる。そこに水を流され、兵がそこらじゅうで泥人形のようになっていた。

「本来ならここで矢を馳走するところだが、同じ尾張の武士ゆえ、これで勘弁してやる」

 大学の挑発に乗った美作はさらにいきり立って攻撃を命じる。美作の目には正面の砦しか見えていなかった。

 柴田権六のもとに注進が入った。信長の兵が現れたと。その報に魂消て後方を見ると、清州衆1500が槍先をそろえて鬨を上げている。

 慌てふためいて兵を取りまとめ、迎撃の準備を整えようとするが信長の指示が速い。広がっていた陣列を各所で分断されてゆく。乱戦の中で林美作が討ち死にした。信長の放った投げ槍に胴を貫かれたのである。信長の大音声の怒号に末森衆の士気はは瓦解し敗走した。その有様を見た信勝は援軍をあきらめ、敗残兵の収容にとどまった。

 こうして稲生の戦いは幕を閉じた。この戦いで信長の示した武勇は土豪たちの心を動かし、日和見していた者がこぞってはせ参じた。

 剛勇をうたわれた林美作の戦死で、林家の武名は地に落ちた。信長と真っ向から斬り合い、一刀のもとに討ち取られたとの風聞が伝わっている。真っ先に蹴散らされ、敗因を作ったとされ、末森方の中でも発言力は大きく低下することとなる。


 荒子前田家は林の与力であったが、信長に臣従することを決めた。ほか、佐々、川尻などの有力な氏族がこぞって信長の下についた。これにより信長の動員兵力は一気に倍増したのである。


「兄上、このたびの不調法お詫び申し上げる。どうか許していただきたい」

 僧衣に身を包み、頭を丸めて織田信勝は兄の信長に土下座していた。母の土田御前のとりなしもあり、降伏が認められたのである。信勝の後ろには、柴田権六、林佐渡、津々木蔵人ら、信勝の重臣も同様の姿で頭を下げていた。

「よかろう、だが次はない、そのことを肝に銘じよ」

「はは、ありがたき幸せにござる!」

 地面にこすりつけた額の下の顔は苦渋に歪んでいた。信勝の叛意はいまだなくなっていない。信長は鋭敏にそれを感じ取っていた。

 柴田権六は、実際に戦場に立って対峙し、信長の恐ろしさを骨身にしみて感じていた。韓信もさながらの軍略と、林美作を一刀のもとに討ち取った武勇。こちらの軍を一気に怯ませた気概。権六は信長の中にいまだ敬愛している主君、信秀の面影を強く感じ取っていた。

 権六は単純な男である。自らより上と認めた信長に忠義を尽くす心になっていた。そして信長は詫びを入れた権六にわだかまりなく接してくれていた。その気遣いが権六の心を揺さぶっていた。


 林佐渡守秀貞は先年より那古野城の城代に任命されていた。このたびの戦いで信長に敵対したため、この任を解かれることを覚悟していたが、林家の罪は弟の美作が結果的に手打ちにされたため、これ以上は問わぬとの通達に一瞬耳を疑った。目付に佐久間半介が来たが、これも古くからの同輩であり、特に問題はない。領土を削られることもなく、前田家の与力からの解除はあったが、致命的ではない。信長の寛大な措置に、その認識を改めていくこととなった。


 これにて織田弾正忠家の内訌はひとまず収束を見せたのである。だが信勝の叛意はいまだ収まらず、火種はいまだくすぶっていた。

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