Fの叶えた夢
水野 洸也
第1話
―本当の戦争の話をしたのが誰であったのか きみは答えてくれるかい
―いやはや あなたという人は 二週間ぶりに会っての第一声がそのようなものでいいのですか 本当の戦争の話をしようと言ったのは疑いもなくティム・オブライエンというアメリカ出身の作家であり そう翻訳したのは誰がどう口を挟もうと村上春樹以外に存在しないじゃないですか あなたはどうやら このわたしが二か月ほど前に貸した本についての記憶をすっかりどこかに捨て去ってしまったようですね
―はははすまないね 何かに熱中していると それ以外のことを考えるのがほとんど至難の業になってしまうのだ それこそ星を観察するのに夢中で 足元の井戸に落ちてしまい どこかの外国の女に手痛くしてやられたあの自然哲学者のようにね
―とすると わたしの貸したあなたにとってのその本は かの自然哲学者にとってのその井戸と同等の価値でしかない ということになりますね なかなか心外ではありますが あなたの熱中しているものというのは それほど壮大なスケールに基づくものなのですか
―それはもう おのれの全人生を賭けているほどのものだ 戦争どころじゃないよ
―そこまでのものであれば仕方がないですけどね まったく
―許してくれたまえ ところでぼくたちはどんな話をしようとしていたのだろうか 何か特別なことを思い出したから それをきみに話してやろうと意気込んでいたのだけれど きみの顔を見た瞬間にどうしてかぼくは 本当の戦争の話をしようという非常に愉快な翻訳小説のことを思い出してしまい きみに話してやりたかったことのすべてを 再び記憶の片隅に追いやってしまったのだ
―つまりあなたは 本当の戦争の話をしたのが誰だったかというそれだけが気になってしまい そのじつそれと同名のタイトルの小説を二か月ほど前にわたしから借りたということは まったくのところ意識の外側だったというわけですか
―そうなのだ ぼくが気になってしまったのは 戦争の話をしたのが誰だったかであり それが小説としてどのようにして書かれ なぜそれがぼくにとっての気がかりだったのか そういったことにはまるで関心がなかったのだ
―あなたはわたしがいなければ 今ごろは友人の誰とも口をきかないまま この小さな一軒家で孤独に哲学ばかりしていたでしょうね
―うん ぼくもそのように確信しているよ ところで さあ ぼくに思い出させてくれたまえ ぼくが一体何について話そうとしていたのかを
―あなたが話そうとしていたこと それは空を散歩することを夢見て 実際にそれを実現させたある男についての物語以外に何もないじゃないですか
―そうだそうだ 何かそのようなことだったはずだ しかしぼくは そんなことを話そうとしていたのか どこにでもあるような ありふれた物語を
―わたしに言われても困ります なにせわたしは あなたからの連絡を受け取ったさい そういったことしか聞いていませんでしたから でもわたしとしては その空を散歩した男の話はやけに聞きたいと思ってしまったのです 召使いの子どもの話しぶりが良かったのかもしれません なぜならこの手の話は彼らにのみ許された特権物ですからねえ それでわたしも つい子ども時代を思い出してしまい ここまでわざわざあなたを訪ねてきてしまったと そういうことなのです
―あの子はたしかに きみの小さかったころにそっくりなところがあるね けれどもこのぼくにしても 昔はきみと同じ学生で その体つきにしてもよく似ていたものだよ ちょうどそのころ ぼくは哲学することを学んだのだ あの時ぼくを指導してくださった先生は 今ごろどこで何をしているのだろうなあ
―そのお話についても興味が尽きませんが さあ そろそろよろしくお願いしますよ
―ん きみはこのぼくに これ以上の何を望むのかね
―決まっています つまりあなたがわたしに 空を散歩することを夢見て 実際にそれを実現させた男の話をしてもらえれば 今のところはそれで満足なのです それでわたしはあなたを開放するでしょうし おそらくはその後に行なわれるであろう世界の原理についての探求にもすんなりと入っていけるでしょう
―ということは きみには何もかもが筒抜け ということか
―そうです 本来の目的がそれであることは百も承知です しかし話の仕方如何によっては わたしはあなたをすっかり軽蔑してしまうでしょうし 哲学的問答ともおさらばを決め込んで ここから即刻出ていかなくてはならないでしょうね
―それでは ぼくはきみの ぼくにとっての唯一の話し相手であるという立場を きみ自身の手によって奪取されないために これからする話を うんと力を込めて話して きみをおおいに納得させなくてはならないと こういうことかね
―おっしゃる通りです
―ならば仕方があるまい 少し長くなるけれど 時間の方は大丈夫だろうね
―いつもより多めに取ってあります しかしこれから港に友人を送り届けなくてはならない用事がありますので 問答のこともありますから できるだけ手短にお願いします
―あいわかった では始めるとするか では そこに腰掛けてくれたまえ
まず言っておかなければならないのだが ぼくがこれから話す内容というのは 誇張もなければ偽りということもありえない すべてがぼくの目の前で起きたことだ このことはあらかじめ きみに了解しておいてもらいたい 後できみに まるでこれまでひた隠しにされていた出生の秘密を告げられて どうすればいいのかがわからずただ途方に暮れる子どものような顔に なられては困るからね
―わかりました よく気をつけておきます
―ところでぼくが まだ子どもだったころ ぼくには一人の友人がいた 彼のことは仮にFとでもしておこうか Fはぼくより二つ年下で 背の低いちょこまかした男だった 人前で歩くときや走るとき 前かがみになる癖があってね それでいっそう 彼の背の低さが強調されたものだ それでも何かに腰掛けているときは 彼の姿勢はほかの誰よりも整っていたのだし 箒で枯れ葉を掃いたり 布で床を拭いたりするときでさえ このような作業にかかずらっている最中は それがどれほどの人物であろうと 得てして姿勢が悪くなるものなのだが 彼の場合そのようなことはなく 姿勢の悪さは徒競走などで運動するときに限られていたのだ 今にして思うのだが おそらく彼は 誰かに見られているということが我慢ならず それを意識してしまったが最後 彼の中に潜むトラウマのようなものが発動してしまい それであのような前傾姿勢になってしまっていたのだろうね ほどんど注目のされないような個人活動が かえって彼の得意分野であり てきぱきした動作といい 美しい姿勢といい 別の意味でぼくには目立って見えていたものだ
彼の笑顔というのも忘れることができなくてね 世の中を僻んでいるようなものでもなし かといって幸福から自然と立ち現われてくるものでもない 何とも言いがたい不思議な微笑みだった 当時はぼくも若かったから 笑顔についての謎を解き明かそうと 彼にいろいろ失礼なことを訊ねてしまったよ けれどもそのときでさえ 彼はあの微笑みをたたえたまま そのじつ何も答えてはくれず そうしてそのまま 空に旅立ってしまったのだけれどね
―話の本題に入る前に そのFとやらの友人についての人物描写だけで 約束しておいた時間が来てしまいそうですね
―おお それはすまないね きみがそのように言ってくれたおかげで ぼくがこのまま Fについての基礎的な語りだけで済ませてしまうという きみにとってもぼくにとっても 絶対に避けなければならない事態を こうして避けることができたわけだ
―まったく頼みますよ こうしてあなたの話を心待ちにしている一人の人間のためにもね
―わかっているさ けれども懐かしくてね つい言葉が あらぬ方向にまで延びてしまうのだ
話を続けようか ぼくはFとはよく遊んだよ ぼくたちはいわゆる無二の親友だったのだ どうやらぼくたちは 友人として非常に相性が良かったらしいね 喧嘩をしたことは何度かあったが 次の日には互いのことを認め合い 再び一緒にふざけ回ったものだ いつごろ仲良くなったのかはよくわからない 気がついたらぼくの傍らにはFがいた
二人して何かを真面目に語り合うというのはあまりしなかったのだが 唯一彼が真剣な顔で話してくれたことというのは 将来の夢についてだった それがきみ 先ほどからさんざん引き延ばしにされていた 空を散歩したい という夢だったのだよ それを聞いたとき ぼくはFの頭がおかしくなったのではないかと思った ぼくは何かを言い返そうとした 子どもゆえの残酷な一言をね けれどもどうやら Fは本気で 自分がいつか空を散歩できるものと信じていたらしかった それもただ やみくもに信じているという類いではなく 何かしらの根拠あってのものだということが 彼の表情から見て取れた それでぼくは何も言えなくなってしまった 彼は昔からその手の話の収集家でね これまでいくつもの冒険譚や おとぎ話めいたものが彼の口から語られてきたが そんなときの彼の顔ともまったく別の表情だった それでぼくは Fに何ら反対意見を唱えることができず 彼と熱い結託を交わしたあとは むしろすすんで彼の手伝いをするようになったのだ
ぼくの手伝ったFの作業というのは 何かこのようなものだった まずは前準備として 空に向かって伸びる長い階段を作る 誰かに見られるようなことがあってはならないから とある条件下でまったくの透明になる材木を使用した マケドニアの特定の森にしか生えない木で ぼくたちはその木を地元まで運んできては せっせと切っては削ったものだ ぼくの父親は建築家でね このぼくにしても その手の知識というのは幼くして叩き込まれており この階段というのも 不完全ながら設計が可能だったのだ けれどもぼくたちはまだ ほんの子どもだったから この前準備だけで六年を費やしてしまった それでようやく 地上百メートルまで伸びるその階段が完成したのだ これが終わると次は 空を安全に散歩できるよう その地上百メートルのところから 一キロメートル四方になるよう床板を張りつけるという作業が待っていた これもまた マケドニアの特定の森にしか生えない木を使用した この作業にはかなり手こずらされてね 床板を地面と平行に張りつけるというのもなかなかだったが 板を一枚ずつ 階段を上り下りして運ばなくてはならなかったから 一日あたりの作業量も目に見えて減っていった 人夫を雇えるような歳でもなかったからね それにこれは ぼくたち以外の誰かに見られてはまずいものだったから どうしたって二人だけでやり遂げなくてはならないものだった これにはさらに九年の歳月を費やした ようやく完成してからは 最後にF自身を透明にする作業を行なった これにはさほどの時間はかからず たったの半年で済んだ これで土台がすべて整ったということで あとは実際に空を散歩するだけ という段になった 二人して階段の正面に立ち これでもう きみは満足だろうね とぼくはFに言った すると隣から うん きっとそうなのだろうね という声が聞こえた そのとき彼は微笑んでいるような気がした なにせ透明になってしまったからね 彼がそのときどんな表情をしていたのか 今もって謎のままだ それから少しして 十五年と半年経ったそのときでさえ 小さいままだったその体で Fは階段をものすごい勢いで駆け上がっていった これまで不格好にしか走れなかった彼しか知らないぼくとしては その元気な足取りには嬉しいものがあった それでぼくは堪らなくなってしまい 一緒に階段を上ろうとした けれども階段はどこにもなかった もう誰も上ってこられないよう Fが上から撤去してしまったのだ あとのことはわからない おそらく今も Fは空を 一人で自由に散歩していることだろうね
―以上があなたの 空を散歩することを夢見て 実際にそれを実現させた男についての話というわけですか
―ああ これで終わりさ これでぼくは きみから解放されるだろうか それともさらなる 追及が待っているのだろうか
―わたしは終始不安でした この話がわたし以外の誰かに聞かれていやしないか とね だからわたしは あなたの話に耳を傾けながらも たえず辺りを警戒していなければなりませんでした
―それは大変だったね しかし きみはなぜ そのようなことをする必要があったのだろう
―誰かひどく酔った男があなたのところまで走ってきて 手に持った一升瓶で以ってあなたの頭を勢いよく殴りつけるようなことがあってはならないと わたしの頭にはそれしかなかったからです
―ほう それというのは ぼくが先ほどまで続けていた話が 彼にとって歓迎すべきものであったからかね それとも この手の話は彼の望むところのものではなく 酔った勢いに任せた怒りの一撃 というわけかね
―どちらの意味であるのかは あなたのご想像にお任せしますよ
―では もしも彼がぼくの話に非常な満足を覚えて それでつい興奮してそのような行為に至ったのであれば ぼくとしてもそれは嬉しいことだから 彼の頭を一升瓶で以って同じように殴りつけて ともに喜びを分かち合うだろう もしもそうではなく 彼は怒り心頭であり これ以上そのようなふざけた話をすることは許さないぞ といった意味合いの攻撃だったのだとすれば ぼくは彼の 一升瓶を持った方の腕を掴んで彼の攻撃を阻止し 彼に詰め寄り 何かこのようなことを告げるだろう きみの物語とぼくの物語は 根本的に違うものなのだ とね そしてそれは絶対的なもので 変更の効かないものなのだよ とも
―あなたのおっしゃりたいことは わたしにはよく伝わりました 港で待ち合わせをする友人には 遅くなるかもしれない ともすると見送りにも行けないかもしれない という連絡を 例の子どもにでも伝令させた方がよろしいのかもしれませんね
―さすがはぼくの一番弟子 といったところだろうか きみが長くここに留まってくれる ということだけを取ってみれば それはぼくにとっては喜ぶべきことなのだろうが 港で待ちぼうけをくらうことになってしまうきみの友人のことをかんがみるととてもそう断言はできず 友人は大切にしなくてはならないよ というおせっかいを きみにやかなくてはなるまい 自分の届かないところにまで 彼が行ってしまわないうちに という言葉も付け加えてね
―この運命に囚われの身になってしまった友人を救うべく 早いところ問答に入った方が良さそうですね
―そうだね では ぼちぼち始めるとしようか 世界の原理についての ぼくたちだけの対話をね
Fの叶えた夢 水野 洸也 @kohya_mizuno
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