第三章 背中合わせのライラ⑦【書籍用改稿版】

 彰文は〝栞〟から悪魔の書架のポータルへと転がりでてきた。


「彰文!」


「彰文くん!」


 かりんと浩太郎の声がする。


「ただいま……」


 彰文はゆっくり起きあがった。

 浩太郎が殴りかかろうとしてから、思い直したように抱きついてくる。


「馬鹿野郎……」


 浩太郎がかすれた声で言う。


「ごめん……」


 彰文は謝る。いい友人を持ったと思った。


「彰文くん、よかった……」


 かりんが涙ぐんでいる。


「ありがとう。ふたりのおかげだよ。君たちの声が、僕と現実を繋いでくれた」


「ひとりなの? ライラは?」


「ひとり?」


 彰文はあわてて自分の手を見て、それから周囲を見回す。


「そんな……」


 彰文は一瞬、絶望を感じた。

 だが、すぐに気がついて、不安を打ち消すように首を強く横に振る。


「いや、僕は覚えている」


 彰文はさっきまで、彼女と繋いでいた手を静かに握りしめた。


 彼女はここにではなく、現実に帰ったのだ。

 彼女がいるべき場所へ――


「二度と忘れたりしない。僕にとっていちばん大切で、最愛の人のその名を……」


 彰文は自分の手を見つめながら言った。


「おかえり、千尋」


「千尋って、誰だよ……」


 浩太郎が首を傾げる。


「穂村千尋さんよ。彰文くんが入っていた作品世界の作者でしょ? もう忘れたの?」


「そ、そうだった……」


 浩太郎があわててうなずく。


「いずれ、紹介するよ。千尋は、僕の彼女なんだ」


 彰文は浩太郎に笑いかけた。


「なんだって! ちょ! いつのまに……」


「えっ? えっ? どこまでの関係なの?」


 かりんが興味津々に訊ねてくる。


「まだ告白さえしていないよ。そういうのはこれからだ」


「それは、脳内彼女っていうんだ」


 浩太郎が笑う。


「私、穂村千尋さんとは会ったことがあるの。だけど、彼女がシミに取り込まれて、忘れてしまっていた……」


 かりんは一冊の本を手にしていた。


 作品名は『背中合わせのライラ』、そして作者名は穂村千尋。


「よかった、消えていない……」


 彰文は安堵する。


 作品が崩壊して消滅したのかと思ったが、あれはシミの影響を脱し、再構築される過程だったのだろう。


「開くこともできそう。読むのはちょっと怖いけれど」


 かりんがそう言って、表紙をめくろうとした。


「できれば、読まないでほしいな……」


 彰文はあわてて止める。


「それは、千尋が僕に読ませるためだけに書いた作品なんだ」


「えっ? あの穂村さんが、彰文くんのためだけに?」


 かりんが驚く。

 鼻息がすこし荒くなる。なにかツボったのだろう。


「勝手にやってろって感じ」


 浩太郎が苦笑した。


「おかえり、彰文氏。君がシミに取り込まれなくて、嬉しく思う。そして穂村千尋氏を連れもどしてくれたことを感謝する」


 本の悪魔が声をかけてくる。


 彰文が振り返ると、悪魔は恭しくお辞儀をした。


「アイツが……」


 彰文は悪魔に報告しようとした。


 脳裏に六枚の翼を背負う巨人の姿が浮かぶ。

 だが、次の瞬間、その姿は闇のなかに溶けるように消えていった。


 彰文は額を指で押さえる。


 しばらくすると、なにを言おうとしたのかすら思い出せなくなっていた。


(記憶を書き換えられたのか?)


 あるいは、悪魔の管理外にある記憶には、修正力が働くのかもしれない。


「……何者かが、シミを操っています」


 彰文は言い直した。


「僕はそいつを決して赦さない。いつかかならず倒します」


 強く誓う。


「彰文……」


 浩太郎が呆れたような顔をする。


「おまえ、現実から消えてなくなるところだったんだぞ?」


「危険は覚悟のうえだよ。ただ、こんな無茶はもうしない。それは僕のスタイルじゃないから。時間をかけ、情報を集め、分析し、真の敵を探しだし、追いつめる」


 彰文は真顔で答えた。


「おまえ、やっぱ、怖いわ」


 浩太郎が顔をひきつらせる。


「頼もしいというのよ。クリエイター仲間もきっと彰文くんを歓迎する。そのうち、みんなを紹介するわね」


 かりんが微笑んだ。


「ありがとう。でも、今日は限界だ。現実世界に帰るよ。とても大事なこともあるから」




 そして片倉彰文は現実世界にもどった。


 東京の自分の部屋。


 今は午後十一時。ほぼ一時間、彰文はあちらの世界にいたことになる。

 だが、何百年と留まっていたような、しかし一瞬だったような不思議な時間感覚が残っている。


 彰文はスマホを取り出し、画面を見つめた。


 そして待つ。


 しばらくして、呼びだし音が鳴った。


 彰文は画面に向かって、指を動かす。


 そこに表示される発信者の名前は――

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