エピローグ

エピローグ

 片倉彰文は自宅近くにある小さな公園のブランコの柵にもたれかかっていた。


 目の前には、中学の制服を着たひとりの少女がいる。


 ブランコに腰をかけ、両手でぎゅっと鎖を握っていた。


 彼女は穂村千尋。彰文の幼なじみ。

 家が隣どうしで、ふたりともひとりっ子だったから、姉弟のように育った。

 千尋のほうが一学年上。


 千尋はさっきまで屈託なく笑っていたが、今は顔を伏せている。


「そう……、東京の中学に、転校するの……」


 千尋が絞りだすようにつぶやく。


 長い髪が流れ落ち、彼女の表情を隠している。

 か細い肩がかすかに震えていた――



 これは夢ではない。

 現実でもない。

 

 ここは千尋が書いた『背中合わせのライラ』の作品世界。その冒頭のシーン。


 千尋から電話があり、ここで落ち合おうと決めたのだ。


「千尋……」


 彰文は覚悟を決めて、声をかける。

 今さらながら、ひどく緊張していた。手足が小刻みに震えている。


「離ればなれになるから、今のうちに伝えておきたいんだ。僕は千尋のことが好きだ。どうか、僕の彼女になってほしい」


 ベタな告白だと、彰文は我ながら思う。

 あれほど本を読んできたのに、気の利いた言葉がなにひとつ出てこない。


「やっと聞けた……」


 千尋がゆっくりと顔をあげる。

 すこし涙ぐんでいたが、笑顔だった。


「わたしも彰文くんのことが、ずっと好きだった」


 千尋がブランコから立ち上がり、身体を預けてくる。

 彰文は千尋の背中に手を回し、強く抱きしめた。

 千尋が小さく喘ぎ、頬を寄せてくる。


「……ここだと、キスできないね」


 千尋が囁く。


「そうだね」


 彰文は苦笑した。


 自分たち以外のあらゆるものが消えて、ふたりだけの世界になってしまう。


「この週末、東京に行くね。両親には、もう伝えてあるの。彰文くんに会いに行くって」


「おばさんたちは、なんて?」


「どうして夏休みのあいだじゃないのかって。その通りよね」


 千尋がくすりと笑う。


「キスはそのときにね。ううん、それ以上のことも……」


 彰文は顔を赤くしながら、うなずく。彰文もそれを望んでいた。


「僕に勇気がなかったばかりに、とんだ遠回りだった。今回のことがなかったら、僕は千尋の読者で終わっていたと思う」


「こんな形で、伝えちゃってごめんね……」


 千尋が彰文から離れ、隣に並び、ブランコの柵に腰をかける。


「彰文くんは、わたしと真逆の女の子が好きなんじゃないかって不安だった。東京に行ったら、わたしのことなんて忘れるかもって不安だった。いつか最愛の女の人と出会い、幸せになるんだろうなって思った。だけど、心のどこかで願っていた。それが、わたしだったらいいなって」


「この作品世界には、その想いが潜んでいた。だから、ライラは千尋になれた。そして僕は千尋を連れ帰り、現実が書き換わった……」


「わたしは、わたしなのかな?」


 すこし不安そうに千尋がつぶやく。


「僕は物質は絶対的なものだと思っていたけど、どうやらそうでもないみたいだ。アカシックレコードが書き換わると、現実にも影響するぐらいだしね。世界は意外にあやふやだよ。デカルトの言葉じゃないけど、千尋が今の自分を自分と思うかぎり、僕にとってそれは千尋だよ」


「そうね……」


 千尋が微笑む。


「彰文くんが、わたしをわたしと認識してくれるなら、わたしは今のわたしでいい」


「こんなことがあったけど、千尋はこれからも作品を書く?」


 彰文は訊ねてみた。それが、ちょっと不安だったのだ。


「もちろん……」


 千尋が静かにうなずく。


「彰文くんに読んでほしいもの」


「そう言ってくれるのは嬉しいけど、千尋の作品は大勢の人に読んでほしいな。僕だけが読者の作品は、これだけでいい」


 彰文はそう言って、プラトンと対話するアリストテレスのように地面を差す。


「いつか、彰文くんの作品も、読んでみたいな」


「僕は読者でいいよ。そのほうが楽だ」


「それなのに、クリエイターなのね」


「読み手だって、クリエイティブなんだよ……」


 作品世界を補完しているのは、大勢の読者なのだ。


「それに……」


 彰文はそう言いながら、ブランコの柵から離れた。

 スマホを取り出し、高く宙にかざす。


「なにをするの?」


 千尋が不思議そうに訊ねてくる。


「出ておいで、ライラ。僕の夢魔……」


 次の瞬間、スマホから赤い光が溢れ、ひとりの少女が姿を現す。


 最初は胎児のように身体を縮めていたが、まず目が開き、次いで手足と翼を大きく広げた。


「まだ出番じゃありません!」


 ライラはひどく怒っていた。


「彰文さまはやっぱり浮気者です! この世界では、わたしのものだって、約束してくれたじゃないですか? なのに、こんな場所で千尋さまとイチャイチャするなんて! 作品の修正力が働きますよ。いえ、わたしがシミになって、邪魔したい気分です」


 ライラは激しく翼をはためかせ、尻尾を横に振り回す。


 彰文と千尋がしていたことが見えていたようだ。


「この世界でも、他の世界でも、ライラはこれからもずっと僕のパートナーだよ」


 彰文はそう言って、彼女の翼を優しく撫でる。


「ご、ごまかされませんから!」


 ライラが言うが、口許がすこしぴくりとなった。


「わたしのパートナー、取られちゃったな」


 千尋が涙を指で拭いながら、彰文の側にやってくる。


「千尋さま!」


 ライラが千尋を振り返ると、翼をはばたかせ、文字通り飛びついてゆく。


「現実に帰れたのですね? よかったです」


 シミになって邪魔すると言いながら、ライラは涙を流して喜んでいる。

 こういうところが、ライラの愛らしさだ。


「あなたと彰文くんのおかげよ」


 千尋がライラを優しく抱きしめる。


「背中合わせのライラ、なりたくてなれなかったもうひとりのわたし……」




 この作品は決別の物語だ。

 後悔しつづけた過去の思い出との――

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