第三章 背中合わせのライラ⑥【書籍用改稿版】

 彰文が家に帰ると、部屋のなかに、古川栞奈が待っていた。


 彰文は、大きくため息をつく。


「ライラ、それはいいから……」


「作品どおりですから!」


 栞奈が笑い、くるりと一回転して、ライラの姿にもどる。


 ライラはふたたびくるりとまわって広野詩音の姿になり、さらにまわって新田恵利花になる。

 最後に穂村千尋になり、その姿のまま、じっと彰文を見つめた。


 ここは、そういうシーンなのだ。


 最初にこのシーンに来たとき、ライラにはそうとわかったらしく、作品どおりに演じた。


 二回目以降も、新しい発見がないかと思い、何度か演じてもらっている。


 だが、今はそんな気分ではなかった。


「もどってくれ!」


 彰文は強い口調で言う。


「ごめんなさい……」


 ライラがびくりとなり、変身を解く。


「……こちらこそ、ごめん」


 すこし落ち着いてから、彰文はライラに謝った。


「なにか、あったんですか?」


 ライラが近づいてきて、彰文の頭を優しく抱える。

 彰文は、学校でなにがあったかを話した。


「これが最後……」


 ライラが息を呑む。


「僕はどうすればいいんだ……」


 彰文は涙が出てきそうだった。


 千尋を捨てて現実に帰るか、現実を捨てて千尋とシミになるかの決断を迫られている。


「だけど、僕が探しているのは、千尋を現実に連れ帰るという第三の答なんだ」


「彰文さまには、もうわかっておられるんじゃないですか?」


 ライラが声をかけてきた。


「なんとなくね。でも、それが間違っていたら、僕はこの手で千尋を殺すことになる。しかも、それを忘れてしまうんだ」


 その罪を背負って生きてゆけるなら、まだましだとさえ思う。


「彰文さま……」


 ライラが彰文の頭を撫でる。

 子供の頃、千尋がいつもそうしてくれたのを思い出す。


「このあと、僕はライラと一緒に海へ行く。夜の浜辺で花火を見る。秋祭りで屋台を巡る。クリスマスをふたりで祝い、こっそりシャンパンを呑む。炬燵のなかで、テレビを見ながら、一緒に新年を迎える。バレンタインデーには、ライラが手作りのチョコレートを渡してくれる……」


「何度ループしても、わたしは楽しみです。いえ、繰り返すたび、彰文さまのことが好きになります」


「それは僕もだよ。この世界では、それでいいんだと思う。僕はライラに惹かれ、千尋を忘れてしまう。これは、そんな物語なんだから……」


「このまま、彰文さまとふたりで、永遠にループできればと思っていました……」


 ライラが悲しそうに言う。


「ですが、彰文さまは現実世界に帰ってください。わたしはこの作品世界の存在ですが、彰文さまは違います。現実こそが、彰文さまのいるべき世界です」


「それは千尋もだよ……」


 彰文は顔をあげ、ライラを見つめる。


「それに、千尋を助けないと、僕はこの作品の存在を忘れてしまう。つまり、ライラのことも忘れてしまうんだ。そして、この世界で千尋とキスをすれば、ライラは消えてしまう。ライラを失わないためにも、僕は千尋を救わないといけないんだ」


「彰文さま!」


 ライラは涙を流しながら抱きついてきた。


「だから、楽しもう」


 彰文はライラに囁く。


 ふたりで過ごす最後のループを――



 水着のライラ。

 浴衣のライラ。

 サンタ服のライラ。

 振袖のライラ。


 まるでスマホゲームのキャンペーンのように、ライラのコスチュームはシーンごとに変わる。


 千尋がなにを思いながら、これらのシーンを書いたのか、彰文にはわからない。


 ただ、ライラが楽しそうにしているのを見ていると、彼女もそうだったのかなと思う。


 もちろん、自虐的な気持ちもあっただろう。


 だが、千尋はライラに悪意を抱いていないように感じる。

 すくなくとも、古川栞奈や広野詩音のようには。


 だから、千尋はライラを彰文とともにパートナーにしていたのだと思う。


 この作品は、千尋の他の作品とは違い、誰にも評価されないだろう。

 だが、彼女にとっては特別なのだ。


 そしてシーンは千尋の卒業式の日になる。


 彰文は在校生代表として送辞を読む。これも現実であったことだ。

 心のなかでは、千尋に向けて、贈ったつもりだった。


 式が終わり、校庭に出て、在校生は卒業生を拍手で送る。

 このときも、千尋しか見ていなかったと思う。


 夢のなかで、シミと戦ったのは、おそらくこのシーンだ。


 六翼は出てこない。


 おそらく、あれは闇に堕ちたクリエイターで、創造の力を使い、自分の理想のため、アカシックレコードを書き換えようとしているのだろう。


 管理者たる本の悪魔をあざ笑うように、天使を気取り、あの六翼の姿をアバターとしているのだ。


(僕はおまえを絶対に赦さない)


 彰文は心のなかで誓う。


 この作品世界から帰っても、クリエイターとして戦いつづけるつもりでいる。


 たとえ、この作品世界のことをすべて忘れたとしても、その思いは変わらないはずだ。


 そして戦いつづけていれば、いずれヤツと出会うだろう。



 卒業式が終わり、舞台はまた彰文の家になる。


 彰文は千尋の家に、別れの挨拶にゆく。


 明日には引っ越すからだ。


 本当はもっと早く引っ越す予定だったのだが、千尋の卒業を見送りたいからと両親に頼んで、延ばしてもらったのである。


 だが、千尋の家に挨拶に行ったとき、彼女は出てこなかった。


 部屋で泣いているみたいだと、千尋の両親が申し訳なさそうに言う。


 千尋がこの作品を、彰文宛に送ったのは、このときだという。



 荷物がなくなり、がらんとした部屋で、彰文は生まれ育った家での最後の一夜を過ごそうとしていた。


 向かいの窓には、夜になっても灯りがつかない。


 そして部屋にはライラがいる。


「今日でお別れです」


 ライラが神妙な顔をして言う。


「わたしは一緒には行けないのです」


 彰文は黙ってうなずく。


 作品のなかで、彰文はどうしてか訊ねたことだろう。


 ライラと離れたくないとも言ったはずだ。


 どうしてもです、としかライラは答えない。


 おそらく、千尋が知らない場所には、ライラは出現できないという設定なのだ。


「最後のお願いです……」


 ライラが言う。


 そして、あの台詞を続けるのだ。


「どうか、わたしとキスをしてください。ですが、わたしとキスをすれば、大切な人が失われます」


 ライラの表情はとても真剣で、命をかけた告白のように思える。

 ある意味、その通りだ。運命の時が刻々と近づいている。


「僕はいつも、ここで逃げていた」


 向かいの窓、暗闇のなかから、千尋が見ているはずだ。


 彰文がどんな答を出すのか見届けようと、冷たい笑みを浮かべながら……


「千尋、これが僕の答だよ」


 彰文は言葉に出し、ライラを引き寄せた。


 ライラが驚き、一瞬、目を見開く。


 だが、すぐに目を閉じ、かわりに唇を薄く開く。


 彰文は神聖な儀式を行うかのように、静かにライラと唇を重ねた。


 向かいの窓は見ない。


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 大切な人など、もはやライラ以外にいないのだから――

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 そんなフレーズが彰文の脳裏に浮かぶ。


 それを打ち消すかのように、大声で叫んだ。


「だけど、それはこの作品世界では、だ!」


「彰文さま?」


 ライラが驚いて、目を開く。


「この作品は、ここで終わりだ。登場人物としての片倉彰文はライラを選び、穂村千尋を忘れ去る。シミに侵されたクリエイターの千尋は失われた。たった今、僕が殺した。だけど、僕は読者でもある。現実世界の人間だ。この作品を読んだとしたら、現実世界の僕は、きっとこう思っただろう。大切な人は、千尋以外いない。僕が彼女を忘れることなんてない。それこそ記憶を書き換えでもされないかぎり……」


 彰文はひと言ひと言に力を込めて言った。そしてライラを離し、その細い肩を掴みながら、赤い瞳を見つめた。


「キミにお願いがあるんだ」


「なんでしょう?」


「僕が望む姿に変わってほしい」


「彰文さまは、本当にひどい人ですね……」


 ライラが涙を浮かべながらうなずく。


「ただ、この作品世界にいるかぎり、彰文さまはわたしのものですから」


「うん、ライラは僕にとって、最高のキャラクターだよ。どの作品のどのキャラクターより、キミのことが大好きだ」


 ライラはその言葉を心に刻むように、胸に手を当て、しばし目を閉じる。


 そしてふたたび目を開くと、その場でくるりと一回転し、姿を変えた。


 中学の制服に身を包んだ穂村千尋の姿に。


「彰文くん?」


 戸惑いながら、千尋が声をあげた。


「千尋、行くよ!」


 彰文は彼女の手を握る。絶対に離すまいと強く。


「どういうこと?」


 千尋は混乱しているようだった。


「話はあとだ。一緒に現実世界に帰ろう」


「現実? でも、わたしは……」


「キミは穂村千尋だ! キミがいなくなった現実を、アカシックレコードを、僕は書き換える」


「彰文くん……」


 千尋がためらいながら手を握りかえしてくる。


「それで、どこへ?」


「公園だ。あのブランコのところ。僕はあそこからこの作品世界に入ってきた。出られるとしたら、あそこしかない」


「浩太郎、かりん、僕を導いてくれ!」


 浩太郎とかりんの声はまだ聞こえてくる。


 部屋の壁、床、天井、そして机やベッドからは黒い靄が蒸気のように立ち上っていた。


 シミが抜けようとしているのか、作品の修正力が働こうとしているのかはわからない。


 彰文はドアを開けようとする。ひどく重く感じた。

 なんとか押し開け、部屋を出る。そこはすぐ階段になっていた。


 踊り場の床は、なぜか、ぐにゃぐにゃしていた。

 まるで彰文たちの足を絡め取ろうとしているかのようだ。


 彰文は強引に足を引き抜き、階段を降りはじめる。


 だが、一段降りるごとに、新しい一段が現れた。

 いくら降りても一階には着かない。


(僕たちを逃がさないつもりかよ!)


 片倉彰文と穂村千尋が、この世界から逃げようとしている。

 それはこの作品にとって、もっともあってはならない展開だ。

 修正力が働いたとしても不思議ではない。


「千尋! 飛ぶよ!」


 彰文は言い、階段をすべて飛ばし、玄関に向かって跳躍する。


 驚くほど高く跳べた。着地の衝撃があったが、彰文は平然と踏みこたえる。


「あっ!」


 千尋が派手に転びかけたが、右手一本でそれを支えた。


「センパイ……セ・ン・パ・イ……」


 背後から、低く声がする。

 古川栞奈の声だった。


 その声から、すでにシミに変わっているかもしれない。

 目鼻のないデッサン人形。個性のないキャラクター。


「ごめん!」


 呪文のようにそう返してから、彰文は靴下のまま玄関に降り、ドアを開けようと手をかける。


 だが、ノブを回そうとしても、びくともしなかった。


(開くべきドアが開かない)


 作品世界の法則がいろいろ狂いはじめているのかもしれない。


 リビングの硝子が割れる音がする。

 キッチンで爆発音が響き、火災警報器がけたたましいブザー音を響かせはじめた。


 彰文はドアを蹴る。


 ドアは一発で吹き飛んだ。

 無論、現実ではできない。この世界の法則が揺らいでいるからだろうか?


「この世界では、僕は超人なんだよ!」


 彰文は挑戦的に叫んだ。


「うん、ここでは彰文くんは超人で、万能。だって、わたしにとって、そうだから」


 千尋が嬉しそうに言う。


「いくらなんでも、盛りすぎだよ」


 だが、作品世界がそれを許容しているのだから、今はそれを利用しない手はない。


 玄関から出ると、ひとりの女生徒が立っていた。

 隣の家のベランダを見上げている。


「広野……」


 彰文にはそれが誰かわかった。


 そして女生徒がゆっくりと振り返る。


 予想通りというべきか、その顔には目鼻がなかった。

 口が三日月の形につりあがる。


「消えろよ!」


 彰文は空いている左手で、シミの顔を躊躇なく殴った。


 頭が消し飛び、糸の切れた操り人形のようにくたくたと崩れる。


 道路は風に揺れる吊り橋のようにうねうねとし、近くの住宅の屋根からはスレートが浮かびあがっていた。


 逆に夜空が砕け、虹色の光を発する欠片となって落ちてくる。

 夜空が抜けたところは青空になっていた。


 庭木は立体パズルのようにブロック化し、誰が操作しているのか、絶え間なくブロックが置き換わっていた。


 彰文は国民的に有名なアニメのラストシーンを思い出す。

 壊れゆく浮遊島から少女を連れて脱出する少年。


「修正力とか、法則が狂っているどころじゃないな。作品世界が崩壊しつつあるのかもしれない」


 彰文は呻いた。


 作者が消えれば、作品が消えてもおかしくない。


(だとしたら……)


 不安が心を過ぎる。

 だが、彰文は心を強く持ち直す。


(ここでは、想像が創造になる。そして僕はクリエイターだ)


 彰文は千尋と繋いでいる手に意識を集中した。


「まるで、ギリシア神話のオルフェウスとエウリディケね」


 千尋がくすくす笑う。


「こんなときに、その感想?」


 彰文はちょっと驚いた。


「すごく憧れていたシチュエーションだから」


 千尋の声が笑っている。


「振り返れなくなった……」


 彰文は苦笑した。


 空から落ちてくるモノ、飛んでくるモノ、地面から跳ねあがってくるモノ、それらをすべて払いのけながら、ようやく公園に着く。


 入口はなく、生け垣が眠り姫の城のように高くそそりたっていた。


 棘があり、蔓が触手のようにうねっている。

 特撮の進歩やアニメの表現の進化のせいか、やけにリアルで不気味なことこの上ない。


 だが、彰文は怯むことなく、一気に突っ込んだ。


 手刀一本で、生け垣を縦横に切り裂く。


 そして公園へと転がりでた。


 公園に入ると、なぜか昼間になっていた。


 そしてのどかな風景が広がっている。


 ブランコがあり、滑り台があり、砂場があった。

 生け垣も普通にもどり、入口も開いている。


 かえって不気味だったが、フラグを立てるようなことはなにも考えず、まっすぐブランコへと走った。


 柵のところに白く輝く長方形のゲートが見える。〝栞〟だった。


「帰るよ! 千尋!」


 彰文は最後の数歩を走る。


「うん!」


 千尋が強くうなずいた。


 ブランコを通りすぎる。


 何度も見たあのシーンが頭を過ぎる。

 向かいあう少年と少女の姿が見えた気がした。


(彰文、さっさと帰ってきやがれ!)


 浩太郎の声が、すぐ近くで聞こえてくる。


「ああ、今、帰るよ」


 彰文はつぶやく。


 彰文は〝栞〟に飛び込んだ。


 千尋の手をしっかりと握ったまま――

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