第三章 背中合わせのライラ⑤【書籍用改稿版】
「穂村先輩と、うまく行っていないんですか?」
後輩の古川栞奈が真剣な表情で訊ねてきた。
栞奈は彰文と千尋が所属していた文芸部の一年である。
二年は彰文以外ほぼ幽霊部員だったので、なにかと面倒を見ていた。
栞奈は小柄な少女だ。
一緒にいると、つい猫背になる。
顔も小さく、片手で包みこめそう。
前髪を瞼まで下ろしているので、余計その印象がある。
ここは彰文が中学二年まで通っていた学校。
彰文が所属していた文芸部が部室として使っていた教室のなか。
今は栞奈とふたりしかいない。
すこし前までは千尋がいた。
だが、彰文と栞奈が一緒に教室に入ると、逃げるように出ていってしまった。
彰文は後を追おうとしたのだが、栞奈に呼び止められたのである。
何の用かと訊ねたら、今の言葉が返ってきた。
このシーンがどう展開するか、もちろん彰文にはわかっている。
そこから大きく逸脱すると、栞奈をはじめ、周囲のすべてがシミとなって襲ってくるのだ。
最初にこのシーンに来たときは、そうと分からず、栞奈に余計な質問をぶつけてしまった。
すると栞奈の姿が崩れ、目鼻のないデッサン人形のようなバケモノに変わったのである。
授業中に微睡んでいるときに見た光景そのままだった。
そのときは、必死で逃げた。
幸いなことに、校舎から外へ出ると、次のシーンに移る。
「どういうこと?」
彰文は栞奈に訊ね返し、次の台詞を引き出す。
「穂村先輩、なんか最近、片倉先輩を避けているみたいだから……」
そう言って、千尋が開けっ放しにしていった教室の扉をちらちら見た。
「そうかな?」
彰文は答えたが、心当たりはある。
この頃は、たしかに千尋に避けられていた。
嫌われたと思い、ひそかに落ち込んでいたものだ。
「そもそも先輩たちはどういう関係なんですか? みんなは付き合っているって言ってますけど……」
彰文に向き直って、栞奈が訊ねてきた。
「穂村さんとは家が隣で、幼なじみだよ。子供の頃から、姉弟のように育った」
彰文は淡々と答える。
何度も繰り返している会話なので、まるで朗読しているような気分だった。
こんなときは、自分がこの作品の登場人物でもあると実感する。
「だったら……」
栞奈がそこまで言って、ためらうように言葉を切った。
そして自らを励ますように大きくうなずいてから、その先を続ける。
「わたしが先輩の彼女に立候補してもいいんですか?」
これは作品世界のワンシーンだ。
だが、現実でもあったことなのである。
そのときには、しばらく言葉を探してから、なにも思いつかず、「ごめん」とだけ答えたのを覚えている。
彰文は開けっ放しのドアのほうに視線を向けた。
このシーンが書けるということは、千尋は教室の外でこの会話を聞いていたということだ。
栞奈との会話は、もうしばらく続く。
だが、彰文は思いきって教室の外に出てみることにした。
展開から逸脱することになるから、シミが湧きだすのは覚悟のうえだ。
「ごめん!」
とりあえず、その台詞だけ言ってから、扉のほうに走る。
「先輩!」
栞奈が驚きの声をあげた。
「せんぱい……センパイ……セ・ン・パ・イ……」
そう繰り返す栞奈の声が虚ろになってゆく。
彰文の背筋に、冷たいものが走る。
「困った主人公ね」
廊下に出ると、すぐに千尋が声をかけてきた。
彼女は扉のすぐ横の壁にもたれていた。
「千尋がここにいるということは、この作品にはそういうシーンもあるんだろ?」
「そうね……」
千尋がうなずき、後ろ手で扉を閉めた。
そして、
「これで、しばらくは大丈夫かな」
と、ひとりごとのようにつぶやく。
「僕のいないシーンが読めないというのはどうなのかな?」
彰文は千尋に言った。
「だから、作者に話を聞こうというの?」
「どうせなら、文章で読みたかったよ。それなら、もっとよくこの作品のことが理解できたと思うから」
「彰文くんはいい読者だものね。もし、この作品を読んでいたら、あなたはどう思ったかな?」
千尋がぽつりと言う。
「なんで、読ませてくれなかったんだよ?」
つい責めるような口調になった。
「送ったの。あなたが引っ越す前の夜に……」
千尋が答えて、ため息をつく。
「だけど、あの日、わたしはひどくテンパっていて、公開設定を間違えた。彰文くんにだけ読んでもらうつもりが、悪魔の書架で交流のあったアカウントにまで閲覧許可を送ってしまった」
「ええっ?」
彰文は唖然とした。
だが、千尋は冷静に見えて、ときどき大きなミスをやらかす。
予想外の事態が起こると思考が停止するし、作品のことを考えているときには現実がおろそかになる。
「当然だけど、ひどいコメントが送られてきた。気持ち悪い。穂村千尋は最低だって。すぐ非公開にもどしたけれど、さすがに傷ついて、もう一度、彰文くんに送れなかった」
「閲覧できるときに、僕が悪魔の書架に入らなかったのか……」
彰文も毎日、書架を覗いているわけではない。
とくに引っ越したばかりの頃だから、いろいろ忙しく、ゆっくり本を読む暇などなかった。
「今さら、それを言ってもね。この作品がシミに侵されたのは、それからしばらくして。本の悪魔に呼びだされ、わたしは迷わず契約した。この作品世界には誰も入ってほしくなかったから、わたしひとりでシミと戦うと決めた。シミに侵された他の作品世界で経験を積みながら、わたしは片倉彰文とライラをパートナーとして、この作品世界を侵すシミを退治していたの」
「だけど、あのとき、僕たちはシミに負けた。そして君はあの六翼に……」
六翼のことは、この作品に入ってから思い出した。
だが、何度繰り返しても、この作品に、あんなキャラクターは登場してこない。
なにより、あの大きさや姿は、普通のシミとはあきらかに異なっている気がする。
「パートナーだった彰文くんが、いきなり本人に変わったから、びっくりした。この世界の片倉彰文なら無敵だったのに」
「負けたのは、僕のせい?」
「ううん、あの状況からは逃げられなかったでしょうね。それに、あなたはクリエイターの能力を発揮した。他人の作品のキャラクターを召喚した。彰文くんは本当にいい読者ね。作品を愛し、キャラクターを愛し、そして作家を愛してくれる……」
千尋がそう言って、ぐいっと顔を寄せてくる。
「知ってた? 彰文くん、女子人気、高かったのよ」
「まさか……」
彰文は驚いた。
まったく心当たりがない。
告白されたのは古川栞奈だけだ。
「勉強はできる。スポーツだって苦手じゃない。物静かで、誰にでも優しい。読書王子とか、女子は噂していたな」
「王子って……」
彰文は困惑する。
「他人から誘われたり、頼まれたりしたら、断らないだけだよ。そのほうが面倒がないし、自分からなにかしようとは思わないし」
彰文にとって、学校という社会で孤立しないための処世術だった。
「わたしは彰文くんと付き合っているって噂されていたから、風当たりが強かったのよ? 例えば、あなたのクラスメートの広野詩音さん、わたしがあなたのクラスに行くと、凄い目で見てくるの。そして新田恵利花……」
「だから、ふたりを?」
栞奈だけでなく、この作品には広野や新田先輩が出てくるシーンもあるのだ。
「ええ、この作品に登場させたの」
千尋が冷笑する。
ふたりが登場するのは、もうすこし先だ。
広野詩音は中一のときからのクラスメート。
二学期はクラス委員で、席が隣だった。
彼女のシーンは、放課後、貸していた本を返しに千尋がやってくるところから始まる。
これも現実であったことだ。
仲直りの機会になればと、彰文は千尋と一緒に帰ろうとした。
だが、広野から、クラス委員の仕事の手伝いを頼まれたのである。
席が隣ということもあり、手伝いを頼まれるのは初めてではない。
そしてこのときも、彰文は断らなかった。
実際、ひとりでするには大変な仕事で、かなり遅くまでかかっている。
家が同じ方向なので、その日は彼女と一緒に帰った。
彰文の家のほうが学校から近いので、そこで別れた。
別れ際、詩音が手伝いの礼を言い、「また明日」と手を振ってきたのを覚えている。
この作品世界でも、広野はほぼ現実と同じ行動をした。
もちろん彰文が展開からはずれると、彼女もシミとなり、襲いかかってくる。
栞奈と同じ、目鼻のないドールの姿だった。
「広野さんは、彰文くんが家に入ったあと、わたしの部屋の窓を見上げるの。わたしが窓から見ていたのを気づいていたのでしょうね。そして彼女は笑うの。まるで勝ち誇ったようにね」
千尋がわずかに顔を歪める。
彼女が漂わせる黒い靄が激しく揺らぐ。
シミは創造に属する力かもしれないが、やはり破壊と憎悪に向けられているのだと、彰文は感じた。
「それも僕が見ていないシーンだ……」
「彰文くんが家に入ってからだもの」
千尋が答える。
「現実でもあった?」
「もちろん」
千尋がうなずく。
「広野はただのクラスメートだと思っていた。席が隣だからよく話をしたし、クラス委員の仕事でいろいろ相談されたけど……」
彰文はため息をついた。
栞奈に告白されたときもそうだったが、好意をもたれているとは思ってもいなかった。
「それじゃあ、新田先輩も?」
彰文は千尋に訊ねる。
新田恵利花は文芸部の三年で、千尋とは当時、クラスメートだ。
彼女のシーンは、彰文が図書室に入るところから始まる。
扉の前に来ると、新田先輩が千尋を責めている声が聞こえてくるのだ。
「右か左かも、決められないの?」
「いったいいつまで這いつくばってるの? 跳べばいいだけでしょ?」
「できないなら、あきらめなさい」
「心を焦がし、針の上で痛みに耐えてね」
ちょっと不思議な言葉が続く。
だが、新田先輩なら言いそうだと思った。
彼女は会誌で、おもに詩を創作している。
将来は、作詞家になりたいらしい。
口だけではなく、彼女はネットで仲間を募り、ボカロ曲をプロデュースしていた。
彰文は彼女たちの動画をすべて見ている。
前衛的というか、不思議な感覚の詞であり、曲や振付もそれに合っていた。
独特のインパクトがあり、決して嫌いではない。
夢のなかでここに来たとき、シミに侵されていた新田先輩は狂ったような言葉を発していたが、あれはこのシーンの台詞が歪んだのだろう。
「現実でも似たようなことがあったよね。ただ、あのときは新田先輩がなにを言っているのか、よく聞こえなかったけど……」
「恵利花もね、彰文くんのことを気に入っていたのよ。ただ、わたしたちが付き合っていると思っていたから、なにもしなかった。ただ、あの頃、わたしと彰文くんがぎくしゃくしていたから、叱られてたの……」
千尋がため息をつく。
「つまり、彰文くんはもててたのよ。だから、わたしだけのものにしたかった」
「考えたこともなかった。僕は千尋しか見ていなかったし」
「だったら……」
千尋が妖しく笑いかけてくる。
「ふたりで、この世界を書き換えない?」
「どういう意味?」
彰文は緊張を覚えた。
「わたしたちの関係は、ふたりだけで完結している。幼い頃は、あなたは姉を、わたしは弟を求めていた。思春期になってからは、お互い惹かれあってた。ふたりとも小説が好きで、わたしは書き手、あなたは読み手。他のものなんて邪魔なだけ……」
そして千尋がそう言いながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「ライラとキスをすれば、わたしは消える。でも、彰文くんがわたしとキスをしたら、わたしたち以外のものがすべて消えてなくなる」
「千尋とキスを?」
そうしたいと思ったことは、何度もあった。
千尋に触れ、キスをし、そして――
「彰文くんが望むなら、それ以上のことだって……」
千尋は彰文の欲望を感じ取ったように、制服の襟に手をかけ、胸もとの三角布のスナップをひとつはずした。
「そして僕もシミになる?」
「そうよ……」
千尋がうなずく。
「この作品世界は、シミそのもの。その一部になるのだもの」
「だったら、ダメだよ……」
彰文は首を横に振った。
「シミになれば、僕たちはアカシックレコードから切り離される。それは、人間でなくなるってことだ」
「いいじゃない? わたしたちは本当の意味での創造者、つまり神になるの。アカシックレコードを支配し、現実世界を理想世界に書き換える。管理者である悪魔にはできない。だけど、わたしたちならできる。わたしたちには、創造の力があるから」
「えっ?」
ふたりの話から、いきなり全人類の運命にかかわるような話に飛躍したので、彰文は混乱した。
「やっぱり、シミを操っているのは人間なのか? いったい誰が……」
しばらく頭のなかで情報を整理してから、彰文はつぶやく。
「あの人は、神よ」
千尋がうっとりと言う。
(あの六翼のことか?)
直感だが、そんな気がした。
「神が本当にいるかどうかは、僕にはわからない。だけど、これだけはわかる。人間が神になってはならない。誰かにとってのユートピアは、別の人にとってはディストピアだ」
彰文は千尋から離れながら言う。
「わたしを拒絶するの? だったら、わたしを殺せばいいわ。あなたの手でね……」
千尋が声をあげて笑った。
「殺す?」
彰文は息苦しさを覚える。
「簡単なことよ。わたしの卒業式の夜、あなたが東京へ引っ越す前夜、片倉彰文はライラとキスをする。穂村千尋は向かいの窓からそれを見ているの。そして、彼女の姿はゆっくりと消えてゆく。これが、この作品のラストシーン」
「だけど、消えるのは、そのシーンだけだろ? 作品によっては、物語の途中で命を落とす登場人物だっている。だけど、その作品世界から消えてなくなるわけじゃ……」
『レディ・ドラキュラ』の世界では、シミと同化したアーミリカを倒している。
だが、浩太郎はふたたび彼女をパートナーとして召喚した。
「わたしはもう現実世界には存在していないのよ? この作品世界に囚われて、出ることができない。こちらの世界で消えれば、作品世界に同化する。作者としてのわたしは、永遠にいなくなり、ただの登場人物になる」
「二択ということか……」
彰文は喉の奥から絞りだすような声をあげた。
千尋とキスをしてこの世界にシミとなって残るか?
あるいはライラとキスをして現実世界に帰るか?
(それしかないのかよ)
彰文は心臓を鷲掴みされたような気がした。
「ループはもう飽きたでしょ? わたしもよ。あなたを取り込みたくて、うずうずしてる。でも、知りたいの。登場人物ではない本物の片倉彰文が、どんな結末を選ぶか? だから、これで最後にしましょ? もう一度、最初の頁で会ったら、わたしはあなたを殺す」
「千尋……」
彰文は呆然と千尋を見つめる。
(千尋を殺すぐらいなら、僕もいっそこの世界で……)
そんな気持ちになった。
現実世界に帰れば、彼女のことを忘れ去るから、この手で殺しても罪悪感を抱くことさえない。
だからこそ、それはできないと思った。
そのときである。
(彰文!)
頭のなかで、誰かの声が響いた。
(浩太郎か?)
しかし、なぜ彼の声がするのかわからない。
(彰文くん!)
かりんの声も聞こえたような気がした。
千尋が怪訝そうに天井を見上げている。
彼女にも浩太郎たちの声が聞こえたのかもしれない。
(本の悪魔が、教えたのか?)
おそらく浩太郎とかりんは、この作品に入ろうとしたに違いない。
だが、それができず、呼びかけている。
(浩太郎は、僕のことを覚えている。僕はまだ現実世界と繋がっているんだ)
そう思うと、勇気が湧いた。
「千尋……」
彰文は声をかける。
「誰かが、あなたを呼んでいるようね」
「僕のクリエイター仲間だよ」
彰文は答えた。
「わたしたち以外に、この世界に入らせたりしないわ」
千尋の全身から、あの黒い靄が炎のように立ち上る。
「それは僕も同じ気持ちだよ。千尋は僕だけに向けて、この作品を書いた。読者は僕だけでいい。そして君が言うとおり、これで最後にしよう。かならず答を見つけだす」
「今ではないのね?」
千尋がため息をつく。
「今の千尋はシミに侵され、誰かに支配されている。本当の君じゃない。本当の君は、きっと現実に帰りたいと願っているはずだ」
「本当のわたしなんて、もういないわ」
千尋が甲高く笑った。
そのとき、教室のドアが激しい音を立てる。
あわてて見ると、ドアの窓越しに、あの目鼻のないドールのようなシミの顔があった。
古川栞奈がシミと化したのだろう。
「早く行かないと、古川さんに殺されるわよ?」
「僕は絶対に、穂村千尋を現実に連れて帰る」
彰文はそう言い残すと、全力で廊下を走りはじめる。
校舎を出て、次のシーンに移るのだ。
そして、舞台はふたたび彰文の部屋になる。
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