第二章 レディ・ドラキュラ⑩【書籍用改稿版】
「おかえり。そして、ありがとう……」
〝栞〟からポータルに出ると、歓迎するように両手を広げた本の悪魔の姿があった。
青い手袋をはめた右手に、一冊の本を持っている。『レディ・ドラキュラ』だ。
「この作品から、シミは見事に消え去ったよ」
そう言って、悪魔が本から手を離す。
本は宙を滑るように飛び、塔の外壁に螺旋を描くように並んでいる書架に収まる。
アーミリカとの戦いに比べれば、シミの核を消すのは、呆気ないほどだった。
怒りに燃えた浩太郎が椅子を投げつけて〝反魂の姿見〟を割り、姿を現したシミ〝ロジック〟を、アーミリカが瞬殺したのである。
そして『レディ・ドラキュラ』の作品世界に別れを告げ、ポータルへと帰ってきたのだ。
「命懸けだったぞ」
浩太郎が悪魔を睨みつける。
悪魔はなにも答えない。
「いつもはこんなに大変じゃないのだけど……」
かりんが申し訳なさそうに言う。
「むしろ、核になっていた姿見を壊したときのようなのが普通。あの鏡がシミに侵されただけなのに、作品世界が根底からおかしくなるなんてね。私がしっかりしないといけなかったのに、彰文くんに助けられた」
「ホント、彰文には感謝だわ」
浩太郎が、わざわざ直立してから頭を下げる。
「必死だっただけだよ。なんとか、うまくいってよかった。みんな、無事だったし」
「ここに来たときから思っていたのだが、どうやら彰文氏は特別な存在のようだね」
悪魔が顎に手をかけながら言う。
「どう特別なんだ?」
浩太郎が悪魔に訊ねた。
「過去にも何人かいるのだがね。時として、自力でこちらにたどり着く人がいるのだよ。哲学者や宗教家など、精神世界を探求する人々に多い。ここを〝アカシックレコード〟と名づけた人物もそのひとりだ。彰文氏は読書にのめりこむとき、無自覚にこちらと繋がっていたのだろうね」
悪魔が答え、彰文をじっと見つめてきた。
彰文は自分が特別だと思ったことなど、もちろんない。
「初めてこちらに来たあと、眠っているあいだにもう一度来ていたみたいです」
「はい! 彰文さまは夢のなかで、わたしに会いにきてくださいました!」
夢魔にしてはさほど大きくない胸を張り、ライラが誇らしげに言った。
「えっ、夢で?」
かりんが目を輝かせ、食いついてくる。
「読書に没頭していると、作品世界に入った夢をよく見るんだ。あのときは、ライラが出ていた作品のことを考えながら寝たからかもしれない……」
「現実でも、魂が抜けているようなときあるぞ」
浩太郎が笑う。
「そういうところが特別なのかしら? 彰文くんは、浩太郎くんのキャラを召喚したの」
かりんが悪魔に報告する。
「ほほう……」
悪魔が顎にかけていた手を、顔の横に移動させる。
指を二本立てると、手品のようにトランプのカードが一枚現れた。
手をくるりと返すと、ジョーカーが現れる。
「彰文くんは、まるでこのカードだね。あらゆる作品からパートナーを呼びだせる万能のクリエイターかもしれない」
「わたし以外に、女の子は呼びださないでくださいね」
ライラがあわてて、彰文の腕を抱え込む。
「ごめん、必要なときには呼びだすと思う。シミと戦うためには、手段は選んでいられないから」
「わたし、もっと頑張りますからぁ」
ライラが泣きそうな顔になる。
「じゃあ、頑張ってもらおうかな? 実は、ヴラド・ドラキュラを呼びだすとき、ライラの変身能力と組み合わせられないかって思ったんだ」
「なるほど……」
ライラの表情が一変する。
「できると思います。やってみます!」
「ライラは本当に健気よねぇ」
かりんが目を細めて微笑む。
「アーミリカにも、彼女ぐらい可愛げがほしいわ」
浩太郎が肩を落とす。
「浩太郎くんと彰文くんは、明日からどうするの? 私は明日の夜は予定があって、入れないのだけど……」
かりんがそう言って、小さくため息をつく。
それを見て、婚約者と会うんだな、と彰文は思った。
「面倒なことなのか?」
浩太郎もなにかを察したのか、かりんに声をかける。
「答えなければならない?」
かりんが冷たく返した。
「いや、いいけどな。訊いて悪かったよ……」
浩太郎がばつが悪そうな顔をする。
「とにかく、シミ退治のほうは、当分パスだわ。本音で言うと、もう辞めたいぐらいだけどな。それじゃあ、いくらなんでも自分勝手だし、ふたりは続けるんだろ?」
「僕はそのつもり」
彰文は迷わず答えた。
「私もよ」
かりんが相槌を打つ。
「俺が必要なら、いつでも声をかけてくれ。役に立つかどうかはわからないけどな。ふたりの手伝いなら喜んでやるから……」
浩太郎が言った。
悪魔の依頼は引き受けないという意思表示のようにも聞こえる。
「今はとにかく『レディ・ドラキュラ』を書きたいんだ。俺が放置していたせいで、シミに取り憑かれたみたいだしな。あの作品世界の時間と空間をもっと広げて、ひとりでも多くの読者に来てほしい」
「続きが読めるのは嬉しいよ……」
彰文は浩太郎にうなずきかけた。
「新作の異世界ファンタジーも悪くなかったけど、やっぱり『レディ・ドラキュラ』のほうが浩太郎らしい作品だと思う」
「私も最近、筆が止まっているから、作品を書かないとね」
かりんがひとりごとのようにつぶやく。
「諸君らの知的活動は、私にとって糧のようなもの。邪魔をしたくはないのだがね……」
悪魔がわずかに首を横に振る。
シミを消し去る力は、彼にはないのだ。
それは創造の力によるものだから。
現実世界の今を生きている人間にのみ、与えられた力なのである。
「それでは、ごきげんよう」
かりんがお辞儀をして、現実世界へもどってゆく。
「んじゃ、俺も帰るわ」
浩太郎も手を振り、去っていった。
「僕ももどるね」
彰文はライラに声をかける。
「また、夢のなかで会いにきてくださいね」
ライラが寂しそうに言う。
「ちょっといいかね?」
スマホを操作しようと画面に手をかけたとき、悪魔が唐突に声をかけてきた。
「なんでしょう?」
彰文は悪魔を振り返る。
「実は、言うべきかどうか、迷っていたのだがね……」
悪魔がそう前置きしてから、右手をあげ、一冊の本を招き寄せる。
そして無言で、彰文に手渡してきた。
豪華な装丁の本である。
まるで、映画やドラマに出てくる古い魔導書のようだ。
だが、これはあくまで作品の具象化であり、現実世界にこういう本が存在しているわけではない。
彰文はタイトルを確かめてみる。
『背中合わせのライラ』とあった。
(ライラだって?)
彰文は驚いた。
記憶をたどってみたが、読んだことはない。例の既知感すらなかった。
あわてて作者を確かめる。
穂村千尋とあった。
「千尋……」
彰文はつぶやく。
その瞬間、頭のなかが混濁した。
巨大な竜巻に巻き込まれたように、様々な記憶が脳裏に浮かびあがってくる。
彰文は額を両手で抑えた。
立っていられなくなり、その場でしゃがみこむ。
そしてしばらく荒く息をついた。
「書き換えられた記憶がもどってきた……」
彰文は自分の掌を見つめながら言う。
「千尋……」
涙が滲んできた。
家が隣で、幼なじみで、姉のように慕っていた少女。
本の楽しさを教えてもらい、ふたりでいつも一緒に本を読んでいた。
彼女は彰文のために作品を書くようになり、彰文は喜んで読んだ。
やがて、思春期になり、彰文は千尋に別の感情を抱くようになる。
だが、それを伝えることができないまま、東京に引っ越した。
今では、悪魔の書架のライブチャットやコメント欄で繋がっているだけだ。
ただの作者と読者の関係――
それでいいと彰文は思いかけている。
それならせめて、彼女にとって、いちばんの読者でいたいとは思うが。
「彰文さま……」
ライラが複雑な表情で自分を見つめている。
「この作品に触れてみてわかりました。これが、わたしが登場する作品です。穂村千尋さまは、わたしの著者です」
「そうだね……」
彰文はうなずく。
「この作品のことは知らない。だけど、あのときのことを思い出した。千尋は、ライラともうひとりの僕をパートナーとしてシミと戦っていた。そして彼女はあのシミに……」
「穂村千尋氏の精神は今、私の管理外にある。ただ、彼女はかつてクリエイターのひとりだった。それだけは思い出したよ……」
悪魔が言う。
「その作品は昨日、君たちがここから去ったあと、突如として現れた」
「突如として?」
告知もなく、作品が発表されることは、もちろんあるだろう。
だが、悪魔には誰かがそれを書いている時点でわかるはずだ。
彼にとって、完成した作品がいきなり出現するということなどありえない。
「もしかして、この作品もシミに?」
「そのとおり、ひどく蝕まれている。私には内容を認識することすらできないほどだ。推測だが、一度消滅した作品なのだと思う。それが復活した。もちろん、このようなことは過去に例はない」
「シミに蝕まれた作品は、消滅するのでは?」
「私にとってはそうだ。人類にとってもね。認識できなくなるのだから」
「つまり、あなたや我々が認識できなくなっただけで、どこかに存在している可能性も?」
「それを考慮したことはない。だが、その指摘は妥当に思える」
悪魔がそう言って、背景のように聳え立つ塔を振り返った。
頂上は見えず、薄暗い空に向かって、無限に伸びているように見える。
その外壁は書架であり、本がぎっしりと収められていた。
塔の周囲にも数多の本が、螺旋を描くように宙に浮かんでいる。
書架に収まっている本と宙に浮かんでいる本に、なにか違いがあるのだろうか?
「入ってみます……」
彰文は言った。迷いはまったくない。
「僕がこの作品世界に入ります。そして、穂村千尋を救い出します!」
「私は管理者にすぎない。判断は、クリエイターである君にまかせる。ただ……」
悪魔はいったん言葉を切り、彰文をじっと見つめた。
「これだけは忠告しておこう。その作品に入るのは、とても危険だ」
「わかっています……」
いったんはアカシックレコードから消滅したほどの作品である。
そして、彰文はこの作品を読んだことがない。なにが起こるか、予測不能だ。
(なにより、これは罠だ……)
この作品が出現したのが偶然でないとしたら、それしか考えられない。
千尋はおそらくこの作品世界に彰文を誘いこもうとしているのだ。
(望むところだよ)
彰文は決意をかためた。
「ライラ……」
彰文はパートナーである赤毛の少女を振り返る。
「もちろん、ご一緒します。これは、わたしの作品世界ですから……」
ライラがうなずいたが、どこかしら不安そうだった。
「ただ、この世界でなにが起こるかは、わたしにもわかりません。わたしがどういう役回りなのかも」
「入れば、わかるさ……」
彰文はライラに笑いかけた。
「これは、僕がまだ読んでいない千尋の作品だ。それだけで、楽しみだよ」
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