第三章 背中合わせのライラ

第三章 背中合わせのライラ①【書籍用改稿版】

 甲斐浩太郎は、ノートパソコンに向かって、猛然とキーボードを叩いていた。


 ワープロを起動し、『レディ・ドラキュラ』のファイルを開いている。


 悪魔の書架の編集モードはお粗末なので、ワープロで文章を書いてから、貼りつけるのだ。


 画面の右下には、二十一時三十八分とデジタル表示されている。


 家にいるのは、浩太郎ひとり。

 両親は自宅からそう遠くない繁華街にある店を経営しており、ふたりの兄はまだ帰宅していない。


 おかげで、執筆に集中できる。


 自分の書いたキャラクターと直接会い、話をし、触り、最後には戦うという経験をした。


 実体験に勝る取材などない。

 第一話から、どんどん加筆修正している。


 アーミリカは、自分のなかにはっきりとイメージができていた。

 心のなかで、彼女と対話しながら、書いている感じである。


(これって、チートだよな)


 つくづく思う。


 だが、命を危険に晒した代償である。

 これぐらい許されていいだろう。


 羨ましいと思う作家がいたら、ぜひ本の悪魔と契約して、シミと戦ってほしいものだ。


 インターホンのチャイムが鳴ったのは、そのときである。


 下の兄かと思い、浩太郎はあわてて部屋を出て、階段を降りる。

 下の兄は、家の鍵を持ってゆくのをよく忘れるのだ。

 しかも、降りてくるのが遅いと理不尽に怒る。


 鍵を開け、扉を開く。


 おかえりと言おうとしたが、玄関の外に立っているのは、兄ではなかった。


 浩太郎は呆然となる。


 白いドレス姿の女性がいたからだ。


 肩にはショールをかけ、ブランド物のポーチを持っている。

 髪は豪華に結いあげられ、銀座の高級クラブのホステスかと思った。


 こんな女性がなぜ自分の家を訪ねてくるのか、まったく見当がつかない。


「こんばんは……」


 女性がぎこちなく挨拶をしてくる。

 その声には聞き覚えがあった。


「かりんかよ!」


 浩太郎は仰天する。


 よく見ると、間違いなく鳳かりんだった。

 服や髪型が違うと、まるで別人のようだ。


「そうよ、迷惑だった?」


 かりんがむっとする。


「いや、ちょっとびっくりしただけだって」


 浩太郎はあわてて首と両手を横に振った。


「突然で、ごめんね。すこし話がしたかったの」


 かりんが思いつめたような表情で言う。


「とにかく、あがってくれ。俺の部屋でいいか?」


 まさかここで立ち話というわけにはゆかない。

 近所の公園やコーヒーショップに行っても同じだろう。


 かりんの今の格好は、とにかく目立つ。


 そしてこの近所は都心のわりに、昔からの住人が多いのだ。

 知り合いに見られたら、どんな噂が広まるか知れたものではない。


「ええ……」


 かりんがこくんとうなずく。


「お邪魔します」


 彼女は玄関でヒールの高い靴を脱ぎ、丁寧に揃えてから家にあがる。


 浩太郎が先に立って階段を昇り、自分の部屋に入った。


 かりんが遠慮がちに続いて、自然な動作で扉を閉める。


(なんだよ、このシチュは?)


 浩太郎は内心、ひどく混乱していた。


 狭い部屋で、ふたりきりである。


 しかも、かりんはドレス姿だ。

 ショールをかけているが、両肩の肌が透けて見える。


 ふたりの兄は、ときどき彼女を連れてくるが、浩太郎はそんな経験はない。


 中学時代、相手から告白されてふたりと付き合ったが、どちらも長続きしなかった。なんでもイメージと違ったらしい。


(彰文を召喚してぇ)


 浩太郎は本気で思った。


「『レディ・ドラキュラ』の世界で見た通りね……」


 かりんが部屋を見回しながら言う。


「そりゃあそうさ、モデルにしてんだから」


 浩太郎もかりんを正視できず、あちこちに視線を泳がせた。


(第二話に入ったとき、男の子の家にあがるのは初めてとか言ってたよな)


 つまり、現実世界では今が初めてということになる。


「思ったより、片付いているのね。アニメとかのキャラクターグッズもないし……」


「兄貴たちに見つかるとまずいから、そういうのは買わないようにしてんだ。兄貴たちはガチで体育会系だから」


「浩太郎くんも、スポーツしてそうに見えるけど?」


「中学まではいちおうな。ただ、レギュラーになれるかどうかってぐらいだったし、体育会系のノリもあまり好きじゃなかったから、高校に入ってまで頑張る気になれなかったんだ。その頃には、もう悪魔の書架で書きはじめていたしな」


 浩太郎は机の上に開いたままのノートパソコンに視線を向けた。


 かりんもつられて画面を見る。


 ヤバイと思ったが、幸いなことにスクリーンセーバーが立ち上がっていた。


 かりんは『レディ・ドラキュラ』を読んでいるし、作品世界にも入っているが、書きかけの原稿はあまり見られたくない。


「ところで、誰かの結婚式だったのか?」


 話題を逸らそうと、浩太郎は訊ねてみた。


「ただのディナーよ……」


 かりんが小さくため息をつく。


 ただのってことはないな、と浩太郎は思った。

 両親の店に、こんな格好の女性が来ることはない。


 かりん自身は、ドレス姿であることを、あまり気にしていないようだ。

 着慣れているのだろう。


(相手は例の婚約者だろうな)


 それぐらいは、浩太郎にもわかる。


「飲み物とかはどうだ? 俺、店の手伝いをするから、なんだって作れるぜ。超一流のレストランには勝てねぇだろうけど」


「ありがとう。でも、けっこうよ。お腹はいっぱいなの」


 かりんが微笑む。


 浩太郎は椅子のクッションを裏返してから、かりんに勧めた。

 そして自分はベッドに腰を降ろす。


「俺は彰文ほど気が利かないから、もしかしたら怒らせるかもしれねぇけど……」


 浩太郎はそう切り出し、意を決してかりんを見つめた。


「なにかあったのか?」


「なにも……」


 かりんがうつむいて首を横に振る。


 とてもそうは見えない。妄想が次々と湧きあがってくるが、浩太郎はそれらをいちいち追い払う。


「俺なんかじゃ相談相手にならないって思う。だが、俺はかりんには恩がある。俺の作品を救ってくれたしな。だから、俺にできることなら、なんだってするぜ?」


 似合わないと思いながら、そう声をかけてみた。


「本当に、なにもないの……」


 かりんがうつむいたまま、わずかに肩を震わせる。


 そう答えられたら、浩太郎にはもはやなにを言っていいか、わからなかった。


(こりゃあ、待つしかないな)


 沈黙に耐えられる性格ではないが、今はそれしかない。


 浩太郎は姿勢を正し、かりんをじっと見つめた。

 よく見ると、薄くだが化粧をしている。


(こいつ、本当に綺麗だよな)


 もし、自分の高校にいたら、男どもは放っておかないだろう。

 いや、高嶺の花すぎて、誰も声をかけられないかもしれない。


 普通に暮らしていたら、接点など絶対になかったはずだ。

 出会えたのは、彼女がクリエイターだったからである。


 そこだけは、本の悪魔に感謝するべきかもしれない。


(だけど、あいつは胡散臭い)


 悪魔が嘘を言っているとは思っていない。

 だが、いろいろと隠し事をしている気がするのだ。


 沈黙の時間が続く。


 普段は気にならない時計や、ノートパソコン、さらにはエアコンなどの音がやけに耳に障った。


(兄貴たちが帰ってこないといいけどな……)


 両親の店はラストオーダーが二十三時で、客がいるかぎり、店を閉めない。

 ワインだけで粘る客もそれなりにいるから、遅いときには帰りは午前三時をまわる。


 上の兄は部活が終わったあと、OBや先輩らから誘われることが多く、泊まってくることもしばしばだ。

 だが、下の兄はそろそろ帰ってきても、おかしくない。


(カラオケでもやっててくれ……)


 浩太郎は心からそう願った。

 この状況を兄に見られたら、生涯いじられる気がする。


 だが、浩太郎は内心の動揺を抑え、忍耐強く待った。


 やがて、かりんが指で目のあたりを拭ってから、顔をあげる。


 すこし落ち着いた顔をしていた。


「今夜ね、フィアンセとディナーだったの。忙しい人だけど、一ヶ月に一回は会うことにしているから……」


 かりんが寂しげに言う。


「そうか……」


 浩太郎はとりあえずうなずく。なにを言っても、正解ではない気がしたからだ。


「それでね、キスを求められたの……」


 かりんが何度もためらってから消え入るような声で言う。


(ま、待ってくれ!)


 浩太郎は心のなかで悲鳴をあげた。そんな問題に立ち入れるわけがない。


「ん……」


 浩太郎は内心の動揺を抑え、言葉ですらない声を返し、ふたたびうなずくしかなかった。


「ううん、違う……」


 かりんが自らの言葉を否定する。


「私から誘うような素振りを見せたの。迷いを、振り払いたかったのね」


「ああ……」


 喉がひどく渇くのを覚えながら、浩太郎はさらにうなずく。


「浩太郎くん!」


 かりんがいきなり立ち上がった。声音が変わっている。


 聞き流していると思われたのだろう。

 浩太郎は、アドベンチャーゲームで失敗の選択肢を選んだときのことを思い出した。


(てか、正解あったのかよ!)


 心のなかで悲鳴をあげる。


「ごめんって!」


 浩太郎は反射的に目を閉じ、頭をさげた。


 かりんがずいっと近づいてくる。

 自分の前で、仁王立ちしている気がした。


「けどよ! どう言っていいか、わからないんだって。ただ、俺にはかりんが迷っているってことが気にかかる。その婚約者のことが本気で好きなら――」


 浩太郎はさらに言葉を続けようとした。


 だが、それはいきなり遮られた。


 かりんが両手で顔を挟み、唇を重ねてきたからである。


 浩太郎は驚いて、目を開く。


 かりんのほうは、目をかたく閉じていた。


 涙がひと筋流れている。それが重ねた唇まで落ちてきた。


 やがて、小さく吐息をつきながら、かりんが離れた。


「嫌いじゃなかった……」


 かりんがかすれた声でつぶやく。


「幼かった頃は大好きだった。だけど、あの人とはキスできなかった。拒んでしまった。こんなに簡単なことなのに……」


 かりんはそう言うと、ふらふらと椅子に腰を落とし、手で顔を覆った。


 浩太郎は頭が真っ白になり、なんの言葉も浮かんでこない。


「勘違いしないでよね……」


 かりんは顔を隠したまま涙声で続ける。


「試して……みたかっただけ。浩太郎くんのことが……好きなわけじゃない。もちろん、嫌いではないけれど……」


 かりんはそのままうつむき、しばらくすすり泣いた。


(ツンデレかよ?)


 浩太郎は一瞬思ったが、すぐその考えを拭い去る。


 おそらく言葉どおりだ。


 婚約者のことが嫌いなのではない。だが、キスを受け入れられなかった。

 それが、かりんにはショックだったのだろう。

 誰にも相談できなくて、ここに足が向いたのだ。


 浩太郎にキスをしてきたのは、本当にその場の勢いだと思う。


 婚約者とはできなかったことが、出会って数日の相手とはできる。

 そんなことを衝動的に確かめようとしたに違いない。


 そう思うと、浩太郎はすこしむっとなった。


「いちおう言っておくけどな……」


 浩太郎は立ち上がり、古い箪笥から未使用のスポーツタオルを取り出し、かりんの頭にかぶせる。


「俺のファーストキスだったんだぜ?」


 もちろん、大切にとっていたわけではない。

 だが、自分に好意を持っていない相手としたかったわけでもない。


 かりんはタオルを頭から取り、顔に強く押し当てる。


「ごめんなさい……」


 そのまま消え入りそうな声で言った。結いあげられた亜麻色の髪が小さく揺れる。


「お詫びにはならないけれど、私も初めてだから……」


 その言葉に、浩太郎は不覚にも萌えた。


 かりんは、好きになったらいろいろダメな相手だと思う。


 だが、なってしまいそうだった。いや、なった。


 すぐバッドエンドになるだろう。

 そのほうが、むしろ楽かもしれない。

 アドベンチャーゲームでは、トゥルーエンドを迎えるためには、長く困難な試練が待っているものだ。


 そして、かりんが相手だと、それが冗談にならない気がする。


 スマホが無粋なアラーム音を鳴らしたのは、そのときであった。


 同じ音が、かりんのポーチからも響いてくる。


 悪魔の書架からメッセージが届いたときのデフォルトのアラーム音だった。


「書架から?」


 本の悪魔が覗き見ていて、邪魔をしてきたのかと思う。


 浩太郎はベッドに放り投げていたスマホを取ると、悪魔の書架のアプリを起動させた。


 メールボックスにメッセージがいくつか届いている。

 最新のものは〝管理者〟からとあった。すなわち、本の悪魔である。


「すぐにこちらへ来てほしい。彰文氏のことで重大な話がある」


 メッセージにはそう記されていた。


 かりんもポーチから自分のスマホを出し、メッセージを確認している。

 表情が険しい。おそらく同じ内容だろう。


「行きましょう!」


 かりんが声をかけてくる。


「もちろん!」


 浩太郎はうなずく。


 ひどく嫌な予感がした。


 彰文は見た目、真面目で大人しいが、実は恐い物知らずで、自分を曲げないところがある。

 ときどきだが、怖いと思うことさえあった。

 キレるタイプではなく、とんでもないことを平然とやってしまう印象である。


(いったい、なにをやらかしたんだよ……)


 浩太郎は焦りながら、スマホを操作した。


〝クリエイター〟専用の機能である〝管理室〟というコマンドをタップする。


 目の前が暗転し、意識がぐるりと裏返ったような感覚があった。

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