第一章 悪魔の書架②【書籍用改稿版】


 放課後になった。


 片倉彰文の家は新宿区にある。

 大通りからすこし離れた住宅街だ。

 通っている千代田区の高校からは、地下鉄を乗り継いで二十分ほど。

 築二十年ほどの2DKのマンションに、父母と一緒に暮らしている。


 彰文はひと部屋もらっていた。

 ベッドと机と本棚を置いているので、床はほとんど見えない。

 だが、この狭さを、彰文はむしろ気に入っている。


 平日の昼間は両親が勤めに出ているので、広いリビングを自由に使うことができた。


 浩太郎の自宅のほうが学校に近いのだが、小説を書いていることは家族――とりわけふたりの兄には秘密にしたいらしく、いつも彰文の部屋にやってくる。


 彰文はブレザーの内ポケットからスマートフォンを取り出した。


「あれ? それ、替えたのか?」


 椅子に座り、スマホを操作しはじめたとき、浩太郎が声をかけてきた。


「いや、二年前から、このまま……」


 彰文はそう答えたが、あらためて見直すと、たしかに違和感がある。

 ライトパープルのカラーリングや、裏面にある不思議なデザインの刻印……


(またか……)


 彰文は額に指を当てる。

 だが、しばらくすると、なにを悩んでいるのかわからなくなってきた。


「替えてない」


 そう、このスマホをずっと使い続けている。


「気のせいか?」


 浩太郎が首をかしげながら視線を下に落とし、自身もスマホを操作しはじめた。


 彰文もスマホを操作し、“悪魔の書架”の専用アプリを起動させる。


 バベルの塔を連想させるポータル画面が表示され、一瞬、ゲームが始まったのかと思う。

 マイページからフォローしている作家を開き、「コータロー」を選択する。浩太郎のペンネームだ。


 彼が最初に書いたシリーズ『レディ・ドラキュラ』の他、独立した短編がいくつか並び、いちばん下にいかにも異世界ファンタジーらしいタイトルが表示され、すでに連載三十回目になっている。


 ランキングは二桁。

 コメントもいくつかついていた。


「たいしたもんだな。百位以内なら、出版社の編集が見てくれるかもしれない」


 ライトノベルに限れば、書架の作品が商業出版されることは珍しくない。


「そのためには、書き続けないとな……」


 浩太郎がまんざらでもなさそうに笑う。

 専業の作家になる気はないらしいが、一度ぐらいは自分の作品を本にしたいと聞いたことがある。


 彰文はさっそく第一話を開こうと、画面に指を当てた。


 その瞬間だった――


 いきなり逆バンジーで飛ばされたような感覚に襲われ、視界がブラックアウトする。


 視力はすぐにもどったが、目の前の光景が大きく変わっていた。


 薄暗いなか、巨大な塔がそびえている。


 塔の周囲には無数とも思える書物が、遺伝子モデルを連想させる二重螺旋を描いて浮かんでいた。


 よく見ると塔自体もすべて書架になっていて、ぎっしりと本が並んでいる。


「彰文!」


 浩太郎がどこからか呼びかけてきた。

 声のした方を振り返ると、豪華な書斎のような場所で、スーツ姿の男と向かいあっている。

 男は羊の雄にあるような一対の湾曲する角がついた仮面をかぶり、青い手袋をはめていた。


「ようこそ、悪魔の書架へ……」


 仮面の男は、優雅に挨拶を送ってきた。

 そして名乗る。


「私はここの管理者。“本の悪魔”と呼んでくれたまえ」





 彰文と浩太郎は、しばし言葉を失っていた。


「……これって、夢だよな?」


 しばらくして、浩太郎が顔をひきつらせながら声をかけてくる。


「そう思いたいけど……」


 だが、なぜか彰文は否定できなかった。


 あまりにも現実離れした状況だったが、似たような体験をした気がするからである。

 それもつい最近。


「ところで、君は誰かね? 私はコータロー氏を招いたはずなのだが?」

「僕は、片倉彰文と言います」


 彰文はそう答え、助けを求めるように手招きしてくる浩太郎の隣へ歩いた。


「俺を、つねってくれ」


 浩太郎が囁きかけてくる。


「ベタだな」

「お約束っていうんだ。大事なんだぜ?」


 彰文は答えず、背中を強く叩いた。


「痛い……」


 浩太郎はまず顔をしかめ、そしてため息をつく。

 これが夢ではないと理解したのだろう。


「とにかく話を聞こう」


 彰文は不思議と落ち着いていた。

 すべては目の前にいる仮面の男が知っているはずである。

 推測するより、彼に語ってもらったほうが早いし、確実なのだ。


「君たちもよく知っているように、この悪魔の書架は人類が定めた規則に従い、書物を公開している。そして新たなる創作の場を提供してきた……」


 悪魔が説明をはじめる。


「だが、本質的には人類が誕生してからのあらゆる叡智が記録されているのだよ」

「世界記憶、アカシックレコード……」


 悪魔の言葉に、彰文は思わず反応していた。

 噂は本当だったらしい。


「そう呼ぶ人々もいるね」


 悪魔がうなずく。

 仮面ゆえ表情はわからないが、微笑んだように感じた。


「聞いたことある。燃えるネーミングだよな」


 浩太郎がなぜか興奮ぎみに言う。


「そして浩太郎くんにもわかるように説明すれば、私は過去から現代に至る全人類の集合意識の擬人化のようなものだ。あらかじめ断っておくが、少女の姿をしていないのは、こちらのほうがより多くの人々に納得され、信頼されるからだよ」

「うっ、心を読まれた」


 浩太郎が胸を押さえる。


 擬人化と聞いて、美少女を連想したのだろう。

 たしかに、そういうコンテンツは多い。


「人類は今や世界レベルで情報を共有するようになっている。そう、インターネットだ。それは私と同種の存在であり、それゆえリンク可能だった……」

「つまり、あんたがインターネットを支配している?」


 浩太郎が疑いの目を悪魔に向ける。


「それはない……」


 悪魔が笑い声をあげた。


「私は全知であるかもしれないが、全能ではないからね。それどころか、ほとんど無力と言っていい。だから、『レディ・ドラキュラ』の創造者――クリエイターであるコータロー氏を呼んだのだよ。そして偶然とはいえ、ここに来てくれた彰文氏も歓迎する。あるいは、偶然ではないのかもしれないがね」


 悪魔はそう言うと、左手をすっとあげた。

 すると背後の塔を回っていた書物のうち一冊が飛んできて、彼の手のなかに収まる。


「この本は悪魔の書架に投稿された作品のひとつだ。だが、この本は今、あるモノによって蝕まれている。作品世界は改変され、食い荒らされている。やがては、この書架からアクセス不能となる。つまり……」


 悪魔は書物のページをぱらぱらと開いたあと、それを閉じ、身体から遠ざけた。


 次の瞬間、その書物は黒い炎に包まれ、あっという間に燃え尽きる。


「消滅するということだ」


 悪魔の声には怒りと哀しみのようなものが感じられた。

 そして手術を終えた外科医のように黒く汚れた手袋を脱ぎ捨て、新しい手袋をはめる。


「消滅した作品は、どうなるのですか?」


 彰文は質問してみた。


 その作品がサーバー上から消えただけなら、データを修復すればいい。

 だが、アカシックレコードから消えるのだとしたら……


「君たちが言うところの現実世界が書き換わることになる。その作品がなかった世界にね」


 悪魔は淡々と答える。


 彰文は思わず浩太郎と顔を見合わせた。

 完全には理解できないが、かなり重大な問題であることはわかる。


「……作品を蝕んでいるあるモノって、なにモノ?」


 浩太郎が悪魔に向き直り、恐る恐る訊ねた。


「私は“紙魚シミ”と呼ぶことにした。現実世界で貴重な書物を食い荒らしてきた虫になぞらえてね……」


 悪魔はそう答え、もう一冊、書物を取り出し、表紙をすっと撫でる。


「実は、この作品もシミに侵されている。タイトルは『レディ・ドラキュラ』」

「俺の……作品が?」


 浩太郎が驚いて自分の顔に指を向けた。


「なんでだよ? あのシリーズは今、放置していて、別の作品を書いてるってのに」

「シミは、むしろそういった作品を狙うのだよ。書きかけで放置されている作品、誰も読まなくなった作品、誤字や脱字の多い作品、文章や物語が破綻している作品……」


 そして悪魔は浩太郎に、本を手渡す。


 本は豪華な装丁が施され、重厚感があった。

 浩太郎が感動しながら、しばらくそれを眺める。


「この本のなかに、シミとかいうモノが?」

「その書物は、君の作品を実体化させただけだよ。シミは作品世界のなか深く静かに潜りこんでいる」

「なんとかできないのかよ?」


 浩太郎が切迫した表情で、悪魔に詰めよってゆく。


「方法はひとつしかない……」


 悪魔は厳かに言った。


「作品世界に入り、侵入したシミを除去することだ」

「はあ?」


 予想外の答えに、浩太郎が首をひねる。


「そんなこと、できるのかよ?」

「できるよ。君たちは“創造者クリエイター”なのだから……」


 悪魔が浩太郎を見つめながら言う。


 その言葉には、なぜか敬意と羨望のようなものが感じられる。


「そもそも、ここにいるのは、君たちの意識だけだ。現実世界の君たちは、悪魔の書架の画面を見ている。そして時間はほとんど進んでいない……」


 悪魔がゆっくりと左右を行き来しながら、説明を続ける。

 靴底が床板に当たり、かつかつと小気味よい音をたてた。


「君たちの意識は普段、外の世界に向けられている。それをここ“内なる世界”に導いたのだ。自覚したことはないだろうが、もともと深層で繋がっているものだからね……」


 浩太郎も彰文も人類なのだから、集合意識の一部なのはわかる。


「そしてリストから作品を選ぶように、君たちはそれぞれの世界へと入ってゆくことができる。外なる世界ではただ本を読んでいるだけだが、ここ内なる世界では全人類が過去から記憶してきた知識や情報により補完され、ある意味、現実より現実的になる」

「す、すげぇな……」


 浩太郎がごくりと喉を鳴らす。


「それが本当なら、完璧な“ヴァーチヤルリアリティ”だ」

「今が、まさにそうだしね」


 彰文は近くにあったアンティークふうのソファーを手で触れてみた。

 木と革の感触が伝わってくる。かすかにワックスの匂いすら感じた。


「シミ退治、引き受けてくれないかね?」


 悪魔が浩太郎に手を差し出す。


「俺の……作品だものな……」


 浩太郎が迷いながらも、その手を握ろうとする。


「『レディ・ドラキュラ』は初めて書いた作品だ。文章は下手くそ、ランキングは低かったし、コメントもひどいもんだった。将来、自分の黒歴史になるかもしれない。それでも、愛着はあるんだ。あの世界にも、キャラクターたちにも」

「浩太郎……」


 彰文は横から肘でつついた。


「なんだよ?」


 浩太郎が顔だけを振り返らせる。


「引き受けるのはいい。だけど、この人は、まだリスクを説明していない」

「リスク? たしかに!」


 浩太郎があわてて手を引っ込めた。


「騙すつもりはないよ……」


 悪魔が静かに笑う。


「危険は、もちろんある。たとえば『レディ・ドラキュラ』の世界に入り、浩太郎くんが命を落としたとしよう。現実世界ではどうなるか? 浩太郎くんがもともと存在しなかったと書き換わるのだよ」

「そ、そんな……」


 浩太郎が絶句する。


 ある意味、死ぬより恐ろしいと彰文も思った。


「そんなのは御免だ! いくら自分の作品が好きったって、命を賭けるほどじゃない! そうだよな? な?」


 浩太郎が彰文に向き直り、同意を求めてくる。


「僕は作品を書いたことがないから……」


 彰文にはそう答えるしかなかった。


「ただ、好きな作品がなくなるのは悲しいし、寂しい。いや、読んだことのない作品だって、たとえ嫌いな作品だって、なくなってほしくない」

「それはそうさ! だけど……」


 浩太郎が声を荒げ、彰文に詰めよってくる。

 昂ぶった感情を、ぶつけてくるように。


「そろそろ、いいかしら……」


 凛とした声が響いたのは、そのときだった――

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