第一章 悪魔の書架
第一章 悪魔の書架①【書籍用改稿版】
「千尋!」
片倉彰文は叫び声をあげながら、跳ね起きた。
どうやら机に突っ伏していたらしい。
数学の授業を受けているあいだに、いつのまにか眠ってしまったのだ。
開け放たれた窓からは、湿気を帯びた熱い風が蝉の声を運んできている。
二学期がはじまって、まだ間もない。
夏休みとともに暑さが去ればいいのだが、自然は人間の都合などおかまいなしだ。
「びっくりさせるなよ……」
背後でうわずった声がする。
振り返ると、クラスメートの甲斐浩太郎の姿があった。
身長は彰文よりわずかに高い。
髪は短く癖毛で、好き放題に跳ねていた。
校則違反だが、すこしブリーチをかけている。
だが、皇居からさほど遠くないこの都立高校は、伝統的に自由な校風で、この程度では指導されない。
「悪い夢でも見てたのかよ? 授業終わっててよかったな」
浩太郎が笑いかけてきた。
「悪い……夢?」
言われてみれば、たしかに夢を見ていた気がする。
かなり生々しい夢だった。
全身にじっとりとした汗が滲んでいるのは、たぶん暑さのせいだけではない。
だが、どんな内容だったか、もう思い出せなかった。
「で、ちひろって、誰なんだ?」
浩太郎の笑いがにやにやとしたものになる。
「ちひろは……」
彰文は答えようとして、言葉に詰まった。
「誰だろう? 何かの作品に出てきたのかな?」
額を指で押さえながら、つぶやく。
しかし――
(なんだ? この違和感は……)
頭のなかを乱暴にかきまわされているように意識が混濁している。
その中央に黒い穴がぽっかりと空いて、大事なことが吸い込まれている気がした。
「顔色悪いぞ。保健室に行くか?」
浩太郎が心配そうに声をかけてくる。
「いや、大丈夫……」
何度か深呼吸をしているうち、気分はいくらか治まっていた。
夢のことも気にならなくなっている。
きっと覚えておく必要のないものだ。
「放課後の約束は、大丈夫だよな?」
やや不安げに、浩太郎が言う。
「新作の感想だろ? 読者ランキングがあがってきてるんだって?」
浩太郎は中学の頃から“悪魔の書架”の投稿サイトで小説を発表している。
兄の書棚で見つけたラノベにはまり、自分でも書きたくなったそうだ。
作品を書きはじめて二年余り。夏休みのあいだに新しくはじめたシリーズが好評らしい。
「まあな……」
浩太郎が照れたように笑った。
「やっぱ、マーケティングって大事だよな。流行りのジャンルを選んで、人気の要素をいろいろ入れてみた。更新も毎日続けている。文章は粗いが、今は勢い優先だな」
書架には彰文もよく入っている。
自ら書くことはないが、作品はいくつも読んでいた。
浩太郎の作品も偶然読んでいて、感想を書き込んでいたのである。
もっとも、お互いがそのことを知ったのは最近だった。
自分の作品の読者に直接会うのは、浩太郎にとって初めての経験だったらしく、ひどく興奮していた。
そして彰文の感想が丁寧だったと喜んでくれている。
それがきっかけで、仲良くなった。
「楽しみだよ」
彰文は子供の頃から本が好きで、あらゆるジャンルの小説を読んできた。
誰かの影響である。
(あれ? 誰だっけ?)
しばらく考えてみたが思い出せなかった。
本を読んでいる視界の片隅に、すらりとした白い足が見えている。そんな記憶がふと甦ってきた。
だが、次の瞬間、ふたたび頭のなかがぐるっとなる。
記憶のなかの視界が変わり、開かれた頁だけが残った。
(そうだ、僕はいつもひとりで本を読んでいた……)
彰文は自分に言い聞かせるように心のなかでつぶやく。
「足りないところがあれば、遠慮なく指摘してくれ。彰文の感想は的確だからな」
「参考になればいいけど……」
浩太郎にそう答えてから、彰文はまた違和感を覚えた。
同じ言葉を、誰かによく言っていた気がしたからである。
今日の自分は、なにかがおかしい。
きっと暑いなか、居眠りしたせいだろう。
冷たいシャワーを浴びて、すべてを洗い流したいと彰文は思った。
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