二人の空と海
次の日、なるがオフィスに行くと、例のごとく坂崎が棚の埃をポンポンと叩いていた。
「お疲れ様です」
なるが言うと、坂崎は気がついて振り返り、微笑んで「お疲れさまでございます、なる様」と言った。
「実は坂崎さんに言付けを頼みたくて・・・」
なるは言った。
「私、バイト辞めます」
なるは自席に座り、話し始めた。
「海と玲子さんのこと、祝福できるようになったら、また雇ってもらいたいなと思います」
なるは坂崎に前日の電話の話をした。
「そうでございましたか・・・」
坂崎は静かに言った。
「彼氏できたら、遊びに来ますね!坂崎さんに紹介します!」
「なる様・・・」
はははっとなるは軽く笑ったが、すぐ悲しい顔になって、言った。
「・・・お兄ちゃんが10年前、ウチに来てくれたおかげで、海と知り合えて、恋ができた。それは、本当に良かったと思ってます」
なるは坂崎に、10年前空と出会い、夏に海に出会った経緯を話した。
坂崎は少し驚いたようだった。
「・・・なる様のお家の側には、10年前、空様と海様の実のお母様がお住みになられていたのです」
なるは初めて聞く話に驚いた。
「奥様の目を盗んで、来られていたのですね。坂崎も存じ上げませんでした」
「でも、空さん、10年前、引っ越すって言ってました・・・住んではいなかったんですか?」
なるが驚いて聞く。
「ええ。空様は住んでおられませんでしたよ。ただ、その時期は本家で騒動がありまして・・・」
「あ、週刊誌に載ったとかいう・・・」
「はい。その際はお子様をご親戚の目からお離ししたいと旦那様が仰いました」
「それで、お母さんのご実家にいたんですね」
なるは納得した。
「でもその時お離ししたのは・・・」
坂崎は何かを言いかけ、なるは坂崎を見た。
「・・・いえ。空様は複雑なご家庭の事情を、お話になり辛かったのかもしれませんね」
・・・お兄ちゃん、自分の話、したがらなかったもんな・・・
なるは10年前の空と、海の裏にある影を感じたような気がした。
坂崎はそんななるを複雑な表情で見つめて言った。
「海様は、なる様に特別な感情をお持ちなのですね」
「え?いやいや。フラれちゃいましたもん。ははは」
「人間の感情は難しいものです。でも最後は収まるべき場所に収まる、坂崎はそんな気がします」
「坂崎さん・・・?」
なるはきょとんとした。
坂崎は微笑んでいた。
数日後。
「空、行ってくるよ」
海は空の病室にいた。ブランド物の新品のスーツを着ている。眼鏡はかけていない。
海の背後に坂崎が立っている。
空は酸素マスクが取れ、頭に包帯を巻いているが眠っているような穏やかな顔だった。
「・・・早く目を覚ませよ。玲子も待ってる」
そう言って海は立ち去った。
海達が病室を出た後、空の瞳が、微かに開いた。
・・・結局今日まで目を覚まさなかったな。
事故から一週間、会議の日の朝。会議の会場になっているアリーナへ向かう車中で海は考えていた。
坂崎から聞いた話だが、なるはアルバイトを辞めると言っていたらしい。
・・・無理もない。もう俺には会いたくないだろうな・・・
海は遠い目で窓の外を見た。
その頃になるとなるはほぼ全ての学科の冬季試験が終わり、アルバイトも行っていないため、毎日家でごろごろしていた。
アルバイトに行っていないため玲子と会うことなく、あれから海と電話で話したりもしてないため、二人とは関わらない日々を送っていた。
その日も家でインターネットを見ていたなるはふと、『神宮寺空』を調べた。
『神宮寺グループの命運をかけた合弁会社設立、副社長のカリスマ性に期待』と銘打ったニュース記事が目に入った。
『今や社長以上の手腕を持つと言われる副社長、神宮寺空氏』と記事には書かれていた。
記事に載っている写真には、青年と老人が握手している。老人は共に合弁会社に出資したライバル会社の会長だと書かれている。
この顔は、海なんだ・・・。
写真の青年は笑顔を見せていた。だがどことなく悲しい表情にも見えた。
海、もうちょっと楽しそうにしないとバレちゃうよ。
なるは悲しげにくすっと笑った。
記事には『一週間表舞台から姿を消していた神宮寺氏には重病説も出、対抗する常務派による調印反対の空気も大きくなったが、調印式は無事終了した』とあった。
なるは『町のIT屋さん』を目標にしていた海の笑顔を思い出していた。
・・・何だか、全然住む世界が違っちゃったね・・・
なるは海の悲しい笑顔に、切なくなった。
その日の夕方。
ガラガラ!
空の病室のドアが勢いよく開けられた。
「おー海。そんな勢いよく開けるなよ。バレちゃうだろ」
空がベッドから起き上がってけらけら笑っている。
「『おー海。』じゃない!」
海が息を切らしている。少し遅れて坂崎が周りを気にしながら入ってきて丁寧にドアを閉めた。
「お前、調印式の後の晩餐会、行かないのか?きっと上手い酒出てるぞ~」
空が羨ましそうに言う。
「お前が行け!」
海が睨む。息はまだ切れている。
「まぁまぁ落ち着けよ。6年ぶりの再会じゃないか。会いたかったぜ」
「お前が電話に出ないからだろ!」
海が間髪入れずに返す。
「お前だって滅多にかけてこなかったじゃないか。金の無心なら困ると思ってな」
「んなわけないだろ!」
「おーい坂崎ぃ。こいつには調印式終わるまで俺のこと言わない方が良かったんじゃないか?」
坂崎は微笑んで返す。
「朗報は早い方が良いかと思いまして」
「上手い酒逃すほどの朗報かぁ?」
空がそう言うと海がかっと目を見開いた。
「お前・・・!」
目の前の怪我人はへらへら笑っている。
海は拍子抜けした。
「何だよ・・・」
海はへなへなと腰を落とし、すかさず坂崎が側にある椅子を差し出すとそこに座った。
「俺がどんだけ心配したと・・・」
「おー海、お前のブラコンは相変わらだな。兄さん嬉しいぞ」
空がわざとらしくおいおい泣くフリをした。
海は俯いて、小さな声で言った。
「良かった・・・」
空はさすがに悪ふざけが過ぎたと思ったのか真面目な顔になって言った。
「悪かったよ・・・心配かけたな」
坂崎は二人を見て微笑んでいた。
「いやー頭以外は軽い打撲なんだってさ。運良すぎると思わね?俺」
空はけらけら笑って言った。
「頭はちょーっと強く打ち過ぎちゃったもんで昏睡状態になったみたいだが、手術も成功したし、記憶に問題なければ後遺症はないだろってさ」
海はけらけら笑う空を呆れた顔で見て言った。
「記憶はどうなんだ?」
「今のところ忘れちゃったことはないかなー。神宮寺空、26歳、誕生日は1月23日で血液型はえーびー」
「何かもっと複雑なことは?」
海が心配して聞く。
「えー、仕事のこととか?面倒くせーな忘れちゃえば良かったよ」
空がぶーたれる。
海が空を見て静かに聞いた。
「お前・・・自分で車突っ込んだろ?」
空が一瞬驚いた顔をして海を見たが、すぐけらけら笑って言った。
「何言ってんだよー手元が狂って・・・」
「調べりゃすぐわかんだよ、しらばっくれるな」
「・・・」
空が黙る。
「何でそんなこと・・・」
海が今にも泣きそうな顔をした。
空は海から目をそらすように窓の外を見て言った。
「何か疲れちゃったのかな、俺・・・」
海が身を乗り出して言った。
「俺に言ってくれれば・・・!」
空が海のほうに振り返って言った。
「言ってどうするんだよ・・・?代わるのか・・・?」
海は目を見張った。
空の瞳は穏やかだった。
「そんなの嫌だろ?もう・・・」
海は空を見たまま動けなかった。
「まぁでも、親父はまだお前を『神宮寺空』に仕立て上げようとしてんだな。それはわかった」
空は穏やかな声で続けた。
「俺は、死ねないわけだ。お前の人生を狂わせないために」
「空・・・」
海は空の瞳の奥の悲しみに気づいた。
「空は、どうしてあんなに思い詰めちまったんだろう・・・」
病院を出、坂崎の運転する車で自宅を目指している時、海がおもむろに呟いた。
坂崎が運転席から静かに口を開く。
「・・・空様の今日のような楽しそうなお顔は、久しく拝見しておりませんでした」
海が運転席に顔を向けた。
「空様は、海様以外には心を開いておりません。坂崎にも・・・」
坂崎の言葉に心なしか悲しみが漂う。
「空様は、お一人で苦しまれていたのかもしれません」
空・・・
「・・・どっちがブラコンなんだよ・・・」
海は後部座席で天井を見上げて呟いた。
自宅に着いた海は、父親のいる書斎に顔を出した。
「・・・海か」
海の父が振り返る。
「空に会いに行ったのか?」
海が聞くと、海の父は「いや・・・」と答えた。
「来週にも重要な会議があるからな。その準備をしなくてはならん」
海の父は海に身体を向けながらも会議資料とみられる束を広げ始めた。
「空はまだ回復しないだろうから、海、その会議だけは出てほしい」
こちらも見ずに言う父親の態度に海は唇を噛んだ。
「・・・もう空を解放してやらないか」
海の父はふと海に目をやる。
「空は・・・自殺を図ったんだぞ」
海は怒りに満ちた目で、静かに言った。
海の父は海から目を反らした。
「・・・空が選んできた道だ。私は何も強制していない」
「・・・!」
海は踵を返して書斎のドアを開け「バタン!」と勢いよく閉めて部屋を出た。
海は自室に戻って机を蹴り飛ばした。
ガタンと机が揺れ資料が何冊か落ちた。
海は気にせずベッドへ飛び込んだ。
・・・くそ!糞親父め!
海は怒りを静めるために深呼吸した。
・・・空・・・どうしたらいいんだ・・・
海は顔を手で覆った。
ブーー。
ベッドで雑誌を読んでるなるの横で携帯電話が鳴った。
・・・?!
海からだ。
ええええ。どうしよう・・・。
なるは恐る恐る電話に出た。
「も、もしもし」
『ごめん』
「え?」
『電話しちゃった』
「う・・・」
『元気?』
「げ、げんき・・・」
なるは久しぶりの海の声に戸惑いつつ、心が踊るのを感じた。
『空、目さめたよ』
「え!?良かったね!」
なるは素直に喜んだ。
『ああ。ほっとしたよ』
なるは言葉が続かず無言になった。
海が急いで話を繋げる。
『空が回復するまで、もう少し空の代わりをやることになりそう』
「そっか・・・」
『お前、バイト辞めるって坂崎に言ったんだってな』
「あ、うん・・・」
そりゃもう行けないでしょ、となるは思った。
『俺、お前ん家の鍵、まだ持ってるじゃん?』
海にはなるの家の鍵のスペアを渡してあった。
「あ、そうだね」
『行かないにしろ、返さないとな』
「坂崎さんに渡してくれればいいよ」
『・・・』
「用事はそれだけ?」
『・・・まぁ、そうだけど』
「ごめん今ちょっと忙しいの、またね」
『あっおい、なる・・・』
ぶち。
なるは電話を切った。
・・・番号変えちゃおうかなぁ・・・
なるは布団に潜り込んだ。
海は切れた携帯電話を見てため息をついた。
・・・何やってんだ。俺は。
海は気を取り直して玲子に電話をかけた。
『もしもし』
「玲子?海だけど」
『どうしたの?』
「空、目さめたよ」
『・・・!よかったわ』
「ああ。ほっとしたよ」
『じゃあ海、戻ってこられるの?』
「ああ。空の回復を待つからもう少しかかるけど」
『・・・製粉所、何とか納品したんだけど、バグが少しあって・・・』
「対応できそうか?」
『何とか・・・』
「俺が戻るまで、何とか頑張ってくれな」
『ええ・・・やってみるわ』
「・・・玲子」
『何?』
「・・・空を、助けたいんだ」
『・・・?』
「でも、どうしたらいいかわからない」
『・・・海は空の痛みがわかるんでしょ?』
「え・・・」
『心の痛みも、わかるんじゃないかしら』
「心の・・・」
『私は大丈夫だから、二人でちゃんと話し合ってみたら?』
「・・・ありがとう」
『私こそ、ありがとう』
「・・・?」
『海のおかげで、今まで頑張ってこれた』
「玲子・・・」
『戻ってきたら、一回デートしない?』
「・・・」
海は少し考えてから、言った。
「・・・じゃあ、ありがちですが、映画でも見に行きますか」
玲子は電話の先でふふっと笑って言った。
『ええ。わかったわ』
その後数日、海は空の代わりに副社長として仕事をした。
海が身代わりであることを知っている秘書が側にぴったり付き、海がトチりそうになるとすかさずフォローをしてくれた。
海も社長として様々な決断をしてきたが、さすがに規模が違い、戸惑うことも多かった。
たった数日で、空の重圧を十分感じることができた海だった。
「うわーー!もうやだーー!」
運転手の坂崎しかいない車内で海は叫んだ。
「お疲れさまでございます、海様。本日のご予定は終了なさったということですが、ご自宅へお帰りになりますか?」
「やだーー!帰りたくない!」
坂崎はふふっと笑う。
「では、空様のところへ行きましょうか」
海は坂崎を見て言った。
「そうだな。もう御免だって言ってやる」
海は静かに空の病室のドアを開けた。
空は気づいていないようだ。起き上がって膝元に置いてある何かを見つめている。
あれは・・・写真?
ドアが「パタン」と言って閉まり、空が気づいた。
空は急いで写真のようなものをしまった。
「空?」
「な、何だよ海!驚かすなよー」
「何見てたんだ?」
「何も見てないさ、何か用か?」
「お前に文句を言いに来たんだ」
空はきょとんとする。
「文句?」
「お前の仕事はやりたくない!」
空は「あー」と言った。
「まぁまぁあと数日の辛抱だから」
空は手をひらひらさせて言った。
「お前も辞めちまえばいいんだよ」
海はきっぱり言った。
「はぁ?何を言ってるんだ」
空はぽかんとした顔をした。
「記憶喪失になったことにすればいいんだ」
海は真面目な顔で言う。
「そんなことしたらお前にお鉢が回ってくるぞ」
空は呆れた顔で言った。
「そんなもの断る!」
海は拳を上げて断固反対!と言った。
空はふっと笑う。
「そうもいかないだろ。俺の肩には数万人の従業員が載っかってるんだ」
「空・・・」
「あのタヌキ親父じゃ今の会社は支えられないよ」
「でも・・・」
空は微笑んだ。
「悪かったよ。もう車は運転しない。坂崎の車に乗るよ」
空はちらと坂崎を見る。
坂崎も海と同じく心配そうな顔をしていた。
空が二人から目を反らし窓の外を見て言う。
「俺・・・婚約するんだ」
海が驚いた。
「親父の差し金だ。お前が調印式で握手してた爺さんの孫だよ」
「あの合弁会社を一緒に立ち上げた・・・?」
「ああ。ただ親父はビビってまだ返事をしてない。俺には前科があるからな」
「玲子・・・」
海が呟く。
空が窓から目を反らし海へ向き直って聞いた。
「玲子は、元気か・・・?」
海は、少し考えてから答えた。
「・・・ああ、元気だよ」
空がけらけら笑い出した。
「お前らは、いつ結婚するんだ?」
海が驚いた顔で答えた。
「何でそういう話になるんだ」
「え、もう6年だろ?玲子を待たせるなよ」
海の瞳に怒りの色が映る。
「玲子はずっとお前を・・・!」
空が穏やかに答えた。
「玲子が待ってたのは俺じゃない。わかるだろ?」
海は自分を落ち着かせるために俯いた。
「お前こそ、何で6年も待たせてるんだ」
空の瞳は穏やかなままだ。
海は俯いたまま答えた。
「玲子が待ってるのは、俺でもないからだよ・・・」
今度は空が驚いた。
「お前・・・」
「俺は、『神宮寺空』を演じ続けてしまった・・・」
「お前・・・どうして・・・」
「わからない・・・そのほうがいい気がして・・・」
海は俯いたまま頭を抱えた。
空は坂崎をちらと見た。
坂崎は理解したように「坂崎は車でお待ちしております」と言って素早く病室を去っていった。
しばらくすると、坂崎の待つ車に海が乗ってきた。
「待たせて悪かった、坂崎」
「いえ、構いませんとも。ご自宅へお帰りになりますか?」
「いや・・・海に、向かってほしいんだ」
「かしこまりました」
坂崎はそれ以上は聞かずに車を走らせた。
空は病室で一人、坂崎が去った後の二人の会話を思い出していた。
「ただ、やっと、玲子と向き合うことにはしたんだ。今度『海』として、玲子と会ってこようと思ってる」
海が俯いたまま言う。
「でも・・・」
「でも・・・?」
空が優しく聞く。
海が顔を上げて言った。
「俺、お前に話さないといけないことが・・・」
坂崎の運転する車が海辺を走る。
海は何も言わず、窓の外を眺めていた。
なると歩いたあの浜辺が近づいている。
「坂崎・・・」
はい、と坂崎は運転しながら軽く視線を動かす。
「二重人格って、あると思う?」
「・・・」
「それとも俺が、優柔不断なだけかな・・・」
「・・・人間の感情とは、難しいものです」
坂崎はそれだけ言うと、車を海の見える公園へ停めた。
「結局俺は、空を助けるどころか、空を困らせてしまうんだ」
坂崎は、到着しましたと言った後に、後部座席を振り返って微笑んだ。
「空様は海様と再会できて、十分救われていると坂崎は思います」
海は坂崎を見て「ありがとう」と言って車を降りた。
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