海と空
「これから迷惑をかけるから、二人には話しておいた方がいいな」
海はそう言って話し始めた。
「今の電話はウチの執事からだ。空が乗った車が朝に事故に遭ったらしい。空は頭を強く打って今まで手術をしていたらしくて、手術自体は成功したけど、目が覚めるかはまだわからないそうだ」
なると玲子は驚いて海を見た。
「それで、実は来週に大事な会議があるらしくて、俺に『神宮寺空』として出席してほしいっていう電話だった」
「空として・・・?」
玲子が聞く。海は「ああ」と言った。
「・・・俺は影武者なんだ。空に何かがあった時に、『神宮寺空』を亡くさないために育てられた」
「影武者・・・?」
今度はなるが聞いた。海がまた「ああ」と言う。
「俺は、空の代わりとして育てられたんだ」
「元々は俺たちが双子で生まれたことが良くなかったらしい。当時、神宮寺家を仕切ってた俺の祖父のじーさんが相当頭がカタくて、『双子は縁起が悪い』と言ったそうだ」
なるは驚きながら話を聞く。
「さらに良くなかったのは、俺たちが親父の愛人の子供だったことだ。愛人だった俺達の母親は、ひっそりと産み育てるつもりだったそうだが、本妻に子供がいなかったから、俺達の母親の妊娠がじーさんにバレた時、神宮寺家の跡取りとして育てる確約をさせられたらしい。そして生まれてみたら双子だったことで、産まれた当時はかなり揉めたそうだ。どうせ愛人の子だ、片方を殺すみたいな物騒な話にもなったらしい」
なるはちらっと玲子を見た。玲子も驚きを隠せないようだ。
「じーさんは本気でどちらかをどうにかしようとしたそうだが、それはさすがに周囲が反対したらしい。それでも納得できないじーさんは、片方を世間から抹消することにしたんだ」
なるは海から発せられる言葉を聞き溢さないように海を見ていた。
「産まれたのは『神宮寺空』一人であるとして、もう一人を外には出さず、いつか空に何かがあった時に、代わりに生きさせる存在として育てると。親父と本妻はじーさんの言いなりだから、反対できなかったらしい。唯一反対した愛人、俺達の母親には財力がなく、子供を手放すしかなかったそうだ」
「そんなことできるの・・・?」
玲子は信じられないという顔をして聞いた。
「もちろん完全にはできないさ。法律もある。だから俺にはちゃんと戸籍もあるし、今はこうして普通に暮らしている」
海は静かな声で続けた。
「ただ、小さい頃は人並みの生活はできなかったな。空は普通に学校に通っていたが、俺は学校は通わず、専属の家庭教師が家に常駐して勉強を教えた。もちろん友達もできなかったし、家の敷地内から出ることはほとんどなかった」
海は玲子を見て言った。
「だから、玲子とも知り合わなかったんだ。大学に上がるまでは」
玲子は驚いた顔のまま海を見ていた。
「俺は隠された存在だった間、空の代わりになるように教育を受けた。簡単に言うと、毎日のように『お前は神宮寺空の代わりだ』と聞かされ続けたんだ」
『空の代わりには、なれないんだよ』
なるの心に海の言葉が響いた。
「空が成長していく過程で出てきた口調やクセ、考え方まで逐一真似るように教え込まれた。俺が何か言うと家庭教師が言うんだ、『空様はそんなことは言いません』とな。そうやって行動一つ一つ直された」
海は遠い目で続けた。
「空がちょうど大学三年になった頃、じーさんが死んだ。死ぬギリギリまで影響力のある人だったが、さすがに死んだ後は、俺を解放することになった」
海はふっと笑う。
「じーさんが死んでしばらくして、親父に呼び出されたんだ。『お前、外に出たいだろ?』と。もちろんそうさ、一生家の中なんて御免だった。それで俺は大学の編入試験を受けて、空と同じ大学に通うことにしたんだ。だがその時親父が言った。『一つだけ頼みがある』と」
海がおもむろにパソコンでブラウザを立ち上げ、『神宮寺海』を検索する。検索結果はゼロ件だった。
「『神宮寺コンツェルンの跡取りは一人だと世間に公表している。表立った活動はしないで欲しい』とな」
なるはブラウザの検索結果を見つめて言った。
「検索結果が出ないのも・・・?」
海がなるを見て言う。
「検索エンジンを提供する会社にウチから金を払って、『神宮寺海』が載っているページは検索結果に出ないようにしてるんだ。だから会社のホームページに俺の名前を載せると、検索できなくなってしまう」
「だから海は自分の名前を載せるのを嫌がったのね・・・」
玲子が言った。海は「ああ・・・」と答えた。
なるが海を見て言った。
「お祖父さんが亡くなって、もうそんな考え方辞めようってことにはならなかったの?跡取りが二人いたっていいじゃない」
海がなるを見て微笑んで言った。
「双子が許されなかったのは、じーさんの頭がカタかったことともう一つ、跡目争いで揉めるのを避けたかったってことがあるんだ」
海が遠い目で言う。
「単純な兄弟であれば長子を優先させればよくて、それで周囲も納得できたが、俺達は姿形が瓜二つの兄弟だから、空が長子で正当な跡継ぎだと公表しても、対立する親戚が俺の方について空を蹴落とそうとすることも考えられた」
海が淡々と続ける。
「実際、小さい頃、俺の存在に気づいて、俺を手懐けて空の代わりに据えようとした叔父がいてね。そいつは空の命まで狙ったらしい。空を殺して、俺を空とすり替えようとしたんだ。俺の前では優しい叔父さんで通していたから気づかなかったが、後で空から聞いた。その叔父は、今はどこにいるかわからない」
なるは驚いた。
「今は親父が全ての財産と権利を相続している。親戚の叔父叔母たちはそれを妬んでいるんだ。親父は誰にも分ける気がないから、少しでも分け前をくれと言わんばかりにいろんな親戚が空に近づいてきた」
なるは10年前の『神宮寺コンツェルンのお家騒動』を思い出した。
「親父は俺の存在が親戚中にバレて会社が傾くことを心配した。神宮寺コンツェルンは完全な家族経営で、親戚同士の対立が会社の業績に直接影響してしまう。良くないことだがな。親父は空に近づくハイエナは何とか振り払ったが、空に双子の弟がいることで、親戚同士の対立が鮮明になることを恐れたんだ」
海が続ける。
「俺も、俺のせいで空の命が狙われるのは良くないと思った。だから子供心に、自分の存在はないほうが良いと思った。大人になって解放されても、その気持ちは変わらなかった。空の代わり、影武者でいいと思った」
・・・嘘だ。
なるは思った。
本当は辛かったんでしょ・・・?
なるはちらっと玲子を見た。
玲子が悲しい瞳で海を見て、言った。
「海は本当に空の代わりになるために、私の前に現れてくれたの・・・?」
なるは玲子を見つめる。
玲子さん・・・違うよ・・・海、本当は・・・
なるの胸がズキズキ痛んだ。
海は静かに微笑んで言った。
「ああ、そうだよ・・・」
海・・・!
なるは海を見た。優しい瞳だった。
「そんな・・・海は・・・!」
なるが言いかけたところで、海がなるを見た。海の瞳が、なるの言葉を止めるように穏やかに光った。
「・・・それが、俺の役目だったからな」
海が玲子に優しく微笑んだ。
「海・・・ごめんなさい・・・」
玲子が涙声になって言った。
「いや、いいんだ。昔のことだろ」
「・・・」
玲子が俯いて沈黙している。
海がちらっと時計を見て言った。
「そろそろ迎えが来るんだ」
なると玲子が海を見る。
「来週の会議に『神宮寺空』として出るために、いろいろ予習をしないといけないらしい。なる、すまないが当分実家に帰るわ」
海がなるに言う。
「・・・毎日、電話するから」
「海・・・」
なるがこくんと頷いた。
「玲子、製粉所の件、任せた。佳境で大変だと思うが、困ったら電話してきてくれていいから、何とか乗りきって欲しい」
「・・・わかったわ」
玲子も頷く。
「海、その会議の後は、どうするの・・・?」
なるが恐る恐る聞いた。
海が少し考えてから言った。
「・・・わからない。空が目を覚まさなかったら、このまま・・・」
海が言葉を止めた。
「・・・空として生きるってこと・・・?」
玲子が驚いて聞く。
「そう、なるかもしれない」
「そんな・・・?!」
なるも驚いた。
「海は海じゃない!そんな話、断ってもいいんだし!どうして、そんなこと・・・」
海は俯いて、言葉を選びながら言った。
「俺の中にこびりついた『神宮寺空』が、役目を見つけて喜んでいるのかもしれない・・・自分でも、よくわからないんだ」
なるは、俯いている海を見つめた。
「でも、とりあえず今は空の代わりをやらないといけない気がしてる。空のために」
三人は暫く沈黙していた。
沈黙を破ったのは、見知らぬ男性の来訪だった。
「海様。お迎えに上がりました」
三人は声がした方向を見た。玲子が驚いた。
「坂崎さん・・・」
「これは玲子様。お久しぶりでございます」
坂崎と呼ばれた男性は、初老で長身の男性だった。海よりも少し背が高いようだ。白髪の混じったグレーの髪を綺麗に整えており、髭はない。フォーマルなスーツを着て、なるの持つ執事のイメージそのものだった。
「そうか。玲子は坂崎を知ってるのか」
海が言うと、玲子は「ええ・・・」と返した。
「空と会うときは、いつも一緒に来てくれてたから・・・」
「海様は、玲子様とお仕事なさってたのですね」
坂崎が微笑む。海と同じ、優しい瞳だった。
「坂崎。俺がいない間、この会社の面倒を見ていてほしい。・・・俺はまだ、この会社の社長だ」
坂崎が「かしこまりました」と返事をする。
「あと、なると俺を、なるの家までつれていってほしい。俺の荷物、取りに行かないといけないからな。なるも、今日はもう帰ろう」
坂崎が再び「かしこまりました」と返事をした。
なるは何も言えず俯いた。
「じゃ、おつかれ、玲子」
「お疲れ様です」
帰る準備ができて、海となるが言った。
「お疲れ様・・・」
玲子も答えた。
「玲子様、それでは失礼します」
坂崎もそう言って、三人がオフィスから出ていこうとした時、玲子が言った。
「空が目を覚めたら・・・よろしく伝えて」
なると海と坂崎が振り返った。
海が微笑んで言った。
「・・・わかった。伝えるよ」
オフィスの入っているビルの前まで出てくると、黒塗りのクラウンが停まっていた。
坂崎は後部座席のドアを開け、なるを車の中へ導いた。続いて海も車に乗る。
・・・うわぁ、こんな車に、ドアを開けてもらって乗るなんて・・・イメージ通りの御曹司だ・・・
なるは、海の本当の地位を実感して、遠い存在に感じた。
海はなるの気持ちを察したのか、なるの頭をくしゃっと撫でた。
「何ビビってるんだよ?お前」
海が笑う。
「だって・・・こんな・・・」
なるは俯く。坂崎が運転席に乗り込み、車を発進させた。
海は坂崎に説明した。
「車なら五分もかからないと思う。マンションを引き払って、彼女の家に一緒に住んでたんだ」
「そうでございましたか」
坂崎が運転しながら答えた。
「海様、差し支えなければ、坂崎にお嬢様をご紹介下さいますか」
坂崎が丁寧な口調で言った。
海がはっとして言う。
「あ、悪い。そうだったな。彼女は里見なる。うちのアルバイトだ」
なるは海を見る。海は微笑む。
「そして・・・俺の彼女だ。な?」
海はまたなるの頭をくしゃっと撫でた。
瞬間ゆでダコのできあがりだった。
なるは恥ずかしくなって俯く。
「そうでございましたか。坂崎と申します。なる様、よろしくお願いいたします」
坂崎が運転しながら会釈した。
なるは小さい声で「よろしくお願いします・・・」と呟いた。
「玲子にも、言わないといけなかったな。タイミング逃しちまった。悪かったな」
海は申し訳なさそうになるに言った。
なるは「ううん・・・」と言った。
こんな世界の違う人、私なんかじゃ、全然つり合わないよ・・・玲子さんとのほうが、よっぽど・・・
なるは、自分が彼女であることを、隠したくなってきていた。
「玲子さんに、言わなくていいよ・・・」
なるがそう言うと、海が驚いた。
「なんでだ?だってお前、昨日・・・」
「考えが変わったの。お願い、内緒にして」
なるは俯いたまま言う。
「お前がそう言うならそうするけど・・・」
海が困惑した顔で言った。
・・・私は、海の彼女になっちゃいけなかった気がする・・・
なるは自分の存在に自信が持てなくなっていた。
坂崎は二人の会話を静かに聞いていた。
車がなるの家の前に着き、海は坂崎を車に待たせてなると家に入った。
海はバッグに荷物を詰める。海は私服をあまり持っていなかったので、それほど大荷物にはならなかった。
「一人で寂しくなったら、電話してこいよ」
海が言う。
「・・・大丈夫だもん」
なるが強がる。
海がまたまたなるの頭をくしゃっと撫でた。
「大丈夫だと困るな。俺の有り難みがなくなっちまうじゃないか」
なるが見上げる。海が微笑んでいた。
なるの頬に涙が一筋伝う。
「泣き虫」
海が言う。優しい瞳だった。
「うるさい」
なるは泣きながら強がった。
「・・・すぐ、帰ってくるよ」
海がなるの頬に手を当て、涙を拭きながら言った。
「空も、すぐ目を覚ますさ。そしたら俺は御役御免だ」
なるはこくんと頷いた。
頷いて俯いたなるの顔を、海が手で上げた。
なるが海を見上げる。
海はなるに顔を近づけ、なるの額にキスをした。
なるはまたゆでダコになった。
海は笑う。
「慣れろよ」
「・・・しょうがないでしょ!」
なるは俯いてから海をぽこぽこ叩いた。
「痛ってぇ。彼氏になってもそこは変わらないのかよ」
サンドバッグ一号だな、海があははっと笑いながら言った。
なるは恥ずかしさを隠すように海を叩き続けた。
坂崎が車で暫く待つと、海が荷物を持って家から出てきた。
海が乗り込み、車は静かに発進した。
海が少し考えて、言った。
「・・・坂崎、先に空の所に連れてってくれないか」
車は空の治療を行っている病院に着いた。
空はVIP用の広い病室で、酸素マスクをつけられ頭に包帯を巻かれた状態で眠っていた。
「空・・・」
海が空が眠るベッドの側に立った。坂崎は二、三歩離れた場所に立っている。
「6年ぶりだな・・・」
海が何も答えない空に話しかけた。
「・・・ひとまず来週の会議は出るよ、お前の代わりに。でも、早く目を覚ましてくれよ。俺にも俺の生活があるんだ」
海は、なるの顔を思い浮かべた。
「・・・あと、玲子がよろしくって言ってたぞ」
そう言うと、海はじゃあなと言って、坂崎を連れて病室を去った。
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