好きだけじゃうまくいかないこと
なるが大学に行ってる間に海はオフィスに来て、一昨日終わらなかった片付けをした。
幸い電気は通ったので、エアコンの利いたオフィスで快適に片付けができた。
一通り配置が終わり、海は自分の席と考えた隅のデスクに座った。
デスクは三卓ずつ向かい合わせた計六卓。直近で使うのは社長の海と副社長兼経理の玲子、従業員のなるの三人だけなので問題ない。
ここからまたスタートだな・・・海は気を引き締めた。
早速海は仕事を始めた。まずは顧客を開拓しなくてはいけない。
海はまずは前の会社で作った人脈を使おうと考えていたので、次に繋がりそうな人を優先的に、かたっぱしから挨拶の電話をしていた。
そんな中、海の携帯電話が鳴った。玲子だった。
「もしもし」
『海?玲子よ。まさか仕事始めてる?』
「ああ。だがまだ何も始まってないし問題ないから、お前はもう少し休めよ」
『ごめんなさい・・・明日には行くから』
「無理するな。まだ社員が少ないんだ。どうせこき使われるんだから、全快してから来てくれよな」
海は少し考えるような間をおいて、言った。
「・・・なるもいるし、大丈夫だよ」
『・・・そうね・・・お言葉に甘えるわ。お疲れ様』
玲子は理解したわと言うように素早く電話を切った。
海はすぐ挨拶の電話を再開した。
19時。
なるが住む町の駅前にある大手居酒屋チェーン『にき』でなるの送別会が始まった。
メンバーはなると健太郎を含めて5人で、誰もが夏希には痛い目を見たことのある人間だった。
夏希は自身が高校生の時からそのファストフード店で働いており、古参アルバイトで現在は周りがほぼすべて後輩であるため、どんどん態度が大きくなっていったようだ。
「里見ちゃんのこと庇えなくてごめん、私弱くて強く出れなくて・・・」とある先輩が言うと、「私も・・・」と別の先輩が謝る。
健太郎も「ごめんな・・・」と言った。
なるは「いいんですよ!今は新しいバイトを始めようと思ってて、希望に満ち溢れてるから平気です!」と胸を張った。
「今日はせっかくですから楽しみましょう!私を盛大に送ってくださいね!」
なるはウーロン茶で乾杯した。
その後の飲み会は終始和やかに進んだ。
羽目をはずすようなタイプはだいたい夏希一派なので今日は来ていない。
類は友を呼ぶって本当だな・・・となるは思った。
唯一健太郎が酔いも進んで気が大きくなり、「よし!里見のために歌を歌う!」と言い出し大声で叫びだしたときは皆で止めた。
「健太郎も大変だったからストレスたまってるんだね」とある先輩が言い、「夏希なんか別れて正解だよ」と別の先輩が励ましていた。
「そう言えばけんたろー先輩、なつき先輩とは無事別れられたんですね」となるが言った。
・・・海と私で壊しちゃったようなもんだからなぁ。
なるは夏希を庇う気はないが、陰口を聞かせるという方法を使ったことは幾分申し訳ない気持ちになっていた。
「もちろん!すっきりしたぜ!うぉーー!」
健太郎のテンションは高い。
「そーいや里見はあの兄ちゃんとはどうなんだよ?!結局付き合ったのか??」
周りも「えー何ー」「誰々~」と囃し立てる。
いやぁ、となるは髪をかいて困惑した。
「そーいうんじゃないですってば。私より8歳も年上だし、妹扱いなんです」
健太郎は「そんな年上なのかー」とひゅぅっと口笛を吹きながら言った。
「大人の魅力ってやつね~」「憧れるわぁ~」周りは言いたい放題だ。
「で、里見はその兄ちゃんのこと好きなの?」と健太郎が聞いてきた。にやにやしている。
そう言えばけんたろー先輩はそういう話好きだったんだ。こうじ先輩と私をくっつけようともしてたし。
「・・・ん、まぁ・・・」
なるは小さく答えた。
「おおお!里見!大人の女になってメロメロにさせるんだな!はっはっは!」
健太郎はただの酔っぱらいだ。
・・・大人の女は先約ありなんですよ、けんたろー先輩・・・
なるは酔っぱらいに呆れながらはぁ、とため息をついた。
すると、それまで聞き役に徹していた横に座っているパート主婦の女性が言った。
「恋の悩み?おばさんでよければ聞くわよ。今日の主役は里見さんなんだから」
「脇坂さん・・・」
なるは健太郎をちらっと見ると、その他二人の先輩となるそっちのけでわいわいしている。
なるは脇坂さんと呼ぶそのパート主婦に言った。
「・・・実は、その人と私、一緒に住んでるんですけど・・・」
なるは海と住んでいるが恋人同士ではないこと、海が暴漢(正体は伏せて)から二回も助けてくれたこと、そして夜道は何だかんだなるを迎えに来てくれること、ドライブで海にも連れて行ってくれたが海が同い年の女性に片想いしていることを話した。
「へぇ~今はルームシェアっていうの。同棲とどう違うのかしらね」
主婦は驚く。
「いやぁ、その、変なことはしてないですから・・・」
なるは言葉に詰まりながら答える。
「ふーん。でも、一緒に住むって大変なのよ。どんなに好き合ってても、例えばそのまま結婚したって一緒に住んだ途端うまくいかなくなることだってあるんだから」
「そうなんですか・・・」となるは言った。
「そういう意味だと、『家族』としての相性はバッチリなのかもしれないわね」
『家族』かぁ・・・
「そう言えば、私が出掛けようとすると『どこ行くんだ』とか『何時に帰ってくるのか』とかうるさいんです、まるでお父さんみたい」
なるがそう言うと主婦は笑った。
「ふふっ、まぁ8歳も離れてるとそうなっちゃうのかな。里見さんの言う通り、『大事な妹』ってところなのかしら」
はぁ・・・ですよねぇ・・・
なるはまたため息をついた。
「でも、」主婦は続ける。
「大切にされてるって重要なことよ」
えっ、となるは主婦を見た。
「話を聞いてる限りだと、まぁ話聞いただけで無責任なこと言えないけど、脈は大有りだと思うけどね。だって相当大事にされてるじゃない、本当の妹だってそこまで大事にする人早々いないわよ」
「そう・・・ですか・・・?」
なるは嬉しくてついニヤけた。
「ふふっ、嬉しそうね。・・・里見さんはまだ若いし、彼が自分の気持ちに気づくまで、待っててあげてみてもいいかもね。・・・何年も待たせるようならただの優柔不断男だから、こっちから振ってやりなさい」
主婦がウィンクして言った。
海が、自分の気持ちに・・・?私に気持ちが向く日なんて、来るのかなぁ・・・?
でも、神様はいたんだ!なんか、頑張れそうな気がしてきた!
なるは大きな声で「ありがとうございます!」と神様脇坂さんに答えた。
居酒屋『にき』の二時間コースが終わった後、健太郎が「カラオケいこーぜ!」と言ってきた。やはりフラれたストレスがたまっているようだ。
パート主婦脇坂さんは「子供がいるので・・・」と帰っていったが、とある先輩1と2は残っていた。
なるは「私も帰りま・・・」と言いかけたが、「行くぞ!里見!」と半ば強引に連れていかれ、結局居酒屋『にき』の二軒隣にあるカラオケボックスに2時間行くことになった。
カラオケはほぼ健太郎リサイタルであった。適当に合わせつつ、なるは海に会いたいなと思った。
なんだかなー、毎日顔会わせてるのに。
『お前って惚れっぽいのなー今度は健全な奴にしろよ』
健全な奴じゃなかったら承知しないぞ!
なるは想いの丈を健太郎の歌への掛け声にぶつけていた。
カラオケボックスを出る頃には深夜0時近くなっていた。
少し酔いの冷めた健太郎が「里見だけ帰り道が違うから、途中まで送るよ」と行ってくれ、二人で帰り道を歩き出した。
しばらく雑談した後、健太郎がおもむろに話し出した。
「俺、脇坂さんに謝ったんだよ、反抗的な態度とってすみませんでしたって」
そう、健太郎が悪態をついていたパート主婦は脇坂さんだったのだ。
「そしたら『今時珍しく純朴なのね、嫌われるのは慣れっこだから大丈夫よ』とか言ってくれてさ」
なるは微笑んだ。
本当、けんたろー先輩って素直だよなぁ。
健太郎が続ける。
「俺、夏希と別れたら憑き物が取れたようにいろいろ見えてきたんだ、恋は盲目とは良く言ったもんだなー」
健太郎は感慨深いと言わんばかりの顔をして空を見上げた。
「何か俺、成長した気がする!次はいい女、見つけるぞー!」
うぉーと夜道で叫びそうな健太郎をなるが必死に止めた。
「まぁまぁ落ち着いて・・・」
なるが苦笑しながら健太郎を押さえていると
「何じゃれ合ってるんですかお二人さん」
と、背後から声が聞こえた。
二人が振り返ると、そこにいたのはコンビニ袋を下げた海だった。
「海・・・?!」
なるは驚いた。
「お、ちわーっす」
健太郎は酔いもあってか軽めに挨拶した。
「こんばんは」
海の挨拶はどことなく冷たい。
海はさりげなくなるの肩に手を置き自分の側に引き寄せてから「うちのが遅くまで大変お世話になりました」と静かに言った。
おお何だかやけに威圧感を感じるぞ・・・!
健太郎は少しビビった。
「い、いえ・・・たはは」
健太郎は頭をかいた。
なるは意味がわからず二人をきょろきょろ交互に見ている。
「ここまでで大丈夫なんで。ありがとうございました」
海は言葉の割には冷たい目をして言い、なるを連れてすたすた歩き出した。
「か、海・・・??」
なるは海に連れていかれるまま健太郎から離れていった。
しばらく呆然と立ち尽くした健太郎は、納得したように一人呟いた。
「・・・なーんだ、いい恋してんじゃん、里見」
健太郎ははっはっと笑った。
俺もいい女探すぞー!と健太郎は夜道に叫びながら走って家路についた。
「か、海、こんなところまでどうしたの??」
ひたすら連れていかれるままのなるは戸惑いながら聞いた。
海となる達が鉢合わせた駅前のコンビニは自宅から遠い。なるのアルバイト帰りによく会ったコンビニの方がはるかに近いのだ。
「んー、いつものコンビニに欲しいアイスがなかっただけ」
確かに海はコンビニ袋を下げている。
だが駅前はなるの家からは15分ほどかかる。海のオフィスからはもう少し近いが、今なるたちと会った場所は通り道ではない。
「こんなところのコンビニまでわざわざ買いにくるほど好きなアイスなの・・・?」
なるは半分呆れながら言った。
「・・・そっ、大好きなアイスなの」
海は夜空を見上げながらそう言った後、
「あっ溶けちゃう」と言ってコンビニ袋からアイスを取り出して食べ出した。
なるはそんな海を見て、そっと腕を組んだ。
「おっおいどうした?」
海が驚いてなるを見る。
「にひひ、お兄ちゃんごっこ」
「なんだそれー?!だから俺は空じゃないと何度も・・・」と海はごねたが、なるは無視した。
・・・今はまだ『妹』だけど、いつかきっと・・・
なるはふふっと笑いながら、腕を組んだまま家路を急いだ。
厳密には前回の片付けがあったが、次の週末が実質アルバイト初出勤日になった。
なるの家の掃除が終わった頃に、見計らったように海が「お前、今日暇?アルバイト始めるか?」と言ってきたのだ。
なるは「うん!」と勢いよく返事して、二人でオフィスに向かった。
オフィスに向かう道で海が説明を始めた。
「オフィスにタイムカードを用意したから、打刻したらアルバイト開始だ。これからは毎回出勤したら打刻、退勤する時に打刻してくれ。休憩は契約説明の時に話したように2時間につき15分。まぁここは厳密には言わないから作業を見つつ自己管理で」
なるはふむふむと聞く。
「今日は適当に誘ったが次回以降のシフトは俺が考えるから、オフィスについたら今後入れる予定を教えてくれな」
なるは「うん!」と答えた。
「お前はアルバイトだが、能力次第で社員と同じような仕事もやってもらいたいと思っている。人手が足りないからな。だからこの半年間は、社員としての研修期間だと思ってやってほしい」
おおお・・・!なるはワクワクしてきた。
「が、頑張ります!」
なるが勢いよく敬礼すると、海はふっと笑って「頑張れよ」となるの頭をぽんと叩いた。
オフィスについてタイムカードに打刻し、早速なるのアルバイトが始まった。
オフィスを見回したなるは「片付いてる・・・」と言った。
「ああ、ここ数日一人でやったんだ。玲子は来週には出ると言っていたがな」
玲子さん、大丈夫かな・・・
なるは自分のせいで空のことを思い出してしまったであろう玲子に申し訳なさを感じていた。
「お前の席はここ。俺の隣だ」
海は三卓ずつ向き合うデスクの片側真ん中のデスクを指して言った。
デスクの上には分厚い本が数冊といくつかの文房具があるだけだった。
「あれ?パソコンってないの?」なるが聞く。
「あるさ。そこのロッカーの中だ」
海はなるをそばのロッカーに連れてきてロッカーを開けた。
「ここにノートパソコンが入っている。出勤したら取り出して退勤時に戻すんだ。そして施錠して帰ると。早速取り出していいぜ」
なるはノートパソコンを自席に持ってきて起動した。
隣に座った海は山積みの分厚い本を手に取り説明を続ける。
「こっちは情報処理試験用の参考書、こっちはホームページ作成用の参考書だ。俺が買っておいた。今後も何か参考書が欲しくなったら俺に言ってくれたら必要か判断して経費で買ってやる。まずはこれを読破するんだ」
分厚い本達をぼんっと渡されて、なるは戸惑った。
「こ、こんなたくさん?情報処理?ホームページ?って??」
海はあっそっかーといい、にやっと笑って言った。
「俺の本業言うの忘れてたな。この会社は、システム会社だ。お前には、システムエンジニアになってもらわないといけない」
にしんすう・・・??ビット・・・??
なるは参考書の最初の数ページで躓いていた。
「ううう、わかんない・・・」
海は隣で黙々とパソコンを叩き続けている。
「海・・・わかんないよぉぉぉ」
なるが海を見て嘆いた。
海はなるを一瞥し、パソコンを叩く手を止めずに言った。
「わからない時は何がわからないか整理して『質問』をするんだ。ただし聞く前にある程度は自分で調べろ。今はネットがあるから情報はある程度ネットから得られるからな」
なるは「うっ・・・」と唸る。
「会社は学校じゃない。何でも教えてもらえると思うなよ」
ぴしゃりと言われて、なるは俯いた。
・・・ううう、社会人て厳しいのねぇぇえ!
「15ページまで読み終わったら16ページの練習問題を解いて俺に見せろ。くれぐれも巻末の答えを見るんじゃないぞ。見たら頭ぐりぐりしてやるからな」
・・・ううう、それはやってくれていいですけど・・・
「はぁい・・・」と気弱な返事をしてなるは参考書を読み続けた。
「・・・お前、設問5の選択肢、勘で書いただろう?じゃないと設問8を間違うわけがない。関連性がわかってない証拠だ。はいやり直し」
海はなるが練習問題を完璧に理解するまで何度も突き返していた。
「ふぁぁぁ、スパルタっすねぇぇぇ」
「当たり前だ。ゼロから覚える奴に懇切丁寧に教えてたら一人前になる前に倒産しちまうだろうが」
「ひぃぃぃ・・・」
この頃にはなるは半分泣きそうになっていた。
・・・うう、ここもここも何言ってるかわかんないし、ここは?これって何だっけ?うわぁぁぁああ!
なるはパニックになった。急に頭をかきむしり「きぃええええ!」と奇声を発した。
海はそんななるを見ておおっと驚き、あはははと笑ってから頭をぽんと叩いた。
「まぁまぁ落ち着けって。とりあえず休憩取れ休憩、な」
なるは自席で一休みすることにした。
海はひたすらパソコンを叩き続けている。
「海は何をやってるの?」
「前の会社の時のお客さんが小さい仕事くれたんだよ。その打ち合わせ用の資料作ってんの」
「へぇーー」
「あっそうだ。俺の名刺やるよ」
海はデスクの引き出しに入っていた名刺入れから名刺を一枚出してなるに渡した。
「玲子に作っといてもらったんだ」
なるは名刺を見た。
『株式会社シーウェイヴ 代表取締役社長 神宮寺海』
「うわー!肩書かっこいい!」
「肩書なんて意味ないさ。まぁ、そこに騙される奴はカモにしてやるがな」
海は冗談めかして悪態をつく。
「シーウェイヴかぁ~何でこの社名に・・・あ!」
なるは驚いた。
シーウェイヴ。海と波だ。
『この娘の『なる』って名前はハワイ語で『波』って意味があるんだ』
なるの心に父・栄作の声が響く。
「海・・・何で・・・」
海が微笑んで言う。
「お前の名前、ハワイ語で『波』って意味があるんだぜ、知ってたか?」
なるはえっ、という顔をしてから言った。
「知ってるよ・・・だってお父さんがその意味で私に『なる』って名付けたんだもん」
海はおっ、と驚いた。
「まさかと思ったけど本当にそうだったのか!」
「お兄ちゃんにも話してたよ、海がそれ聞いたのかと思った」
「いや、聞いてない・・・偶然だな」
海がふっと微笑んだ。
「いい名前だなと思ってさ。いただいたんだ」
海・・・
「あ、ありがと・・・」
なるはちょっとだけゆでダコになって言った。
「ま、名前負けしてるがな」
海がすぐさま茶化した。
なるは頭を沸騰させて、「なにそれ!失礼ね!」と言って海をぽかすか叩いた。
「おいおい、暴力反対だっつーの」
なるは無視して海を叩き続けた。なるは満面の笑みを浮かべていた。
なるは休憩を終えて気を取り直して勉強を再開した。
海は口ではああ言っていたが、なるが質問をすると丁寧に答えている。
しかしなるは飲み込めない箇所が多く、だんだん海に質問をするのが申し訳なくなってきていた。
「ここはさっきのページにあったように・・・」と海が言うとなるがはっとして言った。
「ううごめん・・・全然覚えてないってことだよね・・・」
なるは泣きそうになっている。
海は「おいおい」と言って手を広げ、脅かすように言った。
「じゃあ辞めるか?俺はお前は無理してバイトなんてやらなくていいと思ってるからな。これからもっと大変になるぜ?辞めるなら今かもよ?」
なるはうー、と唸って少し考えた。
確かに先行きが不安だ・・・こんなんで海の会社の仕事なんてできるのだろうか・・・でも海と一緒にいたいし・・・そもそも動機が不純なのかな・・・
なるが諦めそうになっていると、海が今度は励ましてきた。
「お、本気で弱気になってるのか?じゃあ良いことを教えてやろう」
なるはきょとんとした顔で海を見た。
「お前はやれるよ。俺はそう見てる」
なるは少し驚いた。
「お前責任感あるから、途中で投げ出さないでやってくれんじゃないかなって思ってるんだ。仕事に必要なのはずば抜けた能力じゃない。何があっても最後まで仕事をやり抜くという気持ち、責任感だと俺は思ってるからな」
「海ぃぃぃ・・・」
なるは嬉しくて目が潤んだ。
「ま、お前が社員ばりに働いてくれると、人件費が浮いて助かるんだよ」
海は例のお金ポーズでイッヒッヒと言った。
なるはもーぅという顔をしたが心は温かだった。
「でも、無理はしないでくれよ。辞めたくなったらいつでも辞めていいんだ。ちょっとでも辛くなったら、すぐ俺に相談すること。いいな?」
なるは「うん」と答えた。
・・・海は何だかんだ最後は私のことをすごい考えてくれてるのがわかる。
今はそれが嬉しくて。それだけで幸せだと思う。
でも、そんなに優しいと、いつか期待しちゃうよ・・・
なるは自分の恋心と闘っていた。
昼過ぎからオフィスに篭り、気がついたら18時を回っていた。
「よし、オッケーだな。キリが良いから今日はここまでにするか」
海はなるの回答を見て、その後時計を見ながら言った。
「わーい!」
なるは解放されたと喜ぶ。
「次回復習するからな、忘れてたら承知しないぞ」
なるはうっ、と詰まり、「ふぁぁい・・・」と弱気に返事をした。
「半年後の情報処理試験の合格を目標に、勉強を続けよう。俺らが仕事を本格的に取ってくるようになったら、いろいろ頼み事も増えてくると思う。作業の合間を縫った勉強になると思うが、うまく時間使ってやってくれな」
「頑張ります!」
なるは元気よく答えた。
二人がオフィスを片付け帰ろうとした時、海の携帯電話のバイブが鳴った。
「・・・ん?玲子だ」
海がなるに「ちょっと待って」と手で合図をして電話に出た。なるは海を見て待つ。
「・・・ああ。特に何もないよ。昨日話した兵藤さんの案件、月曜にでも打合せしてくる。三人月くらいかなぁ、まぁ俺が作るよ。・・・大丈夫か?こっちは平気だから、ゆっくり休めよ。じゃ」
海はそそくさと電話を切った。
私に気を使ってるのかな。
なるは少し申し訳なく思い、言った。
「海・・・玲子さんのところ言ってきたら?心配でしょ?」
海は驚いてなるを見、ふっと笑って言った。
「玲子だって大人だから一人で何とかするさ。風邪をこじらせてたみたいで病院にも行ったって言ってたし平気だろ」
そうかなぁ・・・この前の感じだと、とても一人で平気そうには見えなかったけど・・・
『私は空を思い出すと辛い・・・でも、空に会いたい』
『海・・・ごめん、ごめんね・・・』
なるは玲子の言葉を思い出した。
なるは玲子と初めて会った時、非の打ち所がなく完璧な人間に見えたが、あの時の玲子は、初めて見たときと同じ人間だと思えないくらい、か弱く見えた。
なるは元々世話焼き姉御タイプなのだが、あの時の玲子のか細い声が、そんななるの性格に火をつけた。
「そういえば玲子さんて一人暮らしなの?」
海は質問の意図がわからないという顔をして答えた。
「ああ、自立したいって大学卒業してからは一人暮らしだぜ。どうして?」
「一人で病気してたらろくな食事してないんじゃない?心配だな」
「うーん、玲子はお前みたいに料理できないから、まず作ってないだろうな。どうしてるんだろうな」
なるはぴくんと反応した。
「・・・海」
「ん?」
「私が行って何か作ったら、迷惑かなぁ?」
海が耳を疑う。
「へ?」
「作ったらすぐ帰るから!」
「えぇぇ。俺に言われても・・・」
海は困惑している。
「それに玲子の家はここから電車で30分はかかるぞ?」
「意外と近いじゃん、大丈夫!」
「なんでまた・・・」
「料理なら力になれそうだし、ねぇ海、だめもとで、聞いてみてもらえない?」
なるはお願いっと手を合わせて海を拝んだ。
「あ、ああ、まぁ聞くのはいいけど・・・」
海は玲子に電話をかけた。
玲子は恐縮していたが、家に来る分には問題ないという。
むしろなるが予想していた通りろくに食事を取っておらず、体力が戻らないことを不安に思っていたようだ。
「お構いできないけど、と言っていたよ」
海が電話を切ってから言う。
「もちろんお構い無く!」
なるはなぜか敬礼した。
・・・一人暮らしで病気もしてたら絶対不安だよ。海にそばにいてほしいと思ってるんじゃないかな・・・
なるは心がちくちくした。でも、玲子を嫌いにはなれなかった。
・・・好きな人を忘れられない気持ちは、わかるから・・・多分私も、今海に「もう会えない」なんて言われたら、辛いと思うし・・・
なるは自分の片想いと玲子の空への想いを重ね、玲子に同情していた。
玲子の家の最寄り駅まで電車に乗り、玲子の家のそばのスーパーで買い出しをした後、玲子の住むマンションに向かった。
オートロックのある部屋数の多そうなマンションで、10階建て以上はありそうだ。玲子はその3階に住んでいるらしい。
1階ホールで海が玲子の部屋を呼び出す。
『・・・はい』
「海だよ、なると来た」
『・・・わざわざごめんなさいね。今開けるわ』
玲子がインターホンを切ると、横にある自動ドアが開いた。海となるは中に入って玲子の部屋に向かった。
玲子の部屋は303号室だった。部屋の前で海が再度インターホンを鳴らす。
ドアが開き、玲子が挨拶した。
「こんな格好でごめんなさい。どうぞ」
玲子は白いシャツとスラックスの上におしゃれなガウンを着ていた。ガウンで隠そうとしていたようだが、少しだけ見えている手足を見ただけでもかなりげっそり痩せたことがわかった。顔もやつれている。
なるは驚いた。ふと横の海を見ると海も相当驚いているようだ。
・・・ちょっと会わないうちにこんなに痩せて・・・全然食事を取ってないんじゃ・・・
これは大変だ、となるは思った。
海も耐えかねたようで、驚いた顔のまま玲子に言った。
「お前・・・それで週明け働きに来ようと思ってたのか・・・?無理だろ・・・」
とにかく入ろう、と海が促し、三人は玲子の部屋の中へ入った。
「私、ちょっと簡単なもの作りますね。キッチンお借りします。海は玲子さんを」
海が「ああ」と言って玲子を寝室へ連れていく。
玲子は「大丈夫よ、テーブルはあっちだから」と言ってリビングへ行こうとするが、海が「お前は寝てた方がいい。なるがうまいもん作ってくれるから待ってろ」と言って玲子を連れていった。
なるはキッチンへ向かい、手際よく葱を切り出した。
コンコンコン・・・
包丁で何かを切る音がする。
「なるちゃん、お料理上手なのね」
寝室でベッドに寝かされた玲子が海に言う。
「ああ。どこで覚えたんだろうな、実家暮らしだったのに」
海がそう答えた後、少し間をおいて言った。
「・・・両親が亡くなって間もないのに、健気に生きてるよ。あいつ強がりだから、悲しいところとか人に見せないようにするんだ。そこが心配でね」
玲子は「そう・・・」と言いながら微笑んだ。
「海は、なるちゃんのことが本当に好きなのね」
玲子が言うと、海は驚いて言った。
「い、いや、そういうんじゃなくて・・・」
玲子は少し寂しげに、でも穏やかに微笑んだ。
海はそんな玲子を見て、静かに続けた。
「本当にそういうんじゃないんだ。妹みたいっていうのかな。妹いないからわからないが。でも・・・」
海は少し考えてから、言った。
「今はなるを、守りたいと思ってる」
その時海はなぜか俯き、玲子を見ることができなかった。
玲子はそんな海を見て、目を閉じた。
「・・・空より先に、海と出会ってたら、私達、どうなってたのかな・・・」
玲子がふと言うと、海は俯いたまま目を見張った。
「・・・ごめんなさい、私どうかしてるわ。風邪のせいだと思う。気にしないで」
玲子は目を閉じたまま、それ以上は語らなかった。
海もまた、何も言わず、俯いていた。
なるは消化に良いお粥とスープを作って玲子と海のいる寝室に持っていった。
「あの・・・」
海が気づいて「おう、ありがと」と言って玲子を起こした。玲子はベッドに寝て目を閉じていたようで、目を開き起き上がった。
「ごめんなさい、寝てました・・・?」
なるが申し訳なさそうに言うと、起き上がった玲子が微笑んで言った。
「ううん、なるちゃんのご飯、待ってたのよ」
玲子は何度も「美味しいわ」と言いながらなるの出したお粥とスープを食べた。
なるは少しほっとしながら玲子を見ていた。
玲子が一通り食べ終わった頃、海が食器を持って言った。
「俺が洗うよ。なるはそこで玲子を見ててくれな」
海はそそくさと食器を持ってキッチンへと向かい、なるは「ありがとう・・・」と言ってそのまま玲子の横たわるベッドの横に座っていた。
「本当に美味しかったわ、ありがとう・・・」
玲子はなるに言った。
なるは「いえ!大したもの作ってないですから」と恐縮した。
「ごめんなさいね・・・わざわざ・・・」
玲子も恐縮すると、なるは言った。
「いえ・・・私にはこれくらいしかできないので・・・」
そう言うなるを見て、玲子は言った。
「海から、聞いたのよねきっと・・・?」
なるは海の言葉を思い出した。
『俺を、空だと思っていいから・・・』
なるは申し訳なさそうに「はい・・・」と言った。
玲子は微笑んで言った。
「そう・・・良かった・・・」
なるは玲子を見た。玲子は微笑んでいたが、なるには悲しそうに見えた。
思わずなるは聞いた。
「玲子さんは、いいんですか・・・?」
玲子がなるを見る。
「お兄・・・空さんを、待ち続けるんですか・・・?」
玲子は驚いた顔をした。
なるは心の中で「しまった」と思った。
・・・そんなの私なんかに言われても迷惑なだけだ・・・
なるは俯いた。玲子はなるを見て、少し考えてから、言った。
「なるちゃんは、空と海、どっちが好き?」
今度はなるが驚いて玲子を見た。
「それは・・・」
なるが困っていると、玲子は言った。
「私は、選べないの」
なるはえっ、という顔で玲子を見る。
「かなり月日が経ってしまったけれど、空と過ごした日々も、私の中でとても大切なまま・・・。ずっと海と過ごしてきて、吹っ切れたと思ってたけど、そうじゃなかった」
なるは玲子を見つめている。
「心のどこかで、海は空じゃないと、思ってしまうの」
玲子は悲しそうな瞳で続けた。
「・・・でも、今もし空が現れたら、今度は『海じゃない』と、思ってしまう気がするの」
なるは驚いた顔で玲子を見つめた。
「最低でしょ?顔が同じせいで迷うなんて」
玲子が自虐的に言って笑う。
「なるちゃんは、海を幸せにしてあげてね」
玲子は悲しそうな瞳のまま、なるに微笑んで言った。
「玲子さん・・・」
玲子さんも、本当は海のこと・・・
なるは言葉が続かなかった。
食器を洗い終わった海が、部屋の外からそっと聞いていた。
その後、海となるはマンションを出た。
なるは海に「玲子さんについていてあげたら・・・?」と言ったが、玲子が丁重に断ったため、海もそれに従うことにした。
帰り道、電車の中と、海となるは会話をしなかった。
なるの家の最寄り駅につき、電車を降りたところで、海が口を開いた。
「・・・いつものアイス、食いたい」
二人は駅前のコンビニに寄ってアイスを買った。
なんとなくなるもアイスを買って、二人でそれぞれが買ったアイスを食べながら歩き出した。
「アイス、美味しいね」
無言に堪えきれなくなったなるが言った。
「あ、ああ、美味いな」
海が答える。
少し考えて、なるが口を開いた。
「・・・玲子さん、大丈夫かな・・・」
なるが言うと、海がためらいながらも言った。
「・・・やっぱり、俺らはもう玲子と関わっちゃいけない気がするな・・・」
なるは驚いて海を見て言った。
「『俺らは』ってどういうこと?私はともかく、海は今こそ玲子さんを支えるべきじゃないの?俺は海なんだって言って。玲子さん、きっと今なら・・・」
さっきの玲子の表情で、なるには確信があった。
玲子さんは海を好きだ。でも昔の思い出のせいで踏み出せないだけなんだ。
だから海が玲子さんを思い出から連れ出してあげれば、きっと・・・
「・・・いいんだよ、もう」
海はそう言って、なるを見た。
「俺には・・・」
なるが海を見る。
「・・・いや、なんでもない」
海はなるから目をそらし、前を向いた。
「玲子とのことは昔の話だ。玲子も俺も、もう前を向いて歩かないといけないんだよ。玲子も、わかってるはずだ」
「どうして・・・」
どうして・・・?二人は両想いなのに。どうして・・・?
なるは涙がぽろぽろ流れ出した。
「お、おい、何でお前が泣くんだ・・・?!」
海が驚いてなるを見る。
「だって・・・何だか悲しすぎて・・・」
海がふっと微笑んだ。
「人の心配してる暇あるのか?お前はこれから、学業と仕事で相当忙しくなるんだからな」
海はそう言うとなるの頭をぽんと叩いた。
「とりあえず帰って飯だ!腹減ったんだ俺は!」
「もーー、ちゃんとした話してるのに・・・」
なるはぶーたれた。
・・・恋愛って、好きだけじゃうまくいかないことって、あるんだな・・・私はこれから、どうしたらいいんだろう・・・
なるは自分の気持ちの行き場に困りながらも、晩御飯のおかずを考えつつ海との家路を急いだ。
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