海辺の失恋
大学の構内。
玲子と海が向き合っている。
玲子は泣いていた。
「ごめんなさい、あなたを見ると、どうしても空に見えてしまうの・・・空との思い出が・・・空に会いたい・・・」
海は悲しい目で、しかし決断したように言った。
「俺を、空だと思ってくれていいから・・・」
チュンチュン・・・。
外で雀が泣いている。
朝日が顔に当たって海は目が覚めた。
海はリビングのソファで寝てしまっていた。
目の前のテーブルには酒の缶が数本、空になって置いてある。
・・・飲みすぎて変な夢、見ちまったな。
海はシャワーを浴びに風呂に向かった。
「海ってお酒飲むんだー。始めて見た」
海がシャワーを終えてリビングに戻るとなるが起きており、缶を片付けながら言った。
「まぁ弱くはないからな。たまにな」
海はさらっと答えてダイニングテーブルに座る。
「それより飯めしーーー腹減ったーー」
「ちょっとぐらい待ちなさいよすぐ作るから!」
なるはそそくさとキッチンに行ってパンを焼き始めた。
そんななるを見て海はふっと微笑んだ。
9月初旬。
なるの夏休みは終わり、明日から大学が始まる。
「お前の契約は9月からだから、ちょうどいい、今日アルバイトしないか?」と海が言った。
「完全な雑用だがな。オフィスが借りられたんで、整えるんだ、玲子と俺と。人手が足りないからな、お前にも手伝ってほしくて」
りょうかいっ、となるは言ってついていくことにした。
オフィスはなるの家から徒歩15分ほどのところにあるらしい。
俺は電車通勤が苦手なんだと海は言い、玲子になるの自宅近辺を探させたのだという。
「うちのそばって・・・自分の家のそばがいいんじゃないの?」
そういえば海がどこに住んでるか知らないなぁと思いつつ、なるは聞いた。
「住んでたマンションは先月いっぱいで引き払ったよ」
海はあっさり言う。
「え?!」
なるは驚く。
「帰る気ないの?!」
海はえー、と言いながら答えた。
「いーじゃん別に。さすがにもう慣れただろ?」
「いやぁ、そーいう意味じゃなくて・・・」
なるは困った顔をした。でも内心喜んでる自分を感じていた。
オフィスに向かう道を歩いている時、なるはねぇねぇ~と珍しく摺よりながら聞いた。
「海がお兄ちゃんじゃないなら、海からお兄ちゃんに話してもらって、ちょーっとだけ会う、とかできないの??」
海が迷う間もなく答えた。
「無理だな。俺ら仲良くないんだ」
なるは「あらまー」と言う。
「一応携帯番号は知ってるけど、あいつは仕事人間でプライベートの電話はほぼ出ない。そして俺の着信に至ってはかけ直してすら来ない!」
海が人差し指をたてて、えっへんと言わんばかりに胸を張って答えた。
なるはそんな自慢することでは・・・と思いつつ、聞いた。
「何でそんなに仲悪く・・・
?」
海は真顔に戻り、言葉を選ぶように言った。
「そうだな・・・、双子だからだろ。ありがちなもんだよ」
なるは一人っ子なのでよくわからず、「ふーん」とだけ言った。
なるは一瞬、玲子を思い浮かべたが、気づかない振りをした。
オフィスに着くと、玲子は先に片付けを始めていた。
「早いなー玲子」と海が言う。
「あっ海。なるちゃんもこんにちは」と玲子は言う。
「こ、こんにちは・・・」となるは言う。
実は前回の喫茶店で玲子が「私もなるちゃんて呼んでいいかしら?」と言ってきた。
「私一人っ子でしょ?妹って憧れだったのよ~」と玲子は契約説明の口調とはうってかわって声が弾む。
「そして海とあなたが結婚したら、本当に妹になるかもしれなかったのね」玲子はふふっと笑顔で続けた。
「なっ?!そんな・・・っ」
なるはせっかく収まったゆでダコを復活させて俯き、海はそんななるを知ってか知らずか、
「馬鹿を言うな。俺はこいつの保護者みたいなもんだ。所謂兄貴さ、そんなことなるわけなかろう」
と答え、なるは少し切なくなっていたのだ。
・・・確かに玲子さんと海のほうがよっぽどお似合いだよなぁ。
今日の玲子はスーツではなかった。動きやすいようにTシャツとジーンズで来たようだ。
シンプルな白のTシャツは、玲子の肌の白さを逆に際立たせ、細身のジーンズは玲子の脚の細さを際立たせていた。
なるはなるべく玲子の横に立たないようにして、自尊心を必死に守っていた。
オフィスは小学校の教室の半分ほどの広さで、白の盤面で赤い脚を持つ小洒落たデスクがいくつか、同じ数の椅子、応接用と思われるソファとテーブルが雑多に並べられていた。
部屋の隅にはコピー機やパソコンが梱包されていると思われる段ボールが山積みされている。
「へぇ~会社の机ってみんな職員室みたいな机だと思ってたけど、これはなんだかおしゃれ!」
赤い脚をもつテーブルを指してなるがいった。
「そんなつまんない机じゃ会社来る気起きなくなるだろ?従業員満足度をあげるのだって経営者の大事な仕事なんだぜ」
海はにやっと笑って言った。
「何言ってるの。海は『机なんて何でもいいじゃん』て選んでくれないから私が選んだんでしょう?」
玲子が言うと、「ははっ、そうだったっけ?」と海は笑顔で玲子を見てとぼけた。
・・・はぁ、これ耐えられるかな・・・
心のちくちくに早くも挫けそうななるだった。
三人でデスクやソファを動かし、梱包されている電子機器を取り出して並べていった頃、なるが「あつーーーい!」と叫んだ。
「確かに暑いなー、電気が通らないとは思わなかった。キリの良いところで今日は帰るか」
海が答えた。
運が悪く今日はオフィスの入っているフロアだけ電気工事で停電しているらしい。
9月とはいえまだまだ残暑が厳しい。電気が通らずエアコンが聞かない中で三人は汗を拭きながら作業していた。
「玲子もそう思うだろ・・・」と海が振り返った途端、玲子がふらっと倒れた。
「おい!玲子!」
海がすかさず抱える。
「玲子さん!」なるも驚く。
「大丈夫・・・ちょっと疲れちゃっただけ・・・」
玲子がか細い声で答える。
「お前ちゃんと水飲んでんのか?!脱水症状になるぞ!」
「大丈夫よ・・・でもちょっとソファで休ませて・・・」
玲子は海を優しく振り切りふらふらしながらソファに向かう。海が追いかけて玲子を抱えた。
「なる、わりぃがそばのコンビニでスポーツドリンク買ってきてくれないか?」
「う、うん!」
なるはコンビニへ走りだした。
なるがコンビニから戻り、オフィスに入ろうとした時、玲子の声が聞こえた。
「空の夢を見たの・・・まだ、楽しく二人で話せていた頃の」
「今は無理して話さなくていいから」
海が優しく答える。
なるは入るタイミングを失ってしまった。立ち尽くして途方にくれる。
「この前、なるちゃんの前で話しちゃったからかな・・・」
「・・・すまない、言わせるつもりはなかったんだ」
「いいのよ・・・もう大丈夫だと思ってたもの・・・だめねぇ、話すだけで辛くなるなんて・・・」
「玲子・・・」
「なるちゃんが羨ましいわね・・・空の思い出が綺麗で」
玲子さん・・・
「私は空を思い出すと辛い・・・でも、空に会いたい」
玲子さん・・・そんなにお兄ちゃんのこと・・・
その時、かさかさっと音がして、海が言った。
「俺は、ここにいるよ・・・」
・・・海?
なるは思わず中を覗いた。
海が眼鏡を外して玲子に微笑んでいた。
とても優しい瞳だった。
「海・・・ごめん、ごめんね・・・」
玲子は泣いているようだった。
なるは静かに、二人に気づかれないように後ずさった。
なるは遠くからわざとらしく音をたてて走ってオフィスのドアを開けた。
「海!買ってきたよ!」
「おう!ありがとな!」
海はもう眼鏡をかけていた。なるがスポーツドリンクを海に手渡すと、海は「玲子、とりあえず飲め」とソファに横になっている玲子を抱き抱え起こして飲ませた。
「ありがとう・・・」
玲子はそう言ってソファで目を閉じた。
なるは二人を見て言った。
「あっあの、今日は帰ります!海は玲子さんに付き添ってていいから!玲子さん、お大事に!失礼します!」
なるは踵を返して走り出した。
「おっおい!なる!」
海がすかさず言ったがなるは立ち止まらず走り去った。
・・・海は、玲子さんにも「お兄ちゃんスマイル」してたんだ・・・それも、私に対する冗談みたいなやつじゃなくて・・・。
なるは家路を駆け抜けながら考えていた。
・・・玲子さんはお兄ちゃんを忘れられていないんだ・・・そんな玲子さんを、海が支えている・・・
あ、自分と海との関係と一緒だ、となるは思った。
・・・ううん、全然違う。玲子さんはきっと本当にお兄ちゃんのことが好きなんだ。
そして海が好きなのは・・・
心がズキンズキンする。
なるは認めたくない気持ちが溢れだして涙が出てきた。
そして私が好きなのは・・・
なるは全てを振り払うように家まで全速力で走った。
「本当にごめんなさい・・・私は大丈夫だから・・・なるちゃんのところに行ってあげて・・・」
玲子が振り絞るように言った。
海は静かに言う。
「そうもいかないだろ。家まで送るよ」
なるは帰宅し自室に籠って泣いた。
海は、玲子さんのことが好きなの・・・?
認めたくない。自分の気持ちがわかった途端フラれるなんて辛いもの。
でも涙が出た。玲子さんに敵うわけない。
どうしたらいいかわからない。
とりあえず気持ちが溢れて止まらない。
なるはベッドに顔を埋め泣き続けた。
小一時間たっただろうか。泣きつかれて涙が枯れてきた頃、なるの携帯電話が鳴った。
・・・海だ。
なるは心臓がドキドキした。
なるは大きく深呼吸して気を落ち着けてから電話に出た。
「もしもし、玲子さんは大丈夫?」
『ああ。家まで連れて来て寝かせたところだ』
海、玲子さんの家にいるんだ・・・
『お前はちゃんと家帰ったのか?』
「当たり前でしょ、保護者ぶらないでよ」
なるは精一杯の強がりを言う。
『ははっ、そう言うなって。・・・会社をおこすのに少し玲子に無理させちまったんだ。今日は、玲子についてやろうと思ってる』
心臓がまたドキドキしてきた。
「うん、そのほうがいいよ、玲子さん心配だし」
心配なのは本当だ。でも・・・
『ああ、ごめんな』
「気にしないでよ!私は元気ピンピンだもん!」
頑張れ!私!
『ありがとな・・・また連絡する』
「うん、またね」
なるは電話を切った。
よくやった私!大丈夫だったよね?!
「はぁぁーーーー」
なるは大きく息を吐いた。枯れたと思った涙がまたぽろぽろと流れ出した。
ブーーブーー。
なるの携帯電話がまた鳴った。
あ、今度はメールだ。
なるが携帯電話を見た。けんたろー先輩からのメールだった。
『バイト辞めたんだって?知らなかったよ。俺もあれから全然シフト入れてなくて、このまま辞めようかと思っててさ。
里見が急に辞めたから、有志で里見を送る会開こうってことになってて、良かったら来てくれないか?あっもちろん、夏希と浩二は呼ばないからな』
なるは涙を流しながら、ふふっと笑った。
ちょうどいいな。出掛ける用事はたくさんあったほうがいい。
なるは参加する旨の返信をした。
次の日は夏休み明け最初の講義があり、なるは朝早く起きて大学に向かった。
・・・ここまで早くなくてよかったんだけど、海とは顔を会わせたくないしな・・・
なるは一時間も早く大学に着いていた。
『俺は大学生は大学で勉強するべきだと思ってるからな』
・・・海が言ってたっけ。
なるはふっと笑う。
・・・海の会社のアルバイト辞めて(まだ始めてもいないけど)学業に専念するか・・・超頭良くなってやるからな!
なるは空元気を出してみた。
・・・はぁ。これから海とどう接しよう。好きだなんて気づくんじゃなかった。
とりあえず座ったキャンパス庭にあるベンチでなるは一人途方にくれた。
なるとすれ違いで海がなるの家に帰ってきた。
人の気配がない。なるはいないのだろうか。
ブーーブーー。海の携帯電話が鳴る。
なるからのメールだった。
『今日は大学なので昼はいません。サラダとヨーグルトと冷製スープが冷蔵庫にあるので良かったら食べてください』
・・・初めてのメールが何だか所帯染みてるな。
海はふっと微笑み、電話をかけた。
ブーーー。
なるは携帯電話を見た。海からの着信だ。
ひぇぇえええ!
「も、もしもし」
『おっす、朝食ありがとな。大学ついたのか?もう授業はじまる?』
「授業はもう少し。何?もう家ついたの?」
『ああ。朝食のお礼言おうと思って。俺はメールは苦手なんでな』
「そんなの、帰ってからでも良かったのに」
『まーいいじゃないの。今日、何時頃帰ってくる?』
「うーん、三限までだから、夕方には帰れると思うけど」
『じゃあ、外に飯食いにいこうぜ。奢るよ』
・・・家で気まずい思いするより、外の騒がしい中にいたほうがいいかな・・・
「ラッキー!おいしいの奢ってね!」
『調子いいな。じゃ講義終わったら連絡くれな。迎えに行くよ。あっ、大学どこ?』
大学の名前を伝えてなるは電話を切った。
なんとかいつも通り話せた気がする。
なるは自分で自分の態度に少しほっとした。
でもなんだろ急に・・・しかも大学の名前聞いて・・・
なるはいぶかしがった。
なるが講義を終えて海に電話をすると、「おっけー迎えにいくから正門前で待ってろ」と言われた。
ここまで来てくれたのか・・・と思って正門に来たなるの前に、一台の車が止まった。
中から出てきたのは海だった。
「よっ」
「か、海?!」
「あっ、俺の車じゃないからな。レンタカーだよレンタカー。俺は貧乏だからな」
そんなわざわざ!
「どどどうして?!」
「いーじゃん。せっかくだからドライブしようぜ」
なるを助手席に載せ、車は大学を出た。
免許を持ってないなるにはわからないが、海は自分の車を持ってない割には運転に鳴れているように見えた。
「海っていつもレンタカーなんて借りて運転してるの?」
海が助手席のなるをちらっと見て言う。
「いや。まぁでも仕事中は社用車運転したりしてたからな。運転はそれなりにやってるぜ」
海は戸惑いなく車を進めていく。カーナビがついているが使っていない。知った道のようだ。
「道、知ってるの?」
「ああ。お前、俺と同じ大学なんだよ」
なるは驚く。
「そうなの??」
「俺も朝聞いて驚いたよ。そんな偶然もあるもんなんだな」
海もこの大学だったんだ・・・あっ、じゃあ・・・
「じゃあ玲子さんも・・・」
「・・・ああ、そうだな、玲子も同じだ」
なるは、言葉を続けられなかった。
知りたいことはたくさんある。でも知りたくない気持ちもあって・・・
海も言いたくないんじゃないかとも思った。お兄ちゃんも海も、自分の話をしたがらない。
海はきっと話したくない時の顔をしてる。そう思って運転する海の横顔を見た。
海の瞳は穏やかだった。
そして海が運転しながら話し出した。
「玲子と知り合ったのは、大学三年の頃だよ。同じゼミだった。・・・正確には、俺が玲子に会いに、そのゼミに入ったんだ」
「玲子と空は、高校生の頃に決まった婚約者同士だった。玲子が言ってたように、親同士が勝手に決めたんだ」
海は運転しながら、淡々と話し続けている。
「出会いこそお見合いでも、二人は仲良くなって、本当に好き合っていた。俺も二人はそのまま、結婚すると思ってた」
なるは助手席で海を見つめながら、海の言葉を静かに聞いていた。
「だが空は大学三年の時に玲子に言ったんだ。もう会えないと。急なことで玲子も驚いた」
「玲子はショックで情緒不安定になった。見ている方も辛いほどだったらしい。玲子の親父はそんな玲子を見て、俺の家と絶縁すると言うほどだった」
「そこで俺の親父は考えたんだ。『空がだめなら海だ』と・・・」
なるは驚きながらも、話を止めないように聞き続けた。
「俺は空が玲子を拒絶するまで、玲子と会ったことがなかった。実は玲子は空が双子だって知らなかったんだよ。お前と一緒だな」
なるはあっ、と思った。
「空も玲子も俺も同じ大学に進学していたが、それぞれ別の専攻で学んでいて接点がなかった。そこでゼミを選ぶ時期になった時、俺は敢えて玲子と同じゼミに入った。玲子が俺を見たときの驚きは、お前にもわかるだろ?」
なるは驚きながら、こくんと頷いた。
「玲子は痩せ細って今にも倒れそうだった。辛そうだったよ。思わず俺は言ったんだ・・・」
『俺を、空だと思ってくれていいから・・・』
なるは言葉にならない切ない気持ちになった。
「・・・でもそれは、しちゃいけないことだったんだ」
海は言葉を振り絞る。
「結局婚約の話は、玲子の親父が破談にした。娘を傷つけられてまでの縁談とは思えなかったんだろう。でも玲子は今でも空を待ってる。そしてそれはきっと俺のせいだ」
海は悲しい目で、しかし決断したように言った。
「俺がいるせいで、玲子は空を忘れられない」
「海・・・」
車は海に近づいているようだ。少し潮の匂いがしてきていた。
車は海へ続く対向一車線の道路をどこかを目指して走り続けていた。
日は少し落ち、夕暮れが迫っていた。
「・・・俺は傷ついた玲子を支えたいと思った。だが、俺が『海』のまま玲子を支えようとしても、俺の顔は自分を傷つけた人間と全く同じなんだ。玲子も頭ではわかっててもすぐ混乱して泣いた」
なるは切ない表情で海を見つめ続けた。
「だから俺はむしろ空になろうと思った。良くないことのような気はしていた。でもその時はそうすることでしか玲子を支えられなかった」
『俺が『お兄ちゃん』になってやるよ』
なるは海の言葉を思い出した。
「俺ら双子は親も見分けがつかないほど似てたから、区別がつくようにと物心ついた時から俺はだて眼鏡をかけさせられ、そのまま眼鏡をするのが普通になってるんだ。玲子と知り合ったときもそうだった。でも、それからは玲子と会う時は眼鏡を外すようにした」
あ・・・なるは思い出していた。
そういえば海、前眼鏡をしてなかったことなかったっけ・・・?
「・・・玲子が少し落ちついてきた頃、ゼミの仲間とベンチャー企業を立ち上げようということになった。もともと起業志望の生徒が集まるゼミで、俺もそのゼミに入ったのは玲子のことがあったのもあるが、起業自体にも興味があったから都合がいいということもあったんだ。俺は玲子を誘うつもりはなかったが、周りの奴が玲子も誘った」
海は淡々と話を続ける。
「玲子は乗ってきた。後から聞いたが、『頑張ってたらいつか空に辿り着くかもしれないと思った』と玲子は言っていたよ」
大分潮の匂いが強くなってきた。やはり海は海に向かっているみたいだ。
「学業と起業でそれからはかなり忙しくて、玲子とも仕事でしか会わない日が続いた。そのことに関しては結果的に良かったと思う。仕事中はいちいち眼鏡を外してられないから、海でいられた」
『だーかーらー!俺は空じゃないっつーの』
海の言葉がよぎる。
・・・お兄ちゃんのふりなんて、辛かったんだよね・・・?
なるはそんな気がした。
「そうして6年たち、玲子はもう吹っ切れてると思ってた。玲子自身もそう思ってたらしい。そんな中俺が会社を辞めて、そしてお前と知り合った」
車は海の見える公園に着いた。海は駐車場を探しているようだが、話を続ける。
「玲子はまた俺と仕事をしたいと連絡してきた。正直玲子の能力自体はかなり買ってる。俺の仕事の仕方もわかってるし、玲子と仕事ができたらどんなにやり易いかと思った。でも俺は玲子の前にいちゃいけない気がした。俺はいつまでも玲子にとって『空の代わり』だ」
なるは海の声に悲しさがあるような気がした。
『海でもいっかぁ、ぐらいに思った?』
『俺はごめんだぜ、お前みたいなの』
海が言った様々な言葉が、今のなるの心に切なく響いていた。
「・・・でも結局、引き受けてしまった」
海は、玲子さんを好きなんだ・・・自分を見つめてくれない玲子さんを。
なるは確信した。
駐車場に車を停めた海が「飯食う前にちょっと歩こうぜ」と言って、なるを海の見える公園の浜辺に連れてきた。
焼けるような夕暮れの空の下に広がる広い海に面した浜辺を、二人は海に沿って歩きだした。
海は浜辺に着いてからは一言も話さなかった。なるからの言葉を待っているようだった。
なるは何をどう話せばよいかわからなかったが
、横を歩く海とその奥にある海を見ながら口を開いた。
「海は・・・私にその話をするために、ドライブに誘ったの?」
こんなに自分の話をする海は初めてだった。いつもおちゃらけて過ごす家だと話しずらかったのかもしれないとなるは思った。
「まぁ・・・それもあるな。昨日玲子に言われたんだ。『なるちゃんに誤解されたくないから私の話、ちゃんとしてね』って」
玲子は自分と海が恋人同士ではないことをなるに伝えたかったのだろうとなるは思ったが、それによってなるは辛い事実を突き付けられてしまっていた。
・・・恋人同士じゃないってわかったけど・・・でも・・・
なるが立ち止まったので海が数歩進み、気づいて立ち止まった海の背後でなるが言った。
「・・・でも海は、玲子さんのこと好きなんでしょ?何で、自分は海なんだって、俺を見て欲しいんだって、伝えないの?」
海ははっとした顔をして後ろを振り返った。
「海、いつも私がお兄ちゃんと勘違いすると、怒ってたじゃん。なのにお兄ちゃんの真似するの、やめなかった。嫌ならやらなきゃいいのにって思ってた」
海が驚いた表情のままなるを見つめる。なるは気持ちが溢れたように続けた。
「海はどうしてそんなに、お兄ちゃんになろうとするの?本当は自分を見てほしいのに。玲子さんにもちゃんと怒ればいいじゃん、私に言ってるみたいに、『俺は空じゃないんだ』って、怒ればいいのに」
でも海は言えないんだ。玲子さんのことが大切すぎて、玲子さんが悲しむところを見たくなくて、言えないんだ・・・そんな海でも・・・
なるは涙が溢れてきた。でも止まらない。
「私はわかるよ。海は海でお兄ちゃんじゃないって。私が独りぼっちで悲しい時にそばにいてくれて、襲われそうになったら助けてくれて、面白いことあったら教えてくれて、こんな綺麗なところに連れてきてくれたのは、今目の前にいる海なんだから」
海は泣きながら真っ直ぐ自分を見るなるから目が離せず、なるも海を真っ直ぐ見つめ続ける。
「玲子さんだってわかってくれるよ。知り合ったのはお兄ちゃんの後でも、6年もずっと一緒にいたんでしょ?玲子さんが気づいてないだけかもしれないじゃない。海はちゃんと自分の気持ち、言った方がいいんだよ」
何他人の恋愛応援してるんだろ、こんなに辛いのに。でも、でも・・・
「そうじゃないと、誰も幸せになれないじゃないかぁ・・・!」
そこまで言うとなるはうわぁぁぁんと声をあげて泣き出した。
「な、なる・・・」
海は言葉が出ず、なるを見つめ続けていた。
なるはわんわん泣いている。
海は少し考え、言葉を選ぶように言った。
「・・・そうもいかないんだよ。本当に同じ顔、同じ声、同じ背格好なんだ。整形するわけにもいかないし・・・」
そう言うとなるの方へ近づき、わんわん泣くなるの頭をそっと撫でた。
「でもありがとな・・・」
なるは少し泣き止み、ひっくひっくしながら海を見た。
・・・あ。お兄ちゃんにこんな風に撫でられたことあったな・・・
微笑む海に10年前の空を見、言ったそばから勘違いした自分に罪悪感を感じてなるはまたわんわん泣きはじめた。
「わぁぁぁぁんごめん海ぃぃ、お兄ちゃんに見えたぁぁぁ」
海はええっと驚いた顔をしたが、すぐ微笑んでなるの頭を両手でくしゃくしゃに撫でた。
「ほら言わんこっちゃない!俺は空じゃないぞーー」
海はあはははっと笑ってなるの頭をさらにくしゃくしゃに撫でた。
結局夕食は自宅で食べることになった。
海が「なるの手料理がいい」と言ったからだ。
車に戻り、家路へ走らせてる時に、海が言った。
「俺・・・海が好きなんだよ」
なるが海を見る。
「俺の名前だしな。見てると何だか落ち着くんだ。俺の存在が認められた気がして」
「海・・・」
「今日はなぜかなるを海に連れてきたいと思った。なるとあの浜辺、歩きたいと思ったんだよ」
海・・・
「でもな・・・」
海がふっと笑って言う。
「俺、泳げないんだよ。かなづちなんだ」
「・・・へ?」
なるは少し驚いた。
「だから見るのは好きだけど近づくのは嫌だ。次行った時に俺をあれ以上海に近づけたら承知しないからな」
海がわざとらしく凄む。なるはそんな海を見てぷっと笑った。
「海・・・名前負けしてるよ」
海が「うるさーい!」と言うとなるは車の中で大笑いした。
レンタカーを返した二人は自宅に戻り、なるの作った夕食を食べた。
いつもと同じような会話をし、いつもと同じようにどちらからともなく風呂に入り、いつもと同じようになるが「おやすみ」と言って部屋に戻った。
なるは昨日までと変わらない日常に戻れたことにほっとひと安心しつつ、自室で願っていた。
玲子さんと海が本当に両思いになるまで、少し片想いしてもいいかなぁ・・・海が玲子さんを6年も待っているように・・・神様、それぐらいは許して、お願いします・・・!
そう思ってから、なるはベッドに潜って眠った。
次の日はなるのファストフードアルバイトの送別会だった。
大学に行く前に海と朝食を食べている時、なるは海に伝えた。
「けんたろー先輩が開いてくれてね。4、5人しか集まらなかったらしいけど」
海は笑った。
「少なくね?お前人望ないんじゃないの?」
なるは海をジロッと睨む。
「うるさいわね。誰かさんみたいに嘘っぽい笑顔振り撒きませんからね、ごちそうさま!」
海が「なにぃーそれは誰のことだ」と言うのを無視してなるは食器をキッチンへ下げ、洗いに行った。
海は特に気にせず話を続けた。
「で、その飲み会は何時からなんだ?」
「19時から。今日は大学が五限まであって遅いからそのまま行くよ」
「場所はどこ?」
「駅前の『にき』っていう居酒屋さん」
「何時まで?」
「席はニ時間制みたいだから二時間で終わると思うけど・・・二次会とかあるのかなぁ、わかんない」
「あんまり遅くなるなよ、そんなに近くもないんだから」
なるは「はーい」と言い、少し考えてから聞いた。
「・・・何か海って本当に保護者ヅラするけど、私の父親にでもなりたいの?」
海は「何を!?口の聞き方を覚えろ口の聞き方を!」と言い、キッチンへ向かいなるの髪をくしゃくしゃにかき回した。
わーーーぁとなるは言う。
・・・とりあえずは、こんな日々を楽しもう。いいよね?神様・・・?
海に髪の毛をくしゃくしゃにされながらなるは願っていた。
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