D.N.A

@infiorata

第1話 鼠捕り

 わたしの夢は、ネズミ捕りだ。やられたら問答無用でやりかえす、あの姿勢はわたしの心を強く鷲掴んだ。

 そうだ、わたしはネズミ捕りになりたい。

 闇夜に紛れて外敵を討つなんて、どこぞの仕事人みたいで凄くかっこいい。例えそれが使い捨てでも、ううん、使い捨てな分、まるで命がけで討つみたいで余計かっこいいと思う。ああ、いいなあネズミ捕り。あの無感情な鉄の冷たさに、凄く憧れる。


 そんなわたしの謙虚な願いを、神様は叶えてくださった。

――わたしは、憧れの鼠捕り(ギロチン)になれたのだ。



               ■



 空を切る音がする。

 標的は一人。異常部分は脚。なんと驚くことに、ヤツは脚を振るうだけで衝撃波を発することができるって化け物ぶりだ。

「ちょっとアレ痛いってどころの話じゃないんだけど、どうにかならないかなあ……俺ってば人間だから、あんな凶悪な異常に勝てる自信ないんだけど」

「誰が異常だ! これは神様からのご加護だ!」

ありゃ、どうやら聞こえてしまっていたらしい。

 スーツ姿のサラリーマンは、夜の森を縦横無尽に駆け巡る。マントヒヒとモモンガを足して二で割ってそこにサルを掛けたみたいだ。

「お前今失礼なこと考えただろう!」

なんでばれた。


 森の中はとてもじゃないが自由に駆け回れるような感じじゃない。俺が少年時代を森で過ごしたなんてびっくり人間でもなければ、この森はスーツ着て駆け回れるように整備されてもいないからだ。

「ただ衝撃波を飛ばすってわけでもなさそうだな。脚部だけ強化されてるのか? それとも元々は衝撃波を飛ばすだけだったが、負の感情によって強化でもされたか。となると食われるのも時間の問題か。

 ったく。神様のご加護が負の感情により強化されるって。神様どんだけ意地悪いんだよ。もしくは悪食」

とりあえずそこらへんの木の一本ぶっ倒してみるか。ああいや押しつぶされて死なれちゃ困るしな。あんな無茶苦茶に駆け回られてちゃ……っていうかそんな駆け回る気力があったら、俺から逃げればいいのに。

 社会人としてのプライドか、単に馬鹿か。多分後者だろう。


「あははは! いいだろういいだろうこの力! この力さえあればどこまででも逃げられる、会社もぶっつぶせるんじゃねえの!」

「はあ。お前さん、情けないな」

「ううううるせえええ! お前に上司にぺこぺこして、帰ったら嫁さんの奴隷になる俺の気持ちがわかんのか!」

「うるせー! お前に金髪美女にデザートイーグル向けられる気持ちがわかるのか! っていうかわかりたくないわんなもん!」

ぎゃんぎゃん騒ぎながらも、男はかく乱するように森を駆け巡る。で、時々こっちに衝撃波を飛ばしてくるが、当たらない当たらない。あんな騒ぎながら長時間走ってるのに息切れもないし、完全に脚が違うもんになってきてるっぽいなあ。


 さて、どうしよう。

 なんかむかつくから見捨てたい気持ちもあるが、依頼だしなあ。

 そう思って依頼書を出して見る。差出人は不藤齊子。

なんか最近うちの旦那がおかしい。時々部屋を破壊している。警察に相談したが部屋を壊せるような武器は見当たらなかった為、いたずらと判断されてすっごい恥かいたマジがっでむ。というわけで、お宅になんとかしてもらいたい。生きていれば旦那がどんな怪我をしてもかまわない。とりあえずこれでもかってくらい懲らしめてください。

 ……ちょっとあいつの気持ち察した俺の馬鹿。まあ警察には相手にされないわな。人間が超森を飛び回って足から衝撃波を出すんですなんて、言って信じたら多分そいつ警察向いてない。早々に進路診断すべき。

「……はああ。とりあえず会っちまったもんは仕方ないよなあ。俺ってああいうの見過ごせないし」

「何一人で言ってんだよはげるぞ!」

「うるせー!」

あああああああんなんが結婚出来てるのに俺と来たら!

「さて、先ずはどうやって捕まえるかか……」

説得してみるか? なんて説得してみればいいんだろうか。

「おーい、おふくろさんが泣いてるぞー」

「お袋は死んだっつの!」

「……おふくろさんに似た人が泣いてたぞー」

「だから何なんだよ!?」

だめだ俺こういう説得とか苦手なんだってば。くそう、無理やり捕まえるしかないかなあ。どうやるかなあ。

 あ、そうだ。でかい布を木にくくりつけて捕まえよう。

「アキハー、なんかでかい布持ってきてー」

返事はない。畜生一人だけ隠れやがって。

「うううううん……あのさあ、アンタ。大人だろ? 一つ聞いてくれよ」

「なんだよ」

「それさあ、信じてもらえるかわかんねえけど、実は長時間使ってると死ぬっていうか、消えてしまうわけね」

「ばああか! 人間が消えるわけねえだろ!」

「そんな脚して人間の普通を語りますか。まあいいや、続けるぞ。

 そりゃ全部の人間が消えるってわけじゃないよ? でもアンタ、その能力さ、最初はもっとちっぽけなもんじゃなかったか?」


ぴたりと、サラリーマンは木の上に止まる。どうやら図星らしい。

「よくわかったな。最初は俺も衝撃波を飛ばすってだけだった。しかもこんなに強くはない、本当嫌なもんを吹っ飛ばせる程度くらい」

「ほう」

「でも、ああいつからだったかなあ。少しずつ少しずつ、強くなっていったんだよ。いや、それよりも強くなっていったのは、俺の上司への怒りだけどね。

 あいつと来たら女の社員と遊んでばかり、しかも飲み会とかで露骨に既婚者と未婚者を差別してやがる! 俺は既婚者だが幸せな既婚者じゃねえっての! それにいつもいつも失敗は既婚者に押しつけやがって。うちのカミさんが美人だからって、露骨に俺を一番敵視してやがんだぜ!?

 ああああああ思い出すだけで腹が立つ! 殺してやりたい!

 そう思っていくに連れて、どんどん力が……」

こっちにまで伝わるような、黒い感情。なんつうか見苦しくてたまらないが、気持ちは全くわからんってわけでもない。

「そして、いつだっけか。突然、早く走れるようになったんだ。その次は走っても息切れもしなくなってきた。

 だからこっそり上司に衝撃波を当てて椅子から転ばせたり、そういうことしても早く逃げられるから全くばれねえの」

ぎゃはははは、なんて、すっげえ汚い笑い方。正直俺でも引くわ。

「……それだよ、それ、それが悪いんだ。いいか、お前はもう立派に異常だ。大人しく普通の人間に戻れるうちに戻ろうぜ」

「馬鹿かお前? 俺は選ばれたんだよ!」


 ……むむ。なんか嫌な予感がする。


「俺は神様に選ばれたんだ! ノット異常、イエス特別! わかるかなあこの違い、んん? 普通の人間はこうはならないんだよ! 俺は進化している! 神様が俺を特別に扱ってくれている証拠だ!」

マンガの見過ぎだバカ。

 っていうか、いかん。そろそろぷっつんきそう。俺のNGワードばっかりぶっ込みやがって俺に恨みでもあるのか。

「神様、ねえ」

「そうだよ神様! 俺は神様に愛された人間なんだよ!

 凡人とは違う!

 俺は神様になれる、神様に一番近い人間だ!」

おおおお、汚い感情。こりゃこのままだと食われちまうなあ。まあいっか。

 ……いやいやよくない、仕事だったんだ。金が逃げてしまう。

「いやいやいや。何を夢見てるかわかんねえけど、お前は人間だよ。しかもサラリーマンだ。苗字は不藤。

 ただそれだけの人間だ。しかも神様に力をもらったなんて、弱っちいから神様が同情したんじゃねえの」

「な」

「そうだよ、そうに決まってんぜアンタ。人間として欠陥ばかりだから、神様が同情して他の人間と同じ程度になれるように足してくれたんじゃねえの!」


 ふつふつふつふつ。


「そんなわけ……」

「いいや言わせてもらうね! さっきから神様神様うっせえんだよ! お前いくつだ! 神様に頼る暇があんなら自分の力でなんとかしてみろばあか! そんなだから嫁さんに奴隷にされんだよ! どうせ嫁も顔だけに惚れたんだろ!」

「な」

「嫁さんがアンタをなんて言ってたか教えてやろうか!」

「いや、」

「へたれだよへたれ! 情けない男だって笑ってやがったぜ! ざまあみろ! 既婚者がなんだ! 未婚だって幸せじゃ!」

草むらから大人げない……って視線が突き刺さる。それでもおさまらない血の沸騰。


 ふつふつふつふつふつふつ。


「大体んな上司まだ緩い方だっての! うちの上司なんてなあ! 部下を馬車馬のように働かせてんのに、自分は事務所のイスから立ち上がらねえっつうんだ! あのタヌキやろうマジでふざけてやがる!」

「知らねえよ……」

「うっせー!」

それを神様に助けてもらいました、だあ!? ふざけてやがる! 幸せになるなら方法はどんなでもいいってわけじゃねえだろ!

「幸せになる対価が消えるでいいのかよ!」

「だから消えねえっての! 俺は神様に認められたんだからなあ! だからもう俺は他の人間より、」

「その言葉に二言はねえか!」

「は!?」

だめだもうこいつとは分かりあえねえ。でもまあ奥さんいわく、死ななきゃいいんだから、ちょっとくらい、ちょっとくらい。

「ねえよ、んなもん!」

こいつを助けるついでに、ちょっとくらい。


「――ならてめえはダメだな」


 血が沸騰する。ちょっとくらい、やつあたりしていいよな。








「――え?」

呆けた声。サラリーマンの男は、何が起こったか分からないまま俺を見上げていた。ああ、スーツをどろだらけにしちまって。奥さんにしばかれるぞ。まあそうなるようにわざと泥の場所に倒したわけだが。

「ったく……おい」

「うわ、何……いででで! え! 超絶痛い!」

「そりゃそうだ。頬つねってんだからな」

「いや尋常じゃない痛、いたたたたたた」

「そりゃそうだ。怒ってんだからな」

「てめえええええ」

ぎりぎりと頬をつねり終わった後で、ようやく血が落ち着く。ふう。

「おいおっさん」

「見る限りあんま年齢変わらねえだろ!」

「いいから。ほれ、早くそれを消させろ。おおいアキハーもういいぞー」

とにかくここまで進んでいたら早く消しちまわないと。と思って消す担当の相方を呼ぶが、全く気配がない。おかしいな、どこいったかな。


「……これを、消すのか?」

「あ?」

「いやだ、俺はこれがないと……またあのころの俺に戻ってしまう、それだけは絶対に、嫌なんだ」

「……」

こどものように、サラリーマンは俯いた。なんってガキの駄々なんだ。まあ消えるって信じていないからだろうな。

「でもアンタ、これがあってなんか変わったか?」

「え」

「上司のイスを倒すなんて、こんな能力がなくてもできるだろうに。それに奥さんから聞いたが、ストレス発散かはわからんが部屋を破壊したらしいじゃあないか。部屋の破壊もこんなものなくても出来るだろうに」

「……」

「それにストレス発散も破壊以外に道があるだろう。趣味みつけるとかさ、そんな感じのがあんだろ?」

「……趣味とか、ねえし」

なんてさみしい奴だ……。

「それにアンタ、奥さんの行動がいやなら話し合いをするとかあるだろう? いいか、アンタたちがそんなだと、困るのはこどもなんだぜ。

 大人はそうやってギスギスしてれば楽かもしれねえが、アンタ生まれてきた子がそんな親を見てどう思う?」

「……こども」

「いるんじゃねえのか」

「いやいない」

「……」

から回ってきたのでそこで終了する。

 黙って気まずい空気を感じていたら、ふと足音が聞こえてきた。


「赤居さあああん」

「その声アキハか? おい、お前遅いじゃ……」

そこにはなんと、でっかい布を持った女の子の姿が!

「……、いや。なにしてんのお前」

「え? だって赤居さんがでかい布持ってきてって……あれっ? もうモモヒヒザルさん捕獲したんですか?」

「ももひひざる……」

「ももひひ……」

「?」

こいつがマジにしちまうタイプの人間って言うことを忘れていた。

「あー、いやアキハ。言いにくいんだが、何て言うか、もうそれ必要ないっていうか、元々必要なかったっていうか」

「えっ」

しゅんと頭を垂れるアキハ。こうなると面倒くさいんだよなあ。

「とにかく、こいつの浄化を頼む。おいおっさん、いいな」

「ぐ……う」

「ったく、何でそんな能力に執着するんだよ。別にその能力のおかげで奥さんと仲がよくなったわけでもあるまいに」

むしろ夫婦げんかに俺が巻き込まれてしまったわけで。っていうか奥さんには衝撃波をやらなかった辺り本当へたれだ。

「だって」

「あ?」

「かっこいいだろ、こういうの……」

「……」

いや、まあ。男の夢だけども。困ったな、浄化するには本人の意思が必要だって言うのに、これじゃ言うこと聞かなさそうだ。

「いいか、俺の知り合いにこれのせいで消えてしまったやつも実際にいるんだよ。弟なんだがな、そいつは……」

「でもお前は消えてないだろ」

「俺は……」

「赤居さん赤居さん、依頼書見せてくれませんか?」

「あ? ……ったく、おら」

「ありがとうございまーす」

俺が健気に説得している最中だってのに、なんて暢気な。ふむふむ、ほうほうとか唸りながら依頼書を見ている。すると何かに気づいたのか、アキハはお、と瞳を輝かせながら依頼書をサラリーマンに見せた。


「ももひひざるさん!」

「ももひひ……」

「これ見てください! ここ!」

「え……?」

アキハが指さしたのは、生きていれば旦那がどんな怪我をしてもかまわない、という、鬼の一文。あれ? こいつ人の傷えぐるのが趣味ですとかいう奴だっけ?

「うわああああんなんだよなんだよなんだよ! き、君も結局、おれ、俺のことばかにしてんのか! そんな純粋そうな眼をしながら、本当は俺のことを嘲笑ってるんだろ! 誰がへたれだうわあああん」

「ち、違いますよう! ほら、よく見てください!」

「え?」

「殺さないでってことですよう! どんなことをしても愛するあなたを殺してほしくないってことです!」

おお、これがポジティブか! 若干無理があるようなないような!

「え……そう、かな」

相手もバカだった!

「そうですよ! ひゅーひゅー愛されてますねえ! ええっと、苗字は……ぶどうさん?」

「うんふとうね」

「ぶどうさん、奥さんを大切にしてあげてくださいね」

「……うん、そうだな」


 サラリーマンはそれだけ呟いて、俺に視線を向けた。

「……悪い、クソガキ。俺のこれ、いらねえわ。俺にはあいつがいるからさ。それにあいつのことは、俺の力で守りたいし」

「そうかよ、じゃあアキハ、頼むわ」

「も、もうちょっと感動的にしろよお!」

「はいはいやりますよー」

アキハは腕まくりをしながら、サラリーマンの男に触れた。黒い光が充ち溢れる。サラリーマンの男は少しおびえたように光を見つめていたが、すぐに瞳を閉じた。光が収縮していく。そして。

「――あ……」

「終わったか?」

「おう、なんか、こう、軽くなった」

「そうか」

俺は力をなくしたことがないからわからないが、大抵のやつはそういうんだよな。サラリーマンの男――不藤は漸く自分で立ち上がり、口元に笑みを乗せた。

「なんか、解放された気分だ。神様から解放ってのはいささか罰あたりな気がするけどよ、本当だよ」

「ふーん」

「……ったく、こんなクソガキに諭されるなんて、俺もヤキは回っちまったな。あ、これ男なら言いたいセリフの上位な、俺番付」

「聞いてねえっつの」

その顔見てたらわかるっての。とは言わずにいたら、不藤は何がおかしいのか心底楽しそうに笑った。

「あーあ、まあ明日から上司の嫉妬に付き合ってやるか」

「そうしろそうしろ。くそっ、勝ち組死ね」

「あ? お前もその女の子と付き合ってんじゃねえの?」

「え、そう見えま」

「ちげえっつの、ただの仕事仲間だ」

横でアキハがモチ宜しく頬を膨らませる。何だ何が不満なんだか。

「ふうん、ふーん」

「なんだよ気持ち悪いな」

「うえっへっへっへ、いいや」

「うぜーさっさと行きやがれ」

しっしと手を払う仕草をすると、不藤は笑いながら立ち去った。とても速い足取りじゃないけれど、さっきよりは楽しそうに感じた。

「さって、アキハ行くかあ」

「……はあああい」

「なんだよ、ぶすくれちまって」

「何でもありませええん」


 前から思っていたがこいつって本当変な奴だ。まあいいか。

 さって、明日からはちょっと長い休暇だ!

 何にするかなあ、久々に遊びに行くのもいいか。いやいややっぱり一日中部屋でごろごろするのも捨てがたい。さあて、何にしようかな……。



             ■



 どうにもならないほどイライラした。守っている家族からとも上手くいかなかった。どこにいても休まらない。

 ああ神様。どうか俺に、このイライラを破壊出来て、この現実から逃げることのできる力を下さい。



            ■



 そうして俺の休暇は、燃えるゴミに出されてしまった。

「――は?」

「だから任務。みーんな出払ってるんだよねぇ、残念ながら」

「……は?」

ポタポタと、落ちる水滴がコンクリートの床にシミを作る。時期は春。汗を流すには早すぎる季節だが、汗を流すまで働くには妥当な季節。悠然と椅子に座る髭のおっさん社長は、中途半端なオールバックの茶髪を掻きあげて笑った。困り眉をさらに下げながら。困っているのは俺である。

「綾ちゃんもわんこ君も白騎士君もみーんないないの。いやあ参った参った」

「だから従業員増やせよ。あと従業員にその変なあだ名つける癖、流行らないから止めた方がいいぜ」

「そりゃ好都合だ。俺が時代の最先端になれちゃう訳ね!」

だから流行らないっつの。


 働くやつがいないなら俺が行くしかない。それは分かるが、こっちだって休みは欲しい。生活的には休みだなんだ言える立場じゃないが、体力的には休みがないとエマージェンシー。

「悪いがパス。休ませてもらいます。天使さんには俺が土下座でも命乞いでもしとくから。今回は警察になんとかしてもらっ、」

「そりゃ残念。今回の給料は依頼額の倍出す予定だったのに」

ぴく。なんか今、聞き逃してはならないことを聞いた気がしますよ。

「なんだって?」

「倍、給料」

「やらせていただこうか」

いやだって、ねえ。ヒーローだって裏で金もらってんだから、金に釣られるのは悪い事じゃないでしょ。んで、俺の食いつきっぷりは予想通りだったのか、おっさんは嬉しそうに笑って依頼書を手渡してきた。なになに、せーらーふくのぎろちんにころされる、たすけて。……ふむ。まったくわからん。

「何これ」

「今朝カメラに、学ランを着た子が腹を押さえながら投函してる姿が映ってた。依頼主に会って話を聞いた訳じゃないし、詳しくはわかんない。けどウチに投函したって事は、依頼なんでしょ。天使さんに確認したら、今回はターゲットについて不明な点が多すぎるから報酬は倍だってさ」

ただの悪戯って事は考えなかったのか。まあウチにこんな悪戯をする奴はそうそういないだろう。そんな事しようものなら、釘バット装備した凶暴可憐金髪天使な女子高生におしおきされるのがオチだ。カメラもついてるし、顔われたら営業防衛になるし。

「まあいいや、行ってくる」

「はい宜しく。……ああ、その前に」

「あ?」

「お使い、頼まれてくれる?」



                ■



「それで釣られたんですかあ、でも金の亡者な赤居さんも勿論アキハはめろりんきゅーですよ!」

「はははそら嬉しいわ」

隣を歩く能天気なピンク頭。なんと髪色だけではなく頭の中もピンクという、見た目の期待を裏切らない超至高の阿呆である。ちなみに仕事ネームはアキハ・ナミジア。通称アキハ。残念ながら俺の仕事のパートナーであり、超ウルトラお助けウーマン。

「でもお金にならないお使いまで引き受けるなんて、赤居さん優しいですね」

「あのな。お前の中の赤居さんは金の亡者ですか」

「さっき言いましたよう」

ああそうだっけか。いや、事実、金がちらついてたからつい引き受けちゃっただけだけど。ほら人間、目の前にデカイ報酬があると、つい機嫌良くなっていつもの五割増しくらい優しくなるよね。

「まあいいけどな。おら、さっさと探せ、ネズミ捕り」

「むう。しかし事務所にネズミなんていたんですかねえ。私一度も見たことありませんよ?」

「そらいるだろ。廃ビル使ってるんだから。つか、あいつらは簡単に見つからねえから厄介なの。あと、黒い悪魔もいると思うぜ」

「黒い悪魔? ……、ぎゃー! もう、レディに何言うんですかあ!」

レディがどこにいると言うのか。アキハのボケはスルーして、ネズミ捕りを探す。買ったことないから取り敢えず仲間っぽい黒い悪魔ほいほいの近くを探してみる。かわいいマスコットにされやすいネズミ様が俺の中では黒い悪魔様と同等になる辺り、何て言うか世の中って世知辛い。


「んお、これか。おーいアキハ、あったぞ」

「おお! 初めて見ましたネズミ捕り! どういう仕組みなんですかねえこれ」

まあ、ホイホイと違ってネズミ捕りはそんなにメジャーじゃないだろう。一般家庭に置いているのは、あまり見ない気がする。いや一般家庭を何件も練り歩いたわけじゃないが。実際に見るのは初めてだ。

 俺が手にしたネズミ捕りは、どうやら何かしら罠が発動すると籠に閉じ込められる式のものらしい。俺が知っているネズミ捕りは単に鉄の棒と板でネズミを挟むものだったので、何だか時代の流れを感じてしまった。すげえハイテクに見えてしまう、ネズミ捕りが。アキハもネズミ捕りに詳しくはないらしく、何かネズミ捕りのパッケージを見つめてきらきら瞳を輝かせていた。

「赤居さん赤居さん、何かギロチンみたいですよねえ、これ」

「……」

レディはネズミ捕りを拷問器具に見立てたりはしないと思うんだが。これがギロチンに見える辺り、こいつの脳みそは淑女じゃなくて少女だと思う。俺の中の淑女は日常用品を見て、あらあらまあまあこれ拷器具みたいねえおほほほほほ、とか言わない。っていうか言ってたらちょっと凹む。

「まあお前がヘンなのはいつもの事として。ほら帰るぞ、お使い終了」

「はい! ……あれっなんか今おかしくありませんでしたか?」

「そうでもないぜレディ。……ん?」

自称レディをスルーして会計へ向かう途中。食品コーナーで、セーラー服を着た女子を見かけた。茶髪の髪は肩につかないくらいの短さで、結構きつめの顔立ちだ。化粧はしていないけど、眉は整えている。手にはサンドイッチ。多分昼飯だろう。ていうか今昼なのに学生がなんでこんなとこに、と、……こんな昼間に私服でぷらぷらしてる大人が言ってみる。そもそも中学生は給食なるものがあるから、飯なんて買いに来る必要なんぞない。つまりまああれか。若気の至りってか。

「中学生ですかねえ」

アキハも気づいたらしく、俺の背後からのんきな声で呟いた。確かに高校生には見えない。まだ幼さを残す顔立ちをしているし、まあなんて言うか発展途上の体つきだ。違うんです俺は変態じゃないんです。

「イマドキの中学生は堂々とサボるからなあ。高校ならともかく、中学なんざ義務教育だしサボりたい放題だし」

単位やらなんやらある大学に、出席日数が足りないと進級が危うい高校生。中学でサボれることの幸せさが、この頃よく染みるのである。


「学校が午前授業だった、とかかもしれませんよ?」

「んあ、確かに」

何で決めつけちまったんだろう。よくなかった。ちと反省。

「こういうの、よくはないよなあ。相手を悪みたいに見ちまうと、問答無用で悪く言っちまうの」

「でも、日曜朝の戦隊ヒーローとかそれで成り立ってますもんねえ。敵だから問答無用! みたいな」

「そりゃあれだ、少しでも同情すると戦いにくいだろ。子供はヒーローがド派手に勝つのが好きなんだよ。つまるところああいうヒーロー物は、悪役を完全な敵としか見ないからド派手にかっこよく蹴散らせるのさ。完全悪ってのは子供の娯楽には必要だからな。娯楽抜きにしても正義感養えるし」

極端な話、相手が人間ってだけで躊躇しちまうことってよくあると思う。けれど敵としか、倒さなければならない物として見ると、それは無くなるんじゃなかろうか。無くなるまでなくとも、少なくはなると思う。人間マジで殴ってるつもりでも、無意識にリミッターをかけるもんだ。

 余談だが、この説にガキは当てはまらない確率が高い。だってあいつらマジ容赦ない無邪気怖い。あの年頃は、人に悪者って着ぐるみを着させて、その着ぐるみを本当に敵として見ることが出来る。

「例えばそうだな、あの少女が確実にさぼり犯だとする。あの少女が私さぼってるのと告白してきたからだ」

「ほう。指導しますね」

「だろ? あの子がお前にとっての悪になったからな。でも今はどうだ。あの子が悪か正義か曖昧な存在。な、もしかしたらって相手の事情考えちまうだろ?」

「おお!」

「程度は違うがそんな感じだ。問題はあっちが悪だと名乗り出ずに、こっちが勝手に決めてしまうことがあるってのが、まあ人間の悪い癖だな。こういう事をなくそうとは思ってんだが、やっぱ簡単には……」


「……ちょっと。さっきからなに人をダシに話してるのよ」


 とかなんとか話してると、さっきの暫定中学生が話しかけてきた。ほっそい眉毛がちょう吊り上ってる。うん怖い。こうまでされると幾ら俺でもわかる。ふざけんなこの野郎って怒りの表現だ。

「うわ悪い、どこから聞いてた?」

「サボりから全部よ! 勝手に人のこと話さないでくれる? ていうかそもそもジロジロ見ないでよね。こういうのってセクハラじゃないの? 大声出してもいいんだけど。気持ち悪いのよおっさん」

「おっさ、」

おっさんて。二十代はもうおっさんなのか、俺が二十代に見えないくらい老けてるのか。どっちでもいいがへこむ。いやそもそもそんなに罵倒されたのがへこむ。俺そんなに打たれ強くも被虐趣味もないし。

「ちょっと! 赤居さんはただのおっさんなんかじゃないですよ!」

おおアキハ! 流石レディ! いいぞやってやれ正義の味方! ヒーローごっこはいっつもレッドのアキハちゃん!

「こう見えても一応無職じゃないんですからね!」

……おお……俺はおっさんだけでなく、無職にも見えちまうのかい……。しかも一緒に働いている奴から見ても……。

「だーもういい! あのなあ、初対面をおっさん呼ばわりするかフツー! つかセクハラじゃねえよ俺はそんな趣味はねえ!」

「なによ、初対面を話のダシに使ったのはどっちよ。……ていうかこんな時間にこんなとこふらついて回って、本当に就職してるの? あんた幾つ? 何してる人? 証明できるものはあるの?」

じとー、と、文字が見えそうなくらい絶妙な半目で見てくるキューティー茶髪ガール。うう、黙ってれば可愛いなこいつ。いや決して守備範囲ではないが。あとこんな気が強い女も趣味じゃねえ。

「ほ、本当だ。無職ではない、今も上司のお使いに来てる。事務所に置くネズミ捕りを買いに来たのだ」

「へえ、……じゃあ雑用係じゃない。窓際社員? あまり偉い立場じゃないのはわかるけど。何の仕事の上司よ」

「……報酬アリな民間人のヒーロー?」

「……」

あ、痛い痛い痛い。俺の言動も痛いこと承知だけども、その視線はとてつもなく痛いです女子中学生マジ容赦ねえ。いいやここで傷ついてはいかん。大体こいつらは就職の厳しさやら上司のご機嫌取りのめんどくささやら、可憐なお嬢様にデザートイーグル向けられる恐怖なんて知らねえんだ。そんな奴の言葉なんか痛くないもんね!

「ああもういいだろ、それより君だ君。今度はこっちの番だ。お前そのナリ中学生だろ。学校はどうした? ん?」

「うっさいわねー、サボってあんたに不都合あんの? ていうか今どきサボった事ない奴のが珍しいっつの。いつの時代の人間よおっさん」

「ぬぐぐぐぐ、だからおっさんじゃ……って、サボって不都合? サボってるんだな? うわあ不良だ! 名前教えやがれ学校に連絡してやる! その後お父さんお母さんにしこたま怒られろ!」

「なっ……あーもーうっざい! どっか行ってよね!」

段々おっさんとの会話にイラついてきたのか、それを最後に女子中学生はどこかへ行ってしまった。因みに近づいてきたのはあっちだ。中学生マジ理不尽。まあ近づく原因になったのは俺だけども。

年甲斐もなく、わはははは勝ったぞー! なんて喜ぼうとした瞬間、アキハが「うわあコイツ大人げねえなんて恥ずかしい大人だ」って目で見てきたから止めた。我ながら懸命な判断である。うん、ちょっとどころかかなり大人げない自覚はあった。けどおっさんと男のプライドが許さなかった。

「……あー、アキハ。……アレはどうだった?」

話を逸らそうと何気なく問いかける。するとアキハはいつもの顔をして、その蜜柑色をした眼を丸めながら、頷いた。


「ありましたよ。――ギロチンかは分かりませんけど、両手に」


 そうかそうか。彼女がセーラー服のギロチンでないにしろあるにしろ、異常である以上野放しにする道理はないわな。それにあのセーラー服、もしかしたら依頼主の学ランの子と同じ学校かもしれない。色々聞いてみる必要はあるか。

「アキハ、あの制服、何処の制服か分かるか?」

「たぶん、聖幸学園の制服ですね。この辺の公立中学校の一つです」

「そうか。んじゃ、ちょっくら、聞き込みと参りますか」



          ■



 昨晩の出来事だ。わたしはその日、同じクラスの男の子を狩った。


 わたしはネズミ捕りだ。名前はない。だって製品的な名前がついているネズミ捕りはあるけれど、わたしは製品なんかじゃない。棚に並べられてもいないし、誰かに使い捨てられる運命でもない。ただ待って来たネズミを捕まえるだけでもない。

わたしは他のネズミ捕りと違って、動くことができる。姿を見られちゃうから捕まえてどうこうは出来ないけれど、もう二度と――は言いすぎかな、しばらく巣に籠らせてやることが出来る。

つまりわたしは、オートマチックネズミ捕りだ。……あ。神様がくれた名前があったっけ。たしかこれの名前は――……。

「……あ」

がさり、草を踏みしめる音がする。二時間前からここに潜んでいた甲斐があった。やっぱり呼び出すと狩りがやりやすい。この暗闇に、目が慣れてきた。人間の目ってよく出来てる。相当な真っ暗闇じゃなければ、暗闇に多少慣れる適応能力がある。ネズミを捕獲するにはありがたい。昼間にやったら他の人に見られちゃうかもしれないから、やっぱりやるなら夜しかないもの。

標的は学ラン姿の男の子。

「あ……不断桃子(ふだんとうこ)ちゃん?」

あまり目はよくないらしい。それともわたしの目がいいのか。ある程度の距離があるから、わたしの事がわからないらしい。こっちに顔を向けながら、不思議そうに問いかけてくる。不断桃子だという確証はあるけれど、距離があって鮮明に見えないから、本当に不断桃子か分からないって感じ。

わたしはそれに答えてはあげない。だってわたしにはもう、彼の姿が見えている。それだけで十分。

「いいえ。わたしはギロチンです」


 ――わたしが彼に敵意を持つには。


「え」

空を切る音。ああ、なんて気持ちいい。トップアスリートが何年もの時間をかけて、苦労して汗を流して頑張ってやっと生み出した速度を、わたしは今出している。ひそかな優越感。汚い汚い感情。

「大丈夫、殺しはしないから。ね? 今までの子と同じように、ちょっと、ちょっと痛い目見させるだけだよ」

だって殺しなんかしたら、そんなのあいつと同じになっちゃうじゃない。わたしは誰も殺さない。ただそうだな、ネズミが二度と来ないように、ネズミの鼻先でギロチンを落としてあげるだけ。

「ア、」

筋肉質なお腹に、わたしの拳は難なく飲み込まれていく。可哀想。痛いよね。わかるよ。だってわたしも経験があるもん。でも遠慮なくぶっとばしてあげる。体はまるで水をかけられた猫のように、草陰に飛び込んで行った。ああ、可哀想。わたしってこんなに、かわいそうだったんだ。

「……でも、わたしももう、中学二年生だもん。今までのわたしとは違っていいと思うの。理由はそうだなあ、反抗期まっただ中だから、なんてどうだろう?」

あれ、思春期だっけ?



      ■



 聖幸中学校の近くに行くと、ちょうど下校時間なのかセーラー服と学ランの生徒がたくさん校門から出てきた。やっぱり、あの異常持ちの子と依頼主の学ランは同じ学校だったか。となると、やっぱりあの子がギロチンである可能性が高まる。異常持ちなんて、そう何人もいるはずないしな。

「私、あの子に話してみますね」

アキハはそう言って、茶髪をぐるんぐるん巻いた子に話しかけに行く。な、何だあれキャバ嬢ってやつか? すげえなあ……俺は優しそうな子にしよっと。

「お」

今時珍しい、ひざ下のスカートに髪は染めたことなさそうな黒、腰くらいまでのロングストレートな子と目が合う。調度いいや、あの子優しそうだし俺のことをおっさんとは呼ばなさそう。ここ超ポイント。

「あのお、ちょっと……」

「ひっ!」

「へ」

しかし女子中学生は、俺を見るなりか細い声を漏らして後ずさった。やばい。おじさんには見えなくても、もしかしたら変質者なお兄さんに見えているのかもしれない。くそ、これだから昼間は。

「あ、あああ、あの、怪しいもんじゃないよ。ちょっとね、君の学校の制服を着た知り合いがね、セーラー服の子から暴行を受けたらしくて」

「! 先島くんですか? 今日学校に来てないんです」

お、やっぱり学校には来てないのか。そりゃそうだよな。犯人がいる学校に登校してくる訳がない。いや、歩けないくらいの攻撃を受けただけかもしれない。

それでも警察に相手にされないくらいファンタスティックな暴力に遭ったんだから、ウチに来たんだろうし。今頃サキシマくんとやらは、お家かどっかでがたがたぶるぶる震えてるだろう。

「そうそうサキシマ。最近あってなかったからびっくりしてさあ。ね、なんか噂とか聞いてない? 暴力受けるくらいの行いをしたとか」

「先島くんはそんなことする人じゃありません!」

うおっやべえ地雷踏んだ。さてはサキシマの事が好きとか。くそう青春眩しい。ここは何とか取り繕わねば。

「お、オーケーオーケーわかってるって。あいつはそんな奴じゃないよな、悪い冗談だった。ええと、君は……」

「……九里(くのり)九重(ここのえ)です。お兄さんは何とお呼びすればいいですか」

「あー、赤居。赤居お兄さん」

短く答えると、九重ちゃんは不思議そうに瞳を瞬かせた。あ、もしかして名前とか聞かれちゃうのかな。それだけは避けたい。俺、俺の名前嫌いなんだよね。

「……ふふ」

「え?」

「ご自分でお兄さん、なんて。おかしなひと」

ここで変な人、を使わなかった辺りが優しさだろうか。九重ちゃんは本当におかしそうに、くすくすと笑っている。やわらかくて人を引き寄せるような、一級品の笑みだ。いや、一級品なんてものよりもっといい。至宝、だとか。まあとどのつまりアレですよアレ、めちゃくちゃ可愛いってこと。

「だって、俺はお兄さんだもの。おじさんには見えないでしょ?」

「ふふ、はい。赤居さん、かっこいいですもん。おいくつなんですか?」

「ひみつ。こういうのって秘密の方がかっこいいでしょ?」

なんて茶目っ気たっぷりに返すと、九重ちゃんはまたおかしそうに笑う。……ううん、いいなあこういう感じ。このちょっと笑いのポイントずれてるっぽいとこ、ちょっと可愛い。ていうかやっぱり俺お兄さんなんじゃん。どうだ参ったか。俺まだまだいけるよ、捨てたもんじゃ……っていかんいかん、こういう話をしている場合じゃなかった。さすがに収穫なしじゃ、アキハに呆れられる。


「えっと、九重ちゃん? ごめんね、話を戻すけれど。九重ちゃん、は、サキシマが喧嘩してるとこを見たとか、若しくはそうだな……サキシマの事を憎んでそうな奴とか。後は、あーっと……誰でも理不尽にぼこるような奴? とか、とにかく犯人になりそうな奴の心辺りとか、ない?」

「……そういえば」

さっきの怒気は完全に削がれ、九重ちゃんが俯いた。どうやら心当たりがあるらしい。何かを気にするように辺りを見回したあと、俺にこそこそと話してくれた。

「……不断さん、って言うんですけど、その、なんていうか……有名ないじめっこ、で」

「いじめっこ? ……どんな?」

「教科書を切り刻んだり、集団で一人の子を暴行したり……。体育の時間にボールをぶつけたり、とにかく集団で一人の子を徹底的にいじめる人でした」

えぐっ。何て言うか、中学生らしい。一つのクラスに一人はいる、女子を掌握するリーダーってやつか。

「それなのに、最近毎日来ていないんです。取り巻きの人は来てるのに、不断さんだけが。その、この暴行事件、先島くんが最初の被害者じゃないんです。程度は軽い負傷だったりするん

ですけど、数日前から始まっていました。不断さんは、暴行事件が始まってから学校に来ていないんです」

……ほう。毎日来ていないのは、どういう事だろう。もし俺が犯人なら? ……犯人だと怪しまれないために普通に学校に来るだろうが、中学生的考え方なら……まあ、暴行したのが怖くて学校に来れないって可能性も、無きにしも非ず。取り巻きが来ているんなら、多分一人でやったんだろうし。

「それで、その子は……、」

「探偵さん!」

「うお!」

突然潤んだ顔を上げる九重ちゃん。くっ。俺はけっ、して中学生など守備範囲ではないはずだが、その顔は普通にかわいい。やめてくれ。

「お願いです、必ず、必ず捕まえてください! 先島くん、昨日まであんなに元気に……!」

「うあ、ちょ、ま、」

やばいやばいやばい。可愛いんだけども泣かないでくれ。やべえあいつセクハラでもしたんじゃねえの的視線が風の如し!

「わかった、必ず犯人は見つける! おおいアキハ、そろそろ帰るぞ!」

「え? あ、はあーい!」

九重ちゃんの頭を撫でてから、アキハを連れて慌てて立ち去る。そうじゃないと俺、危ない扉開きそうでしたよ。




               ■



「あっれえ、赤居くんじゃないか」

「うげえ」

「うげえて」

「ひひももざるぶどうさーん!」

「もう突っ込まんぞ」

二人で帰っている最中、モモンガとマントヒヒとサルを足したようなアレにあった。名前は確か不藤、だったか。ん? なんで私服なんだ?

「アンタ何してんのこんな時間に」

「ああ、俺会社辞めてさ。現在就職中」

「へー……えええ!?」

そんな簡単に? って、俺の仕事がまともな仕事じゃねえから、会社を辞めるってのが想像つかなくて驚いちまったけど。そんなに簡単に辞めていいもんなのか……?

「いや確かに、また就職すんのは大変だけどさ。よく考えたらその上司、社長の息子でさ。そいつが会社を辞めるのはありえねえし、あいつの下でいずれ働くことになったら嫌だしさあ? ってなわけで辞表叩きつけてやった!

 もう爽快だったね! 俺自分で言うのもなんだけど出来る奴だからさあ、やめないでくれって縋りついてくんの!」

ぎゃはははは、とかいうまたあの笑い方。その顔も声も本当に爽快そのもので、俺は少し不藤を羨ましく感じた。


「まあカミさんには迷惑かけちまうけど」

「あっ、奥さんとはどうなったんですか?」

「うへへへ、アキハちゃん、聞きたい? それ聞きたい?」

うわあ、すごく気持ち悪い。

「あれから話し合って、自分の意思を話したわけよ。そしたら俺の意志のかっこよさに惚れたのか……あ、違う惚れなおしたのか、今のあなた、すごくかっこいいわよ。だからわたしも、ごめんなさいね、って!

 もうそれから滅茶苦茶優しいの! しかもすっげえ可愛いし! ああもう俺のカミさん最高過ぎるんだけど!」

「うわー! らぶらぶですねえ!」

きゃっきゃきゃっきゃ盛り上がる二人。ここが町のド真ん中だとわかっているのだろうか。恥ずかしいから他人のふりしておこう。

「いやあ本当、二人のおかげだ。お前たちには感謝してもしつくせねえよ。あ、アイス買ってやろうか」

「いらねえよ、無駄遣いすんな」

「かっわいくねーの」

そういうアンタはすごく幸せそうだ。なんだよ、こっちまで嬉しくなってきちまうだろ、腹立つ。


「ところで、お前ら何してんの?」

「仕事中」

「へーえ、あ、また俺みたいなやつが出てきたとか?」

「そうだよ、お前ギロチンってのに聞き覚えねえか?」

「うへえなんだそれ、俺より強そうだな」

どうやら知らないらしい。まあ誰かがそう簡単に目撃するような犯人じゃないから困ってるんだが。

「ギロチンっつうと、あのギロチン?」

「ああ。何でも、ぎろちんにころされる、だと」

「はあ? 意味分かんねえな」

「何が」

不藤はふざけた様子もなく、不可解そうに眉を寄せた。脚から衝撃波を出すような奴が何を疑うんだか。お前の脚の方が意味がわからなかったぞ。


「なんて言うか、ギロチンに殺されるってニュアンス、おかしくないか? いや、うーん、何がだろう」

「あ? 何言ってんだよ」

「いや、ギロチンってお前、わかるか?」

不藤は人差指を突き立てる。

 馬鹿にされているかわからないが、俺だってギロチンの意味くらいわかる。ギロチンとはヨーロッパの処刑器具で、頭を固定してその上からでっかい歯を落とすってやつだ。ギロチンって言えば有名だし、みんなわかるだろう。

「処刑器具だろ、頭を固定するやつ」

「そうそれ。なあんかなあ、ギロチンってのに殺されるって、なんかむずむずすんなあ。ギロチンで死ぬ奴がギロチンに殺されるとか思うか? まるでギロチンから殺しにきたみたいに聞こえる」

「む」

確かに、そうだが。

「アンタだって、衝撃波に殺されるって言ってらむずむずするだろ」

「あははは、確かにそうだなあ」

だがそうか。なんでギロチンと思ったんだろう。


「まああれだ、こういう疑問を持つのも中々楽しいだろう?」

「そうですねえ」

「そうか?」

「本当お前はかわいくねえな」

そりゃ有り難い。おっさんにかわいいとか言われた日には泣けるね。

「これは人生の先輩――あ、俺ね。からのアドバイスだが、やっぱり人間視野は広く持つべきだ。ついでに近くのものを見落としてはならない。近くっていうのはつまり俺でいう齊子ちゃ

んだが」

「のろけんのやめろ」

「いいじゃないですかあ、ひゅうひゅう」

「――ごほん。とにかく、人間一つのことを決めつけんのはよくねえってこと。俺みたいに――、」


「あなたー!」

不藤が妙な演説をしている最中、めちゃくちゃ美人な人が駆け付けてきた。整った顔立ちは美人系ながら可愛さもあり、奇麗に染められたダークブラウンは胸のあたりまで。あとついでに

 あのモデルもびっくりな超絶美人っていうか美神は。確か。

「齊子ー!」

「うわあああああああああ」

「ほ、ほえええ……やっぱり美人さんですねえ……」

あああ不公平だ! 走るたびに胸が揺れるとかどこのファンタジーなの! 改めて見るとすっげえ可愛い!

「あ……あのビルの従業員さんの……」

「あ、は、はい赤居です」

「あ、アキハです」

い、一般人なのになんか緊張するんだけど。くそ、横でアホリーマンが「どうだ? うちの嫁さん可愛いだろ? ん?」とか聞こえてきそうなくらいにやにやしてやがる。あとでまたスーツに泥ぶっかけてやりたい。


「うふふ、あの時はお世話になりました。不藤齊子です」

「齊子ちゃあんどうしたの、家にいないの?」

「あなたに会いたくてつい」

「このお、かわいいやつめ!」

「もう、人前よあなた」

「……」

「ほ、ほわあああ……ら、らぶらぶ、らぶらぶ……」

あははうふふ。辺りはお花畑もびっくりは花園である。ああくそ。目の前でこんなの見たくなかった。もしかしたら不藤のお嫁さんがあんな美人だなんて何かの夢か陰謀だって思っていたのに。

「じゃあ俺達はこれで。じゃあな赤居くん。それからアキハちゃん頑張れよ!」

「は、はい!」

「うるせえええ幸せになっちまえばあああああか!」

ハートマークやら花やらまき散らしながら立ち去っていく不藤夫婦を見送る。なんて世の中って理不尽なんだろう。

「アイツに嫁がいるのに俺は……」

「あ、赤居さんには仕事があるじゃないですかあ! っていうか私も、その……赤居さんがもしいいっていうなら、私、赤居さんとあんなふうに……」

仕事。……そうだよな! 今のあいつにはないが今の俺にはあるもの! 仕事!

「よおしやるぞアキハ! さっさと帰って仕事だああああ!」

「ええ!? は、はい! ――ううう、赤居さんのばかあ……」

それってあいつが仕事始めたら完全に俺の負けって認めたみたいじゃないか。

いやいやそんなことわかってるんです。ていうかぶっちゃけた話、仕事でもいいからあんなの忘れたかっただけです。


「はい、聞き込み調査発表会を開始しまーす」

「はーい」

ビル内の一室、俺の部屋で紙を広げる。コンクリートに囲まれた何もない部屋だが、俺の自慢のマイルームである。いいねえこのむなしい部屋。さっきのこと忘れるわあ、何がとは言わないけど。

「情報を整理すっぞ。俺が聞いたのはサキシマって生徒が今日休み。多分このサキシマは、依頼を届けに来た生徒だ。で、サキシマの前にも負傷している生徒がいて、同時期に学校を休み始めたフダンって言ういじめっこが怪しいとかなんとか」

「あ、不断桃子ちゃんですね。私も聞きました。茶髪の子で、二年生。身長は小さめ。聞く限り、昼間に会ったあの異常持ちの子と酷似しています。学校を休んでるなら、あんな時間に一人でふらついているのも頷けますし。家にも帰っていないらしいです。

一番怪しいのはその子だって、数人の生徒から聞きました」

容姿まで聞いている辺り、聞き込みに関しては俺よりこいつの方が頼りになる。っていうか多分コミュニケーション能力の問題な気がするけど。あと面倒くさがりかかどうか。

「でもおかしいですよねえ」

「ん?」

アキハは何やら深刻そうに、情報がまとめられた紙を見つめて呟いた。

「いじめをするような強い子に、アレは宿るんでしょうか」


 ――アレが宿る人間には、推測ではあるけれどいくつかの条件がある。

 ひとつは、弱い人間であること。アレは絶望する人々に、希望を与えるために与えられる悪魔のような天使からの贈り物だ。人を喰らって生き続ける天の加護だ。

 アレの加護を押し付けられた人間は、何れアレに食わせて食われていく。そうなる、前に――。


「……赤居さん?」

「!」

心配そうに覗きこんでくるアキハと目が合った。……ああ、良かった。相手がコイツで。コイツじゃなきゃ、危うく恋してるかもしれなかった。

「悪ィ、……だがまあ、いじめっこが心が強いわけじゃねえ。むしろ心が弱いから、いじめに逃げるんだと思うんだがね、俺は」

「そういうものですかあ」

いじめ云々にはあまり興味がないらしいので、この辺で止めておく。……さて、昼間この俺をおっさん呼ばわりしたクソガキが恐らく不断桃子だろう。何とかして話を聞きたい。しかし家にいないとなると、どう見付ければいいんだか。


 犯人は必ず犯行現場に戻ってくる! とかが定石だが、生憎犯行現場もわからない。学校に来ていないから学校でとっ捕まえるのも無理だろうし。

そもそもどういう理由でターゲットを決めているかすらわからない。九重ちゃんの主張では、サキシマはターゲットになるような奴ではなかったらしいし、ターゲットになる要素が分からないなら次のターゲットを予想して餌にするのも不可能だ。

 あの時無理矢理にでも連れ出して、不断桃子の異常を消しておけばよかったか。いやいや、あそこで大声でも出されちゃ完全に不審者は俺だったしなぁ……。

 ……そういえば、依頼書にはセーラー服とだけ書かれていた。調査をしたら真っ先に名前が挙がる程度には有名な「不断桃子」ではなく。ターゲットに姿を見られないように暴行したのか? それとも、姿が見えない時間に? ……何か一つ、俺はまた変な思い込みをしているような……。

「あー!」

「うわっと……どうした、アキハ」

「社長にお使い頼まれてたネズミ捕り、渡すの忘れてましたあ!」

「あー、そういやそんな事もあったっけか。渡しに行くかあ」

「はーい!」



               ■



「いやいやお疲れさま。最近ネズミがいるのを見つけてねえ」

「やー! レディの前でそんな真実ドンタッチミー!」

「いや色々おかしいその英語」

耳を塞いでぎゃあぎゃあ喚くアキハを無視して、社長はネズミ捕りを袋から出し始めた。冷たく太い銀が光る。なんだか不気味にも見えちまうそれを、簡易冷蔵庫の隅の方にディスプレイした。


「そういえばさあ、ネズミって結構でかい食べものも運べるんだよねえ」

「あ?」

「知ってる? 韓国ではネズミのことを悪口に使うんだよ。ネズミの小ささに例えて、お前は小さい奴だって意味でね。他にも昔は悪魔の使いだと言われたり、スパイの事をねずみって言うこともある。諺でも大抵悪い意味で使われたり、良い意味の諺でも大抵が小さきものや非力なものの代名詞として使っている。

けれどその小ささに似合わず、とてつもないパワーを有しているんだ。そうだな、君は、ネズミに噛まれたケーブルを見たことがある? 聞いたでもいい」

……またじじいの蘊蓄か。こういう時はてきとうに相槌を打つのが賢い。

「そりゃな。火事になったってニュースになるくらいだ。何を言いたいかわかんねえが、俺は悪魔の使いを否定しないね。だいたい、鼠害なんて言葉もある位だ。ネズミは害獣と変わらねえよ」

もしくは害ちゅう。……いかん寒かった。おっさん扱いされる訳だ。

「そう。けれど世界にはこんなネズミもいる。ネズミの嗅覚は鋭いんだ、そして軽く地雷が発動しない。その性質を利用して、地雷発見をしているネズミとかね。そういうネズミはなんて呼ばれるか知っているかい?」

「……知らねえな」

「あはは、そうだろうね。君はそういうのに興味なさそうだから。まあケーブルかじられちゃ敵わないからやっぱり駆除はするけど、世界にはこういう悪くないネズミもいるんだってトリビア」

「……いいから。名前は?」

別にネズミなんぞに興味はないが、そこまで聞いたら気になるだろ。人間って無駄な雑学大好きだから。

急かされたおっさんはしたり顔でこう答えた。


「――ヒーローラッツ」



               ■



 おっさんの部屋の扉を閉めて、じめじめした廊下を歩いて行く。少し歩いたところで、不意にアキハが呟いた。

「……なんだか、社長らしい話でしたねえ」

ああ、きらっきら瞳を輝かせている。こいつはこういう正義雑学大好きだからな。もうこれからネズミ飼い始めるんじゃないだろうか。……やべえ。俺の部屋こいつの隣だ。飼われたらすなわち俺アウト。

「間違っても飼うなよ」

「えっ! なんでですかあ!」

やっぱりかこの脳内お花畑娘。お前はもうちょっとこう、マイナス面を考えるか俺を気遣った方がいい。

「せめてハムスターにしなさい。ハムスターもネズミには変わりないし、まあいつらならゲージからも出ないだろうからな。大体ネズミは完全悪じゃないってだけで、俺らには普通に害があるんだからな。あいつらケーブルとかマジでおしゃかにするから、火事とかも起こせるっつっただろ」

「ほへー……小さいのに凄いですねえ」

「まあな。……ったく、おっさんの長話にも疲れたぜ……。とりあえず今日は遅えし、調査はまた明日するか?」


昼にお使い夕方に聞き込み、その後に調査を纏めたりしたから結構時間食っちまった。別に夜間戦えない訳でもないが、何分おっさんなもんで。手がかりもなしに疲れた体で犯人を探すのは、責任っつうか無謀だ。

「でも、夜犯行があったら……それに、まだ何も掴めてませんし」

「こっちは何も手がかりがなくて見つけられねえの。しかも犯人はターゲットにセーラー服しかヒントを残さないような奴だぜ? 下手に奇襲されたらアウトだ。犠牲者が出るかもしれないのは分かるが、俺たちが犠牲になったら今日どころか明日も明後日もずっと増える事になるんだぜ?」

「……確かに、そうですけど」

ああそうだ。コイツ英雄なネズミが大好きな程度には正義感が強いんだった。どうすっかなあ……こいつを納得させられるような答えが、俺には出せるかなあ。俺はこいつと違って、悪役応援しちまうひねたタイプだからなあ。

「あー……それにな、まだ異常に食われる心配もない。まだ人を殺してないんだろ、犯人。それなら明日もう一回学校で調査して、確実にとっちめた方がいい」

「……」

「う」

出来るんですかあ? な目で見つめてくるアキハ。無論出来る自信はない。だがアキハの案をのんで返り討ちにあうのはごめんだ。何でわかんねえかなあ。うううくそう、もっと押しが必要か!

「そ、それにな、実はもう少し目星はついてるんだよ!」

「え、本当ですか!?」

「あ、ああ、えーっと……」

やばい、割と目星なんてついてない。ええと、うんと、……そうだ。

「いいかアキハ。ネズミは何で家に忍び込む?」

「へ。……ご飯を盗みに?」

「そうだ。いいか? 不断桃子は家にも帰ってないし学校にも行っていない。つまり飯はどうしていると思う?」

「あ……」

さっきの社長の蘊蓄を思い出してよかった。そうだそうだ、不断桃子は人間だ。つまり飯がないと生きていけない。どっかの病院から点滴をくすねてきたとかなら別だが、人間であるなら飯を食うはず。……まあ異常が飯を食わなくていい異常、とかなら別だけども。そんな異常はありえない、かもしれない。多分。

「つまり、不断桃子は今日みたいに何処かで飯を買う必要がある。寝床も必要だが、寝る時間帯がわからんことには寝床を探すのは難しい。誰かの家に泊まっている可能性だってある。だが飯はどうだ? 今日実際に食うのを見て時間もわかる、不断桃子は飯を買っているという確証がある」

「確かに……!」

「しかも、聖幸の生徒を襲っているということは、県内、しかも聖幸の生徒が学校に通える範囲――学区内にいるってことだ。つまり明日の昼、学区内の飯が食えそうな場所をめぐれば……!」

「不断桃子ちゃんに会える! おやすみなさい!」

わっほーい、と奇声を上げながら、アキハは部屋に戻った。……良かった良かった。俺が追い詰められたら力発揮するタイプで、本当よかった。



         ■



「……いや……またいる、どうしよう」


 どうしよう。何もしていないのに。いや、したけれど。けれどどうして、こんな目に遭っているんだろう。あの子にあんな力はあったのだろうか。だってあの子、同い年だよ? 腕も胴体も何ら変わらないパーツなのに。というか、多分あの子の方が、細くて頼りない。なのに、なのにどうして。

 どすん、と。

 体内に響きそうな音が、こっちにまで聴こえてきそうで耳を塞ぎたくなった。小さな女に殴られた男は、すさまじい勢いで吹っ飛んだ。どうして? どうしてあんな華奢な体なのに。まるで短距離走のオリンピック選手のような速さで走って、人を殴って飛ばしていく。むちゃくちゃだ。あんな威力、普通なら出るはずがないのに。じゃあ、どうして?

 あの子は、普通、じゃないの?

 男は草むらに転がると、げほげほと咳きこんで――何かを吐き出す声が聞こえた。

「――う、」

気持ち悪い。どうしよう。こわい。こわいこわいこわいこわいこわい。

 あんな光景を見てしまうと、むしろこっちが普通じゃないんじゃないかと思ってしまう。違う。異常なのはあっちのはず。だって今まで不良ものの女の子至上主義なドラマでしか、あんな光景見たことが――あれ、でも今現に起こってるってことは、これが普通なの? うそ、違う、こんなことって。


「……、いけない」

こんなこと考えてる暇じゃ、ない。

 幸いこっちに攻撃をしてくる様子はない。あんな身体能力を持ちながら、こっちには気づいてないみたい。どういうことだろう。いや、だからいいのそんなこと。重要なのは、何故気付かないかじゃなくて、あっちがこっちに気づいていないってこと。だからやることは一つ。どうしよう。逃げなきゃ。

「……っ」

そうだ、逃げなきゃ。やられる。男の子があんな風になるんだもん。女なんてどうなるか分からない。多分吐くだけじゃ済まない。逃げよう。今ならきっと、バレない。だってそうしなきゃ、この体はきっと支えが折れてしまう。痛いのはいや。誰だってそうなはず。いやだよ、ああなるのはいや。

 ああでも、あの人どうなるんだろう。助けた方がいいのかな。でも助けられるはずがない、だってあんな力は自分の体にはない。だからああなるだけ、情けなく横たわる体が二つに増えるだけ。

ああもうなんで助けたいなんて思いついちゃったんだろう。どうせ助けられないのに、罪悪感を感じるだけじゃない。

 この距離だもん、そうっと、そうっといけば、自分だけなら逃げられ、


「――誰か、いるの?」


 そろりとするような声。途端、体がすさまじい勢いで冷めて震えた。背後に大きい目が合って、見つめられるような寒気がする。逃げられないと、体が軋んでいるのを感じた。ぎしぎしと、体が絶望に泣いている。

どうしよう、バレた? いや、動いたときちょっと草が鳴っただけだから、このまま走れば犬と間違えてくれるかもしれない。だってこんなに暗いもの。見えるはずがない。そう、逃げなきゃ、だって、だって痛いのはこわい。

 足に力を込める。頑張れ自分、そう、運動会だ。母親が見に来た運動会の、リレーのアンカーみたいに。

「……っ!」

「あっ」

走るのは苦手だけれど、一心不乱に走っていく。走らなきゃ狩られる。せめて街まで、人がいるところまで行けば。

どうしよう。あの人、どうなるんだろう。助けられなかった、自分のせいで、自分がこんな弱い臆病者のせいで。違う、だって、だって逃げるのが最善で、もう許して、なんで、なんでこんな思いしてるの……!


「……あーあ、逃げられちゃった」


背後から、特に残念そうには聞こえない声が聞こえる。

 ああこれは、自分の罰なんだと思い知った。

それも風でかき消すように、ネズミのように駆けて逃げた。



               ■



「じゃあ私は学校と反対の方を探しますから、赤居さんは学校の近くを探してくださいね」

すっかりやる気満々なアキハを尻目に、ため息で返事をした。こんなに早く起きたのは、いつぶりだっけか。ご老体に無理をさせるなんてこいつサドか。……ご老体は朝早いんだっけか、俺まだ若いじゃんやったね。

「はいはいはいはい……で、見つけたらどうすんの。人目のつかないとこに誘き出す、でオーケーですか」

「そうですね、あと絶対電話して下さい。赤居さんの能力は人をぼっこぼこにするだけなんですからね」

「失敬な。……まあ、異常を消す異常なんて、お前しかいないだろうな」

「えっへん!」

「口に出すと頭悪そうに聞こえるぜ」


 軽口を叩きながら街に出る。あーやばい明るさとこの朝独特の冷えた空気ってマジ嫌い。俺にはこの世界は明るすぎる、ていうか世界のインテリジェンス組には。

 適当なところでアキハと離れて、昨日行った聖幸に。でもなあ。探すったってこの辺わかんねえし。この辺に朝飯食えそうな場所ってあんのかな。ていうかこんな時間に通学路をぶらぶらしてるおっさんって、かなり危なくないだろうか。さすがに職務質問とかはご遠慮願いたいんだが……。

「……ん?」

そこそこ人が増えてきた辺りで、ふと見覚えのある姿を見付けた。清楚っぽい膝下までの長いスカートに大和撫子代表男の憧れロングな黒髪、大人しそうな顔は青白く今にも倒れそうで――。

「って、九重ちゃん!?」

「……へ……」

か細い声は更にか細く、マジで倒れそうだった。え、なに、朝が弱い子ってこんな倒れるくらいになんの? いやいやいやないないない、これはそう、確実にぶっ倒れそうな時の様子です絶対。

「あ……、えっと、赤居、さん?」

「そうそうそう赤居さん! ていうかマジ大丈夫? あの、何て言うか、もの凄く心配する程度にはふらっふらですけど」

そう言うと九重ちゃんは少し驚いた顔をして、けれど少し、ほんの少し嬉しそうに笑った。

「……昨日、あまり眠れなくて。心配して下さって、ありがとう、ございます」

そのままぺこりと頭を下げて、その勢いで倒れそうになる九重ちゃん。その礼儀正しさは本当凄く偉いと思うし褒めてあげたいんだけども、今はどうやらそれどころじゃなさそうだ。

「えっと、九重ちゃん? 悪い事は言わないから、帰った方がいいと思うぜ。それかちょっとどこかで休んだ方がいい」

「え……なんで、ですか?」

「いやだから、具合が」

「いえ、そうでなくて。……なんで赤居さんが、そんなにわたしなんかの事、気にかけてくれるんですか?」

……驚いた。そのセリフが出ることにも、どうやら本気でそう思っているらしいことにも。

「そんなの。九重ちゃんが好きだからに決まってるだろ」

「!」

心底驚いたように、九重ちゃんは大きな黒曜の瞳を丸めた。こういう言葉、言われたことがないのかなってくらいに。その後じわりときれいに滲んで、それから凄く、凄くやわらかい笑みを浮かべた。

「――……ありがとう、ございます。わたし、その、すごく、怖いことが、あって」

「うん、……とりあえず、どっかで休もうか。木陰がいいな、歩ける?」

九重ちゃんはこくんとうなずくと、俺を信じて歩いてきてくれた。さて、アキハへの言い訳でも考えておくか。



     ■



 学校付近にあった、ひと気のなさそうな河原に歩く。そこに九重ちゃんを座らせて、俺はコンビニで肉まんとココアを二人分購入。

「食える? 朝ごはん食った?」

「あ……いえ、なんだか、食べられなくて」

「ばかお前、朝飯は食わないと一日ダメになんぞ。俺みたいに。ダイエットしてるんなら止めなさい、十分細いから。むしろもっと太ってもいいぜ、ちょっとぽっちゃりな女の子のがモテるって友人が言ってた」

河原に座って肉まんを食う女子中学生とおっさん。なんつうシュールな光景なんだろう。通報されないことを祈る。

 それにしても、こんな俺にも心配されちまうようなふらふら具合なら、親が心配しただろうに。

「お母さんとお父さんには、相談しなかったの?」

「……はい。父と母は、わたしに興味がありませんから」

おっと地雷だったか。察してやれよ俺、この馬鹿。

「どんなことがあっても、わたし学校に行かなきゃいけないんです。だって学校を休むと内申点に響くし、テストで良い点取れなくなります。それにわたしが休むと、みんなに迷惑がかかるんです」

「迷惑?」

「掃除をわたしの分もしなくちゃいけないし、プリントを回すときもわたしの机に一枚いれて、それからその後ろの人に回さなくちゃいけません。それに授業でわたしが当たるべきだったのを、わたしがいないとわたしの代わりに誰かが当たっちゃいます。それにもし内申点が下がったりテストで良い点が取れなかったりして、いい大学に行けなかったら親に恥をかかせることになります。推薦って、出席日数が少ないと貰えないことがあるんです」


 ……確かにそれは、事実だ。けれどなんか、なんて言ったらいいかわからないけど、何かそれは違う気がする。


「……俺もまあ、中学生だった時があるんだけども」

「はい」

「中学って、出席しなくても進級できるだろ? それって義務教育だからで、高校になったら出来なくなるわけよ」

「はい」

「だから俺、ぶっちゃけ中学は欠席した日にちより登校した日にちを数えた方が早いレベル」

「はい。……えええ!」

おお、驚いてる驚いてる。九重ちゃんみたいな真面目っこからしたら、俺のこの英雄譚は未知の世界なんだろうなあ。

「そ、そ、それって、ほとんど中学に行かなかったって事ですか?」

「まーね。だって中学つまんなかったし、それよりも大きなものがあったから」

正しくは、中学なんか行っている余裕はなかった、だけども。

「国語も理科も数学も社会も英語も、なーんも興味がなかったワケよ。ていうか、勉強自体に興味がなかった。だからたまに中学に行っても、勉強しに行くっていうか、なんつうかそうだな……ダチに会いに行ってた、つう方が正しい感じ」

「友達に……ですか?」

知らないことを習うように、九重ちゃんは語尾を上げた。そうだろうなあ、九重ちゃんは真面目に勉強をするために行ってそうだ。もちろんそんな奴一人もいないって訳じゃないだろう。けれどこの時代、こんな子がいるなんてすごく珍しいことだと思う。勉強中寝たことがない奴って、今この世界に何人存在するんだろう。


「九重ちゃんは、今学校楽しい?」

「……、た、楽しくなくても、行かなくちゃ……」

「楽しくないんだろ? 俺だって、九重ちゃんと同じ理由で学校に行ってたら、楽しくないと思う」

言葉を飲み込む声が聞こえた。多分図星なんだろう。

「視点の問題だって。何のために学校に行くか、その視点を少しずらしてみればいい」

「視点、を?」

「まあ俺みたいに友達に会いに行くためでもいいし」

そう言うと、九重ちゃんは少し表情を曇らせる。そう、この理由は、大半の人にあてはまるだろう。けれど中には、友達を作りたくても作れない奴だっているはずだ。

 身体的な理由で、輪から蹴りだされてしまう奴。

 内向的な性格で、輪に入れない奴。

 ただ偶然厄介な奴の目にとまってしまって、いじめの標的にされてしまう奴。

 理由なんていくらでも挙げられる。けれど教師や友達がいて学校生活を堪能している奴は、揃ってこう言う。


『お前が変われば友達は出来る』


 馬鹿な話だ。変えたくても変えられない奴ってのは、本当にいるんだ。人間簡単に変われたなら、どんなカオス空間になることだろう。

 大体奴らが、今まで輪にいなかった自分より下の人間を、簡単に仲間に入れるはずなんてないのに。


 けれど、そんな奴らにだって、学校を楽しむ方法があるはずだ。そうだな、例えば。

「あとはまあ、人間観察とかな。これはまあ好き嫌いわかれちまうけど。俺の友達の場合、教師観察とかしてたなあ」

「教師観察、ですか?」

おや。ちょっと興味がおありか。

「そうそう、教師観察。聞いた話なんだけどな。ほら、一人はいるだろ、口癖がある教師の口癖カウントしたり」

「あ! それ、よくクラスの男子がしてます」

「だろ! あと例えば、授業中に問題を出すタイミングとか、その教師が問題を出す前にやる癖とかないかとか探すんだよ。それと、問題を出す傾向、指名する生徒の傾向、時間帯の傾向とか」

「そ……それって、凄いですけど、時間かかりませんか? 全部やるとしたら、一年あってやれるか……」

「そ。だから俺の友達は、俺がいなくても学校は楽しかったって話」

「あ……」

ついでにその統計ができた時、偶然クラスメイトに見られて話ができて、そっから友達ができたんだっけ。教師が転勤しない限り後輩にも受け継げるし、あいつは今や母校の伝説となっている。

「もうな、統計が少しずつできていくと楽しくて仕方がないらしいんだよ。これは多分経験しないとわかんねえ感覚だけどさ」

「……すごい、ですね」

「あ? うんまあ、あの情熱はすごいとしか言いようが……」

「そうじゃなくて」

それだけ言って、九重ちゃんは少し考え込んだ。その表情がどこか何かを思いつめているみたいに見えて、俺は少しだけびくりとした。

「そんな風に考えられる人が、いるんだ」

「へ」

「……わたし、そんなこと考えもしなかった。もうどうしようもないことなんだって、それだけ悲観して、この状況を悪いものとしか見れていなかった。視野が狭かったんです。わたし、そんなこと思わなかったから。ただどうにかして、逃げだしたいって」


 それは、普遍的な考え方だ。誰だってそうだ。人間の自分を守るための機能にだってあるくらいだ。逃避、は、人間の本能だから。


「えへへ。……わたし、昨日の夜、すっごく怖い思いをしたんです。でも、なんだか少し、楽になりました。

 …赤居さん。あの。こういうこと、赤居さんにお話しするのも、どうかと思うんですけど……聞いて、下さいますか。わたしがこういう視点になってしまった、理由」

「おー。どーぞ」

「……わたし。お母さんが嫌いなんです。お父さんも、大嫌いです」

きゅ、と、九重ちゃんの手が、奇麗なロングスカートをつかんだ。


「わたし、小さい頃から体が弱くて。こんな性格だから、友人もいませんでした。家に帰ってもお父さんもお母さんもいなくて。わたし、ずっと一人だったんです。

 病気で苦しい時も学校で嫌なことがあった日も。お母さんもお父さんも、いませんでした。でもわたし、がんばれました。お父さんとお母さんは仲がよくて、わたしが頑張ると二人でよく休日に、遊びに連れて行ってくれたんです」

小さな小さな、それこそ俺には思い出せないくらいの昔を、九重ちゃんはゆっくりと語る。声はまだ滲んではいないが、水が滴ってきていた。

「楽しかったんです。とても。だからわたし、何があっても学校に行きました。良い点をとって遊んで。時々会えるお母さんとお父さんは、楽しそうにしているんです。

 ――けれどわたし、馬鹿だったんです。だってわたしが二人に会うのは少しの時間なのに。なのにその時間を、っその、時間を、よりにもよって――わたしは、その時間がお母さんとお父さんのすべてだと、思いこんで、しまった」


 何も落ち度はない話だ。子供は、自分の目に見えるものがすべてだと思ってしまう。かくれんぼみたいなものだ。自分が見えないと、相手からも見えないんだって。それが子どもの視野の限界だ。


「二人とも、本当は仲が悪かったんです。それに気づいたのは、三年生の時でした。それに気付かれたのは、五年生の時、でした――」



まだ何も知らないころの話。今のわたしが何でも知っているというわけではないけれど、あの頃のわたしは、本当に無知だった。無知であることは罪である、なんてよく言うけれど、その通りだと思う。多分人間っていう生き物は、生まれて数年後にみんな罪を背負うように出来ているんだ。

わたしは別にそういう宗教には入っていないけれど、わたしの罪は、本当に罰せられるべきだった。だってそうじゃないと、こんなに罪悪感を背負うことになる。

 罪を背負ったと認識したのは丁度三年生のころ。みんなで遊ぼうという認識もみんなからなくなってきて、劣等感や優劣を覚えるであろう時期だった。そうだ、このときは、このときはまだ、無償で魔法でこの不幸を消してくれる神様の存在を、信じていたんだっけ――。



今日は学校で、ひゃくてんをとった。うわばきも隠されてたし、水もかけられたけど、そんなの全然気にならない。だってだって、苦手なさんすうでひゃくてんだもん! きっとおかあさんとおとうさんたくさん褒めてくれるよね!

「……えへへ」

おかあさん、喜んでくれるかなあ。おとうさんも、今度はどこに連れて行ってくれるかなあ。ひさびさにおすし食べにいくかもしれない!

「ただいまー!」

……あれ? おかあさんとおとうさん、いないのかなあ。おかしいなあ、今日はたしか、お仕事終わるの早いって言っていたのに。


 ――馬鹿ね、そこで気付かなければ良かったのに。


 母と父のこえが聞こえる。


 ――無知なのが罪じゃない。無知と気付かなければ良かったの。


「あなた、就職は見つかったの?」

「うるせえ! 俺だってなあ、一生懸命探してんだよ、そんな話此処で出すんじゃねえ!」

「ふん、私に食わせてもらってる分際でそんなことよく言えるわね。ていうか声、大きい。あの子に気づかれたらどうするの?」


 ――無知だと気づいてしまったら、自分のこころの中の神様が気づいてしまう。



「――ひっ、」



 ――ああ九重、お前は本当、罪深い子だね。



 初めて漏らした、幼い悲鳴だった。扉から覗いた父と母の、憎しみの籠った部屋。こんなものが自分の住んでいる場所にあるなんて思わなかった。

 全身の、ありとあらゆるものが、冷たくなって上下に揺すられた気分。吐き気が、する。何もかも、わたしのすべてを否定された気分。

 がちゃん。

 扉の閉まる音。

 それに反応して、おかあさんとおとうさんは、振り返った。慌てて笑顔を作る。このときばかりは、いじめっこ達に感謝した。二人にいじめられているのを隠すために、わたしは笑顔の練習を欠かさなかったから。笑顔だけなら、一級品のものが作れたから。

「ただいま、おかあさん、おとうさん!」

「あらあら九重ちゃん、おかえり」

「テストはどうだった?」

「――」

折り返す吐き気。今まで大好きだったその笑顔が、作りものだってわかったから。こんなものを。こんなものを今まで、本当の笑顔と思っていただなんて。

「ぅ」

「九重?」

「具合悪いの?」

心配そうに問いかけるふり。だてあの人達は、そこから一歩も動かない。

「……大丈夫」

「ん?」

「大丈夫です、おかあさん、おとうさん。

――それより聞いて、わたしね、ひゃくてん、とったんだよ」


 それを聞いた二人は、笑いながら言った。おお、すごいなあ九重は。そうね、今度お寿司を食べにいこうね。あはははは。うふふふふ。

「わあ、すごく楽しみ!」

 気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。

 このひとたちも、わたしも。

 何一つ、本心なんて口にしていないのに、どうして笑っているんだろう。


 ――この、贋作。


 誰かが、呟いた。



 それから、わたしの偽物の生活は始まった。一度演じてしまえば楽だった。だってわたしはいつもそうして来たから。そういえば、わたしも二人を騙していたんだった。

 けれど、それも五年生の時に終わった。

 何がっていうと、そうして偽物の笑いを浮かべる生活が。よろこばしい事と言ったらそうかもしれない。けれどそうじゃないかもしれない。

 あれは五年生の夏。

 わたしはちょっとした、ミスをした。



「お母さん、ただいま」

「あらおかえり九重ちゃん」

「おなかすいちゃった。ホットケーキ焼いていい?」

「いいわよー。お母さんにもよろしく」

「はあい」

お母さんは、やっぱりいつものように笑う。わたしも、出来るだけ優しく笑う。これは家族の暗黙の了解だった。その日は珍しく、お父さんがいなかった。作り笑顔を見るのが一つでいい分、とても楽だった。

けれど、それがいけなかった。あの時いじめに傷ついて泣いていればよかった。そうしたらきっと、こんな事聞かずに済んだのに。

「ところで九重ちゃん」

「うん?」

「聞きたいことがあるの」

「なあに?」

馬鹿だ。わたしは、馬鹿だ。

「アイツは気づいていないみたいだったけど」


 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げ、


「あなた、――あの時、聞いてた?」

「え、」


 母の顔から笑顔が消える。わたしの笑顔が、崩れてしまったからだ。ああ。本当。なんてわたしはバカだったんだろう――笑顔を作れるなら、作った笑顔もわかるのに。それは確かに、わたしが体感していたことじゃない。

 わたしは何も言えなかった。ただ一言、あの、吐き気を催すような、憎しみの顔で。

「なあんだ。やっぱりばれてたのね」

それだけ。それだけ、呟いた。


 一瞬が、本当に永遠に感じる。背中を向ける母。わたしは漸く生き返って、母の背中に縋りついた。

「ね、ねえ、お母さん聞いて。わたし、わたしね、いじめられてるんだ。ねえお母さん、助けて、助けて」

初めて口にした、助けを求める言葉。それを、

「へえ、それで?」

あの一言だけで、母は無に帰す。けれどわたしは無知だから。それを諦めきれなかった。

「き、昨日、小テストひゃくてんだったよ」

偽りでも、笑顔の咲いていたあの食卓を。

「……あのねえ、九重。あなたもう、小学五年生でしょ? いつまでも甘えないでよ。大体いじめられてるのなんか、あんたが悪いんでしょ? どうせあんたがウジウジしてたりしてるからでしょ。……そうよ、あんたが全部悪いに決まってるわ。あんたが産まれてからよ、全部悪くなったのは」

「おかあさ、」

「そのお母さんっていうのもやめて。……気持ち悪い。あんたが産まれてからあの人もクビになったし凄く苦労したわ。ただあの人と共にありたかっただけなのに。あの人がどうしても子供が欲しいって言うから。

 ――あんたなんか、産みたくて産んだんじゃなかったのに」

「ぁ、」


 世界が反転する音が聞こえた。今、目の前の人はなんて言った? この人は母親のはず、子を慈しみ愛し尊び守るはずの母親のはずだ。

 この世でたった一人、無条件で自分に味方してくれる人がいる。はず、だった。


小さい頃から体が弱くて、暗くて人見知りをする性格だった。友人もいなかった。家に帰ってもお父さんもお母さんもいなくて、ずっと一人だった。

 病気で苦しい時も学校で嫌なことがあった日も。お母さんもお父さんも、いなかった。でもがんばれた。お父さんとお母さんは仲がよくて、テストを頑張ると二人でよく休日に、遊びに連れて行ってくれた。


楽しかった。とても。だから、何があっても学校に行った。良い点をとって遊んで。時々会えるお母さんとお父さんは、楽しそうにしていた。

 ――けれど、馬鹿だった。だって二人に会うのは少しの時間なのに。なのにその時間を、っその、時間を、よりにもよって――、その時間がお母さんとお父さんのすべてだと、思いこんでしまった。


 だから、諦めきれなかった。

偽りでも、たった一つの幸せを。



           ■



 九重ちゃんの語りは、一度そこで中断した。瞳からは大粒の涙。俺はその涙を拭うことも、ましてや抱きしめることもできなかった。語られた内容は、視点を変える程度ではどうしようもないことだからだ。

「その時から、笑顔もなくなりました。わたしの目も気にせず、毎日喧嘩しています。おかねのことで蟠りがあるみたいで」

「……」

「わたし、後悔しました。最後まで自分のことしか考えていなかった。逃げていたんです。赤居さんみたいに、無償でわたしを心配してくれる人なんていなかった。……けれど、最近になって、あることを契機に、自分で切り開くっていう道を覚えたんです。けれどそれも、切り開いていたつもりでした。わたし、結局逃げ続けていたんです。辛くて苦しくて泣きそうで、けれどわたし、もしかしたら。もう一度、やり直せるかもしれないって、赤居さんに会ってそう思いました。ううん、やり直したいんです。

 ――あの赤居さん。わたし、」


 空気がやけに冷えた。風にさらわれた黒髪が、まるで闇のように視界を覆う。

 その、中に。ぽつんといる九重ちゃんはまるで、何かに閉じ込められたような。何かから逃げたがっていたような、そんな風に見えた。何故そう見えたのかはわからない。けれど、直感が。理性では言いようのない動物的な勘が、その眼を。恐ろしいものとして、とらえてしまった。

黒一色の瞳は、どこまでも闇。何かに脅えるように、何か恐怖を訴えるように、ただ無機質な瞳が見つめる。

「――あ」

そこでようやく、声を発することが出来て、俺も九重ちゃんもはっとした。


 どうする?


 いや、どうするったって、どうしようもないんだけど。けれど、何でだ?

 今ここで彼女を一人きりにしたら、だめだ。


「九重ちゃん、俺は――」

「え、」

「あ、」

そこでタイミングよく、携帯が鳴った。くそっ、なんだよこんな時に。九重ちゃんに悪い、と一声かけて、携帯を開く。ええと、何だ? ……社長?

「なんだよ社長、もうおつかいはやんね……」

『早く帰ってきて!』

「……は?」

『アキハちゃんが捕まった!』


 ――なんだって?


 一瞬、耳を疑った。捕まっただとか、質の悪い冗談はおっさんには言えやしない。疑う暇もなく、俺はビニール袋を落として立ち上がった。

「おいおっさ……くそっ、九重ちゃん悪い、ちょっと急用が出来た!」

「え……」

真っ白になる頭で走りだす。九重ちゃんには悪いが、事情を説明している暇なんてない。にしても、あの能天気娘が捕まった? 誰に?

「ギロチンしか、ねえよなあ……!」

あいつの力は戦闘に向いていない。となると、ギロチンに捕まったらアウトなのは明白だ。

「おいおっさん! 場所はわかんのか!」

「商店街の公園の隣にあるビル! 携帯から連絡が来たんだけど、犯人に壊されたみたいで何階かはわからない!」

「オーケー、それだけわかりゃ十分だ!」

携帯の電源を落とす。幸い、朝で人は少ない。今なら、どんな速さで走っても、どこぞの妖怪扱いはされないだろう。

「ったく、手間かけさせやがってあのガキ……!」


 かちん。

 スイッチを、ひとつ入れる。

 血が沸騰して、頭がふわふわ熱くなる。顔がにやけそうになるのを必死で抑え、俺は駆け出した。俺という人間は、なんでこんな力があるんだろう。こんなだから、多分リレーとか嫌いだったんだろうなあ。

 風景は、まるで川のように流れていく。

 今俺は、多分世界で一番はやく走って、人の努力を嘲笑っている。



        ■



 ――本当、馬鹿みたい。

 何を期待していたんだろう。誰かに許されたかったんだろう。こんなの、誰にも許されるはず、ないのに。



      ■



 辿り着いたのは、本当に廃れきったビル。多分ウチの会社といい勝負してるだろうくらい廃れてやがる。なんて気の毒なビルだ。……いや、この場合気の毒なのは俺だったか。

「って、んなのいいや。おおいアキハ、生きてるか!」

まあ返事は当然のように返ってこないわけですが。

 ビルの内装はひどく汚くて、ところどころにクモの巣が張り付いている。こりゃ本当にネズミの一匹や二匹いそ……おっといかん、ヒーローラッツ様と及びその信者にキレられてしまう。外から見た限り、五階建てくらいか。まったく、なんでこんな場所放置しているんだか。こんなだから異常者のいい隠れ蓑として使われるんだ。

「アキハー?」

先ずは一階。敵の気配はなし。いや俺気配とかわからないけど。こういうのは俺の分野じゃbないんだよなあ。俺の分野っていえば、モノを探すよりひっ捕まえてぼっこぼこにするくらいだもんな。


 入ってすぐに目に飛び込んできたのは、でかいフロアとカウンター。昔は何のビルだったんだろう。関係ないし興味もないけど。

「アキハー? ……あ、やべ。もしかして声とか出さない方が良かったかな。これ敵に居場教えてるようなもんじゃね」

むう。一階一階虱潰しに歩いていくしかないか。なんつう非効率的な。

「頭脳派の俺には考えがたい所業だな……」

……。

 ああ、ツッコミがいないとさみしい。

「……おっと。もう終わりか」


 一階のフロアの探索はすぐに終わった。あったのはカウンターと歯科検診とかのポスター、それから観葉植物。それからカウンターの中には百円で買えそうなライターと、燃やして暖を取るらしい紙くず、トイレ用品とか生活用品、毛布。――の、中に。まるで最近誰か女子学生が使ったような、整髪スプレーやコンビニのゴミなどもあった。どうやら不断桃子は、ここで生活していたらしい。整髪スプレーはまだ真新しいものだったし、コンビニのレシートはここ最近のものだ。女子ってこんな時にまで髪の毛整えたりするんだなあ。なんかそういうとこ尊敬するわ。

そしてその、暴力事件が起こってから失踪し、毎日学生を襲える範囲にいる不断桃子の住み家に、アキハを攫った犯人が逃げ込んだ。

「……はあ。俺って女運ねえのかなあ……」

どうも俺の近くには可愛いけどちょっとアレは女の子が集まるらしい。アキハをどうやって攫ったかはわからない。が、何故攫ったか、というと、……不断桃子がギロチンだから。そう結論づけると全部つじつまが合うんだよな。女子のリーダーってんだから、取り巻きの子が一人くらい不断桃子に情報をリークしてそうだ。たとえば、黒髪とピンク髪の男女が、暴力事件の犯人探しをしていて不断桃子の情報を聞いていた――とか。そういう情報が不断桃子に渡ったなら、俺達を抹消しようとするのもおかしくはない。

 ……ん?

 あれ、俺。なんかやっぱり、何かに気づいてなくないか? いや、気づいてないんだから何に気付いていないかとかはわかる筈がないんだが。なんかこう、決定的な違和感がある気がする。

「っと……そんな場合じゃないか。階段階段……」

二階へと続く階段に上がっていく。うう。この暗さといいなんかホラーゲームをやっているような感覚だ。だってなんかうすら寒いし。できればもう二度とこんな場所には来たくはないな――、


「――え、」


 あと、一段と言うところだった。二階の隅、本棚の影から飛来する、鈍い銀の光を放つ六つの鉄。そりゃもうきれいなくらい、俺に向かって一直線に向かってきている。まるでそう、抵抗できない死刑囚の首を狙う、

「ギロチン……っ!」

心臓が冷え切るのをなんとか暖めて、階段を蹴った。一つ目、二つ目と壁に刺さったが、五つ目だけ運悪く腕を掠めた。ああ痛い、マジちょっと泣きそうなくらい痛い。二の腕付近から血が滴るのを感じる。でも今は、恐怖の方が勝っていたからなんとかなった。だって階段を上っていたら突然直径十五センチメートルくらいの刃が飛んできてみ。しかも六つ。まったく、マジで。俺じゃなかったらそれなりにヤバかったぞ。

「く、そ……ッ!」

そのまま目の前にあったデスクに隠れるように転がり込む。ちょっと待て、落ち着け俺。こりゃ洒落にならん。ちょっと冷静にならないと、下手したら腕の一本持っていかれるかもしれない。

 まずはそう、位置の把握。

「……不断桃子か!」

デスクの蔭にしゃがみ込んで隠れたまま叫んだ。こつ、こつ、こつ。足跡は三回。どうやら本棚から出てきたらしい。


「……な、んだ。やっぱりばれてるのね」

聞こえてくる震えた声は、昨日の昼間聞いた中学生のそれだ。やっぱりあのくそ生意気な女の子が、不断桃子だったらしい。よし、この程度で声が震えるんだ。ちょっとゆさぶりをかけておこう。

「それは、アキハをさらったことが、か? それとも、お前が暴力事件の犯人であることが、か?」

「うるさい! やっぱりあんたたちアタシを探していたのね! アタシが犯人だと思って、アタシをどうするつもりなのよ! あああああもう気が狂いそう、恵美子も小百合も理恵もアタシを信じない! 美佐だけ! クラスメイトもみんなアタシを疑ってる! 唯一味方してくれた先島くんもアタシが犯人だって思ってるに決まってるのよ、だって、だってああああ、先島くんはアタシがやったんだもの……!」

「……?」

なんだ、どう言うことだ?

 犯人ではないと否定していたがってるように見えて、犯人ですと自白しているようにも聞こえる。

「おいアンタ。悪いが俺はエミコちゃんもサユリちゃんもリエちゃんも知らん。あとミサちゃんも知らん、唯一知ってるのはサキシマだけだ。そのサキシマから連絡があったんだよ、ギロチンにやられたってな。

 で、俺はアンタのこともよく知らんが、アンタのその異常はどうも俺にはギロチンにしか見えんわけだ。

 ――不断桃子。エミコとサユリとりん……リエ? がアンタを信じないとかは心底どうでもいいんだ。俺はアンタと話している。で、アンタも俺と話している。どうか俺にわかる言葉で返事をくれんかね」

「あああああうっさい! うるさいうるさいうるさい! あああああっ、あんたとアタシが何で話さなきゃならないのよ! どうせ何言ってもアタシを信じないくせに! さっさと消えてよ!」

やばい完全にヒステリー起こしてしまった。どうしようどこの選択を間違えたんだ。とりあえず避けるだけならある程度距離があれば出来るが、避けながら近づくのは難しい。だって俺人間だし。

「お、おーけい、話し合いをしようじゃないか不断ちゃ……おおう!」

とりあえず落ち着かせようと顔を出す。その途端また飛来してくる六つの刃。慌ててデスクに隠れてみたが、頭上で刃がどすどす壁に刺さっていった。

 そのうちの一つが、刺さりが甘かったのか目の前に落ちてきた。よくよく見ると長方形の刃はなかなかに重そうだ。それをまっすぐ一気に飛ばせるってんだから、もしかしたらそれが不断桃子の能力かもしれない。

 刃を一度に、六つ量産し。真っ直ぐ飛ばせる能力。

「あり得ないセンじゃ――ん……?」

なんだこれ、血がついてるのか? 何でだ?

 なんだ、どう言うことだ?

 犯人ではないと否定していたがってるように見えて、犯人ですと自白しているようにも聞こえる。

「おいアンタ。悪いが俺はエミコちゃんもサユリちゃんもリエちゃんも知らん。あとミサちゃんも知らん、唯一知ってるのはサキシマだけだ。そのサキシマから連絡があったんだよ、ギロチンにやられたってな。

 で、俺はアンタのこともよく知らんが、アンタのその異常はどうも俺にはギロチンにしか見えんわけだ。

 ――不断桃子。エミコとサユリとりん……リエ? がアンタを信じないとかは心底どうでもいいんだ。俺はアンタと話している。で、アンタも俺と話している。どうか俺にわかる言葉で返事をくれんかね」

「あああああうっさい! うるさいうるさいうるさい! あああああっ、あんたとアタシが何で話さなきゃならないのよ! どうせ何言ってもアタシを信じないくせに! さっさと消えてよ!」

やばい完全にヒステリー起こしてしまった。どうしようどこの選択を間違えたんだ。とりあえず避けるだけならある程度距離があれば出来るが、避けながら近づくのは難しい。だって俺人間だし。

「お、おーけい、話し合いをしようじゃないか不断ちゃ……おおう!」

とりあえず落ち着かせようと顔を出す。その途端また飛来してくる六つの刃。慌ててデスクに隠れてみたが、頭上で刃がどすどす壁に刺さっていった。

 そのうちの一つが、刺さりが甘かったのか目の前に落ちてきた。よくよく見ると長方形の刃はなかなかに重そうだ。それをまっすぐ一気に飛ばせるってんだから、もしかしたらそれが不断桃子の能力かもしれない。

 刃を一度に、六つ量産し。真っ直ぐ飛ばせる能力。

「あり得ないセンじゃ――ん……?」

なんだこれ、血がついてるのか? 何でだ?

 疑問に思い刃を拾おうとした瞬間、俺はつい目を見開いた。刃が、跡形もなく、消えた。

「……驚いた。消せるのか」

「違うわよ、戻すの」

「……ん?」

やけに冷静な声。読み取れるのは自信ってとこか。まあ何にせよ、敵の情報が多いなら大いに越したことはない。ここは大人でかっこいいお兄さんな赤居さんが、大人しくお話を聞いてあげることにしよう。

「戻す?」

「そう、戻すのよ。全部。戻ってくるの。きっと恵理子も小百合も理恵もみんなアタシの傍に戻ってきてくれる、って。きっとこの力は、神様からのそういう、安心してって言葉に違いないの」

つい舌を打ちそうになる。あーあーはい神様にね。ああちくしょう、この場でんなわけねえだろって笑ってやりたい。神様はお前らと俺らで遊んでるだけなんですよって叫びたい。だが抑えろ。抑えるんだ赤居お兄さん。大丈夫だよ赤居くん、だってお兄さんは大人だからね。明らかに夢見過ぎなメルヘン発言も、ぐっと堪えて怒鳴らないでおこうね。中学生の夢を壊すようなことはしない絶対。

「へ、へえ……つまりその刃は……あー、何だ……エミコちゃんとサユリちゃんとリエちゃんみたいに、お前さんの元に戻ってくるってわけか?」

「そうよ。アタシが望めばいつだって」

成程。ついていた血は、さっき俺を傷つけた血ってわけか。うん、どうやらウソやはったりじゃないな。

「しかもアタシが望めばね、まっすぐに飛んでいくの。力もいらない。ただ投げるだけで良いの」

「なある。それなら相手に気付かれずに攻撃もできるし、証拠も隠滅出来るってわけだ。いやあ、つくづく便利な能力だねえ。なんつうかうん、やっぱり。人間として、めちゃくちゃ異常だぜ」


 ひたり。空気が冷えた。やっべ。また失言したかも。


「異常なんかじゃない。アタシは異常なんかじゃない。だってコレは神様がくれた宝物なの、名前だってあるのよ」

「へえ、何てんだい」

「――過程無用(ヒステリック)。アタシの神様は、そう教えてくれた」

「ぶっ、」

ややややややべえええ! ついそのまま過ぎて噴き出しちまった! 一体何のギャグかと思った!

「……何?」

「い、いやちょっと具合がな……続けてくれ」

「……。まあいいわ。

 ――アタシはね。特別なの。だって神様に選ばれたんだもの。わかる? だって普通の人間ならこんなこと、出来ないでしょう?」

そう笑って、不断桃子は再び俺の頭上に刃を投げた。おおう、本当ヒステリックだ。なんつうか、あんなネーミングだと逆に皮肉に思えてくる。や、俺のも十分皮肉だけど。まるで家庭なんてどうでもいいからとりあえずこいつ気に食わねえと、包丁投げる超攻撃的お母様を彷彿とさせるわ。ううん。やっぱり女のヒステリックって怖い。もうあの刃が包丁にしか見えなくなってき――……。


 ん?


 そういえば、アレ? ギロチンって縦に落ちるものですよね?

「つまり」

そんな疑問も、はっきりとした声に振り払われる。いかんいかん。聞いていませんでしたなんつったらアウトだった。

「アタシはね、他の奴らとは違うの。でも異常じゃない。異常っていうのはおかしくてみじめできっとみんなが避けるようなマイナスでしょう? でもアタシのコレは違う。むしろプラスよ。これがあれば誰も逆らえない。全然マイナスじゃなければみじめでもない、アタシは選ばれた、特別なの」

――……なんつう。デスクに隠れてるから顔は見えないが、相当恍惚としているんだろう。声にそれがにじんでいる。

「へえ。じゃあそれ、クラスのやつらにも見せたりしたのかい。下手なマジックよりはびっくりされるだろうから、そういう類じゃニンキモノになれそうだが」

「見せるわけないでしょ、だって」

「疑われるから、か?」

ひゅん。頭上に刺さる刃。なるほど、あっちが優勢だと理解してやがるこの野郎。


「疑われなくても、刃を出せるなんざ普通の人間から見たら十分敬遠対象だ。わかるか? お前さん、普通じゃないんだよ。特別ってのは人間であることが前提だ。で、人間は刃なんか出せやしない。それに操れもしない。それって特別じゃない。お前さん、空を飛ぶ人間を特別だなんて思えるか? 思えないだろう。だってそれは普通なんかじゃないから。そういうの、異常ってんだぜ。

 ――はあ。まったく。アンタもわかってるだろうに、わざわざ言わせんなよ。言ってて俺もさ、受けてんだぜ、ダメージ」

だん、だん、だん。頭上に刺さっていくナイフ。くそう、なんだかネズミになった気分だ。このタイプに貴重な体験はしたくなかった。

「違う。違う違う違う。異常っていうのは人から避けられるべきものよ。アタシは異常なんかじゃない、撤回して」

「やーだね。大体さ、アンタさっきから、いや、最初っから言ってることが矛盾してんぜ。自分は疑われたくないだの、でも自分がサキシマをやっただの。その後は神様に与えられただの言っておきながら、今度は自分は特別だ、自分は神様だみてえなことをぬかしやがる。刃をぶん投げる神様なんざいてたまるかってんだ。

 アンタは異常だよ。

 まあついでに言うと俺もアキハも異常なんだけども。俺はそれを自負してら。だから俺は異常な俺を見られないように努力してる。わかるか、この違い。拒否と受け入れることの違いだ。アンタ、視野が狭過ぎる。まあ中学生だから仕方ねえか。

 大人からの忠告だぜ。逃げてちゃ道は一本しかねえけど、受け入れたら何本も道が現れる。どっちがよりイイか、普通の人間ならわかるんじゃねえか」


 ――ダン!


 一際激しい音と共に、最後の刃が壁に刺さった。ああもう、俺っていっつもこうだ。余計なことしちまうから大人げねえんだ。相手は中学生で、まだこれから更生される可能性があるのに。神様って単語を出されると、どうも冷静じゃいられなくなっちまう。これは悪い癖だな、早急に直すか。


「うるさい」

「ん?」

「うるさいうるさいうるさい……! アンタも神様から力を与えられたんでしょ!? なら! ならなんでそんなことが言えるのよ! アンタおかしいわ! 普通こんな力を与えられたら、自分は特別だって思わない方が変よ! だってこんな力、人にはないのよ! 自分だけの力、特別って思わない方が変よ!」

「……だから、言っただろう。俺は異常だって。まあ、そう思えない所が中学生か。ところでアンタはそのプレゼントとやらを受け取って、何か変わったかい。特別な人間にでもなれたのか」

壁からゆっくりと刃を抜いていく。結構重い。こんなの普通の女子中学生なら投げられないわな。

「それ、は」

「ないだろ? 異常になっただけだ。……さて。果たしてアンタは、自分を異常にしたヤツを神様と呼べるのかい」

引っこ抜いた刃を床に投げ捨てて、立ち上がる。からんという金属質な音を聞いて、上げられた幼い顔。さっきまで恍惚としていたであろう少女の表情は、怒りと憎しみ、それからわずかばかりの戸惑いに満ちていた。

「俺は普通で普通に異常だ。そんなぐっちゃぐちゃな奴だけどな。アンタの言う其れが神様なんざたいそれた物じゃないくらいわかってるぜ。あと、自分が特別なんかじゃないってことくらい」

むしろ俺は劣等だ。だって自分が弱いばかりに、こんな物を与えられちまったんだから。こんな人間とは思えないものを。

「うるさい」

「もっとさあ。いろんな見方してみようぜ。その力を得て生まれたモンはなんだ? 失ったものはなんだ」

「うるさい」

「俺はあるぜ、失ったもの。血のつながった弟だ。血が繋がってんのにさ、不思議なことに誰も弟のこと知らねえの。そりゃ引きこもりがちな奴だったけどさ、親戚まで忘れてるんだぜ? これってちょっとひどいよな」

「うるさい」

「でも、俺の中には確かにいるんだよ。けど道徳的に社会的に世間的に、うちの弟はいないんだ。これってさ、世界から弟を取られたようなもんなんだ。気持ちわかるか? わかんねえか。まあいいや。

 ――で。お前の失ったものは何だ?」

「うるさいッ!」

転がした刃が一瞬にして消える。その瞬間、六枚の刃は不断桃子の指の間に挟まっていた。俺はスイッチを入れる。スイッチを入れて、人間じゃなくなっていく。


 異常になる。


「死ねえええええッ!」

気合いと共に投げられる刃。その一つ一つが、鮮明に見える。人間には見えないものが、見えてしまう。

「……遅ェなあ」

これなら余裕を持って避けられる。

 反射神経に運動神経。体中を電気と熱が駆け抜けていく。

「よ、っと」

「!」

必要最低限のステップで、刃を一つ一つかわしていく。全てかわし終えてから、やっとそれを知覚出来た不断桃子が驚きに目を見開く。俺は次に備える。

 ……ああ、だから嫌なんだこんな力。まるで俺が、人と違うところに生きているみたいじゃないか。

「……はいっと。次はまだか? 何度でも投げてきていいぜ。サーカス団もびっくりな芸を見せてやろう。あ、サーカスっつても刃を受け止めるのは難しいかもな。手が摩擦して切れたら嫌だし」

「な……」

「ん? なんだ?」

そこで初めて、不断桃子が今までにない表情を浮かべているのに気がついた。ああ、なんだってああいうの、確か、恐怖だったか。いかんなあ。中学生を怖がらせたりなんかしたら、通報されるんじゃなかろうか。

「あん、た」

「おう」

「この、ばけもの……!」

再び、指の間に戻ってくる刃。

「……おう。お兄ちゃんは化けものだ。だってそうだわな。世界一速い人よりほんの少し速く走れて、世界一力の強い人よりほんの少し強い力を出せる。あとはそうだな、インパルスってわかるか? アレも人間の限界より、ほんのちょっと早いらしい。俺にはよく科学とかわからんが。

 ――そんなこんなで、人間よりちょっと優れた人間だよ、俺は」

「そ、れが、あんたの、プレゼント……?」

「だあから、プレゼントじゃ……まあいいか。まあ、そんなところだ。確か名前はなんだっけか、人間、だった気がするけど」

まるで本当に化け物を見るような眼を向けてくる不断桃子。あいつの目には世界を壊して暴れるビッグゴリラとかに見えているんだろうか、このイケメンが。そりゃまたなんて由々しき事態。

「アンタ、」

「うん」

「アンタ、人間なんかじゃないわよ。だって人間なら、こんな、銃弾みたいな速さのコレを、避けられるはずがない、じゃない。アンタは人間なんかじゃないわ、おかしい、化け物じゃない……!」

「おう。でもちょっと待てよ不断桃子。俺は確かにこんな体になれるが、アンタみたいに刃を出せたりはしない。外見も攻撃方法も、何ら人間と変わらん。……まあ、人の何年も努力して手に入れた成果を一瞬で得たりするのはなんて言うか、人間じゃないって言うか、鬼畜生だが。でも人間だ。

 対してアンタはカタチこそ人間だが、やることは人間じゃない。それこそ鬼畜生だ。俺とアンタが並んで百人にどっちが鬼かって聞いてら、九十四人くらいはアンタが鬼だって断言すると思うぜ」

そもそも俺の力なんか、ちょっくら人類の最強になれるってだけだ。強い奴が産まれたらそいつよりもほんのちょっと強く。そうして俺はこの世界の誰よりも強くて速くて最強だ。でも、ただそれだけ。


『かみさま、どうか。おれを、だれよりも、だれよりも、――く――』


 ――今考えたら、本当に馬鹿な願いだが。

多分、俺が誰よりも強くなりたいって願っちまったからだろう。だが本当にそれだけだ。手から刃を出して弾丸みたいに投げ出すなんざ出来やしない。ましてやその刃を瞬時に戻すなんて映画の中の出来事にしか思えない。歪ながらも人間のままである俺からすれば、こいつの方がよっぽど化け物だ。

「違う。違う、アタシは、」

「いいじゃねえか、認めちまおうぜ、俺もアンタも化け物だってさ。特別ってよりはやっぱり異常って言葉のがしっくりきちまうが、それでも、他の人とは違うって意味じゃ、特別と変わらないぜ」

「ちがう! アタシは異常なんかじゃない! だってこうなる前はアタシ、クラスのリーダーだったのよ! アタシがルールだったの! アタシが一番偉かったの、だから異常じゃない! 異常だなんてまるで、いじめられてるみたいじゃない! こうなってるのもいつか戻るの、神様がきっと、きっと戻してくれるの! いつかいつもの生活に戻してくれる! だからアタシは、あんな……!」

「九里九重みたいじゃない、ってか」

ぴたりと止まる不断桃子。ああなんだ。いじめっこといじめられっこってことでカマをかけたが、そうだったのか。


 ふつふつふつふつ。黒い感情が湧きあがる。血が沸騰しそうだった。


「九重を、知ってる、の?」

「知ってるも何も、アンタの事は九重ちゃんから聞いた」

「――そう。なんだ、ふふ、は、結局、結局アタシは、あいつに負けたのね、ふふ、あはははは……っ!」

何がおかしいのか、腹を抱えて笑う。その姿はなんだか、かわいらしい少女というより、どっかの童話の魔女みたいだった。

大体気に食わない。自分がルールだのなんだの、神様からプレゼントをもらったとか言う割には、自分が神様になった気分じゃねえか。くそ。こういう奴がいるから俺は大人になれないんだ。

ただ、今の不断桃子には何か、諦めに近いものを感じる。いっちょ交渉するのも手か。俺もなるべくなら、戦いたくないし。決して俺が平和主義だからとかじゃなく、ただ単に面倒なんで。

「……なあアンタ。もうこうしてるのもそろそろ馬鹿らしくなって来ないか?」

「え……?」

「実は俺にはアンタの異常を消すことが出来るんだ。そんなわけで、アンタのその異常を無くして、普通の人間として一からやり直してみないかってこと」

そういうと、驚いた表情をした後、不断桃子は俺に対する敵意をむき出しにした。何かに耐えるようにぐ、と喉で声を潰す。ああ、まるでカエルみてえだ。

「ふざけ、ないで。神様から与えられたコレを消す馬鹿なんているって言うの? 愚かよ。そんなの愚か」

「愚かなもんか。アンタ、腹の底ではこんな能力役に立たないって、こんな力異常だってわかってるんだろう? コレは失うものが大きすぎる。それにアンタは異常に見られるのがお嫌いらしい。なら、こんな能力捨てちまった方が楽だろ」

「それ、は、……違う、だって……アタシが特別だから、みんな」

「そうして自分の非を力のせいにして、逃げてるだけだろ。……そろそろ、さ。逃げるのは止めにしようぜ。こんな力持ってたって、最後には食われちまう。アンタがそうなったのは自業自得だ。いじめなんざ馬鹿な真似したツケだ。だからこれからは真っ当に生きて、まだ長い人生やり直そうぜ」

「ッ、アタ、シ、」

「大丈夫。アンタ若いんだ。このイケメンお兄さんをおっさん呼ばわり出来る程度にはな。だからやり直すなんざいくらでもできる。裏を返せばやり直すなら今しかねえだろ。いつまでソレ続ける気だ」

「――……」

不断桃子の瞳が揺らぐ。ああなんだ。やっぱり、自分でも本当はいけないことをしてるってわかってたんだ。

「やり直せる、の? 本当に? だってアタシ、たくさん人を傷つけてきた。体も心も。許されるはずが」

「けど、謝らねえよりかは何倍もマシだろ。謝って償ってそうして友達になってくれるよう努力すればいい。アンタのしたことは消えないが、これからも続けるよりはずっとイイって、人間であるアンタならわかるだろう?」

 六つの刃が、手から滑り落ちていく。良かった。なんとか思い直してくれただろうか。そうだよな、中学生って根は純真なんだ。この先に明るい未来があるっていうなら、きっと改心してくれるに違いない。やれやれ、今回は食われる前に助けられそうだ。なんせカミサマはこういうマイナスな心はお嫌いだからな。こいつの場合、こんな真っ黒だと真っ先に食い殺されちまいそうだったから。

「よおし、動くなよ。俺じゃなくて、アキハが消す方専門なんだ。アキハは上の階か? ちょっと連れてくるから待ってろ」

「……鍵」

「ん?」

「市販で買った手錠、してるの。だから、鍵」

「あ、ああ……鍵ってまた随分だな……じゃあ、くれるか?」

俯きながら懐を探す不断桃子に、のこのこと歩み寄っていく。なんだなんだ、改心した途端にしおらしくなって。いやしかし、うんうん、やっぱり女の子はしおらしいところがある方が可愛いわ。……ん? あれ、おかしいな、そういえば確か先ほど足もとに、六つの刃が落ちなかったか――。


「ばあか。本当にどうしようもないのね、おっさん」


 え。

「うお、ッあ……!」

「あはははは! 死んじゃえええっ!」

いつの間にか刃を戻していたらしい腕が、懐から爪のように凪いで来る。ひゅん、と、冷たく風を切る音がする。それを間一髪でバックステップを踏んで避けられ――たと思えば、そのまま腕を降ろして今度は六つ同時に刃を飛ばしてきた。完璧な連撃。クソ。女って信用なんねえ……!

「こ、の、年上を騙すとか、アンタ将来いい悪女になんぜ不断桃子……!」

「そりゃどうも! あははは、アタシがあいつらに許してもらう? バッカじゃないの! アタシは悪いことなんかしてないし! だってあいつらムカつくんだもん、ああするのが道理でしょう!」

いい悪女ってなんだ。そんな疑問に答える暇なんてなく、それこそ全力で刃をかわそうとする。が。

「ぐ……!」

いかんせん、不意打ちが完璧すぎた。二本ほど、ほぼ刺さったと言っていいくらい強く、両腕を掠めていく。最初に食らった一撃と合わせて三回。激痛なんてもんじゃない。本当、頭がどうにかなりそうな痛み。この痛みをたった四文字で表すなんざふざけている。畜生、俺が良いやつ過ぎたばかりに!

「は、く、なんつう、訴えるぞこのやろう!」

「ばーか! ここで死ぬアンタに訴えられるわけないでしょ! だってアタシ、証拠も隠滅できるのよ! アンタが言ったばかりじゃない、あはははは!」

その前に俺が死んで訴えてくれるような親族はいないけどな!


 数歩離れて、今度はまたデスクに隠れようと――したが、やめた。完全に殺す気の相手に、あんな身動きの取れない場所に隠れても意味がない。隠れるなら……あの本棚か。しかも一時的に、つまり盾にする程度じゃないと。なんとか距離を詰めねえと負ける。

一旦一階に降りるのも手だが、アキハが――ああくそもう手への装填終わってやがる。あの腕を動かすだけで、またあの弾丸が襲ってくる。


 例えるならば、それはマシンガンだ。

 一度に六発めちゃくちゃな威力の超デカイ弾丸をぶっぱなせる上に、リロードがアホみたいに早いって言うんだ。ただ人間最強の身体能力がある俺程度、その気になりゃハリネズミにされてもおかしくない。ああくそ、なんって卑怯な力だ。こんなん警察が相手しろってんだ馬鹿野郎!


 とまあぐちぐち言ってる間に死んだら洒落にならんってもんで。数歩で一気に飛んで、本棚の蔭へ。このままどうにかして距離を詰めねえと。

「……まるで鼠ね。さて、本棚の左から出てくるのかしら。それとも右から? どっちなの、ネズミさん」

くそう楽しんでやがる。どうする? いっそ本棚をぶん投げるか? いや馬鹿か。その間に危機一髪だ。

「そっちが来ないならアタシから行くわよ」

そりゃ有り難い。右から来れば左から逃げやすいし、左から来れば右から逃げやすい。加えて俺にはこの聴力がある。不断桃子がどっちから来るかなんざ、簡単にわかるってんだ。だがとりあえず悟られないようにしとくか。

「……おお怖ェ。まあ二択の問題なら万が一にも俺が勝っちまうかもしんねえしなあ。御手柔らかに頼むぜ」

耳を澄ませる。大丈夫だ。見て反応してからでも十分逃げられるからな。今はとりあえずアキハだ。アキハがいないとこいつの異常は消せないし、こういった説得だってアキハの方が得意だ。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 ローファーの心地よい音。本棚にまっすぐまっすぐ向かってきている。


 足音が止まる。どうやら本棚の前で止まったらしい。さて、右か左か。どうくるんだ、ギロチンさんよ。

「そういえば、アンタさっきアタシのこと、ギロチンって言っていたわよね?」

ぎし。何かが軋む音。なんだ? もう問答は止めたんじゃなかったのか。ここは答えた方がいいのか。

「まあな、ってか俺じゃなくてサキシマくんが、だけども」

ぎしぎし。

「そう。あいつただじゃおかないわ」

ぎしししし。

「……なあ不断桃子。アンタまさか、本棚押して倒そうとしてる?」

「あら、耳がいいのね」

「アンタは頭悪いな。アンタみたいな細腕で、このぎっしり詰まった本棚が倒せると思ってるのか?」

「そうね、倒せないわ」

ぎ。

「でも」

不意に、不断桃子の声音が変わった。――いや、違う。これは声音が変わったとかじゃ、なくて。


「上るくらいは出来た」


 う、え?

 視覚下時には遅かった。頭上から降り注ぐのは、星のように光る刃。それこそ。まるで断頭台――!

「ちょ、ま……!」

ぎりぎりかわせるくらいなら出来る。とりあえず三階へ続く階段に逃げなければ。となると、出るのは右。

「ッ」

だめだ。頭上で影が右に移動しているのが見えた。不断桃子は右に飛び降りるつもりだ。慌てて左にシフトする。

「くそっ!」

全身全霊の跳躍。これで避けられ、あれ、ていうか、なんでまだ刃が落ちてこないん、だ?

「――アンタなら、避けられると思ったわよ」

振り返ると、六つのギロチンを携えた少女。うそ、だろ。こいつ確かただの中学生だろ? なんで。

 ――なんで俺が避けるとわかってもう刃を戻してやがる……!

「フェイク……ッ!」

「避けれるもんなら、避けてみな、さい……ッ!」

背後にちらつく六つの星。いや、マズイ。さすがにあんなん六つも受けたら、しぬ。弾丸六つぶち込まれて平気な人間なんざいねえ。どうする。早く思考しろ。本棚と壁の隙間。向かってくるギロチン。距離はそれなりにはあるが、俺が地面に着地してから再び跳躍する速度と、弾丸が撃ち込まれる速度。どっちが速い。

んなの目に見えてる。脚が床についてるならまだしも、さっき全身全霊で跳躍したばかりだ。体は宙。これから着地すんのに。出来でも体をひねるくらい。

「や、べ」


 あれ。俺、しぬ?



「くそ!」

「え?」

ここまで来たらもうやけくそだ。無茶苦茶に体をひねって、本棚を蹴り飛ばす。その瞬間本棚はぐらりと揺れて、

「――うそ」

刃は、本棚より早く落ちてきた本に突き刺さっていく。そのまま本棚と本の海に飲まれていく刃。

「おおおおおラッキー……!」

もうちょい距離が短かったら確実にやられていた。だが安心はできない。だって刃は戻せるんだ。あの中に埋もれたからって安心なんざ出来ない。

 畜生、とりあえず一階に一旦逃げるしかない。予定変更だ。なんとかあの刃を使えないようにしないと、俺に勝ち目はない。


 だが、どうする? あの刃をどうやって使えなくする? しかも六つも。

 鉄……といえば、錆びらせる? いやいやいや、錆びらせるってどうやって。時間なんかない。じゃあ、溶かす? 馬鹿か、鉄が溶けるような熱がこんな場所にあるか。じゃあ折る? むりむりむり。刃を捕まえても手に戻される。一発で粉々にするしかない。けどそんなのどうやってやるんだ。


「逃げるなあッ!」

「うっひょう死ねる!」

いかんいかん追ってきたし! くそっ、焼却炉! それくらいしか望みはねえ! こんなでかいビルだ、外に焼却炉くらい……いやここ廃ビルだぞ稼働してんのか! 気絶させるったってえあんなの相手には無理! 俺は人間!

 

 とりあえず、このままでも死ぬわけで。慌てて一階に駆け下りていく。

 どうする。どうするどうするどうする。ここで死ぬなんか洒落にならん! ていうかアキハ放置したままだし!

 しかもあの戦闘能力。確実にアレが進んできている。まずい。あのままじゃあいつ、食われちまう。いやその前に俺が殺されちまうんだってば。ったく、人を殺すなんて簡単に言っちゃだめだろ。神様は本当そういうの大好物なんだからさ!

「っしかしどうするかねえ……ッ、アレ本当人間としてはチートだろ。ったく、なんで俺が小娘に追い詰められなきゃならんのだ! 大体誰がおっさんだ! お前も何れはおばさんになるんだよばあか!」

「聞こえてんのよ!」

階段を降りるかわいそうなネズミに一閃。や、ちょ、本当、マジで洒落にならんですよ!


「学校で人に刃物を向けちゃだめってならわなかったのか! もしくは人に刃物を銃弾のごとく同時に投げちゃダメだって習わんのか!

「習うわけないで、しょ!」

ひゅん、だすん。哀れ俺の代わりにハリネズミになる壁ちゃん。お前の死は無駄にしないぜはにー。

「なんつう職務怠慢だ! これが日本の教育事情か嘆かわしい、俺は嘆かわしいよ不断桃子よ!」

「こんな時にまでふざけてんじゃないわよ!

 そうよ、教えてくれない大人が悪いんじゃない! 一と一の足し方だとか昔の偉い人はどんなことをしただとか葉っぱには葉緑素があるだとか! そんなこと教えないで、もっと教える必要があることを教えればよかったじゃない!」

違う。それは、

「ちげえよ! そういうのは親の仕事だ! なんでもかんでも教師に押し付けるなってんだバカ!」

「さっきと言ってることが違うじゃない! アタシにはどっちも同じよ! 親も! 教師も! アンタもそうよ! 大人なんて全員一緒! 誰一人アタシに何も教えてくれなかったし気にかけてくれない!

 アタシが悪いんなら怒ってよ! 叱ってよ! ダメだって教えなさいよ! なんで誰も何も言わないの! どこまでやれば誰かがアタシに教えてくれるのよ!」


 それは、不断桃子の心の叫びに聞こえた。思わず一瞬足を止める。

 確かにいじめっこは悪者だ。だけど、どうしていじめっこがいじめっこになったのか、考えたことなんてあまりない。

 ああそうだ。これはアレに似ているんだ。正義の日曜ヒーロー話。


「そこッ!」

「うわ!」

が、それも刃の音で中断される。思わずカウンターの中に潜んだ。くそ、なんで今になってそんなこと言うんだか。まさか俺が慈悲深いってばれてんじゃねえだろうな。まさかこれも作戦か?

「逃げるばかりで芸がないわね、お兄さん」

「……うへえ」

今の俺の情けなさと言ったら……。さて、どうしよう。ちょっとだが、奴に同情しちまった。いかんな、非常にいかん。人間の動力と言えば感情なのに。その感情を若干ばからあっちに持って行かれちまった。まさかやっぱり俺に同情させる作戦だったのか。

 ただでさえ相手は女子中学生ってんで戦いにくいのに。これじゃちょっと人類最強? って感じだぞ俺。

 いやでも、こっちがあっちを悪だって決め付けちまってたのは事実だ。それだけじゃない、俺は、あいつを。

「なあ、不断桃子」

「なに」

「アンタまさか、犯人じゃないのか」

「!」

息を飲む音。動揺しているのが耳で感じられる。

「なん、で」

「いやな、そういえば俺はアンタが悪い悪いって決め付けちまってたことを思い出して。それであんな口論しちまって、本当に悪いと思ってるよ。大人げなかった。ああだがカミサマ云々は全力で否定するけれど。

 なあ、アンタは本当に犯人なのか? 俺はそれが聞いておきたい。その異常はアンタのためにもきっちり消させていただくが、それはそれで心持やらが変わってくるからな。真犯人を見付けなきゃなんねえし」

言い訳をするようだが、放火犯のいる場所で放火が起こったようなもんだったから。ついそのまま疑ってしまっていた。

 ひょこりと顔を覗かせると、不断桃子は一度だけ涙をこぼして、

「ええ。だって先島くんは、アタシがやったことになってるの」

それだけ告げた。

「――そうか」

カウンターから体ごと出す。どうやったかはわからないが、あの疑問の答えが見えてきた。


 ――……そういえば、依頼書にはセーラー服とだけ書かれていた。調査をしたら真っ先に名前が挙がる程度には有名な「不断桃子」ではなく。ターゲットに姿を見られないように暴行したのか? それとも、姿が見えない時間に? ……何か一つ、俺はまた変な思い込みをしているような……――


 あの時感じた疑問。俺の思い違いなんかじゃなかった。本当にただの、思いこみだった。なんてくだらない。


「――そうか。悪かった。犯人はお前じゃなかったんだ」


 ソレに手を伸ばす。使えることは実証済みだ。威力はよくわからんが、アレに一瞬当てるくらいならなんとかなるだろう。一瞬で良い。一瞬、アレに当たれば。

「……はあ? 違う、わよ。何言ってるの? 言ったでしょう、アタシは。アタシは先島くんを」

あとはタイミングだ。確実にこっちのタイミングで、あの刃を全部こっちに投げさせることさえ出来れば。

「……、ああそうだな。お前は異常で化け物だから、お前が犯人だ」

「!」

「あー! それと今まで黙っていたが、お前」

「なに、よ」


――余談だが、この手の人間って本当挑発に乗りやすい。


「中学生にしちゃあ胸小さいよなあ! くびれもねえし本当色気がねえぜ! もっと中学生って幼いなら幼いなりの色気があるんだがお前はそうじゃないよなあ! マジロリコンでも手を出さねえレベルだ!」

「……、……な」

急速な勢いで冷えて行く辺り。だだ漏れていく殺気。ソレを持つ手がつい汗ばんで、震えてしまった。

「なんですってええええええ!」

「うおッ!」

ものすごい怒号と共に、鋭い刃が飛んでくる。何とか超速反応してソレを不断桃子に――正確には、不断桃子から発せられる刃に向ける。思いっきり頭のスイッチを押して、ライターに火をつけた。

「いけええええええッ!」

「な――」

吹き上がる炎。無論、焼却炉の炎なんかじゃ決してない。以前なんかの番組で、一人一度は見るような方法。

 そう。溶かす方法なんかなかった。アレは不断桃子の元に戻ってくると聞いた。その証拠に少し前、俺は俺の血がついたままの刃を見ている。

 刃をなくすことばかり考えていた。そうだ、わざわざ無くす必要はない。そのまま戻るのであれば、持てなくするってだけで十分過ぎた。

「やば、い――ッ!」

不断桃子もそれに気付いたのか、慌てて刃を戻す。残念だったな。お前は賢いから、本当にぎりぎりのタイミングでやらないといけないってわかってた。


「アンタの言葉を借りるなら――アンタなら、気づけると思ったぜ」

俺が避ける手間もなく、刃は不断桃子の手へと戻っていく。俺はさすがに至近距離での熱に耐えられず、ソレを――整髪スプレーとライターを落としてやった。

「あつッ……!」

鉄の伝熱は早い。一瞬炎に炙られただけの鉄でも、途端に熱くなってしまう。不断桃子は思わず刃を落とし、そのままきっと、俺をにらみつけた。

「……刃を放った後戻すしかできないんだろう? アンタ、いっつも刃を放った後曲げたりは出来なかった。それに発射する時いつも一度手に握っていたな。まあもし刃を戻す以外にも操れるってんなら俺の負けですが。どうだ?」

おおよそ俺の言い分が正しいのだろう。不断桃子は悔しげに唇を噛みながら、唸るように口を開いた。

「――アタシを、どうする気?」

僅かだが、脅えが見える。やれやれ、俺はそんなに悪人に見えるのか。

「どうもしねえよ。異常を消したら終わりだ。大体アンタは犯人じゃないだろう、後は友人に弁解するなり謝るなり好きにすればいい、アンタの人生なんだから。俺は警察じゃないしカミサマでもない。人の人生にああしろこうしろだの介入する権利なんぞねえよ。さあその異常、きっちり壊させて貰うぞ」

まあアキハがいなけりゃなんもできないので、アキハを呼ぶしかないんですが。不断桃子は諦めたように溜息を吐いて、降参とばかりに両腕を上げた。どうやら本当に俺の勝ちらしい。ふう、ひやひやした。

「じゃあアキハんとこ行くぞ」

「……ねえ。どうしてアタシが犯人じゃないって気づいたの」

「逆に聞くがどうして犯人だと名乗った? 先島だけは本当にアンタがやったってわけか?」

ふるふると首を振る。だろうな。こいつは多分、犯人から逃げていたんだろうし。


「……アタシが犯人って噂を聞いて、学校に行けなくなったの。犯人はアタシに恨みを持ってる。だからアタシ、いつかやられるって。怖くて怖くてここに隠れてた時に、この力に目覚めたんだけど。

 ……携帯にね、先島くんから電話があったの。先島くんがやられた次の日。昨日の用事はなんだったんだって。聞いたら、アタシの名前で靴箱に手紙があったらしいの。相談があるから聖幸河原に来て下さいって。先島くん、なんていうかお人よしだから」

怪しまずに行っちゃったわけか。

「だからアタシが、アタシが先島くんをやったようなものなの」

「だが他の奴はやってないんだろう?」

「そうね。……だけど結局アタシが引き起こしたようなもんよ。だってアタシがあの子を追い詰めたんだもの」

……ん? そう言えば何か聞き逃してはいけないことを聞いたぞ?

 犯人はアタシに恨みを持ってる?


「……いや、待て。不断桃子。まさかと思うがアンタ、犯人を知っているのか?」

「え。なによアンタこそ知ってるんじゃなかったの? だってアンタ、あの子の味方をしてるんだから、だからアタシてっきり」

味方? 俺が? ――まさか。

「その、犯人、って、」

「何言ってるのよ、くの――」


 瞬間。何かの力によって目の前で不断桃子の体が吹き飛ぶ。飛んできた方向は入口の方。そこには。


「やめてください。あなたに名前なんか呼ばれたくない。あんな親につけられた名前も、わたしには大切なものなんです」

今時珍しい、ひざ下のスカートに、染めたことなさそうな黒く長い髪。お淑やかに綺麗に佇む少女は、それでも強くきっぱりと言い放った。

 どうしてこんなところに? なんて言える立場じゃない。だって彼女は俺が引き止め、俺がさっきまで話していたんだから。


「――九重、ちゃん」


 つい声が細くなる。今彼女が吹き飛ばしたのか? 俺にはどうも不断桃子よりももっと細く 頼りない腕で、殴ったようにしか見えなかったのに。

「ええ、九里九重です赤居さん。さっきぶりですね。ああ、そんなにお怪我をしているではありませんか。その女にやられたのですか? とても、とっても痛そう、大丈夫でしょうか。あいにくと今日は救急箱がないので手当はできないのですが、本当、九重は役に立たない女ですみません」

恭しく頭を下げると、黒い髪が肩から滑り落ちた。どこからどう見ても大和撫子にしか見えない、人畜無害そうな彼女。その彼女が、どうやってこんな、ことを。

「九重ちゃんが、犯人?」

「そうですよ探偵さん」

やわらかな笑顔であっさりと肯定される。だめだ。黒い感情が湧いてこない。うそだろ。よりによって分が悪すぎ――、

「ッ……!」

やべ、え。眩暈までしてきた。出血してんのに動き過ぎたんだ。

「……赤居さん」

「ア、?」

「ごめんなさい。わたし、だますつもりはなかったんです」

「……は、いいよ別に、騙されてねえし。嘘つかれてねえし。お前が犯人かって聞かなかったお兄さんの落ち度だ」

「うふふ、……赤居さんって、まけずぎらいですね」

ああ畜生、可憐に笑う反対側で不断桃子のむせる声がする。マズイ。鉄の熱が冷める前に、アキハに診せてやらないといけなかったのに。

「……俺をどうすんの、九重ちゃん」

「見逃してくれますか?」

「そいつは無理だ。生活かかってるし。それに俺がなんとかしないと、お前も不断桃子も死んじまうぜ」

九重ちゃんの進行速度がわからないが、不断桃子は確実にやばい。早く消してやらないと、消えてしまう。

 ていうかそれどころか九重ちゃんの能力すらわからない。くそ、二人も生徒が異常になるなんざマジどういう教育方針してやがる。

「とにかく俺はお前も不断桃子も助ける。なあ、その力、消してみたいとは思わないのか」

「思いません。わたし、強くならないと。またいじめられるのは嫌です」

「不断桃子はもう俺がきっつい説教かましたから大丈夫だ。もう九重ちゃんをいじめる子はいないんだよ」

「赤居さん」

空気が凍る。さっき感じた冷えた空気より、数段上。くそ、マジで、今はまずいって。


「わたし、ネズミ捕りになりたかった」

「え?」

なんだって?

「わたしの夢です。ネズミ捕り。やられたら問答無用でやりかえす、あの姿勢はわたしの心を強く鷲掴みました。ああ、なんてかっこいいんだって」

そりゃすばらしい趣味の持ち主だ。座布団三枚あげたい。

「闇夜に紛れて外敵を討つなんて、どこぞの仕事人みたいで凄くかっこいいじゃないですか。例えそれが使い捨てでも、ううん、使い捨てな分、まるで命がけで討つみたいで余計かっこいいと思うんです。あの無感情な鉄の冷たさに、凄く憧れました。

 そんなわたしの謙虚な願いを、神様は叶えてくださった」

――また、カミサマか。俺おれ詐欺に引っ掛からないでくれよ。

「だからわたし、戦うって決めたんです。じゃないと道は開けないから」

「うん、立派な思想だ。いいと思う。だが戦うってもぼこすのはないだろう」

「なんでですか? わたしが今までされた事を返しただけなのに」

う。確かに。悪いのは完全にあっちだ。でもどうにかして消したいって意志を持たせないと消せないしなあ。くそ、説得なんかむいてない。


「ああ、復讐はいいと思うよ。それでけじめがつくならやりなさい。復讐なんて、復讐される側に非があるんだから、復讐は悪いことじゃない。だがサキシマはいい奴だって、そんなことするような奴じゃないって、教えてくれたのは九重ちゃんだぜ? 何故サキシマをやった? 不断桃子だと偽って呼び出してまで」

少しだけ、九重ちゃんの顔が曇る。けれどすぐに、いつものやわらかい笑顔になった。

「先島くんは、わたしがいじめられるのを黙って見ていたからです。それとまあ、不断さんが犯人だと確信が増すから、ですかね」

つまり最初から不断桃子を犯人に仕立て上げるつもりだったのか。そうだよな。そうじゃなきゃ、怪しい奴って聞いて真っ先に名前を出さない。結果不断桃子は居場所を無くし、代わりに九重ちゃんがいじめられないっていう居場所を手に入れたってわけか。

不断桃子が悪人だって知ってる生徒たちが、信じるのもわかる。暴行事件が起こったら真っ先に疑われるのは今までも暴行を起こしていた不断桃子だ。そして不断桃子も、自分が疑われるに値する人間だと理解している。

「……はあ。まさか俺がやり込められるなんてなあ」

「ふふふ、わたしの勝ちですね赤居さん」

「――いいや。お前を倒せば俺の勝ちだ」

最も、それしか道はないけども。きっと話し合っても異常を消す意思を持たせるなんて出来ない。ならちょっと痛い目見てもらって、アキハにどうにかしてもらうか――最悪、おっさんに頼むしかない。何にせよここでやられる訳にはいかないし、弱らせないとアキハのとこについて行ってはくれないだろう。


「無理ですよ。赤居さんより、わたしの方が強い」

「なんでだ?」

「ちょっとだけ二人の戦いを見てたからです」

「なら尚更、力がどうであれ場合によれば勝ち負けが変わることくらいわかるだろう。断言すんのはなんでかな」

九重ちゃんは困ったように笑う。そして。

「わたしの方が赤居さんより強い、そのままですよ。わたしの力も身体能力の向上。それとおまけが付くんです」

そのまま一度目を覆う。背けたくなる漆黒。なんだ? 人類最強決戦でもしようというのか。視力なら俺だってよくなる。

「神様は名前をつけて下さりました。ネズミ捕りギロチン。それがわたしの名前です。

 ああでも、こんな。こんな目で、赤居さんを見たくはなかったのに――」

漆黒が俺をとらえる。その瞬間、ぞくりとした何かが体を襲った。なんだ、九重ちゃんは普通に俺を見ただけだ。なのに、なのにどうして。

 ――こんなにもおぞましい悪寒がする――!?


「ち……ッ!」

とりあえず俺も能力を引き上げる。嘘だろ、こんな、なんつう寒気。おかしいだろ、相手はただの女の子だぞ。不断桃子と闘った時とは比べ物にならない寒気だ。本当に殺されかねないって戦慄。

「マジで、化けやがったな九重ちゃん……!」

女は化けるもんだって聞いてたけど。九重ちゃんは返事もせずに、瞳をぎらりとぎらつかせる。くそ、目つきが完全におかしい。おかしいって言うかなんて言うか、もうネズミを狩るときの目ですよ。

 一瞬で駆けてくる九重ちゃん。やばい、目では追えるが俺のスピードに限りなく近い。しかも。

「はッ!」

「うわあ!」

カメレオンが獲物を捕食するような素早く躊躇いのない蹴り。この容赦のなさにちょっと冷や汗が噴き出る。こんなの普通の女の子が出来るか。だって完全に、俺を殺す気の蹴りでしたよ……!?

「まさか、」

「……」

俺を敵としか見えない能力があるんだとすれば。いや、ただの敵じゃない。それこそものとかそういう、壊しても別にいいし同情も働かないってレベルの。もしそうだとすれば、俺がこうして九重ちゃんを九重ちゃんとしか見れない限り、理性の部分で俺の負けだ。だって女子中学生をマジ蹴りなんて出来ん。しかもあんな話を聞いてしまった女の子を、だ。

 くそう、せめて不断桃子みたいにカミサマについて存分に語らせとけば、こんなことにはならなかったのに……!

「九重ちゃん待て! まずは話し合わないか!」

「……」

「うおおキャッチボール! キャッチアンドリリースプリーズ!」

だめだ完全に詰んだ! 全然反応しないし! アレを解除しないとどうにもならん!

 逃げるのが精いっぱいで、とりあえず不断桃子と反対側に逃げる。さすがに殺人はやらせちゃだめだ。今の不断桃子ならあっさり殺せてしまう。

「くっそ、これ俺かなりのピンチなんじゃねえのうおっと!」

「……」

やばい本当にふざけてる暇もない。俺はどうすればいい。なんとかして揺さぶるしかない、このままじゃ勝てん。

「こっ、九重ちゃん! 言ってたよな、変わるって! 視野が狭かったって! もう少し視野を広める気はないか! たとえばお兄さんは全然敵じゃない上にイケメンだとか!」

どごん。すさまじい音がして、カウンターが吹き飛ぶ。盾は使えないようだと冷静に分析っていうかピンチ過ぎて逆にハイになってるのを抑えてる。

「くそう、本当に勘弁してくれよ!」

もう一回百円火炎放射機を使ってみるか? いや無理だ、そんなことしてる間にやられる。相手が俺より遅ければまだなんとかなるが、相手は俺と変わらないときたもんだ。何かを使っての奇襲は難しい。かと言って素手の戦闘に持ち込めるかと言えば自信がない。

 しかも。

「うおっとお!」

「ち」

本当に容赦がない。例えるならあれだ、ビンが開かなくてガンガン叩いちゃう感じ。そのレベルで俺を見ている。

 何とか避けてはいるが、もう足もがくがくだ。火炎放射は無理でも、ライターをダイレクトに投げつけるくらいなら!

「喰らえッ!」

「ふん……」

おおう手で払われた! すげえ! いや俺にも出来るけどってことは九重ちゃんにも出来ますよね俺の馬鹿!

 とりあえずあの能力の理屈を考えなければ。目で見た瞬間にこっちを敵と認識した。声を聞かせても駄目。だが不断桃子に攻撃をしかけないのはなぜだ? 最初に不断桃子を殴ったのは、不断桃子を敵と見なしたからじゃないのか? 

 そうだ、あの時も俺に攻撃してこなかった。つまり能力は一人にしか使えないってことか。今の標的は俺。

「そこ……!」

「いっ!」

鋭い蹴りが脚を掠める。それだけですさまじい痛み。もう満身創痍に近いってのに、それでも攻撃は続いていく。

 血が噴き出していく。いかん、体が冷えてきた。手先はもう冷え症の冬並みの冷たさだ。人類最強でも、こんなに長時間出血し続けたらまずい。血を作る速度を速めるったって元がないと作れない。俺の力はあくまで人間の範囲なんだ。無から有を作り出すなんてそんな化け物みたいなこと出来ない。


 どうする。視野を広めろ、俺。九重ちゃんに話したじゃないか。視野を広めないとって。そうだ、こうしているうちに俺の出血が酷くなる。年寄りが出血しながら戦えるか。もう視界がやばいんだって――。

「……視界」

――そうか。視野を狭めるべきだったんだ。

「今すぐ目、覚ましてやるからな……!」

不断桃子に感謝しよう。季節は春。ちょっと肌寒いくらいの季節。

 さっきライターを拾った場所に向かう。あった。やっぱり見間違いじゃなかったんだ。なんとか毛布を拾って、後ろから殴りかかってくる九重ちゃんに振り向く。このまま、視界を塞いでやればいい――!

「悪い!」

「あっ……!?」

上から毛布をぶっかけて、視界を塞ぐ。動物のように暴れる体を抱きしめて、ありったけの力で叫んだ。

「俺だ! 赤居だ!」

「!」

大声を出したせいか、血がぶわりと噴き出した。腕の中の動物はびくっとおびえたように体を震わせた後、急に大人しくなる。

 目で見る必要があるってことは、敵だっていうのは目でしか判断できないってことだ。読みが当たって本当良かった。ていうか本気で危なかった。

「赤居さ……? な、なんで? なんでこれが解かれて、なんで、わたし、負けた?」

「ああ負けだ。九重ちゃん、なんでこんなことをしたんだ。その力は本来九重ちゃんには必要のないものだろう」

九重ちゃんは答えない。なんでこんなことをしたか、なんて、俺もよくわかっている。だって聞いてしまったんだから。


「わたし」

毛布の中からくぐもった声。悪いことをして押入れに隠れてるガキみたいだ。

「わたし、いやだった。いじめてくるみんなも、おかあさんもおとうさんも」

その声音はどこか幼い。いや、そもそも。中学生なんて、大人が思うよりもずっと、ずっと幼い生き物なんだ。

「だからわたし、自分で解決しようって。おかあさんもおとうさんも、いつも言っていたんです。自分のことは自分で解決しなさいって。だからわたし、解決しようとして。でもわたし何もできなくて」

子供は幼いが、本能は狡猾だ。子供はそういうタイプの子を的確にかぎ分けて、そして標的にしていじめる。

「にくかった。いえ、憎く思えなかったから嫌だった。ずとずっといじめられるわたしが悪いんだって思ってた。けれど。けれどどこかで憎みたかった。

 わたしをいじめる人もわたしのいじめを見逃す人も。

 皆を憎みたかった。憎めたらきっと楽だった。そうじゃないとわたしはわたしを憎んでしまう」


 俺が思うに、否定されがちだが憎しみって感情は必要なものだ。だって誰かを憎まないと感情は自分の内にたまってしまう。溜まった感情は体の中で暴れて行き場をなくす。そうなるとどうなるかは想像がつくだろう。


 自分を破滅させるか、他人を破滅させる。


 けれどそんなことよりも、自分を嫌いになるってことが恐ろしい。自分が操作している自分を嫌いになったら、後は誰を好きになれるっていうんだろう。

「でも出来なかった。わたしには人を憎む勇気がなかった。わたし、本当に誰かを憎むのが怖かったんです」

「……その時来たのが」

「神様、です」

「ちっ」

本当に人の弱みに付け込むのが上手い奴だ。なんつう卑怯な。

「神様にお願いしたいんです。ネズミ捕りになりたいって。そしたら神様は叶えてくれたんです。だからわたし、せっかく神様が力を授けてくれたんだから、行動しなきゃいけないって。だから、」

「復讐をしたのか」

黙り込む九重ちゃん。無言は肯定というけれど、確かにそうらしい。

「……でもそれは、結局神様のためだろ。自分の力で何かをしないと、自分のためにはならない」

「赤居さ……」

「神様なんかに頼らなくても、お前ならなんとかなるって。俺が保証する。俺じゃ足りなかったら俺の相方にも保証させてやるよ」

「――……」

毛布が動く。毛布の中でうなずいているんだろう。良かった、無事に異常を消させてくれそうだ。


「……っ」

いかん、本格的にふらふらしてきた。視界がかずむ。ちょっとこれはまずいかもしれない。とりあえずアキハに任せるか。

「……悪い、ちょっと危ねえからそのまま聞いてくれ。いいか九重ちゃん、その力は危ない。何れ九重ちゃんは死んでしまう」

「え……?」

死という単語に怯えている。ああそうだ、死ぬのは誰だって怖い。俺だって怖い。

「その力はいつか自分を食ってしまうんだ、いいか、三階にいけ、そんでピンク頭のやつに消してくれって頼め。なるべく早く。

そこにいる不断桃子も連れて行ってくれ。頼――、」


 その瞬間。背中に何かが刺さる音がした。


「え――?」

理解が遅れる。深々と何かが突き刺さる感触。ぶしゅん、となにかが噴き出す。心臓がやたらと速まっていく。

「あは、」

何かの笑い声。

「あはははは、あははははは!

 ざまあみろ! ざまあみろざまあみろざまあみろ! アタシよ! アタシがやった! あははははは、アタシが神になったのよ! あはははは、はははははは! 神様に、アタシに逆らう人間なんてみんな死んじゃえばいいのよ!

やりなおす? バッカじゃない!? アタシがあんなクズに許しを請うなんて出来るわけないでしょ!

あは、あははは、あははははは! 馬鹿な大人も死ねばいいの! あはははは、ついでに九重ぇ、クズのくせによくやってくれたわね! アンタは大人しくアタシのストレス発散道具になっとけばよかったのに! あはは、アンタも殺してやるからあああッ!」

狂気じみた声すら、フェードアウトしていく。体の力が入らない。やべえ、うそだろあ、俺コレ、もう、やばいかもしれな、


「あか、」


 か細い声が聞こえる。ああくそ、こんなとこで死んでる場合じゃねえ、のに。こんなとこで死にたくなんかねえだろ、なあ、――。


「あああああああああああああああああああああああああああああ!」


 感情の波が押し寄せていく。ああ畜生、生に縋るのが精いっぱいだなんて。なんて情けないヤツだ。

 意識が落ちていく。

 背後でいただきます、と聞こえたのと、ほぼ同時だった。






「いてててててて、いってえっての!」

「男なんですからこのくらい我慢してください!」

っつってもいてえってもんは痛いんだっつの! 

 ……という俺の叫びもむなしく、アキハは俺の体にぎゅうぎゅうに包帯を巻きつけていく。こいつ包帯の凶暴性わかってねえ! ていうか優しさのかけらもねえ! 暴力反対!

「ふざけんなレディならもっと優しくしろ!」

「まったく、助けたのは私なんですから私の言うこと聞いて下さいよう」

「横暴か!」

「王様です」

「暴君か!」

「ぼう……くん……?」

「馬鹿か!」

暴君ぐらいわかれ! 下手したら中学生でもわかるっての!


 まあ、確かに俺はこいつに助けられたらしい。すっげえ不本意だが。俺は見事に背中に刃をぶっさされた後、アキハがすぐに駆け付けてくれたのだ。そんで運んでもらった、と。ううう、男が女の子に運ばれるなんて。もうお婿に行けない……。

「ったく。縄解いてたんならもっと早く来いよ。こちとら二連戦で死ぬとこだったんだぞ、えいうか気持ち的には何回か死んだ」

「私が行っても足手まといですもん。私の能力は異常を知覚して異常を消してあげることが出来るってだけですもん」

「……へえへえ」

まあ確かにアキハを守る余裕はなかったけども。けどこう、男としては女の子の声援とかで頑張れるんだよわかんねえかなあ。


「……アキハさん、それくらいにしてあげないと、赤居さん本当に死んでしまいますよ?」

がちゃりと扉の開く音がする。黒い髪を靡かせながら、やわらかく笑った。おお、何たる天の救い。

「九重ちゃあんアキハがいじめるよう」

「い! いじめてなんかいませんよう! っていうかまさかそれ私のマネですかあ!? 似てないにもほどがある!」

「ふふ、二人ともお茶どうぞ」

「「わあーい」」

アキハとユニゾンしてしまったのは不本意だが、茶は美味い。こいつもこのくらいお淑やかならいいのに。レディと書いて淑女だし。九重ちゃんがレディとして、こいつは怪獣だな怪獣、着ぐるみが似合いそう。

「いやあ悪いねえ九重ちゃん、いつもいつも」

「いえいえ。これがわたしのお仕事ですから。……わたしには、これくらいしか出来ませんし……」

九重ちゃんはさみしそうに目を伏せた。九重ちゃんはもうネズミ捕りになれない。俺はこれでいいと思ってるけど。

「これくらいしか、じゃありませんよう」

「え?」

「私こんなにおいしいお茶いれられませんもん! だから九重ちゃんはすっごいんです!」

「あ……」

二人して顔を見合せて笑う姿は、俺から見てもほほえましい。実際九重ちゃんのお茶は美味いし。

「そうだな、アキハのお茶は本当にまずいってレベルじゃねえもんな。なんであんな苦味しかないんだか……」

「……肯定すべきはそちらじゃありませんんん!」

「いてててて! だから包帯引っ張んな!」


 笑い声が響く。ったく、怒るに怒れねえじゃねえか。


「あー、何て言うか」

「?」

「生きてて良かったなあ」

「――……」

あの後。俺は気絶してしまったけれど、アキハからこう話を聞いた。

 ――これが、真実の結末だ。



                   ■



「ア、 え、う、そ、」

それは漆黒という表現すら生ぬるい黒だった。全ての色を足して足して足して、ぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような黒。鮮やかさなどない。混濁した闇。

「ひ、い」

不断桃子の殺人衝動を受けた神様が、覚醒した。

「いや、え、なに、あたし、」

闇は体にまとわりついて離れない。離れるはずがない。それは不断桃子自身であり、本質なのだから。

 九里九重は毛布を外し、それを目の当たりにする。この世の黒という黒を集めたかのような光景。とたんに吐き気がした。あの日、親の作り笑顔を見たときよりも酷い吐き気。思わずえづいてしまった。

「や、ここの、え、助け、おっさ、え、いや、」

何が起こっているかは分からない。分からないが、それがマイナスなことだという事だけは理解出来た。

否。

あんな黒、マイナスでないわけがない――。

「いや、な、何、え、あたし、え、え、え、やだ、ここのえ、助けなさい、よ、早く、なにしてんのこののろま、早く、」

その中に、ひと筋の光が燈る。まるで何かが舞い降りたかのような光。それこそ天の助けだと云うに値する光。が。

「いや、あ、あ、ああ、ああああああああああああああああ、ああああああああ」

その光が降りた、その瞬間だった。不断桃子は叫びをあげる。

何が起こっているかは、不断桃子には判らなかった。わかる筈がなかった。それは神が起こした所業なのだから、人知を破たんしていた。

故に怖かった。

何が起こっているかはわからない。わからないが、心だけやけにざわざわとざわつき恐怖に狂っている。

「いやあああああああああ、ああああ、なに、なんなの、あああああ、あああああああああ、いあああああああああ!」

「……ッ」

九里九重は動けない。助けようとは思うのだ。だが体が動かない。何かに縛り付けられたように動かないのだ。それは恐怖。理解できないことが同級生を襲っている。恐怖を感じない人間がいるだろうか。

「とうこ、ちゃん」

かろうじて、それだけ出た。でもそれだけ。あとは何もない。



 突然、光と闇が混じって弾けた。

 何もかもが逆行するような感覚。


「いや、――!」

「あ」

一言発する前に、不断桃子は消えた。

「え、……なん、で?」

人間が。人間一人が、跡形もなく消えた。何かの魔法だろうか。立ち上がろうとした時、ようやくアキハが駆け付けた。

「そこの子、大丈夫ですか!?」

「え――」

突然現れた女の子。けれど上から来たということは、赤居に関係がある人かもしれない。そう判断した九里九重は、すべてを話した。

 不断桃子のこと。

 不断桃子が消えたこと。

 自分が犯人であるということ。


 けれどアキハは、九里九重の予想とは違う答えを返した。


「不断桃子? 誰ですか?」


 消えたんだ。そう直感した。社会的に人道的に世間的に。不断桃子という人間は、かかわりの深い九里九重の脳内にだけ残り、この世から、存在してもいいという権利を世界に剥奪されたのだ。

「あ――い、え、あの、」

「それよりあなたの異常消しと赤居さんの手当! いくら赤居さんが人類最強の自己治癒が出来ても、所詮人間なんですからね!」

「あ、は、はい!」



 無論その後、赤居にも不断桃子のことを話した。けれどやはり、

「不断桃子? 悪い、誰だ?」

との返答。結局不断桃子のことを覚えているのは、九里九重一人になったのだ。



「……しっかし本当に思い出せねえ。だがまた救えなかったんだな、俺は」

「赤居さんのせいじゃありません。わたしのせいです」

「……」

不断桃子、とやらと九重ちゃんの関係。俺と不断桃子が戦っただとか、すべて聞いた。

 だがやっぱり思い出せなかった。

 神様はほぼすべての人間から、その人間を消していく。俺も例外じゃない。今まで仕事で出会い救えなかったやつら、全員覚えていない。

 俺が覚えているのはただ一人の弟。そいつだけ。

「……かなしいですね」

九重ちゃんが呟く。

「桃子ちゃん、大嫌いでした。けれど誰も覚えていないなんて、悲しいです。本当に、本当にこの世から消えてしまったなんて」

「……九重ちゃんが覚えてる限り死んだってことにはならんだろうよ。けれどそれは、罪を背負うってことだ」

「わかってます。……桃子ちゃんはわたしのせいで死にました。だからわたしは、一生桃子ちゃんのことを覚えて、罪を背負って生きていきます。そうしないと、桃子ちゃんが報われません」

九重ちゃんが言うには、自分が余計な事をしたから悪かったらしい。俺には不断桃子は九重ちゃんがどうやるにしろ考えは変えなかっただろうし、九重ちゃんが悪いとは思えんが……不断桃子を覚えていない俺には何も言えない。

「……そうだな。誰かが覚えてねえと、本当にそいつは消えてしまう。まあだからこそ、どこの世界でも死者はちゃんと悼むんだろうけどよ」

それが人間としての感情だ。ただの機械にもネズミ捕りにもない。人間や生き物だけの優しい感情。

「……さてと。じゃあ俺はおっさんのとこに行かねえと。そういや九重ちゃん、本当にいいのか? 家じゃなくてこんなとこに住んで。ほんっとうに何もねえし、なんつうか本当家って感じしないだろここ」

「いいんです。わたし恩返しがしたいんです。それに家族とはもう絶縁しましたし」

「……へ?」

絶、なんて?

「あれ、言っていませんでしたっけ? わたし、絶縁したんですよ。まあ戸籍とかそういうものの上では家族なんですけど。

 あの後家に帰って、二人を説得してみたんです。けれどやっぱり二人の仲は良くするって意志もなかったし、二人の間に意思がないならわたしが何をしても仕方がないじゃないですか。ですからもう、わたしもう家から出ていきますって、親に絶縁状書いて叩きつけてきました。今はバイトをしながらなんとか」

あっけらかんと話す九重ちゃんの表情は、ものすごく清々しい。そんな表情で絶縁しましたなんて何ってさわやかに言うんだ。

「ま、マジで? ああ、じゃあここしか寝どこないのか。いやなんつうか、九重ちゃんって本当アクティブだな」

「ぜ、ぜつえん……」

「ふふ、赤居さんのおかげですよ。赤居さんが視野を広げろっていうから、わたしがんばって考えてみたんです。どうしたらいいかって」

「お、おれのせい……」

……まあ九重ちゃんがいいならいいか。いいのか悪いのかなんて九重ちゃんにしかわからないし。


ところで今更だけども、アキハはなんでそんなに不機嫌なのかな。

「あのおアキハさん、なんか怒ってます?」

「……女の子」

「へ?」

女の子がどうかしたのだろうか。俺の記憶では、アキハは確か女の子という存在が好きだったはずだが。

「今回女の子ばっかりじゃないですか。しかも九重ちゃんの話だと、みいんなに優しくしたとかなんとか」

「……はあ?」

そんなの俺が決められるわけじゃない。今回は無理やり押し付けられた感じの依頼だったし、そもそも依頼に誰が関わっていたかなんてわからないのだ。

「そうですね。赤居さんは少し、女の子全員に優しくするっていうのをやめた方がいいですよ。わたしもそう思います」

「えええええ?」

こ、九重ちゃんまで! な、なんでだ意味が分からん。が、とりあえず何か凄くまずい気分。

「あ、あー、とりあえずおっさんのとこ行ってくるわ!」

「あ、逃げたー」

「逃げですねー」

「うっさい小娘ども!」

そのまま逃げるようにおっさんの部屋に向かう。ううん、なんか俺、前より居心地悪くなってないか。



               ■



「やあいらっしゃい赤居くんこのたらし野郎」

「病人になんてこと言いやがる鬼かアンタは」

相変わらずへらへら笑いながら、おっさんは俺に片手を振った。たらしなんてひどい言い掛かりだ。訴えてやろうか。勝てないけど。

「まあ九重ちゃんを迎え入れてくれたことには感謝するけどよ。アンタが一発で許してくれるなんて思わなかったぜ」

「だってかわいいし。っていうか聞いてよ。ネズミ捕り全然ネズミ引っ掛からないんだけどこれ不良品?」

「ネズミなんか最初からいなかったんじゃねえの。

……仕事は達成だ。あーなんだっけか、不断桃子? て奴が食われた。これは完全に俺のミス、……だと思う。悪い、不断桃子のことを覚えるのは不可能だった。犯人は確保したから、もう被害はないはずだ」

「そうだね、学校の方にいろいろ確かめてみたけれど、もう被害はないみたい。で、報酬なんだけど」

「あー、待て。ちょっと待て」

確かに俺はこの事件は解決した。だが話によると、不断桃子は助けられなかったらしい。それは俺の落ち度だ。

「報酬はいらん。九里九重に回してやれ」

「え、また?」

「またってなんだ」

「いや。ジリ貧なのによく報酬を辞退するやつだなあって」

うるせえうるせえ。なんつうか俺の仁義とかそういうのに反するんだ。

「あ、でも生活費一万くらいは欲しい」

「……かっこわるいねえ」

「ううううるううううせえええ! 仁義で飯が食えるか!」

「なんのことなの」

はい、と差し出された一万円を受け取る。ああ俺今月頑張らねえと。一万で生活なんてテレビ取材されそうだ。

「まあいいさ、今回はいろいろ学んだからな」

「ふうん、どんな?」

「……視野が狭くても悪ィけど、視野が広すぎて目の前のことも見落とさねえようにしないとってことかな」

悲しいことに、それ自体は某むかつくモモヒヒザルの受け売りだけど。あいつは結局のところ年上だし、ムカつくが正しかった。

「そんなこと今頃学ぶなんて、いやはや赤居くんもまだまだ子供だったんだねえ。言うこと可愛くないから忘れていたよ」

「うっせおっさん。学ばないよりはいいだろ」

アホらしい会話を終えてさっさと出て行く。あんまこんなとこいたくねえし。俺はおっさんに恩があるし尊敬もしているが、好きではないのだ。そんなことを仲間に愚痴ったら、そういうところは子供なんだなって笑われた記憶がある。

 その時はなんだとこらって反論しちまったが、今思うと俺、まだまだ子供だったんだなあ。

「おつかれえ赤青くーん」

「なんだそのあだ名、ったく」


 だからそれ、流行らねえっての。



         ■



 小さなころ、大切な弟がいた。おれは弟が大好きだった。けれど弟は死んだ。おれが弱かったせいで守れなかった。

 ああ神様。どうかおれを、誰からでも弟を守れるように、誰よりも強くしてください。



        ■



 小さなころ、おかあさんもおとうさんもあたしに興味がなかった。なにをしてもあたしの方を向いてくれない。友達もいつかはみんな消えてしまう。

 ああ神様。どうかあたしのともだちと。それからおかあさんにおとうさんを返して。あたしがかみさまになれば、いいのかなあ。



        ■



 小さなころ、おかあさんとおとうさんはわたしが嫌いだった気づいた。ともだちもともだちじゃなかった。

 ああ神様。どうかわたしに、彼らを憎む力をください。



         ■


 かみさまは、みんなのこころに住んでいるんだよ。

 誰かが教えてくれた言葉。神様はみんなの心に住んでいて、そして助けてくれと頼んだらきっと手を差し伸べてくれる。

 けれど神様は殺生が大嫌い。けれど本当は大好物。

 神様が殺戮を許さないんじゃなくて、神様は殺戮を食べるのが大好き。それは神様にないものだから。


「いただきます」


 今日もどこかで、神様の食事が行われている。そして。


「いってきます」


 今日もどこかで、神様と戦っている人がいる。


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