祭
目の前では狐の面を着けた男が舞い踊っている。
激しく身を振り、足を踏み鳴らし、実に楽しげに熱を放っている。
人々がそれを見て笑顔を浮かべている。
じいっと舞に見入る者、調子に合わせて歌う者、好き勝手に踊る者、酒を酌み交わす者、無邪気に戯れ合う者、睦まじげに身を寄せ合う者。
様々な人間が、それぞれに笑顔を浮かべている。
何を喜んでいるのかは分からない。
豊穣を喜んでいるのかもしれないし、ただ祭りの熱に浮かされているのかもしれない。
あるいは酔いで訳も無く笑っているのかもしれないし、愛しき者と一緒に居られることを喜んでいるのかもしれない。
それが誇らしかった。
目の前に居る人々が笑顔でいることが誇らしかった。
自分が何かを成した訳でない事は分かっている。
その笑顔を生み出しているのはその人間自身である。
ただ、人々がそうあってくれている事が自分の誇りであった。
◇
結局あの馬鹿は懲りずに翌日も来た。しかし冷たくあしらい、帰れと言うと暫く粘ったものの渋々と帰っていった。
それでもまた次の日に来た。今度は完全に無視をした。しつこく話しかけ、終いには一人で談話を始めたが、無視を続けると日暮れ前にとぼとぼと帰っていった。
そのまた次の日にも来て、すまなかった、気を悪くしたなら謝ると必死に頭を下げてきたが、取り付く島も与えずに本殿の奥に篭もると途方に暮れて階段を降りていった。
それからもしばらくは毎日姿を現し、次々と手を変え品を変え参拝しては帰っていったが、やがて遂にその足が途絶えた。
1日空き、訪れ、今度は3日空き、また訪れ、今度は7日空いた。
奴の独り言によれば、今は家業の花火師の仕事を手伝っているらしい。
継ぐことにしたのかどうか、そこまでは分からない。
しかし、芯の通った良い声をしていた。きっと良き道へ進みだしているのだろう。
きしむ壁にもたれ掛かりながら、ふうと一つ息を吐く。これで良いのだ。
奴が父親と和解した事で、きっと自分は役目を終えたのだ。
この場所は謂わば渡り鳥が羽を休める小さな枝であり、しっかりと体を休めたのならば縛られることなく飛び立たなければならない。
住処には成り得ないのだ。
そして何よりも、このままでは自分があの男を縛ってしまう。
初めてあの男がここへやってきたとき、どれだけ嬉しかったか。
もう二度と手に入らないと、諦めきっていたものが突然現れた。
百年の絶望と空虚が、たった数日で満たされた。
もう十分だ、これ以上ないほど自分は報われた。これ以上は望めない。
あの雨の日。あの男が腹立たしいほどの無謀で山を登り姿を現したあの日。
自分は喜んだのだ。
本気で腹が立ち、心の底からの怒りで叱責したあの時、確かに一番の深いところではあの男がやってきたことを嬉しく思ってしまったのだ。
人々を見守るべき神が、破滅的な信仰を受け入れてはならない。それではただの悪神だ。
きっとこのままだと自分はあの男を食い潰す。
更に満たされたいと思ってしまう。いや、もう思ってしまったのか。
現にあの日の酒盛りで、失ったはずの「痛み」を確かに感じた。
もう誤魔化すことはできないほどに、あの男を求めてしまっているのだ。あの男から与えられるものを受け入れたいと思ってしまっているのだ。
だから、これ以上あの男から奪う前に消えるしかない。
幸い、奴は前に進むことができた。疲れを癒やし、飛び立つ準備はもう整った。
それが自分のおかげだと言ってくれた。
最後の役目を終えることができたのだ。
これ以上望むことは、もうない。
◇
祭り囃子が聞こえる。夢と現の境も不明瞭となったのかとも思ったが、どうやら麓の神社で祭りが開かれているらしい。
打ち上げ花火の音も続いて聞こえてくる。きっと、あの男もそこにいるのだろう。
少しだけ胸が締め上げられるような気もしたが、もうそれも希薄ですぐにどこかへ霧散した。
多分、そろそろだろう。
そう思うと少しだけ気が緩む。人々は麓に集まっている。こんなところに誰かが来るわけもない。
なら、最期くらいは。
ゆっくりと立ち上がり、久々に表へと出る。
日はすっかり暮れ、澄んだ空気の中無数の星が瞬いている。
遠くでは打ち上げられた花火が、丁度視界の水平な位置で見事な花を咲かせていた。
社から少し歩き、見渡しの良い崖の近くに寄る。
眼下からは橙の僅かな灯りが漏れ、それなりの規模の祭りが行われていることが分かった。
花火の音に紛れて聞こえてくるのは人々の声。
温かく、明るい、かつての祭りと変わらぬ声。
思わず、笑みが溢れる。
そして一つため息。
このまま終われば良かったのに、最後の最後でケチが付く。
「――いつまで隠れておるんじゃ、さっさと出てこんか」
振り向かず、後ろにいる人間に声をかける。
もはや見ずとも気配で分かる。そんな人間は一人しかいない。
「……久しぶり」
自分にとって、全てとも言える馬鹿がそこには立っていた。
「仕事はどうした、もう辞めたのか? 根性なしの現代っ子が」
「いや、親父には無理言って時間を貰ってきた。滅茶苦茶呆れられたけど……」
当然だ、祭りに休む花火師がどこにいるというのか。
「……わざわざこんなときに来たんじゃ、言いたいことでもあるんじゃろ?」
「いや、その、ごめん」
何を今更謝っているのか、そもそも何に対して謝っているのかこの男は。
腹が立つ。それを心地よく思う自分にも腹が立つ。
「一つだけ、菊に渡したいものがあって来たんだ」
「……なんじゃ」
ゆっくりと振り向くと、男が取り出したのは一つの紙袋。
こちらに手を伸ばして受け取るように促してくる。
訝しみながら受け取ると、驚くほど軽い。中身は空かと疑うほどだ。
不思議に思いながら袋の中を見る。
暗くて初めはよく見えなかったが、打ち上げ花火の光に一瞬照らされて見えたそれは、ひと束の線香花火。
「その、土産だ。俺が作った、まだそれくらいしか無理だったけど」
「……そうか」
声が詰まる。これを持ってくるために、わざわざ大事な日にやってきたのか。
なんという愚か者か。打ち上げ花火の会場で働くことがどれほど花火師としての経験になるか。
叱り飛ばしてやりたかった。しかし出来るはずがなかった。
頬が緩む。涙が零れそうになる。
寂しかったのだ。一人でいることが辛くて仕方なかった。
この男は、最期まで『私』を救ってくれた。
ボロボロと涙が溢れる。男は戸惑うようにしているが、止めることはできなかった。
袋を握りしめ、胸元へと寄せる。
足音が近づく。目の前に男の姿がある。
肩を抱かれ、身体を引き寄せられた。
拒むことなど出来なかった。歪む視界を、男の胸に押し付ける。
「うぁ――――――」
しがみ付くように男の体に縋り、涙を流す。
まるで男に涙を染み込ませるように。少しでも私を残せるように。
「うああああああああああああああああああああ!!」
続く涙は絶えることなく。
打ち上げ花火が鳴り止んでも、まだそうして男の腕に私は抱かれていた。
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