よう、といつも通りの軽い調子で挨拶をする。

 荒れ果てた建物の中は案の定というか屋根が屋根の体を成しておらず、雨水が流れ込み放題の酷い有様だった。

 大きく開かれた何も無い部屋の片隅の、数少ない雨から逃れられる場所に体育座りをするように菊はいた。

 その目はまるで幽霊でも見たかのように大きく見開かれ、耳がピンと立っている。


「…………な」


「な?」


 口を金魚のようにパクパクとさせて、ようやく音らしい音を搾り出した菊にオウム返しをする。


「なんで来たんじゃ!! 主は!」


 突然の剣幕に、思わず身体が仰け反った。菊はそのまま立ち上がったかと思うと、腐りかけの床を踏み抜かんとばかりに激しく詰め寄ってくる。


「お、おい――」


「こんな雨の中で山を登るなど正気か! 土砂崩れにでも巻き込まれたらどうする! 山道で足を滑らしただけでも大怪我じゃぞ! ああもう、濡れ鼠ではないかこの馬鹿めが!」


 両手で襟元を掴まれ、その小さな身体の何処にそんな力があるのかというほどに引っ張られる。

 突然の叱責と乱暴に思わず文句交じりの軽口が漏れそうになったが、菊を見て口をつぐんだ。


 泣いていた。いつも澄ました顔をしている少女が泣いていた。

 鈴のような声を張り裂けんばかりに荒げ、薄翠の瞳から大粒の涙をボロボロと零して、整った顔を真っ赤に染めてぐしゃりと歪めていた。


 自分でも多少無茶をしたかも知れないとは思ったが、それがここまで少女の心を乱すとは思っていなかった。胸にどすりと何かが突き刺さったような気分になる。

 そっと菊の両肩に手を置く。その身体は震えている。胸に突き刺さった何かが更に深く抉っていく。


「その、すまん。そんなに心配かけるとは思わなかった」


「すまんじゃ、ないわ。うつけ。大うつけじゃ」


 襟元を掴んだ手は離さず、その顔を伏せて胸に押し付けるようにしてくる。

 声はかすれ、その姿は縋っている様にも見えた。

 傘は差していたが、身体はもう濡れていない場所が無いほどに雨に打たれ、服の裾からは雫が垂れて足元に水溜りを作っている。

 このままでは菊まで濡れてしまうと心配になり、軽く身体を離そうともしたが菊は力一杯にしがみ付いて離れる様子が無い。


「ごめん」


 謝ってばかりだな、と思う。

 菊の言うとおり俺は馬鹿で、愚かで、いつも人を煩わせるのだ。

 自分の愚かさが自分に返るだけならば良い。

 だが、そうではないのだ。いつもこうして誰かを傷つけている。


 何度そうして謝っただろうか。

 ようやく落ち着いたのか、菊はようやく体を離して赤くなった鼻をこすった。


「……まあ、今から山を下りるという訳にもいくまい。しばらくここで待つと良い。これほど強く降れば、晴れるのも近いじゃろ」


 顔を逸らせていて表情は分からないが、耳がぴくぴくと震えてる辺り照れているのだろう。背中越しには尾が大きく揺れているのが見えた。


「ん、じゃあこれ。土産だ」


 がさりと、足元に置きっ放しだった袋を持ち上げて差し出す。

 いつもよりも二回りは大きい袋に菊は面食らったようにしながらもおずおずと受け取る。

 今日の土産は日本酒の一升瓶である。味については、酒好きの親父の一押しなので多分問題無いだろう。

 何より銘柄が気に入った。

 その酒は、名を『狐の夜祭』という。


     ◇


 結論から言うと、菊はコップ一杯で酔った。見事なまでに酔った。

 しかも微妙に酒癖が悪かった。


「昔はの、これでも結構しっかり祀られてたんじゃ。この酒の名の通り、夜祭なんかも結構出ての。そりゃあ今麓でやっているような祭りと比べてしまえばささいなものじゃが、それでも毎月子ども達が親と一緒に集まったんじゃぞ。……おい、聞いておるのか?」


「聞いてる聞いてる」


 じっとりとした半目でこちらを睨む菊に疲れた声で適当に返す。

 いつもならば「何じゃその腑抜けた返事は」と文句の一つや二つも飛び出すのだろうが、思考能力が落ちてる菊は満足そうに頷いて話を続けた。


「それに、花火なんかも打ち上げられての。お主のとこの花火師じゃ。ええと……今は何代目じゃったかの?」


「親父は四代目だな」


 ちびりと、プラスチックのコップに注がれた日本酒を舐める。

 程よい刺激が舌と喉を熱くして、脳に薄い霧がかかったような気分である。

 正面でケラケラと笑う菊の肌は一様に桜色に染まっている。

 普段はしゃんとした居ずまいの彼女が、着物を乱し足を崩して、壁にもたれながら酒を煽っている姿というのは中々新鮮であった。

 酔って気分も相当高揚しているのか、何時に無く饒舌じょうぜつに昔話が進む。


「そうじゃそうじゃ、四代目じゃ。お主の家の花火屋も、初代の頃は小さな構えでの。ここの祭事でよく商いをしてたもんじゃ。随分と長く続いてるもんじゃの、余程稼いだと見える」


「何ともありがたい話だ」


 祭りは花火師の稼ぎ時である。丁度親父も麓の神社の祭りで行われる花火大会に備えて忙しくしている。

 そんな時期に僅かではあるが話を出来たのは、雨に感謝するべきなのかもしれない。


「全く、店を大きくしてやった恩を忘れおって」


 ふんと鼻を鳴らして、拗ねたように言う。

 口調からして怒っている訳ではないのだろうが、やはり複雑な想いはあるのだろうか。


「今日帰ったら仏壇に拝む時にきつく言っておくよ」


「……冗談じゃ。別にわしが何をした訳ではない。お主の先祖が、自らの力で勝ち取った物じゃ。場所など、どこでも良かったのだろうよ」


 自嘲的な笑み。悟りきったようなその言葉が、何故かやけに苛立つ。

 苛立ったので、頬を思いっきりつまんでやった。


「いひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!! い、いひゃいいひゃい! ほんひょにいひゃい! ――――なにすんじゃあ!」


 本気の剣幕で怒られた。

 目尻に涙が浮いてるあたり、相当痛かったらしい。ちょっとやりすぎてしまったかもしれない。

 少し気まずく手を離しながらも、しっかりと菊の瞳を見返して口を開いた。


「どこでもいいはずが無いだろう。この神社に、お前に恩を感じていたから、信仰を持っていたからこそこんな辺ぴな場所で祭りだってやってたし、花火だって打ち上げたんだろうよ」


 少なくとも、その時の人々の想いに嘘は無かったはずだ。

 彼女の存在はきっと彼らの支えになっていた筈だ。

 ならばそれを否定するような言葉を、彼女自身が口に出していいはずがないと、そう思う。


 酔いに軽く溺れる頭で、どこまで自分自身が理解出来ているのかも分からない。短い言葉で彼女にどれだけ伝わったかも分からない。

 それでも菊は、瞳を逸らすこと無く言葉を聞き入れて、ふぅと溜息を吐いた。


「……たかだか20年かそこら生きただけの小僧が、随分分かったような事を」


 そう呆れたように呟く彼女の声には、見た目と相反したおごそかな圧がある。間違った事を言ったとは思っていないが、思わずその迫力に気後れする。

 しかし直後、その圧力はあっけなく霧散した。


「……そんな小僧に諭されるとは、いよいよもってわしも耄碌もうろくしたかの」


 皮肉げな笑み。だが先程までとは違う、力のある嗤い方だ。

 人を小馬鹿にした、なのに不思議と腹の立たないどこか痛快な、いつもの菊である。


「折角の酔いも、何だか冷めてしまったのう。全く良き酒が勿体無い」


 不服そうに言う彼女だが、表情にその色は無くむしろ上機嫌に見える。


「しかし、なんじゃ。主も少しはマシな顔つきをするようになったの。初めて会ったは随分と弱虫な童が迷いこんできたと思ったもんじゃが」


 まだ奥に酒気の残る流し目でいたずら気にクスクスと菊は笑う。

 立ち直ったかと思えばすぐ人の突かれたくない場所をほじくり返してくるのだから可愛げがない。

 ただ、それがいつも通りの彼女であることを示しているようで、少し安心する。


「……あの時は、まあちょっと色々追い詰められててさ、人の居ない所に行きたかったんだよな。まさか神様がいるとは思わなかったけど」


 そこでようやく、何故雨の山道を登ってまでここまでやって来たのかを思い出す。


「そういえばさ――」


「うん?」


 きょとんと可愛らしく首をかしげこちらに向き直る菊。


「親父とさ、久々に話したんだよな。本当にちょっとだけで、上手く言いたいこと言えたって訳でもないんだけど……でも、ちゃんと話して、謝れたんだ。そんで、親父もぶっきらぼうにだけど応えてくれてさ」


 それまでの事情を全て話している訳ではない。

 きっと菊は事の顛末の半分も知ってはいないだろう。

 それでも、言葉足らずな俺の独白の一つ一つの意味を理解しようと、真っ直ぐに聞き入れてくれていた。


「多分、そう出来たのは菊のお陰なんだよ。逃げこんできた俺を迎え入れてくれて、話を聞いてくれて、喝を入れてくれたから俺は親父と話が出来たんだ。だからそれが嬉しくて、とにかく礼が言いたくてさ……まあ、それでまた怒られちまったんだけど」


 酔った勢いもあり、熱に浮かされたように言葉を吐き出していたが、次第に何だか照れくさくなり頬を掻きながら茶化して閉じる。

 だが、菊は真っ直ぐにこちらを見つめ続けていた。

 何も反応を示さない彼女に少し不安になり、ここは再び茶化すべきか、それとも居直って一つしっかりと礼をするべきかと考えを巡らせていると。


「――そうか」


 と、それだけ。

 菊はポツリと呟いて、何か分かったかのように柔らかく笑う。

 それは、今までの皮肉げな嗤いでも、得意げな笑みでも、馬鹿話への苦笑でもなく。


 まるで我が子が何かを成し遂げた時のような、そんな誇らしげで暖かな笑顔だった。


     ◇


 気づけば雨は止んでいた。雲の切れ間に入ったのだろうか、夕刻の橙の日差しが殿内を照らしだしている。


「さて、日が沈む前に帰れ。雨で足場も悪くなっているじゃろうし、ゆっくり下るんじゃぞ」


 そう言われて、少し驚く。

 いつも帰る時は自分から言い出すばかりで、彼女から帰れという言葉を聞いたのは初めてではないだろうか。

 少し躊躇いながらも、別れの言葉を告げる。


「ん……んじゃまあ明日」


「――ああ、それと」


 そう言って踵を返そうとして、背中に声を投げかけられた。


「もうここには来るな」

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