今日もまた雨だった。これで4日目である。

 まるで滝のように、大粒の雨粒が荒く舗装された地面を叩いている。


「……いつになったら止むのかね」


 流石に4日間降りっぱなしという訳ではないが、折り悪く日中に降っては夜に止むという天気の繰り返しでここのところ全く神社に顔を出せていない。 


「ありゃまあ、今日は晴れるってやってたんだけどねぇ」


 ぼんやりと窓の外を眺めていると、後ろから母が声をかけてくる。


「雨降ってからあんたもこもってばっかいて……晴れてたら晴れてたでどっかほっつき歩いてるみたいだけどねえ」


「あー……親父は?」


 話が長くなりそうなので誤魔化すように尋ねる。晴れてる日なら外、雨なら工場での仕事が多いはずだが、窓から見えた工場に人の気配は感じられなかった。


「作業も一段落してるから今日は休みだって、土蔵でも行っとるんじゃない?」


「ん、分かった」


 そう言って、土蔵の方へと歩き出そうとして母に呼び止められた。


「お父さんに、継ぎたいなら継ぎたいて本気で言わんと聞かんよあの人は。あんたの本当の気持ち、ちゃんと伝えないといかんかんね。お母さんは何でも応援しとるから」


「……ん、あんがと」


 暖かい言葉が胸に刺さる。分かっている。結局のところ、自分は何もかも中途半端なのだ。あの親父が怒るのも、当然と言っていい。

 少しだけ、足取りを力強くして再び歩き出す。

 そうしてみると、不思議と気後れは無かった。


     ◇


 傘を差して土蔵まで歩くと、母の言う通り父が居た。

 がらんがらんと物をせわしなく動かしているのが中に入る前から分かる。

 狭い入り口から覗きこむともわりとしたほこりの匂いが鼻を刺した。思わず口を塞ぎながら中の様子を見ると、バケツやら金型やら木箱やらの親父の仕事道具が石の床の上に転がっている。

 整理しているのか散らかしているのか分かった物ではない。どうせ引っ張り出す物を引っ張り出して最後には母が全て片付けるのだろう。


「継がせんぞ」


 振り向かずに、手の中の金型の様子を確かめながら親父が唐突に言う。全く人の話という物を聞く様子が無い。


 親父は代々この辺りの花火屋を仕切る花火師である。昔気質の頑固な職人で、家の中ではいつでも怖い顔を更に渋くして居間に座っているか仕事道具の手入れをしているかの姿しか見たことが無い。口下手ついでに無口な物だから実の父子だというのにまともに会話した記憶さえ朧気おぼろげだ。


 そんな古臭い親父に嫌気がさしていた俺は家の仕事を継ぐ事が嫌で、普通に就職する事を目指し大学に入った。が、結果は無残な物である。大学での4年間は見事に遊びほうけ、いざ就活を始めれば数十の会社全てにお断りされお祈りされた。

 世の中の厳しさに打ちのめされた俺だが、正直な所その時はまだそれほど悲観はしていなかった。

 いざとなれば田舎に帰って、親父の跡を継いでしまえばいいと考えていたのだ。


 だが親父はそんな甘えを許さなかった。怒鳴られ、殴られ、追い出された。母がかばわなければ、そして菊と出会わなければ今頃途方に暮れて街へと帰っていただろう。


 考えてみれば、当然の事である。そんな中途半端な、保険のような気持ちで家業を継ごうなど調子が良いにも程がある。親父がどれだけ真面目に、実直に、そして必死に家業に打ち込んできたのか、その背中を見続けていたはずなのに。

 結局の所、俺はただ甘えた餓鬼だったのだ。


 何も言わずにいる俺を不審に思ったのか、親父はそのぎょろりとした目玉をこちらへ向ける。

 思わず気圧けおされそうになるが、腹の下に力を入れて何とか堪えた。


「その、すぐには無理かもしれないけど、もう一度色々考えてやってみる。だから、もう少しだけ時間を下さい。それと」


 言葉がぐっとつかえて、途切れる。親父は視線を真っ直ぐにこちらに向けたまま何も言わない。


「……それと、簡単に後を継ぐなんて言って、ごめん」


 頭を静かに深く深く下げる。きっと俺は親父を傷つけたのだろう。ならば謝らねばならない。


 親父は何も言わずに、再び土蔵の奥を漁り始める。しばらく下げ続けた頭を上げて、きびすを返そうとした時、親父は相変わらずこちらを見ぬままに口を開いた。


「……やってみろ」


 思わず振り返る。親父は埃を舞い上がらせ続けている。だが、しかと聞いた。思わず口元が釣り上がるのを止められない。

 再び深く頭を下げる。そうせずには居られなかった。そして勢い良く駆け出そうとして、一つ大切なことを思い出す。


「親父、あの、ちょっと関係ない事で聞きたいんだけど」


「何だ」


「ここら辺で買える、手頃で美味い酒を教えてくれないか?」


     ◇


 きょうもまた雨だった。これで何日目だろうか。

 この朽ち果てた神殿には、雨漏りなどという生温い物ではなく、屋根を伝って集まった雨水がそこかしこから滝のように流れ込んでいる。


 数少ない雨から逃れられる角隅で、体を丸めて座る。

 何ともみじめで、矮小わいしょうで、悲しさだとかむなしさを通り越して笑いがこみ上げてくる。


 これで神だというのだ。こんなものが神だというのだ。信仰を失うのも当然で、滅び行く事は必然なのだ。

 今の自分は化け狐と何が違うのか。いや、まだ化け狐の方が人をたぶらかせるだけマシである。

 分かっていたはずだ、そんな事はもうずっと分かっていたはずではないか。


 かつては。

 もはや記憶もおぼろげな程の過去には、決して多くはないがそれでも日々人々が訪れていたように覚えている。手狭な境内ではあるが、ささやかな祭りもあった。芝居などもよく行われたものだ。

 だが、いつからか人々の足は途絶えた。時折思い出したように顔を覗かせていた人間も、やがて消えた。

 山の下に新たなやしろが建ったらしい。

 人々は新たな神をあつたてまつった。


 きっと、自分などよりも余程格のある神なのだろう。御饌津神みけつのかみまつっているこの社だが、結局のところ自分などは、ただの山狐の成り上がりだ。ただ、他よりもほんの少しばかり力があったから空いている座に収まっただけだ。

 何だ、化け狐とそもそも違いが無いではないか。その些細ささいな力すらも、今では失せてしまった。

 もう何もないのだ。


 体が震える、寒さなどとうに感じなくなったはずなのに。


 人々から忘れられて永い年月が過ぎた。初めは、怒っていたように思う。それは信仰を失った人々への怒りなのか、信仰を奪った他の神への嫉妬だったのか、ふがいない自分への慙愧ざんきの念だったのか。

 どれでもあった気がするし、どれとも違った気もする。とにかく怒り、そして嘆いた。


 どれだけ嘆いたのかも忘れて、やがて再び人が訪れる日を待ったように思う。いつか、鳥居の向こうからまた人々が顔を覗かせるのではないかと、ただ待った。どれだけそうして待ち続けたのか、もう誰も訪れないという事をようやく理解し、諦めた。諦めて、絶望して、そうする事にすら飽きて、それからは何もせずに時間を過ごした。


 怒りを失い、悲しみを失い、絶望を失った時には身体から暑さも寒さも痛みも何もかも無くなっていた。最後には自分が消えるのだろうと思った。それでもいいと思った。早くそうなって欲しいとすら考えた。


 風がごうと吹いて、身体に雨水が降りかかる。思わず身体を小さく縮めてそれから逃れようとする。


 何故こんな事をしているのだろう。雨水にどれほど打たれようと、何も不具合は無い筈ではないか。

 少し前までは、雨であろうが雪であろうが関係なく軒先にただ腰掛けていた。

 それなのに、何故こんなにもみすぼらしく身体を縮こまらせているのか。


 一人の人間の顔が浮かんだ。


 もう誰も訪れないはずの此処へ、突然現れた人間。

 息をぜいぜいときらせて、汗をだらだらと垂らして、まるで何かから逃げている様に駆け込んできた人間。

 何故か、自分の姿が見えて、その上で普通に接してくる人間。

 少し話して、帰っていったかと思えば次の日から毎日顔を見せるようになった人間。

 呆れるほど未熟で、妙に馴れ馴れしくて、物怖じしない、変わった人間。

 ぶっきら棒な癖に、無駄に素直で、底抜けのお人よし。

 そんな人間。


 もし自分が雨に打たれているところをあの男が見たら、きっと心配するのだと思う。何も問題は無いのに、きっと怒るのだと思う。

 自分はそれが嫌でこうして角で丸まっているのだろう。

 あの男は、笑っている顔が一番良い。


 来る筈が無い、分かっている。

 こんな雨の中、人が山を登る訳がないのだ。だというのに自分は男が来た時の事を考えてこうしている。


 何故震えているのだろう。

 寒さも、冷たさも感じないというのに。

 不可解だ。


 いや、嘘だ。分かっている筈だ。

 何故震えているのか、何故こうして膝を抱えて丸まっているのか。


 怖いのだ。怖くて仕方が無いのだ。

 男が来ない事が。忘れ去られてしまう事が。


 もう諦めきった筈なのに、今更一人の人間に忘れられる事が嫌で嫌で堪らないのだ。


 男が今日も訪れてくれる事を、待ち望んでいるのだ。

 馬鹿馬鹿しい、恋する小娘でもあるまいに。


 自分の腕を力一杯に握り締めるが痛みは感じられず、更に力を込める。


 消えてしまいたいと思う。

 こんな惨めな思いをするくらいならば、あの何もない日々に消えてしまえば良かったのだ。


 何が神だ。

 何が神様だ。

 自分などこんなものだ。初めからこんなものだったのだ。


 顔を膝に埋める。耳を畳んで、音をさえぎった。

 消えられぬならば、せめて暗闇の中に居たかった。

 ただ眠って、時が過ぎるのをまた待とう。


 この思いもきっと時が押し潰してくれる。

 いや、自分に残されている時間は恐らくそう長くない。

 その時をただ待つだけで良いのだ。

 一人で。


 意識が次第に虚ろになる。待ちわびた感覚に、喜んで飛び込もうとした瞬間。

 

 ぎぃ、と。


 扉が開く音がした。

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