雨上がりは線香花火を

紅生姜

 足が重たい。流れる汗が鬱陶うっとうしい。肌に張り付くTシャツが気持ち悪い。だが歩みは止めない。

 熱に揺らぐ視界をさらにかき回すように蝉の声が脳を揺さぶってくる。

 薮蚊やぶかが獲物がやって来たと言わんばかりに張り付いてくるのをぱっぱと払う。

 がさりと左手に持ったコンビニ袋が音を鳴らして、慌てて中身の無事を確かめた。


「……ふぅ」


 異常が無い事を確認して、一息つくと再び止めていた足を動かしだす。

 罅割れた石の階段は今にも崩れ落ちそうで、一歩一歩足元を確かめながら上る。初めてこの場所に来た時は、無我夢中で駆け上がったがよく転げ落ちなかった物だ。

 運が良かったのか、それとも神様が守ってくれたのか。そんな事を思って喉をくくと鳴らす。


 ふもとから上り始めて四十分も経っただろうか。振り返ってみれば、木々の隙間から街が遠くまで広がっている様子を覗く事が出来た。

 汗を腕で拭って前へと向き直る。木々の緑が張り出すようにしてさえぎっているが、その向こうに古びた鳥居が見て取れる。

 僅かに頬を緩ませて、最後の力を振り絞るように先を目指した。


     ◇


「んぐ、よくまあ、んむ、毎日頑張るもんじゃ、もぐ、のう」


「食いながら喋るな行儀の悪い」


 リスの如く頬を膨らませて稲荷寿司をがっつくきくに、思わず呆れてそう言う。

 菊は可愛らしい少女である。

 小柄な体躯、くりくりとした薄翠色の瞳、高く真っ直ぐに通る鼻筋、艶やかに肩まで伸びた栗色の髪。

 やたら古風な口調と、真夏だというのに分厚い白着物をまとっている所を見逃せば極普通の、あまりそこいらでは目に掛かれないくらいには見目麗しい少女。


 だがその頭にある三角の獣じみた耳と、着物の後ろから生えているつやつやとした毛並みの尾が少女が埒外の存在である事を示している。


「……む、人が食べている所をあまりじっと見るでない。趣味が悪いぞ」


「人じゃないだろ。米粒ついてんぞ」


 そう言ってやると、菊はピンと耳と尻尾を張るように立たせて慌てて口の周りを手で拭った。

 すると思った以上に手がべたついたのか、惑うように尾を揺らせておろおろとしている。

 思わず小さな笑いを漏らしながら用意しておいた紙ナプキンを渡してやると、こちらをじとりと見てから小さく礼を言いながら手を拭いた。耳と尾はへにゃりと力なく折れている。

 再び笑いが漏れそうになるが、これ以上機嫌を損ねられても困るので必死に抑えた。


 少女と初めて出会った時はきっとそういう格好が趣味の娘なのだろうと思ったが、あまりに生々しく動く耳と尾に常識やら観念やらがいとも簡単に打ち砕かれた事は記憶に新しい。

 困惑の極みで倒錯しながらもお前は誰だと聞けば、少女のような姿をしたそれは『きく』と名乗った。何者だと問えば『神』だと答えた。


 菊の言葉をすんなりと受け入れてしまったのは、彼女の持つはかなげで神秘的な雰囲気に魅せられたからなのか、それとも全力で階段を駆け上がった事による疲労困憊の極みで余計な思考をする余裕が無かったからなのか。


 それでも一度受け入れてしまえば、何てこと無い物である。元々オカルトは信じている訳でも信じていない訳でもなかった。今までは知らなかっただけの事で、居るのなら居る物なのだろう。すんなりとそう割り切っていた。


 もはや誰も訪れないような、名すら忘れ去られた神社にまつられた狐の神。彼女に初めて出会ってからというもの、俺は手入れもされていない山の中腹にあるこの神社に、毎日のように足を運んでいた。


 突然舞い込んできた非日常に思わず心躍こころおどったというのもあるし、就活に失敗して田舎まで舞い戻ってきた傷を紛らわす為というのもあった。あわよくば、この神様に祈って職を得ようととも初めは考えたのだが


「こんな寂れに寂れ切った神社の神にそんな力がある訳ないじゃろ。その程度の事も分からんから就職出来んのじゃ。祈る暇があればえんとりぃしぃと書いて説明会にいかんかい」


 と一蹴された上に、トラウマまで軽くほじくり返された。

 すぐに分かった事だが、この神様少女は存外に口が悪いのである。神様だというのだから、もっと仰々しい物かと思えばなんて事の無い、それどころか大学の悪友と大差がない。


 さらに初めて出会ったときの儚げな雰囲気は一体何だったのか、二度目に訪れた時には何の手土産も無いとぶうぶうと文句を言い出すほど図々しい。

 仕方ないので賽銭を放り込んでやれば、物納以外認めない等と言い出す始末である。


 まあ、こうしてコンビニの稲荷寿司を買って来れば上機嫌になる辺りは面倒がなくて良いと思う。尻尾と耳をはたはたと動かし、夢中になって食べる菊の姿は素直に可愛らしい物なのだ。


 ふと壊れた戸から空を見る。痛快なまでな蒼色の空に浮かぶ巨大な白い雲が太陽の光を反射して眩しい。蝉時雨は相変わらず絶えず耳を叩き続けている、もう慣れた物だ。

 襤褸ぼろ構えとはいえ日を避けられる本殿の中でじっと休んでいる分、日光に晒されながら足場の悪い石段を登っている時と比べれば随分とマシだが暑いものは暑い。

 汗一つかかずに意地汚く指を舐めている菊が少々恨めしい。

 そんな事を思いながら見つめていると、視線が合い、訝しげに睨み返される。


「さっきからなんじゃ、じろじろと。気味が悪いぞ」


「いや、そんな格好で暑くないのかと思って」


 すると菊は両手を広げて自分の体を不思議そうに見下ろす、まるで何がおかしいのかというように首を傾げながら。


「……暑いだとか寒いだとか、そういうのは良く分からんのう。昔はそういう事も感じていた気もするんじゃが」


 ふうん、と良く分からず相打ちをする。

 神様にとっての昔というのはどれだけ昔の事なのだろう。

 まあ暑さを感じないというのは何とも風情がないが、今こうして汗をだらだら流している身分としては羨ましくて仕方ない。


「しかしまあなんじゃ、毎日毎日足を運んでくれるのは嬉しいんじゃが、お主そんなに暇なのかの?」


 話を切り替えたいのか、単純に疑問に思っていたのか、菊は小首を傾げながら尋ねてくる。栗色の髪が揺れて、さらさらと白い肌の上を流れた。


「ん、まあ、暇なんだよ。就活も小休止してこうして骨休みしてるし、実質ニートだしなあ」


「何じゃ、穀潰しか」


 蔑むように言われた。実際その通りなので返す言葉もない。

 だが、その穀潰しに飯を食わされてる奴は何だというのだ。神様だが。


「まあ、来月には再開するさ。それまではゆっくり英気を養うんだよ」


 ついでに神頼みもな、と加えると菊ははぁとため息をつく。てっきり、無気力な無職に呆れたのかとも思ったが、続く言葉は予想外のものだった。


「……こうして熱心に通われ、奉納されているというのに、何もしてやれぬというのは歯がゆいの。何かしてやれればとは思うのじゃが」


 いつに無く殊勝な様子である、いつもならば甘えるなと悪言交じりにかつの一つでも吐く物なのだが。神にもナイーブになる日があるということだろうか。

 そんなこと、気にすることはないのに。


「誰かに弱音を吐いて、聞いてもらえるってだけでも随分楽になるもんだよ。別に気にすることはないさ」


 そう、案外たったそれだけで人という物は簡単に救われたりするのである。思いつめている事なんていうのが、実は大した事ではなかっただけなのかもしれないが。


 それでも、少なくとも俺は救われたのだ。


「……ふん、若造が。偉そうな事を」


 鼻息荒く菊が言う。顔を逸らし、頬を染めて、ねた様に唇を尖らせて。だがそこに怒りの気配は無い。

 まあ、自分でも何だか随分と分かったような事を言ってしまった気がする。改めて振り返ると少し気恥ずかしい。


「――ああ、ところで知ってるか。山形には穀つぶしっていう酒あるんだぜ」


「ほ、ほう。酒か! 次の土産はそれでもよいの!」


 誤魔化す様に適当な話を振ると、菊もあわせる様にそれに乗る。ただ食いつき方を見ると、案外のん兵衛なのかもしれない。新しい発見である。

 その日の殿内は、夕刻までいつになく賑やかであった。


     ◇


 日が随分と傾いた。夜と呼ぶには早いが、あまり遅くなると親がうるさいし、灯りの無い暗闇の中で山道を下るというのは流石に避けたい。

 話の切れ間に腰を上げて、そろそろ帰る事を告げる。すると菊は、座ったまま首だけで外を見た。


「もう、そんな時間か」


 その呟きは小さかったがいやに響く。思わず重ねるように声をあげていた。


「また来るさ。穀つぶしは難しいかもしれないが、適当な酒を見繕みつくろってきてやるよ」


「ふん、無職が無理するな」


 目を細めて嗤う表情はいつもの見慣れた菊だ。思わず浮かんだ笑みで返して、そのまま外へと出る。


「んじゃまた明日な」


「ん――またの」


 小さく手を振る姿は、気のせいかどこか力無い。僅かに後ろ髪を引かれながらも歩き出す。

 鳥居を潜って振り返ると、まだ菊は縁側に腰掛けて微笑みながら手を振っていた。だが、その姿はまるで今にも消え入りそうで。


 初めて菊と出会った時の彼女と重なる。あの時も、菊は同じように縁側に座っていた。まるで何かを待つように。


 階段を下りながら思う。

 今度の手土産は何にすれば、彼女は喜んでくれるだろうか。

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