似たもの母娘と完熟桃

似たもの母娘と完熟桃

 わたしと母は、特別仲のいい母娘というわけではなかった。

 昔から母は仕事ばかりしていて、子供の世話は祖母に任せきり。わたしや兄と遊んでくれることなんて絶対になかったし、たまに顔を合わせてもあまりいい顔をしなかった。子どもと久々に顔を合わせるのだから、少しぐらい嬉しそうにしてくれてもいいのに。

 その上、口を開けば家族や仕事に対する愚痴ばかり。中学生のわたしに綺麗とは言いがたい言葉ばかり聞かせてくる。わたしがやめて欲しいと態度でそれとなく表しても、やめない。

 そんなわけで、わたしは母のことが好きではなかった。


「また、お母さんと喧嘩したのか? りん

 母に愚痴を聞かされて不機嫌になっていたわたしに、兄が笑いながら話し掛けてきた。

 わたしより三つ年上の兄は、地元の工業高校に通っている。特別成績がいいというわけではないのだが、様々な知識をもっていて、わたしに色んなことを教えてくれる。ちょっと変わっているけれど、わたしにとって兄は最も尊敬すべき相手だ。

 わたしは唇を尖らせながら、兄のほうに向き直った。

「だって……お母さんが悪いんだもん。わたしにばっかり嫌なこと言ってさ。愚痴るだけ愚痴ったら、また仕事に行っちゃうの。わたしのことゴミ箱か何かと勘違いしてるんじゃないかしら」

 母に愚痴られた後は、いつもこうして兄に聞いてもらう。わたしも母と同じことをしているのだと思うと少し胸が痛むが、兄は嫌な顔一つせずわたしの話を聞いてくれる。

 兄はわたしの話を一通り聞き終えると、クスッと笑った。

「本当におまえと母さんは、似てるよな」

「やめてよね! わたしとお母さんが似てるだなんて……もう、信じられない」

 わたしは兄の言葉に思わず憤慨した。子供みたいに頬を膨らませ、プイッと横を向く。

「もう、お兄ちゃんなんて嫌い」

「悪かったって、凛。お菓子あげるから、機嫌直して」

 口ではそう言うが、別段悪びれているようには見えない。そんな兄は、わたしと母のいさかいをどこか面白がっているように見える。だけど変わり者の兄のことだ。考えていることなどさっぱり分からない。仕方ないと割り切って、わたしはつい兄を許してしまう。

 だけどわたしは素直じゃないから、わざともったいつけるように

「もう……仕方ないなぁ。今日のところは許してあげる」

 そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに呟いた。兄はそんなわたしに優しく微笑み、大きな手で頭を撫でてくれた。


    ◆◆◆


 ある日のこと。

 学校での授業を終えたわたしは、いつもより憂うつな気分で帰途についていた。その日は週に一度、母の仕事休みの日だったからだ。家に帰ってから母にされることが容易に想像できて、わたしは深いため息をついた。

 母にゴミ箱代わりの扱いを受けるのは、正直もう嫌だった。普通に娘として接して欲しいのに。兄に対してもぶっきらぼうに接するけれど、わたしにしているようなことはしないのに。どうして、わたしにだけ?

 昼間迷惑なほど働いていた太陽はそろそろその役目を終える頃で、外は少し暗くなってきていた。帰らないでおこうかな、なんて不謹慎な考えが一瞬だけ頭をよぎる。

 だけど……もし戻らなければ、兄や祖母、父に余計な心配をかけてしまうだろう。それは絶対に嫌だった。他人に余計な心配をかけるのは、わたしの望むところではない。

 結局、わたしが我慢するしかないのかな。

 わたしはもう一つため息をつくと、ふらふらとしていた足取りをしっかりさせ、家の方向へ気持ちのベクトルを向けた。


「ただいま」

 定型句を発し、自分の家へと入る。

「お帰り」

 中から祖母のしわがれた、それでいてしっかりとした特有の声が聞こえてきた。いつもの声のはずなのだけど、わたしはなぜか違和感を感じた。

 わたしが帰ってきても母は何も言葉を発さないだろうし、顔色を変えることもないだろう。いつものことだ。母は仏頂面でわたしを迎えるだろう。そして、聞きたくもない愚痴をわたしに聞かせてくるはずだ。だって今日、母は仕事休みのはずだから。

 半ば諦めのような気持ちで、母がいるはずの部屋(半ば仕事部屋になっている、いわゆる書斎のような場所だ)へ足を運ぶ。ドアをノックするが、返事はない。いつものことだと特に気にすることもなく、わたしは部屋のドアを開けた。

 が……。わたしはドアを開け放したまま、呆然と立ち尽くした。いつも通り仏頂面でわたしを迎えてくるはずの母の姿が、そこにはなかったのだ。

「おばあちゃん……お母さんは?」

 母の部屋から出ると、炊事場で家事をしていた祖母に聞いてみる。祖母は振り向くと、一瞬だけ顔を歪めた。わたしから顔を背けて、何かを言おうか言うまいか迷うように口を開閉させる。

「おばあちゃん……?」

「凛……驚かないで、聞いてね」

 祖母は苦しそうに呟くと、覚悟を決めたようにわたしの方を向いて……そして、わたしが予想だにしなかった事実を口にした。

「お母さんね、今……病院にいるの」


 最近母は、体の不調を訴えていたらしい。

 驚いた。母はいつも仏頂面で、体の不調なんて訴えるような人ではないと思いこんでいたからだ。仕事ばかりで滅多に顔を合わせることもないから、よく知らなかっただけなのかもしれないけれど。

 仕事休みの今日は、特におかしかったそうだ。朝からだるそうにしていた母を心配した祖母が、嫌がる母を無理矢理病院へ引っ張って行った。

 簡易的な診察を終えると、医者は難しそうな顔で

「精密検査をしますので、しばらく入院をお願いします」

 とだけ告げたという。

 話を聞いたわたしは、正直なところほっとした。これでしばらく母と顔を合わせることはない。愚痴を聞かされる生活から逃れられると思ったから。

「見舞いに行くかい」

 祖母に言われたけれど、わたしは首を横に振った。そしてにっこりと笑い、全然関係のないことを祖母に尋ねた。

「今日の晩ご飯は、何?」


 数日後、母の精密検査の結果が出たと父が教えてくれた。家族全員が揃ったところで父の口から伝えられるという。どうせたいしたことはないのだろうと高をくくって適当に話をはぐらかしていたけれど、父のいつもと違う真剣な表情を見て、わたしは何か嫌な予感がした。

 父、祖母、兄、そしてわたし。母以外の家族が全員揃ったのを見計らうと、無口な父がいつもより重々しく口を開いた。

「母さんのことだが、今日精密検査の結果が出たと病院から連絡があった。結果は……」

 ここで父が言葉を切った。前に祖母がしていたのと同じように、言おうか言うまいかと口を開閉させる。

「早く、教えて。僕たちは何を言われようが、驚きも悲しみもしませんから」

 兄が落ち着き払った口調で父に言葉を促す。わたしも祖母も同じようにうなずくと、父を見た。父はそんなわたしたちを見て安堵したのか、やがて静かに告げた。

「母さん、ガンだって」


    ◆◆◆


 それから、一年の月日が経とうとしていた。

 母がガンであると告げられた日から、わたしは一度も母の顔を見ていなかった。ゆえに、母の病気に関する詳しいことや、母の闘病の詳しい様子をわたしは全く知らない。家族に何度かお見舞いに行こうと誘われていたけれど、わたしはかたくなに首を横に振って、病院へ足を運ぼうとはしなかった。

 そんなある日、わたしがいつも通り学校での授業を終えて帰途についていると、同じく帰途についていた兄にばったり出くわした。

「凛。奇遇だね」

 兄はにっこりとわたしに笑いかけた。わたしも微笑みを返す。そして流れに任せるように兄と二人、連れ立って歩き始めた。

「母さんの、ことだけど」

 言いにくそうに兄が口を開く。母の病状に関しては、兄を含め様子を見ている家族から少し聞いていたけれど、こんな風に切り出されるのは初めてだった。

「結構……その、深刻みたいなんだ。詳しくは分からないけれど、どうもガンがいろいろな場所に転移しているみたい」

「……そう」

 わたしは気のないように返した。

「ねぇ、凛」

 おもむろに兄は立ち止まった。わたしもつられて立ち止まる。どうしたの、とわたしが聞く前に、兄はわたしの方を向いて言った。

「これから母さんのお見舞いに行かない?」

 それは、これまでわたしがかたくなに拒否してきたことだった。わたしが首を縦に振るか否かなど、わかりきったことだろうに、兄は立ち止まったまま真剣な表情でわたしの返事を待っている。

 わたしは不機嫌丸出しの表情で、見つめてくる兄から目をそらした。

「……わたしが、うんって言うとでも思っているの」

「思ってない」

 即答だった。

「じゃあ……分かってて、なんでわざわざそういうこと言うの」

「母さんが凛に会いたがっているからさ」

 これも、即答だった。

「……うそつき」

 わたしは体ごとそっぽを向いた。

「あの人がわたしに……会いたいはずないでしょ。もし仮に会いたいとしても、それはわたしをゴミ箱代わりに使いたいからよ」

「違うよ」

 兄は移動したようだった。そっぽを向いたままのわたしの前に来ると、満面の笑みで顔をのぞき込んでくる。顔が近い。

「単純に、凛の顔が見たいだけ。来てみれば分かるよ」

 そう言うと、わたしの腕を引いて病院の方向へ向かおうとした。わたしは意地でも動くものかと、一生懸命足を踏ん張っていた。わたしの必死な様子に、兄が苦笑する。

「仕方ないな。こうなったら、こっちも強行手段に出るよ」

 兄はいきなりわたしの体をひょいと抱え上げた。びっくりしてじたばたと暴れるわたしに、兄は意地悪く微笑む。

「言っておくけれど、おまえが言うことを聞かないのが悪いんだからね?」

 そうして兄は、わたしを抱えたまま悠々と歩き出した。


 兄に(半ば強制的に)連れられてやって来たのは、学校近くの病院。抵抗を諦めおとなしくなったわたしをようやく腕から下ろした兄は手慣れたように中へ入り、エレベーターに乗り込む。わたしも無言で従った。

 エレベーターを降りてからしばらく病室が並ぶ廊下を歩いていたが、ある病室で兄は立ち止まった。ドアに貼られたプレートに

渡辺菊乃わたなべきくの

 と書かれている。無論それは母の名で、ここが母の病室だということを表していた。兄はドアをコンコン、と無骨な音を立ててノックした。

「誰」

 中からいつもの聞きなれたぶっきらぼうな声が返ってくる。

「母さん、さとるです。凛も連れてきたよ」

 兄が淡々と用件を告げると、一瞬息を呑むような音がした。少しだけ間があったあと、

「入って」

 さっきより幾分か穏やかな声だった(ような気がした)。兄に隠れるようにしておずおずと病室に足を踏み入れる。

「凛」

 久しぶりに名を呼ばれ、わたしはベッドに横たわる母を見た。そして言葉を失った。

 一年ぶりに見る母の姿は、変わり果てたものだった。

 元々細かった体は骨のシルエットがくっきり見えるほどに細く痩せ、サラサラと豊かに揺れていた黒髪は薬の副作用のせいか全て抜け落ち、肌色の頭皮が丸見えだった。

 わたしが何も言えず立ち尽くしていると、母はわたしの方を見て瞳を和ませた。そうして兄に向き直ると、心持ち柔らかな声で

「悟、見舞いの品に桃があったでしょう。むいてくれる?」

と言った。

「はい」

 兄は返事をし、桃と包丁と皿を取るために立ち上がった。わたしに向けた背中は、どこか嬉しそうだった。

 数分で桃をむき終えた兄を見て、つくづく器用なものだと思った。

 兄から桃入りの皿とつまようじを受け取った母は、わたしに向かって手招きをした。戸惑って、思わず兄を見る。兄はわたしを安心させるように微笑み、行くようにと軽くジェスチャーをしてみせた。

 おずおずと母の側へ行くと、母は震える手でつまようじを持ち、桃を一切れ刺した。

「食べなさい」

 相変わらずぶっきらぼうな声で、わたしの口元にそれを持ってきた。口で受け取りつまようじを抜くと、むぐむぐと動かす。よく熟したそれは水分が多く、とても甘かった。

「美味しい?」

 兄がにこにこしながら尋ねてくる。うなずくと、兄は母に向かって笑った。

「だ、そうですよ」

 母は少しだけ口元を歪めた。その不器用な微笑みに、わたしは切なさで胸が苦しくなるのを感じた。嬉しいはずなのに。初めて母娘らしいことができて、娘のように扱ってもらえて、嬉しくないはずはないのに……。

 もやもやとした気分のまま後の時間を過ごし、わたしと兄は病室を出た。

 これが、わたしが母と共に過ごした最後の時間となった。


    ◆◆◆


 母と会った一週間後、真夜中のことだっただろうか。家の電話がけたたましく鳴る音で、わたしは目を覚ました。

 寝起きの働かない頭で考える。こんな真夜中に電話をかけてくるのはなぜか。今の時期、夜中に連絡しなければならないことといったら……心当たりは、一つしかない。

 すぐに誰かが電話に出た。この声は、祖母だろうか。慌てたように電話を切り、みんなを起こす音がする。

「父さん、悟、起きて! 母さんが……」

 やっぱりか。わたしは驚くこともなく、ただ漠然と思った。

 父と兄は起きたようだ。わたしの部屋に誰かが来る気配がする。

「凛、凛!」

 祖母の声だ。

「行かない」

 わたしはドア越しに冷たく言い放ち、布団をかぶり直した。

 わたしの部屋の前に家族全員がそろったようで、しばらくうるさかった。けれどやがて、

「時間がないから」

 と諦めたように誰かが呟いた。

 騒々しい足音、車のエンジン音。そして全てが遠ざかり、家にはわたし一人が取り残された。

 やっぱり、行った方がよかったかな……。

 そんな考えが一瞬頭を過ぎったけど、すぐに首を振ってなかったことにする。わたしは枕に顔を押し付けるように突っ伏すと、まぶたを閉じて無理矢理眠りについた。


 家族が帰ってきたのは早朝、確か5時ごろだったと記憶している。

 わたしの部屋のドアが静かにノックされた。目を覚ましたわたしは起き上がり、まだ充分に回らない舌で返事をした。ガチャリとドアが開く音がしたかと思うと、入ってきたその人はいきなりわたしの腕を取り、引き寄せた。トクトクと心臓の音が耳に届く。

「母さんが……さっき、亡くなった」

 悲しみを抑えたような声でその人は――兄は、わたしにささやきかけた。


 動かなくなった母とわたしが初めて対面したのは、その日の昼前だった。

 母はかつらをかぶり、薄く化粧された綺麗な姿で眠っていた。体型はあの日見た時と変わっていなかったけれど、それ以外はまるで別人だ。集まった親戚が母を見てすすり泣く中、わたしは泣くこともなく呆然と母を見下ろしていた。

 家の中はばたばたとせわしなく、人の出入りも頻繁だった。

「凛ちゃん、確かまだ中学生よね? お母さんとまだ色々話したかったでしょうにねぇ、可哀想に……」

 何人もの大人が、目頭を押さえながら話し掛けてくる。わたしはどこか上の空で、そうですね、なんて適当に答えていた。

 仲のいい友人や担任の先生が来て、わたしに話し掛けてくれる。内容は覚えていないけれど、みんな母親を失ったわたしのことを気にかけてくれているみたいだった。

 葬儀は、母が亡くなってから二日後に行われた。平日だったけれど、当然父は仕事を休み、わたしも兄も学校を休んだ。

 家はいつも以上に片付いていた。床には深緑色のカーペットが敷かれ、ひな壇のようなものが置かれている。そこには多くの花が敷き詰められ、ろうそくや線香といったものも置かれていた。

 敷き詰められた花の真ん中に、母の写真が埋まっている。生前飽きるほど見せられた、むっつりとした顔だ。普通こういう写真には笑顔のものを選ぶのだが、この方が母らしいからと、あえて仏頂面のものを家族全員で選んだのだ(笑顔の写真がほとんどなかったから、という理由もあるけれど)。

 ひな壇の前に置かれているのは、水色の綺麗な棺。中には白い着物を身にまとった母が安らかな顔で眠っている。

 全ての装いを完璧に済ませると、葬儀は予定通り執り行われた。

 父は喪主として、葬儀を仕切っていた。落ち着いていたけれど、その目は赤く腫れていた。昨日一人で泣いていたのだろう。二度と動かなくなった妻を思って……。

 祖母は母の両親と共に、人目もはばからず泣いていた。他人の娘の為によくもここまで悲しめるものだと、不謹慎ながら思った。

 兄は……いつもと変わらなかった。参列客達に大人顔負けの態度で接し、高校生ながらしっかりした息子だと感心されていた。わたしを抱きしめた時の弱々しさなど、みじんも感じさせない。

 わたしはというと、ずっとぼうっとしていた。なんだか現実味を感じない。今目の前で起こっていることは全て夢なんじゃないかと思ってしまう。目が覚めたらまたいつも通りの日々が待っているような、母がまたわたしに愚痴を聞かせてくるような……そんな気がしてしまう。

 いつの間にか葬儀は終わっていて、わたしたちは火葬場へ来ていた。ピザを焼くようなものよりずっと大きな所に、母が吸い込まれていく。祖母も、母の両親も、父も……みんな、泣いていた。

 母の姿が消える瞬間、側にいた兄がわたしの手をぎゅっと握り締めてきた。兄は泣いてはいなかったけれど、唇をかみしめ、悲しみに耐えているような顔をしていた。わたしもなんだか泣きそうな気持ちになって、兄の手を強く握り返した。

 その後のことは、よく覚えていない。

 気がついたら母の姿は小さくあっけないものになっていて、わたしはそれを抱えてとぼとぼと歩いていた。

 家に戻ると、全てを終えた安心感からか、参列客達はみんなリラックスした状態で簡易的な食事を摂っていた。わたしも食べるように言われたけれど、断った。とてもそんな気分にはなれなかったから。

 母の慰霊の前でぼうっとしていると、女の人がわたしの側に来た。絢乃あやのさんだ。彼女は母の姉、つまりわたしの伯母にあたる。

「凛ちゃん、久しぶり」

 母とよく似た顔に笑みを浮かべ、絢乃さんはわたしに話し掛けてきた。母の笑顔をわたしは見た覚えがないけれど、もしも笑ったらきっとこんな感じなのだろう。

 わたしが軽く会釈をすると、絢乃さんはそのままわたしの側に腰をおろした。

「全く、菊乃は悪い子ね。両親や姉の私よりも先に、しかも育ち盛りの子供を二人も残して逝っちゃうなんて」

 どこか遠い目をして呟く。それからわたしにこう尋ねてきた。

「凛ちゃん、お母さんのこと好きだった?」

「あまり……好きじゃなかった、です」

 正直に答えると、絢乃さんは曖昧に微笑んだ。

「好きになれるわけないよね。毎日嫌になるほど愚痴を聞かされていたのに」

 うつむいていたわたしは、その言葉に思わず顔を上げた。

「どうして、それを?」

「菊乃に、相談を受けていたの。凛にどうしても愚痴ばかり聞かせてしまう、母親らしいことが出来ないって」

 意外だった。母が、そんなことを言っていたなんて。

「凛ちゃん。あなたは菊乃に愛されていないと感じていたかもしれない。でもね……菊乃は、凛ちゃんのことをゴミ箱みたいに扱いたかったわけじゃない。ただ凛ちゃんへの接し方がわからなかっただけなの。あの子は昔から素直じゃないから」

 その瞳から、愛情を感じる。わたしが母にずっと与えて欲しかった、愛情を。

「悟君と凛ちゃんのこと、菊乃は誰よりも愛していた。でも、あの子は不器用だったから。愛していたからこそ、上手く接してあげることが出来なかったのね。同じ女の子だからかな? 詳しいことは私もよく分からないのだけれど……とにかく、凛ちゃんには特に素直になれなかったみたい。仕事のせいで滅多に顔を合わせることも出来ないのに、たまにあなたと話をしようとしても、口から出るのはあなたが嫌がるような言葉ばかり。どうしたらいいのかって、ずっと悩んでいたわ」

 つらそうに語る絢乃さんから、嘘偽りは感じなかった。

「入院してから一度もあなたがお見舞いに来なかったこと、菊乃は気にしていた。だから、私は言ったの。今度凛ちゃんに会えた時には恥ずかしがらないで、母親らしいことをしてあげなさいって。ささいなことでいい。あなたが本当に凛ちゃんを愛しているのなら、絶対に伝わるはずだからって」

 わたしは、病院で会った時の母を思い出した。知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。

「……っく、お母さんはあの日……わたしに、桃を食べさせてくれた……。その時初めて、愛情を感じた、ような気がしたの……」

 絢乃さんは泣きじゃくるわたしの頭を慈しむように撫でてくれた。

「最後に、愛情が伝わったのね。よかった」

 そう言うと、わたしを気遣ったのか、絢乃さんは静かに離れていった。

「馬鹿だね……」

 わたしはぽつりと呟いた。母も素直じゃなかったけれど、わたしも同じくらい素直じゃなかった。せめてわたしがもっと素直だったら……。もっとお見舞いに行ってあげていたら、母の最期を見届けてあげていたら……。なんて、今さら遅いよね。馬鹿だ、わたし。

『本当におまえと母さんは、似てるよな』

 あの日兄が言った言葉の意味が、ようやく理解出来たような気がした。

 だけど……。

 ねぇ、お母さん。不器用でもいい、もっと愛が欲しかったよ。もっと母娘らしいことがしたかったよ。

 あの日……桃をくれた日。わたし、やり直せるかもしれないって思ったんだよ。本当の母娘になれるかもしれないって。これからはわたしも意地を張らないで、素直にお母さんに接することが出来るかもしれないって、そう思ったのに……。

 ねぇ、どうして? どうして、こんなに早くいなくなっちゃったの?

「お母さん……」

 わたしはしばらく、母の慰霊の前に座り込んで泣いていた。

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