閑話50・『穢れぬまま死んだ人を』

記憶が薄れる、遠い記憶は自分の存在を希薄にさせる。


誰だったが、何を話していたか、どのように生きていたか……全てが曖昧になる。


孤児だったように思う、父の顔も母の顔も知らない、勇魔としての力を得てからは人間の為に魔族の為に人生を捧げた。


どちらにも属さず、どちらの味方もしない、滅びない程度に二つの勢力に干渉する、勇者と魔王にはなるべく見つからないように。


原初の記憶はコレでは無い、もっと昔の天……無力で生きている事に意味を見出せず、あの人のお荷物だった自分、思えばあの人は最後の最後まで『僕』を見捨てなかった。


「レイは綺麗な顔立ちをしているから将来はモテるぞ」


きしし、歯を見せて笑ったあの人の姿は黄昏の世界で強く輝いて見えた、あああ、レイ?………それが僕の名前だったっけ、何の実感も湧かない、微睡の中で見る遠い記憶は曖昧で不確かだ。


カビの臭いと何かが腐ったような異臭、人間が生活する場所では無い、この国は一部の権力者に支配されていてその層に属さぬ者はドブネズミと同じような生活をしている。


父も母も知らないのは当然だ、僕には姉しかいない、姉は華奢な自分とは違って良い意味で生き汚くバイタリティに溢れている、この路地裏を支配する小さな王女様なのだ。


「いらない、お姉ちゃんがいればいい」


「ぷぷ、知らねぇのか?姉弟で結婚は出来ないんだぞ?」


日雇いの仕事で灼けた褐色の肌は健康的でシミ一つ無い……姉はこの肌を嫌っている、女の子の肌では無いらしい、僕はお日様のように綺麗だと思うけど口にしても信じてくれない。


隣国が攻めて来たとあって国は資金集めに追われている……鉄製のモノを高く買い取ってくれるので住処である廃墟に使われた鉄は全て売り払った、台車を一人で押している姉、何度か強盗に襲われたらしい。


欠けた歯を吐き捨てながら姉は笑った、僕が病弱で無ければお姉ちゃんを守ってやれるのに……廃墟を取り壊す際に近隣の貴族が下見に来た、偶然その馬車の横を通り過ぎた僕は身なりの良い従者に旦那様の養子にならないかと問われた。


女性のような見た目が初めて役に立った、姉の事も伝えたが養子に欲しいのは一人だけらしい、丁重にお断りしてその場を去った、お姉ちゃんのいない世界を想像したらそれがどれだけ裕福な世界でも僕にとっては地獄だった。


「なんだ、勿体ねぇ、姉ちゃんの事は気にしなくて良いんだぜ、レイが幸せなら姉ちゃんも幸せだ」


姉は笑った、少しだけ残念そうで少しだけ嬉しそうで切なかった、どうしてこんな劣悪な環境の中でこんなにも無垢な人が生まれるんだろう、同じ血を持っている僕は見掛けとは違って姉以外の他者を羽虫のようにしか思えなかった。


興味の対象が全て姉に集約されてると言っても過言では無い、そう、お姉ちゃんは僕にとって世界の全てだった、だから誰にでも優しくする姉の姿は誇らしいと同時に少し疎ましかった、自分一人だけを見て欲しい、幼いけれど男としての欲求だった。


無論、異性として姉を見ている事が異常な事だとわかっていた……クシャクシャの癖っ毛と黒曜石のような黒い瞳、お姉ちゃんは自分の事を男のようだと自身で蔑むけれど僕にとっては生涯で一人の女性だった、大切な宝物だった。


『――――――――――そんな日常は壊れた』


勇魔に成り果てた僕の声が耳元で聞こえる、虚無的、人型をした何かの中身は空洞で何も入っていない、血も肉も臓物も骨も失ってそこにある、大好きだったその人の笑顔が血の海の水面に吸い込まれて消える。


雨が降っていた、そうだ、体の芯から凍り付く様な真冬、雨がそろそろ雪へ変わるかと………いつもの廃墟で姉を待っていた、ここ数年で姉は一気に女性らしくなった、僕はもっと体が弱くなった、姉に養って貰う華奢な弟。


ここ数日は咳も止まらないし食事もままならない、そろそろ終わりかな、僕は自分が重荷だと実感している、姉が幸せになる為には不必要なものだと実感している、だからその結末は望んでいないけど望んでいる矛盾したモノ。


『―――――――――姉は帰って来たか』


帰って来た、脇腹から血を流していつもの様にきししと笑った、雨で薄まった血は太腿から床に広がり室内に入った事で純度を増してより濃くなっている、それを見て僕はついつい呆けてしまった、この光景が夢だと思ったのだ。


そのまま力無く倒れ込む姉に駆け寄る、死人のように冷たい体、瞳は虚ろでボソボソと独り言を呟いている、僕は………狂人のように何度も姉の名前を呼ぶ、喉が裂けても何度も何度も、傷口から姉の生命が奪われるのがわかる。


17歳の誕生日、姉は僕にプレゼントをする為に何か特別な仕事を受けたらしい、いつもの様に横にいてくれるだけで良かったのに、愚かしい程に優しくて世間知らずでそれでも汚れる事は無くて、だからこのような結末を迎える。


「れ、い」


姉が呼び掛けるが僕は完全に狂っている、思えばこの時に勇魔の称号を得た、姉の体から消えてゆく命の気配が手に取るようにわかる、あの貴族が僕を自分のモノにする為に姉を害した事もわかる、心と記憶が流れ込む。


この人は僕の為に自分の幸せも知らずにこうして死のうとしている……僕のせいで――――――――血の涙、憎悪が溢れる、姉以外に感情を向ける事が無かった僕が他者を、姉以外の全てを憎んでいる、世界を憎んでいる。


最後に触れるか触れられないかの距離で頬を撫でる仕草をして姉は………欠片が天へと消えてゆく、開いたままの瞳が僕を見詰めている、その欠片を『勇魔』の力で強制的に地上へと引き戻す、誰にも渡さない、この人は僕のモノだ。


『――――――――――――――――――容易く生まれたね、悪魔』


掴んだ欠片が『みぃ』と小さく声を上げた、呪怨、絶叫と同時に体から迸る禍々しいオーラが実に心地良い、あの貴族を処理しなければ……そしてこの最愛の人の欠片を育てて成長させなければ、目から溢れる、真っ赤なモノが零れ落ちる。


この人は全てを捧げて僕の為に生きてくれた、だから今度は僕がこの人の為に全てを捧げる番だ、この人を守れる力をこの人が死んだ事で手に入れた、ああ、ああぁあ、ああああああああ、世界をこの人に捧げよう。


「そうだ、僕が……勇魔が守ってあげる、キョウ」


姉を初めて呼び捨てにした、新しい関係を構築する為に。


この人の為に全てを壊そう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る