キャッチ・アンド・リリース
@gunzitozousaku
第1話:引きこもりに届いた手紙
その日、宛先だけ書かれたその手紙は、竜崎紘泰の夕食と一緒の盆で、紘泰の部屋に運ばれた。
紘泰の母が、夕食の到着を伝えると、紘泰はため息をついて、パソコンのタブを閉じて、ヘッドフォンを外した。ゲームで酷使された指を、適当にほぐして部屋の扉を開き、盆を回収した。そして盆の上に乗せられた手紙に気づき、おや? 、と思った。彼には連絡が来る理由に心当たりがなかった。
それを胸の中で確認した時、彼には目の前の手紙が危険物の様な気がしてきた。つまり、母親が彼に部屋から出る様に訴えるための手紙ではないのかと思ったのだ。彼は彼なりに、風呂や用をたす以外に部屋から出る事がない事を、後ろめたく思っていた。ゆえに、危険物であると察しても、その手紙を読まなければならないと彼は考えた。
しかし、彼がいかに引きこもりを後ろめたく思っていたとしても、その手紙を読む事には消極的にならざるえなかった。彼はひとまず夕食として出されたオムライスを食べきって、それから封を開ける事にした。
先にそう決めて食べ始めると、食べ終わりをあの手この手で引き延ばそうと彼はした。無論、夕食後に開くという事は、彼自身が決めた事で、それには本来、なんの強制力もないはずだという事は、彼も理解している。それでも彼は、様々な屁理屈で食事時間を延ばし、気がついた頃には二時間が経っていた。 それを認識した時、彼はついに観念する気になった。そうすると、どうせいつかは開かなきゃいけないんだ、という開き直りに似た感情が現れてきた。彼はさっさと盆を片し、部屋の外に置くと、その手紙を開いた。
独特なリズムを胸に感じながら、震える手で手紙を開くと、折りたたまれた手紙が出てきた。まだ、中身は読めない。紘泰は、緊張しながら封を開けた自分を馬鹿馬鹿しく思った。だから、折りたたまれた手紙を読める様にするのは、すぐだった。
「キャッチ・アンド・リリース」を倒してくれ。
手紙に書かれていたのはそれだけだった。しかし、彼はその、「キャッチ・アンド・リリース」と言うものを知らない。当然、差出人が何を言っているのかも分からなかった。しかし、その一文を読んだ瞬間、彼の中にエネルギーの塊が溢れ出した。彼の心は今まで、産業革命期のイギリスの様に、灰色の空気の中にあった。それが、美しい森の中にある様な、爽快な空気へと変わったのだ。
爽快な空気は、彼に可能性を確信させた。彼はペンを投げて、宙に飛ぶそれを躊躇いなく殴った。本来なら、そのペンは殴られた方向に向かって飛ばされるはずだ。もしかしたら、壁にぶつかって、その衝撃で壊れるかもしれない。しかし、ペンは彼が殴った地点から動かずに停滞するだけだった。説明するまでもなく、これは不自然な事象だ。ペンは放られたら地面に落ちるはずだし、空中で殴られたらその方向に飛ぶはずだ。どう考えても、空中で停滞するなど考えられない。
しかし、彼はその結果に満足した。彼が頷くと同時に、空中に停滞していたペンは、カタン、という音を立てて床に落ちた。なんと、ペンは3秒間も空中に停滞し続けたのだ。
彼はそのまま部屋を出た。もはや、彼は部屋に篭りたいと微塵も思わなくなっていた。彼の胸にあるのは、可能性と「キャッチ・アンド・リリース」を倒さなければならないと言う、義務感だけになったのだ。
部屋を出ると、彼が普段、食べ終わった盆を置いておく定位置を見た。盆はすでに片付けられていて、そこには何もなかった。
彼は階段を降りた。彼の部屋は二階にあったから、外に出るためには階段を降りて一階に行かなくてはならない。そこでふと彼は、自分が今着ているのは、肩にフケが乗ったジャージである事に気づいた。彼は慌てて部屋に戻ると、引きこもる前によく着ていたジーパンとワイシャツに着替えた。薄着な気がしたが、廊下の気温からして問題はないと判断した。随分と使っていなかったスマートフォンには、「10月2日」とあった。彼は着替えを終えると、通帳と財布、携帯を持って再び部屋を出た。
彼が階段を降りると、母親が食器を洗っているのが見えた。彼の方から見えるということは、彼の母親からも見えるという訳で、彼の母親は驚いて食器を落としてしまった。
「そんな格好してどうしたの? どこ行くの?」母親は割れた食器を無視してそういった。
紘泰は後ろ髪を引かれる思いがした。母親には散々迷惑をかけてきた。しかし、自分の中で「キャッチ・アンド・リリース」を倒さなければという義務感も確かにあるのだ。紘泰は答えに困り、一瞬、俯いた。
紘泰はその俯いた一瞬で、様々な事を考えた。何も言わずに家を出ればどうなるか。説明して家を出ればどうなるか。家を出る方法については何遍も考えたが、紘泰は「キャッチ・アンド・リリース」を倒す事を諦めるという選択は、考えてみる事すらしなかった。
しかし、紘泰はすぐに俯いた頭を元に戻した。考えがまとまったから、ではなかった。ただ、俯いていると不審に思われるから、それだけだった。何か取り繕わくてはならない。
「少し、ネットの友達と会ってくる」
彼は引きこもりらしく、ボソリとした声で言った。
「今から? もう、10時よ」
彼の母親は驚いたようにそういった。しかし、彼女が真に驚いたのは、時間ではなく、紘泰が外出するというその一点だったはずだ。彼は引きこもりを始めて2年になる。その間、一度も部屋を出る事などしなかったのだ。
「あぁ、イベントが朝早いんだ」紘泰はそう言うと、一拍開けて「それと、明日は泊まってくるかも知れない」と付け加えた。
彼の母親は相当に不審に思ったはずだ。しかし、それを追及するような事はしなかった。親心は、引きこもり息子が家を出ると言い出した事を喜ぶ事で忙しく、その喜びを妨げる事などとても出来ないのだろう。
「分かったわ。いってらっしゃい。気をつけてね」
彼の母親は、そう言うとようやく割れた食器を片付け始めた。
紘泰はその動きを手伝おうともせずに、頷いて「行ってくる」と言った。
キャッチ・アンド・リリース @gunzitozousaku
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