第6話

 久しぶりにこんなに走ったのに、その店は名前も外観も変わってしまっていた。


 看板のアルファベットを追ってみる。


「……アンナ……モエ……?」


 下がった視線。

 時計の針はもうすぐ1時を指そうとしてる。

 就職が決まった時に親から貰った腕時計。

 文字盤の細かい傷が、過ぎた年数を物語っていた。


 期待していた分、気持ちが沈む。


 この店のように俺たちも変わったんだ。

 やっぱりもう過去のことなのか。

 引き返そうだなんて的外れなことすんなって言われてんのか。


 乱れた呼吸を整えながら、そう思った。


「まぁ、懐かしい」


 今来た方角から突然聞こえたその声。

 思わず顔をあげると、紙袋を抱えたその人は嬉しそうに目を細め微笑んでいた。

 髪はさらに白くなり、きもち小さくなったその人。


 ――もしかして。


「学生さんの時、よく来てくれてたわよね?」

「……は、はい!」

「やっぱり!」


 もう一度、「懐かしいわ」と微笑み、店のドアに手をかけたその人は、あの洋食屋の奥さんだった。


「今は孫がやってるのよ。良かったらチェックしてやって」


 カランカランと鳴ったドアベルは嬉しいほどに懐かしい音で俺を出迎えた。



「……旨っ!」

「ありがとうございます」


 カウンター席に座り頼んだハンバーグ。

 運ばれてきたそれは、昔と変わらないビジュアルだったから俺をさらに興奮させたが、何より凄かったのは昔と味が変わっていないことだった。


 嬉しそうに頭を下げた今の店主の横で、前の店主の奥さんが微笑んだ。


「本当?厳しく言ってやっていいのよ?」

「あ、いや、めちゃくちゃ旨いです!もしかしたら前より旨っ……あっ!」


 俺の正直なその言葉を聞くと、奥さんは口を丸く開いたあと、再びフワリと笑いながら「あの人が聞いたら喜ぶわね」と店主に言った。


「そう?色々変えてるし……じいちゃん、怒るんじゃない?」


 苦笑いしながらそう答えた店主に奥さんは首を振る。


「いいえ。絶対喜ぶわよ」

「前と同じところも、前と違うところも、私は好きよ」

「きっとあの人もね」



 前と同じところも


 前と違うところも……か。



 その言葉がどうしてこんなに引っ掛かるのか、もう充分わかっていた。


 彼女を見かけたあの日、俺の奥に留まっていた気持ちが息を吹き返した。

 掛けていた鍵が外れた。


「ありがとうございます」


 ごちそうさま、ではなく、ありがとうと言った俺に二人は少しだけ首を傾げた。


 再会はただの偶然かもしれない。

 未来に、道はないかもしれない。


 けど、


 だけど、


 今、この店に一緒に来たいと思うのは彼女しかいない。


 過去に囚われすぎだ。

 失敗を想像しすぎだ。

 大人を意識しすぎだ。



 会いに行こう。


 迷っていた電話もかけてみよう。


 店を出た時、雲の隙間から陽が射した。

 今日の予報は曇りのち雨だったのに。


 空までも、俺を味方し始めた気がしてならなかった。

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