第5話
「先日はすみませんでした」
出社するなり彼女は深々と頭を下げてそう言った。
「まだ気にしてるの?いいからいいから!」
先週末、彼女は得意先への納品数でミスをした。そのことをまだ気にしているようだった。
私の言葉に裏なんてない。
私はちっとも怒ってなかったし、ちっとも気にしていなかった。
だって彼女は久しぶりに出来た可愛い後輩で、不器用ながらも毎日一生懸命なその姿は昔の自分と重なるような気がしてたから。
「……でも」
気にしなくていいと言われても引きずってしまうもの。仕事上のミスはそういうもんだということも分かっていたから。
「今夜、飲みにいこっか」
誘った直後、最近の若者は『飲みニケーション』を嫌がるのかなと一瞬心配したけれど彼女はすぐにとても嬉しそうに頷いた。
彼女が選んだ店は小さな小料理屋だった。
『かんだ』と書かれた暖簾をくぐると、それほど広くはないが、ほとんどのテーブルが埋まっていた。
私と彼女は小上がり席に案内される。
隣にはカップルだろうか。
一組の男女が枝豆を摘まみながらビールを飲んでいた。
カウンターに並ぶ沢山の料理は殆どが茶色だったが、どれもこれも母の手料理を思い出させる。
くるりと周りにも目をやると、どの客も自分の家にいるかのようにくつろいでいた。
「なんだかいいお店だね」
「ですよね!」
「うん、メニューも美味しそう」
「はい!美味しいんですよ!蒟蒻煮とか、きんぴらとか!」
「へぇ!」
興奮する後輩の言葉が聞こえたらしく、女将さんらしき人はとても嬉しそうにおしぼりを持ってきた。
だが、彼女が私を紹介すると、その人は急にかしこまり深々と頭を下げてから『息子がお世話になってます』と言った。
なるほどなるほど。
いい店だけど、若い彼女には似つかわしくないよな、と不思議に思っていた部分が解決した。
「あ~!あの子の実家なのか!」
「そうなんですよ!」
「へぇー!常連になっちゃお」
「是非!なんかこの間、タウン誌にも載ったんですよ!ね?!おばさん!」
ジョッキを運んできた女将さんは『端の方に小さくだけどね』と微笑んだ。
『タウン誌』
たった一つのそのワードが、私の時間をまた奪う。
「……そのタウン誌って」
「はい?!」
「あ、いや、何でもない!飲も飲も!」
カチンと合わせたジョッキ。
白い泡がフワリと揺れる。
私の気持ちもフワリと揺れたような気がした。
再会するまでの8年間。
その間ずっと引きずっていた訳じゃない。
時折思い出すことはあっても、こんなに頻繁じゃなかった。
だけど、あの偶然のせいで、あの日から私のその気持ちはユラユラと揺れてばかりいた。
ずっと心の奥の奥に留まっていただけだったのに。
あんな偶然はもう二度と起こらないだろうと思う度、寂しいと思う自分がいることに気がついてしまった。
彼の勤め先に行ってみようか。
いや、そんなカッコ悪いこと……
偶然を装ったら?
でも、もう彼が結婚してたら?
――私、傷付くんじゃない?
繰り返される自問自答。
もう何度めか数えきれない。
「もう!本当にいい加減にしてよ」
急に隣の会話が耳に入ってきた。
カップルだと思っていたが、そうじゃないらしい。
男の方が、彼女に言い寄っているようだ。
「俺たちきっと合うよ?」
見事なまでに断られているのに、その人は膝を抱えて嬉しそうに笑う。
そして、
周りの視線を気にして恥ずかしがる彼女に堂々と続けた彼の次の言葉。
「ああしとけば良かったって後悔だけはしたくないんだよね」
よく聞く言葉。
大したことない言葉。
それなのに、私の揺れる気持ちは何故かその言葉の強い力に引き寄せられてしまった。
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