第4話
あの日と同じ平日の昼間。
仕事の移動で乗った電車の中で、いつものように鞄から文庫本を出した時にふと思った。
昔はこういう本なんて読まなかったな、と。
読んでいたのは、漫画と、ファッション誌、あとはタウン誌くらい。
『あー!このお店行ってみたい!!!』
彼女と付き合ったきっかけは、そんな些細なことだった。
同じゼミ生だった彼女が、俺の見ていたタウン誌を横から覗きこみ、誌面の端に小さく載るその店を指差した。
その店は、老夫婦が営む小さな洋食屋さんだった。
『日曜日、一緒に行かない?』
『……いいよ』
その誘いをすぐに受け入れたのは、実は、俺だってその洋食屋が他のどの店よりも気になっていたからだった。
あの店はまだあるんだろうか。
『こんな美味しいハンバーグ初めて食べた!』
ナイフを入れた途端溢れだした肉汁と、ふんわり薫るブラックペッパーの香り。
口に入れた瞬間広がる肉の味。
添えられた千切りキャベツと人参のサラダも、マッシュポテトも、どこか懐かしくて旨かった。
『このタウン誌やるね!!』
彼女がそう興奮して言ったから、その本を選んだ自分のことまで誇らしく思えたんだ。
『どこが出版してんのかなー』
食後のコーヒーを飲みながら、彼女が裏表紙を嬉しそうに探った。
大企業への就職が決まった彼女と、小さな出版社への就職が決まった俺とじゃ、初任給やらボーナスやら……あらゆる待遇に差が出来るのは最初から分かっていたことだった。
でも、ほら、男は何だかんだ言ってもロマンチストだから。
現に彼女だって、俺の就職が決まった時には『いつか担当になって、あの洋食屋さんみたいなとこ発掘出来たらいいね!』と盛り上がっていたから。
二人の道は明るいと疑わなかったんだ。
『みんな仕事が出来るの!英語ペラペラの人も多くて!』
――うるさい。
彼女からの電話が苦痛になった日。
自分を否定されてるように思った日。
もう無理だと感じた日。
『別れよ』
彼女は泣いたから、俺も苦しくなったけど、でも心のどっかで「どうせすぐ同じ会社のやつと付き合うんだろ」とも思った。
彼女は俺と別れたあと、どう過ごしてきたんだろ。
夢中になると周りが見えなくなるタイプだけど、いつだって何にだって一生懸命なやつだった。
書類を睨む横顔は、好きだった時とちっとも変わっていない。
……集中すると、口が尖るんだよな。
思い出して笑いそうになった。
そんな時、車内のアナウンスが流れる。
次の駅は、あの洋食屋があった街の駅。
「……まだあるかな。あの店。」
空気が抜ける音とともに開いた扉。
俺は迷わずホームへと飛び出す。
もしまだあの店があったら……
もし、
……彼女がまだあの店に通ってたら。
逸る気持ちを抑えられない俺は、階段を急いで駆け上がった。
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