泣いた彼女とカップそば【2】

  妃月の問いに男は答えない。

 

 何も言わず、ただ、カップそばを差し出す。

 赤いパッケージの、乾燥させたてんぷらの入ったあのカップそば。


「あの・・な・・どういうことですか」

 

 男はゆっくりと首を右側に傾げ、カップそばを自分の手元に抱き寄せた。

 

 鋭かった目からは力が抜け、代わりにどうして受け取らないのかと訴えてくる。

 

 この様子だと、危害を加えたいとかそういう気持ちはないようだ。

 それにしても、いきなりの闖入者。


 呆然としていた妃月の頭が正常な感覚を取り戻し始める。

 暗闇に慣れた目で、彼をまじまじと見る。


 男の服装は、ロングティーシャツとジーンズ。ジーンズのポケットにふくらみは見当たらない。武器の類は持っていないようだった。

 ふ、と、息をため、一気に畳みかける。


「あの・・・泣くのに忙しいので、お金が目的でしたら、帰って下さい。

生憎と、お金は銀行ですし、内には金庫があって、それのなかに通帳と印鑑が入っています。楔があるので、持ち帰ることも容易くはありません」


 男は両腕をクロスさせの✖のマークを作った。依然、カップ麺は持ったままだ。


「強盗ではないと」


 二回ゆっくりと頷きながら今度は頭上で手と手を丸くつなぎ、○のマーク。


「そうですか・・」

 彼の顔から体にかけて見つめる。

 黒髪に、細い目、形の良い鼻に、尖った顎。男性にしては細すぎる体。

 乏しい表情にクールな印象を受ける。見目は整っている部類に入るだろう。

 身長は170cm後半だろうか、もっと高いのかもしれない。

 独特の雰囲気の男だ。

 学生のようだ、高校生か大学生あたりだろうか。

 

 何者であれ、とりあえず出ていってほしい。


 知らない男が自分の部屋に居座っているのは、脅威でしかない。


 それに、目の前の、乱れた部屋と自分。

 相手がどうであれ、この惨状を人に見られるのは堪える・・・。


 泥棒が入ったわけでもなく、帰宅10分で自分で

 この状態を築いてしまったのだから。

 

 男の足元を見やる。

 無数の、デザインの参考資料としての、健康食品のカタログ。

 踏まれてしまっているし。


「あの」


 私に危害を加えることが目的でなく、泥棒でもないなら、片付けるので、せめてそれからにしていただけませんか。

 言おうとしたが、妃月の意志は言葉にならなかった。


 男が、今度は手紙を差し出してきたからだ。


 白い封筒に入った、長方形の、宛名のない手紙。

 どこから出してきたのだろうか、妃月は無言を貫き、驚いていることを悟らせないようにした。


「読んでほしいということですか・・?」


 青年は頷いた。依然、家から出ていく気も、パンフレットの上から退く気もないらしい。立ったまま、妃月に手紙を差し出し続ける。


 カップそばは受け取ってくれなくてもいいが、この手紙は絶対に読んでくれ。

 目に再び力が宿る。

 そんなに強調するのなら、優先順位的に手紙の方を差し出せばよかったのではないか。


 彼女は疑問を飲み込み、黙って手紙を受け取った。

 封筒の中から三つ折りになった一枚の便箋を取り出す。


『203号室 佐内妃月様へ

 

 お世話になっております。

 

 突然のことで恐縮ですが、

 

 本日、当マンションに名田なだ 日々ひびさんが入居されます。


 名田さんは、お話しすること、文字を書くことが困難ということで、

 私が代理で筆を執らせていただきました。


 名田さんの生活面での補助は主に私がさせていただきますが、

 何かお困りの様子でしたら、

 お隣にお住みでいらっしゃいます妃月さんからもお助けしていただければ幸いです。

 

 当方、一週間ほど家を空けておりますので、書面でのご報告となってしまってしまい、真に申し訳ございません、何かとよろしくお願いいたします。


 ○○アバート 管理人 水澤』

 

 なるほど。


 彼が事情を語らない理由は分かった。

 

 分かったうえで、水澤と、目の前の名田に対して小さくため息をつく。

 もちろん8割は名田に対してだ。

 

 手紙を渡したいにせよ、こんなぶしつけな方法取らなくてもいいだろう。

 チャイムも押さず部屋に侵入してくるあたりや、事前に連絡がない辺り、安直すぎではないだろうか。

 

 妃月は、眉間につくってしまった皺を指で隠した。

 

 この手紙自体どうなんだろうか。

 

 話せないかけにしろ、差別的ではないだろうか。

(後から聞いた話だが、この時、チャイムは鳴らしており、加えて、大家からの手紙は名田自身が頼んだものだったらしい)

 

 でも、そういうことであれば、あのカップ麺の謎は解けた。

 

 あれは引っ越しそばということか。


 乾麵でもなくカップ麺というところが少し気になるが、常識はないが、贈り物をする気遣いはあるらしい。

 

 常識は土台でプレゼントはプラスαなのだから、先に常識を身に着けた方が良い気がすると、

 

 彼女が目を開けようとすると、すでに男は部屋から消えていた。

 玄関のドアがばたんと閉じる。

 

 残されていたのは、先ほど彼女が取り上げていたカップ麺と手紙だけ。

 

 一体何が起こっているんだ・・・。

 

 ひとまず彼女は、汚れた目元を拭い、立ち上がった。

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ベラドンナの魔法 伯田澄未一 @kanenonaruki

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