泣いた彼女とカップそば【1】

 日が沈む。街灯が帰路につく人々の足元を心許なく照らす。


 外では子供たちの笑い声が響く。


 子供と言っても、男子高生の下卑た笑い声。

 それと重なって救急車のサイレン近づく。


 音のない部屋では、混ざり合ったそれらが怖いもののように響く。


 ワンエルディーケイのマンションの一室。

 リビングはおろか玄関にも明かりはついていない。


 暗い玄関に靴は三足。

 インディゴブルーのコンバースのスニーカーに、

 ベロアのような素材の踵の低いグリーンパンプス、

 一足だけ脱ぎ散らかされている黒いパンプス。

 黒いパンプスは、手入れはされているが、踵は擦り切れ、中敷きも変え時を迎えている。一番酷使していると見える。


 玄関とリビングを繋ぐ廊下には、物が散乱していた。

 ノーブランドの茶色の地味な通勤鞄。


 その中から飛び出る大量のパンフレット。


 ざっと40冊ほどだろうか、すべてが鞄には収まらず、廊下にぶちまけられている。

 広告の山の中に目を凝らすと、スマートフォン、文具、付箋、歯ブラシ、コスメ類が埋もれていた。

 

 よく、部屋の状態は主人の心理状態を写す鏡だと聞く。

 それを体現するように、

 家主の彼女は、ぼろぼろになっていた。

 

 廊下とリビングの間のスライドドアのレールの上、彼女は、着の身着のまましゃがみこんでいた。


 埃と水滴にまみれた髪と、トレンチコート。

 中に着たシャツも、パンツスーツも、家庭での洗濯では落ちないほど汚れていた。

 デスクワーク仕様の通勤服ではありえるはずのない汚れ具合。

 

 通勤時にそうなったとしてもどの道をどう歩けばそうなるのかという風体。

 

 ゆるくパーマのかかった肩に触れるくらいの髪。

 ピンクベージュの淡色のネイルは、なにかをひっかいたかのようにところどころぎざぎざとして、剥げている。

 彼女の長い睫毛と頬は、涙で濡れていた。

 

 乱れた部屋にも、自分にも意識がない。


 浅い呼吸を繰り返し、声を押し殺していた。

 

 鼻をすする音と息だけが、彼女に所在を与える。


 ひたすら、それだけが役目だと言わんばかりに涙を流し続ける。 

 何かを偲ぶように。


 彼女は額を手で覆い、背中を丸める。ぼたぼたと、パンツスーツの太ももに透明な染みができていく。

 床にも染みは広がる。


 指の間から見つめている先には、散乱されたパンフレットの隙間から除く一枚の写真。

 彼女の眼はそこから動かない。

 動くことはないようでさえある。

  

 欠けた心が、涙に揺れて漂う。 


 どうして、私だけが、

 

 彼女が呟いた瞬間、


 ふと、何かが、彼女の背に触れた。


 この家に住んでいるのは彼女だけだ。


 彼女、名苑めいぞの 妃月きづきは、恐る恐る後ろを振り向いた。


 暗闇の中、かすんだ目が捉えたのは、線の細い青年だった。


 パンフレットを踏み敷き、妃月を見下ろしている。


 いつ入ってきたの・・・。


 背が高い彼に、しゃがみこむ彼女は凝視されている。

 

 目を合わせた。

 細い目の奥から、鋭い眼光が大きく瞬くのを見た。


 彼女は、その光を見て、

 止まるように動いていた部屋の時間が、

 その瞬間、間違いなく止まったのを感じた。


 施錠を忘れたにせよ誰かが侵入してくるだなんて。

 どうしたらいい・・・。

 なにもできない。


 ぼやけた頭で絞り出せた声は、幼稚な問だった。


「だれなの・・・」


 彼は、問いには答えず、手にしていたインスタントのカップそばを彼女に差し出した。


「へ・・?」


 不審な彼は、物を取るどころか、ご飯をくれる変人でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る