ベラドンナの魔法
伯田澄未一
プロローグ 日比の見た悪夢
魔がつくものは大抵良くないものだ。
浮かべてみよう。
悪魔、魔女、魔王、魔人、魔性。
それらは悪戯を好む。夢の如き誘惑で絡めとり、あらゆるものを貶める。
悪戯という名の非業をもたらす。
僕は、死の淵で、魔の囁きを聞いた。
「このままいなくなっていいの?何一つ成し得てないじゃない」
答えることのできない僕は、ただ彼女をねめつける。
「愛していいのは一人だけ。けれど、守る秩序もひとつだけ。
それだけなのよ?
それだけで、あなたはあの子の傍にいていいの。
生前も叶わなかったこんな奇跡を起こせるのは私だけよ?
あなた、本当にそのままでもいいの?後悔しない?」
これが罠だということはよく分かっている。
『一つ』だの『だけ』だの限定を強調してそれがいかに良い選択肢なのか、選ばない方がおかしいと僕を揺さぶる。
見え透いた簡単な引っかけだ。相手は魔女だ。取引が成立すること自体望むことは愚かしい。
でも、簡単なことを選ばずにいるのが、その実一番難しい。
彼女は、それ以降何も言わず、僕に手を差し出している。
声も出せず首も動かせない僕の答えを聞きたがる。
眼前の、一糸纏わぬ魔女。
息が詰まるほどのムスクとイランイランの濃厚な香り。
瞬きをするたびに憂いと耽美さを振り撒く漆黒の瞳。
艶やかでサテンリボンのようにするすると宙を舞う黒髪。
赤くはち切れんばかりに熟れた唇。
白さを極め何物にも染まらないというように主張する肌に、言葉を発する度にふるりとゆれる溢れんばかりの胸。
全てを凝縮させた魔性の微笑み。
なんてどうでもいいものなんだろうか。
僕も、笑えるものなら笑い返してやりたい。
お前に誑かされることなど、何に化けたところでないよ。
僕の全てはあの子に捧げるためにある。
呻き声を上げることができていたなら、みっともなく大声を上げていただろう。
体現したいことが全て制された中で、僕は、傷付ける気持ちだけで、力ずくで魔の手を掴み取った。
それが唯一の表明であり、敗北宣言だった。
魔女の笑みは一層深くなり、触れた手は滑らかで、神聖なものだと錯覚させようとする。彼女は彼の悪意などもろともせず、長い爪と赤い唇で呪詛の旋律を紡ぎだす。
無数の火花と、悪しきものの言葉の羅列が赤い形を伴っては舞う。
それらは優しく彼と彼女を包む。そして、くるくると彼の選択を嘲笑う。
「契は済んだわ。さぁ、行ってくると良い。
行って、死ぬほど楽しい思いをして、私と再びまみえる際は、もっとみっともなく可愛い姿を見せて。
あと、最後に一つだけ。秩序のこと、あなた、決して、声を出してはいけないわよ」
め!だからと、可愛らしく言って、彼女は自身の姿を薄くしていく。
「では、どうか、良い余暇を」
漂った言葉と残った香りを、彼は、鬱陶しく思った。
ひゅー、ひゅーと、みっともない息をして、
彼は、透明な声で、彼女の名前を呼んだ。
妃月、
どうか、どうか、消えてしまわないで、待ってて
彼の声は、淡く、薄く、誰にも聞かれることはなかった。
魔女の真っ赤な奇跡が、彼をばくんと飲み込んだ。
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