鈴川

第1話



教室に足を踏み入れたその瞬間から、ここは私の世界だ。みんなが私のことを見つける度に、笑いかけ、私に話しかけようとする。私は、にこやかにそれに答える。

真帆たちと一緒の学校に入ったのは、正解だったと思っている。もう二年生になった今でも、同中の仲間の絆は深い。自分で言うのもなんだが、私たちは、みな明るくコミュ力が高くて可愛い。だから一緒にいて楽しいし、心地いい。

可愛いは正義だ。クラスの大半のことは、私たちが何か言うだけで動く。文化祭の出し物にしても、つまらなそうな演劇から、真帆が一言言うだけで、コスプレ喫茶に変わった。別に強制したわけじゃない。ただ、そういう空気になるだけだ。私たちが、何かを言えば。

「文菜! 久しぶりだね!夏休みどっか行った?」

私が来たのを見つけた真帆たちが、私に話しかけてくる。明るく、屈託のない笑顔だ。

「ごめんね、海一緒に行けなくて。私めっちゃ行きたかったよ。」

「そうだよー、私も文菜と行きたかったよー。楽しかったよ! facebook見たでしょ? いいね押してくれてたよね。」明るくまくし立てる真帆は、同性の私から見ても、魅力的で可愛い顔立ちをしている。

「うん。でも全然焼けてないね。ちょっとびっくり。」

「もっと真っ黒だと思ってた? 最近の日焼け止めはヤバいよ、全然、焼けない。痒くもならないし。」

夏休み、私たちは、いつものメンバーで一泊して海に行く計画を立てていた。もちろん私も行きたいことはやまやまだったのだが、これだけはどうしようもない事情で、私だけ行くことができなかった。

「文菜、学校のプールも入らないしねー。水嫌いなの?」

「そうかも」

幼稚園児かよ、と突っ込まる。笑いが起こった。

「文菜、夏でも長袖だし。なんか勿体無いよね。夏、エンジョイしてる?」

「ほっといてよ、肌が弱いの。」

「そのための日焼け止めでしょ!」

また笑いが起こる。今度は、さっきよりは盛り上がらなかった。

それを悟ったのか、ねえ、と真帆が話を変える。

「なんか今日、転校生来るらしいよ。」

マジで!? と私たちは一斉にどよめく。

「それどこ情報?」

真帆は、秘密ね、と言わんばかりに口元に手を当てる。

「……先生からlineで聞いた。」

ニヤっと笑って私たちを見回す。私たちは一斉に騒いだ。

「ダメじゃん!生徒にそれ言っちゃダメでしょ!」

「ヤバいよあいつ絶対真帆のこと狙ってるよ」

「そもそもline交換してる時点でうちの校則じゃヤバいから。」

得意気に微笑む真帆を取り巻いて、私たちが口々に担任のことを冗談交じりに罵っていると、チャイムが鳴った。


朝のHRが始まる頃には、私たちのせいで転校生のことはすっかり知れ渡っていた。なんだか、今日はいつもより雲が少ないのか、カーテンの隙間から差し込む光が、随分真っ直ぐに見える。光は、床に無造作に置かれたカバンを照らし出す。学校指定の、カバン。制服と同じように、私たちを高校生だと証明するアイテムの一つ。

教室のドア越しに、誰かが近づいてくる足音がした。視線が集まる。硬い、ドアが軋むように開く音がする。

入ってきたのは、先生一人だった。先生は号令をかけさせた後、大げさに、もったいぶるようにして口を開いた。

「もう知っている人もいるかもしれませんが、今日からこのクラスに、もう一人仲間が増えます。」

「先生、それ知ってる!」と野次が飛ぶ。

先生は、少しうろたえる。

「おい、こら、騒ぐな!……ったく、誰だ、バラしたのは! 」

「先生でしょー」

「……とにかく、静かにしなさい!」

真帆のことを横目で見ると相当ウケているらしく、涙が出そうなほど爆笑していた。

先生はみんなが静かになるのを待って、ドアに向かって、厳かに入りなさい、と声をかけた。私たちはまた笑った。

今度は、ドアは音もせず開いた。そして、転校生は、静かに教室に入ってきた。

転校生は、髪の長い女子だった。

私は、彼女が教室に入ってきた瞬間、彼女の顔から目を離せなくなった。

けれどそれは、彼女の顔立ちが整っていたからとか、そういうわけでは、なかった。

私が、彼女のことを知っていたからだ。

永野理瀬。

かつて私の、唯一の親友だった女だ。


私は、校門で先生が配っている、新学年のクラス分けのプリントを思い出す。五年生の時は、確か緑の色紙。小学校の五年生になった時のことを、私は今でもはっきりと覚えている。

小学生にとって、その一年のクラス分けが持つ意味の大きさは、今のそれとは比べ物にならない。私たちは当時、世界と言えば家と学校しか知らないような、ほんの子供に過ぎなかった。

そして、私にとって、五年生のクラスは、最悪に近いものだった。

自分の名前をプリントの中から見つけ出し、同じクラスのメンバーを確認した時には、私はひどく落胆した。そこには、当時私と仲の良かった友人は一人もいなかった。私自身の友達が少なかったのもある。しかし、そうは言っても不運だった。私のクラスとなった三組にいたのは、あまり話したことのない人や、合いそうにないなと思って避けていた人たちばかりだった。


私の予想通り、新しいクラスに私が馴染むことはなかった。私は、周囲が完全に打ち解け始めた五月頃になっても、クラスのほとんどの人と口をきいたことがなかった。掃除、給食、話しかけられるイベントはいくらでもあったが、私は事務的な返答に終始し、他者と壁を作っていた。内気だった私は、中々誰かに心を許すことができなかった。


そんな日々を過ごしていく中で、私は、誰も私に話しかけてこなくなってることに気が付いた。数日の間、私は会話をしなかった。挨拶すらなかった。

いくら友達が少ないとは言っても、今までには絶対なかったことだ。新しいクラスでも、最初の一ヶ月くらいは、そんなことはなかった。私に何かと話しかけてくれるような、優しくて気の利く、そんな子は一定数いた。しかし、私の方が、彼らとそれ以上の会話をしようとすらしなかった。一人ぼっちの私を構おうとする善意の彼女あるいは彼も、そんな私にすっかり愛想を尽かし、もう話しかけてくることはなくなっていたのである。


それでも、これで良いと思っていた。誰とも話さなくても私は別に困らない。ただ、ほっておいてくれればいい。そんなことを、いつもぼんやりと考えていた。

私は余計なことで目立ちたくはなかった。できれば、誰とも関わらないことによって、クラスの中の有象無象として埋没していたかった。

それがきっと私の誤算だった。クラスのどのグループにも属さないことで、却って私は浮いていたのだ。けれど一人だった私は、そんなことに全く気付かなかった。

そのせいで、私への悪意は、急激に形を得て、大きく膨らんでいくことになった。


私がようやくはっきりと気付いたのは上履きを捨てられた時だ。

その頃の私は、朝早くから教室の隅で黙って本を読んでいるような、陰気な習慣を持っていた。早朝、誰もいない教室というものはホッとするものであったし、大半の同級生が集まったクラスに遅れて入っていくのは、輪に入れない自分の存在を実感してしまうので嫌だった。

その日も私はいつも通りに学校に着いた。いつも通りに、何列も並べられた白い下駄箱に向かった。毎朝繰り返している、身体に染み付いた行動だった。

しかし、私は靴を履き替えようとした瞬間、ある異常に気がついた。

いつもの場所に上履きがないのだ。

最初、私は、自分がうっかりして場所を間違えたに違いないと思った。きっと昨日帰る時に、私はぼーっとしていたのだろう。それか、誰かが間違えて私のを履いて行ってしまったのかもしれない。そう思いたかった。

どちらも、ただの現実逃避だなんてことは、すぐに分かった。

何故なら、私の上履きがあった場所には、小さなメモが残されていたからだ。小さく折りたたまれた、ノートの切れ端。定規で丁寧に切り取ったのであろう、整った紙の切り方だった。

私は震える手で紙を開いた。

ただ一言だけ、「死ね」と書かれていた。

下駄箱の脇に置かれた、来客用のスリッパを、私は履かざるを得なかった。ひどく屈辱的だった。こんなくすんだ緑のスリッパで歩き回り、事情の知らない同級生や下級生から好奇の目で見られ、挙げ句の果ては先生に詰問され、同級生に嘲笑を浴びせられるに違いない、数十分後の自分の姿を想像すると、私は言われるまでもなく死にたかった。


自分が置かれている状況を突きつけられたことで、今まで見えてこなかったものすら見えてくるようにもなった。すぐに私は人とすれ違うのが怖くなった。同級生たちが歓談している姿が怖くなった。彼女たちは、私に気付くまで楽しそうに話していたとしても、私の姿を認めた瞬間、顔を見合わせて、どこかへといなくなる。お前と同じ空気は吸いたくないと言わんばかりに。今まで私が気付かなかったことだ。私への迫害は、私が気付かない間に、もうどうしようもないところまで進行していた。

自分の存在を拒否され、無視され、時として暇つぶしの悪意の対象になる。私は、いつの間にか、虫以下の下等な生物へと叩き落とされていた。

少しずつ、私は、正気を失っていった。学校の外でも、私は歩くだけで、周りの人間に笑われている気がするようになった。すれ違う人の目は誰であろうと怖かった。陰で私を、バカにしているに違いないと思った。怖くて、外を歩けなくなった。人の目を見ることができなくなった。いつの間にか、誰とも喋らなくなった。

親に言うことはできなかった。親にだけは言えないと思った。もし誰かに相談したら、私へのいじめは本当に本物になってしまう気がしたのだ。私は、理性では、そのいじめが紛れも無く私に向けられたものだと気づいていたが、それでも、1%の誤解という可能性を、信じずにはいられなかった。私の心に残された、数少ないプライドの一つだった。


初めて私が永野と話したあの日、私は、教室左の後ろの一番隅の窓際で、息を殺すように机に伏して座っていた。昼休みだった。周りの同級生たちは、各自それぞれで集まって、時々私のことを見て、クスクスと笑っているような気がした。いや、それは錯覚だろうか? 私は一人で、寝ている振りをしようとしていた。窓から差し込む太陽が眩しくて、却って私は何も考えることができずに、ただ頭の中を真っ黒に染めていた。私の目の前は、影だった。それも私が作り出したものなのだというのに。

椅子から誰かが立ち上がるような音がした。

「え、マジで? 」

「やめなよって、ホントに?行くの?」

「待って、ヤバい私笑い死ぬ。」

そんな女子たちの嬌声と笑いが、クラスの中心から巻き上がった。これも、また、私に向けられたものなのだろうか? いや、間違いない。彼女たちは、私のことを笑っているのだ。私はひどく泣きたくなる。私が何をしたというのか、いや、何もしてないからか。それにしてもあんまりじゃないか。私は、ただじっと隅でうずくまっているだけなのだというのに。彼女たちの好奇の犠牲にならなきゃいけない理由なんてない。私は、伏せた顔が、どうしようもないほど真っ赤になっていくのを感じた。首筋に冷や汗がつたった。神様、お願いだから、もうこんな茶番はやめてください。私を、一人にしてください。そう心の中で祈っていた。


やがて足音が近づいてきて、私の席の方に近づいてきた。私は外界と自分を切り離すかのように、机の上に伏した顔を、更に縮こまらせた。

足音は、私の席の横で止まった。

「ねえ、黒崎さん。」

ハスキーな声が、私に話しかけてきた。

私を避けている同級生が、私に話しかけてきている。もちろん今更すり寄ってくるはずがない。不吉な予感に、私はただ怯えた。

「ねえ、黒崎さん。ホントは寝てないでしょ?それ寝たふりだなんて分かってるよ。」

少しかすれた声。

私は、それを聞いて、どうしようもなく死にたくなった。

私は、寝ているから、それでお前らとは口をきかないんだ。話しかけたいのに無視されてるような、そんな惨めなわけじゃない。そんなわけないじゃない。

そう自分に言い聞かせるまでもなく、私の狸寝入りは看破され、嘲笑われているのだ。現実を突きつけられて、私は、恥ずかしさのあまり死にたかった。もし少し私に運動神経があれば、私は横の窓を蹴破って、三階から飛び降りていたかもしれない。

それでも、それが私に残された数少ない抵抗の一つだったのだ。他にどうすればいいんだ?

トントンと肩を叩かれる。私は、思わずビクリと体を震わせた。恐怖によってもたらされた、きっと滑稽な動きだった。クラスの向こう側で女子たちが吹き出すのが聞こえた。私をバカにする言葉だろうか。私の胸に突き刺さるものだ。私の胸を突き刺すためだけの言葉だ。

「ちょっとやめなよ。私、黒崎さんに話しかけてるんだからさ。」

一瞬、教室が静まり返った。

皆が、彼女の予想外の言動に驚いていた。彼女は、事もあろうにいじめられっ子の私を庇ったのだ。それは、このクラスではタブーのことだった。

だが、一番驚いたのは私だ。

「ね、黒崎さん。ごめんね。起きたくないなら、起きないでいいよ。」彼女の声が静かな教室に響いた。彼女はそれを気にもしていなかった。私はただただ混乱していた。きっと他の女子たちもそうだっただろう。彼女は、そんなことなど考えもしないかのように、私の耳元に口を近づけて、そっと囁いた。

「放課後、体育館の裏に来てね」

それから彼女は、私のもとから去っていった。私は今起こったことの意味の脳内処理が追いつかなかった。


放課後、私が恐る恐る指定された場所に行くと、彼女は果たしてそこで待っていた。私は、その時、初めて彼女の顔を見た。すごく綺麗な顔をしていた。都会的に洗練されていて、何より肌が白かった。私は、自分の平凡で野暮ったい顔を恥じた。こんな美少女が、いじめられっ子の私に、何の用だか、想像するのも恐ろしかった。

「黒崎さん。こっち来てよ。」

遠くで固まっている私に気付いた彼女は、実にあっけらかんとした口調で私を呼んだ。私は、その声に引き寄せられるように、彼女に近づいた。

突然呼び出してごめんね、と彼女は笑った。

私は、何も言えなかった。

彼女は少し不思議そうな様子で、そんな私のことを彼女は大きな目で見つめた。それから、思い出したかのようにハッとした様子で言った。

「ねえ黒崎さん。私の名前、ひょっとして分からない?」

私は、彼女の質問に少し戸惑った。何を言われても、私は怖かったからだ。それでも頷くことには頷いた。事実、私は彼女の名前をその時まで知らなかった。

「私、永野理瀬って言います。みんなにはそのまま理瀬って呼ばれてるから、黒崎さんも私のことそう呼んでいいよ。」

私は、少し顔が紅潮するのを感じた。

「ねえ、私は黒崎さんのことなんて呼べばいいかな? 名前文菜だよね。」永野は楽しそうに、私に言った。

「……良い。普通に、そのままで。」

「そのままって、黒崎さん?それじゃ友達じゃないみたいじゃない?」

私が、そう聞かれても黙っているのを見て、永野は少し戸惑ったような顔を見せた。

それから、ふっと口調を変えた。

「ねえ、黒崎さん。よく、本読んでるよね。」

不意に向けられた真剣な眼差し。私は、少しだけ心を動かされたのを感じた。

「……読んでるけど。」

「だよね。この前、村上春樹読んでたでしょ。黒崎さんが読んでた本の、表紙がチラッと見えたの。」

「……それが何。」

私は不機嫌そうな顔をしていたと思う。相手に見せる拒絶の表情。私はあなたのことが好きじゃない、だからこっちに近寄らないで。それが私にできる数少ない抵抗なのだ。好きな人に嫌われるのは悲惨だけれど、嫌いな人に嫌われるのはまだマシ。だから私は、期待するのが怖かった。裏切られるのが怖かった。

それでも、そこで私が彼女と口を利いたということは、私が期待せずにはいられなかったということに他ならない。

「だよね!……実は、私もね、村上春樹すっごい好きなんだ。でも、本の話とかできる友達がいないから、今まで黙って家で読むだけだったの。」

私は、少し驚く。

「だから、黒崎さんが、村上春樹読んでるの見つけた時、すっごい嬉しかった。本のことを話せる人がこんな近くにいたんだ、って。」

そこで、永野は一息ついた。それから、少しだけ目を伏せるようにして、言った。可愛らしい顔に切なさが滲んだ姿。私は息を飲んだ。

「黒崎さんも知ってると思うけど、私の友達ね、あんまり黒崎さんのこと好きじゃないの。悪い子たちじゃない。ただ少し合わないってだけだと思うの。ほら、黒崎さん、いっつも寝てたりして、みんなと話そうとしないから。でも、そんなの黒崎さんの勝手だし、黒崎さんは傷ついてるかもしれないよね。ごめんね、こんな風に突然話しかけて。」

私は、考える間もなく答えていた。

「……いいよ。別に。」

良かった、と黒崎さんは破顔した。

「黒崎さん、やっぱり優しいね。私が思った通りだった。ね、今日一緒に帰らない。私、黒崎さんと話したいこと、色々あるんだ。」

私は、自然に頷いていた。


それから、私たちの、奇妙で、歪んだ交流が始まった。

と言っても、私の学校での立場が彼女と話すことによって変わったりするわけではなかった。

永野は、私と違って、明るかったし可愛かったし、だから友達も多かった。カーストの頂点にいる一人だった。学校での彼女は、クラスの中心人物で、私はカーストの一番下。あるいは、それ以下。関わりようがなかった。彼女は、私に初めて話しかけたあの時以来から、決して人前で私と話すことはなかった。クラスでは、彼女の友達がするのと同じように、私をいないものとして扱っていた。それでも、たまにすれ違う時だけは、彼女は私に向かってそっと目配せをして、私もそれに目で答えた。

私と二人になったときは、彼女は私に向かって、あの洗練された微笑みを浮かべ、あの魅惑的なハスキーボイスで私に向かって語りかけた。さも私たちが、打ち解けた親友同士であるかのような暖かさだった。

二人のときの私たちは、ひたすら本の話をした。昨日見たテレビの話や好きな芸能人の話の代わりに、昨日読んだ小説の話や好きな作家の話をした。

私は、彼女と話している間リアルな人間としての、いじめられっ子の自分を忘れていられた。目の前にいる永野理瀬は、全てを失おうとしている私に、残された唯一の友人だった。

彼女と私の間で、イジメの話題が出たことは数少ない。

彼女にしてみたら、その話はどのような気分でするものだったのか、今となっては、分からない。

それでも、彼女は、私に寄り添うように見えた。

「ごめんね。みんな、文菜のこと、少し嫉妬してるんだよ。文菜は、頭も良いし、誰に何されようと無視できるくらい強い人だから。でも、私みたいに文菜と話したい人、実は結構いると思うな。」

永野は、心から申し訳なさそうに謝って、それから、弁解するでもなく淡々と事実を告げるかのように、私への励ましを口にした。二人で帰る帰り道のことだった。私たちは、いつも、普通に歩けば20分もない道を、一時間かけて、ゆっくりと歩いた。

私は少し無理をして笑った。

「別に私大丈夫だよ。私は友達がいっぱい欲しいとか、そういうのに興味ない人だから。今はこうやって、理瀬が私といてくれるし。」

「本当に、ごめんね。私がもっとみんなに言うことができれば、文菜だってこんな思いをしなくていいはずなのに。」

「大丈夫だって! そんなことしたら理瀬が今度はイジメられちゃうじゃん。心配しないで。私、こう見えても強いから。」

「……本当?」

「ホントだよ。」

力強く頷く私は、同時に自分にも言い聞かせていたのかもしれない。

永野は、私に向かって、少しだけ潤んだ目をしているように見えた。

「……私は、文菜と友達になれて良かったと思ってる。大好きだよ。」

それから永野は、唐突に私に抱きついてきた。

私は、その瞬間、どうしようもないほどの感情に襲われた。

それは、全く、私にとって予想外の出来事だった。

私は、顔を永野に見られないように顔をそむけた。私は、手で永野を押し剥がそうとした。彼女は、少し頬を膨らませるようにして、私に抱きつくのを止めた。

「怒った?……ごめん。」

そんなんじゃない、と答えたかった私の声が、声になっていたかは分からない。心配そうに顔を覗き込もうとする永野から、必死で顔をそむけつづけていた。

私は、泣いていた。絶望の中に生きていた私にとって、その言葉は、始めて誰かが与えてくれた、大切な宝物だった。彼女の言葉に依存していく私に気づいて、私は我ながら気持ち悪いと思い、それでも涙を止めることができなかった。だから、永野には、絶対に見られたくなかった。

その日の夜は、ずっと彼女の言葉を思い出しては胸の上で転がしていた。それから、彼女の言葉を抱きしめて寝た。


私は、夢中だった。永野の存在は、私が過ごしている暗く重い現実の中で、一つの完璧なフィクションのように思えるほど、輝いている光だった。どんなに学校で惨めな思いをしても、私は永野と話している時にはそのことを忘れていた。忘れられていられた。それはちょうど、ベッドの上でふと感じるどうしようもないほどの倦怠感と絶望を、手首に小さな切り傷を付けてやり過ごすのに似ていた。

白状しよう。私は、小学5年生のうちからリストカットを覚えていた。イジメがきっかけで始まった私自身のその悪癖は、小学校6年生の時に最も頻繁に私を襲い、中学の2年生まで、習慣として残り続けた。手首に残る傷跡は私の黒歴史だが、それでもたまに、今でも衝動的に、私は自分を傷つけたくなる時がある。ふと、油断した時に、私は自傷の鋭くも甘美で恍惚とした痛みを思い出す。そんな時、私は、左手首がしびれて何も感じなくなるまで、絞るように右手で握り続ける。これが、私の罪なのだ。私は自らに言い聞かせずにはいられない。ふと気付いた時の、罪悪感と、どこからともなく訪れる安堵に、私は顔を枕に埋めて、泣く。リストカットを止めて数年が経った今でも、私は痛みに依存し続けている。

そして私は、当時痛みと同様に、いやそれ以上に、永野に対しても深く依存をしていた。


私が永野への依存を深めていくのと比例するように、私へのイジメもその苛烈さを増していった。

いつかのように上履きが捨てられるだけであったら、まだ良かった。無論その頃には、私は毎日上履きを持ち帰らなくてはいけなかった。もし、放って帰ったら、私の上履きは切り刻まれ、汚水に漬け込まれた状態で、異臭を放ちながら私の下駄箱に乱暴に放り込まれていたことだろう。

奴らは巧妙だった。先生には、バレるかバレないかくらいのグレーなラインを守り続けた。だから、彼女たちは、決して私の机に大きく落書きをするような、目立つことはしなかった。

代わりに彼女たちは、小さな嫌がらせを延々と続けた。

私が歩いていたら足をかけて転ばせた。間抜けに痛がる私を横目で見て、彼女たちは笑った。

私の給食には、クラスの男子に唾を吐き捨てさせた。私が残すと彼女たちは大きな声で咎め、私が食べたら彼女たちはクスクスと嘲笑した。

私をトイレで後ろから押し倒し、汚いと言って、やはりクスクスと笑った。

私のランドセルの中に、潰したゴキブリを放り込んだ。彼女たちは私を笑った。

彼女たちは、私を遠巻きにして笑い、あるいは無視をし、残酷な無邪気さを以って、私のことを徹底して迫害した。

私はその度に、自らをどうしようもなく惨めに思い、彼女たちを恨んだ。学校に行くんだったら死んだ方が遥かにマシだった。それでも、私は永野のことを思い出した。教室で永野のことを目で追うと、彼女はどうしようもないほどに輝いていた。それでも、彼女は私と目を合わせると、とても真っ直ぐに私のことを見てくれた。私は、それで、かろうじて生きていられた。

かろうじて、世界にいられた。


「ねえ。」と私が永野に聞いたのは、やはり永野との帰り道だった。暑い日だった。私も永野も、うっすらと汗をかいていた。大きな雲が、私たちの前に聳え立って、私たちのことを見下ろしていた。

私は、夏の空気の中で、どうしようもないほどに感傷的になっていた。唐突に訪れたそれは、私自身の抱えたストレスの裏返しだったのだろう。

「何?」

私は、永野に伝えずにはいられなかった。

「私って、そんなに気持ち悪いのかな。」

真顔で突然そんなことを言う私のことを見て、彼女は少し困ったように笑った。

「どうしたの、急に。」

そう言われて、何も言えずにうつむく私を見て、永野は言った。

「……全然そんなことないよ。みんな知らないだけ。少なくとも、私はそんなこと思わない。」

「……ホントに?」

「ホントだよ、嘘なんか言うわけないじゃん。」

彼女は微笑んだまま、私の目を真っ直ぐに見て言った。

私は、彼女の言葉にすがりつきたかった。彼女だけが私の光だったのだから。

「……ずっと、友達でいてくれる? 私のこと、見捨てないでくれる?私ね、誰に気持ち悪いって言われてもいいの。そんなことは気にしない。でも、理瀬、あなただけにはそう思われたくない。あなただけには見捨てられたくない。じゃないと、私、死んじゃう。」

彼女は少し虚をつかれたように目を開いた。

「絶対見捨てないよ。私理瀬のこと大好きだから。前にも言ったでしょ? 私のこと信じていいよ。絶対、見捨てないよ。」

「……ありがとう。」

「文菜、ずっと友達でいようね。」

うん、と私は泣きながら頷いた。こんなことを言ってくれるのは、永野だけだった。私は、彼女みたいな人と出会えて本当に良かったと思った。


私へのイジメに沈黙が訪れたのは、それから、日の経たないうちのことだった。

もちろん、私への無視だとか、小さな嫌がらせは、毎日の欠かせない習慣として続いていた。しかし、私に消えないトラウマを残すような、大きなイベントは、陰を潜めた。ある意味、少し拍子抜けのような日々が続いた。

私は、もちろん嬉しかったが、却って不安だった。なんだかとても不吉な気がしたのだ。

永野にイジメが和らいだことを伝えると、彼女は、良かったね、と喜んでくれた。

それでおしまいだった。

どことなく、他人事のような、感じだった。

私は強烈な不安に駆られた。思わず、聞いてしまった。

「理瀬、どうしたの?」

私がそう聞いても、永野はやはり、心ここにあらずといった様子で、ぼんやりと違いところを見つめていた。私の声は耳に入っていないようだった。

「ねえ、聞いてる?」

「……あっ、ごめん。なんだっけ。」

「理瀬、なんかおかしいよ。」

私の不安そうな表情に気が付いた永野は、笑顔をとっさに作って首を横に振った。

「そんなことないって。文菜、心配してくれてんの?」

ありがと、でも大丈夫だからと私に微笑む彼女を見て、私も、笑った。

それから永野は、またいつものように、快活で、一緒にいて楽しい、普段の永野に戻った。私も、なんでもないんだと自分に言い聞かせるようにして、彼女の前でのいつもの私のように振る舞った。

でも、彼女が何かを隠しているような、抑えきれない不安は、家に帰ってからも、私の胸の奥に燻り続けていた。


そして、あの手紙が来た。

それは、私の机の中に入れられていた。

私は、いつも机の中を確認していた。じゃないと、何が入れられているか分かったもんじゃないから。汚いものを見るのは嫌だけれど、気付かない方がもっと嫌だった。ただ、実際のところ、今まで机に嫌がらせをされることは、ないわけではないが少なかった。

だから、白い紙片を見つけた時には、いつかの下駄箱のように、不吉な予感で胸が騒いだ。そんな不吉な手紙は、見なかったことにして、ゴミ箱に捨ててしまいたかった。

だけど、私は、それを開かずにはいられなかった。

教室の一番隅の私の机で、私は震える手で、その手紙を開いた。

そこには、二つの単語だけが、書かれていた。

『放課後。教室。』

私は、少しだけホッとした。永野からのメッセージだと思ったからだ。いっつも私たちは、一緒に帰るために、体育館の裏で待ち合わせていた。私は面倒ではなかったが、帰り際毎日あそこまで行くのも、永野には面倒だったのかもしれない。だから、これからは、教室でいいよ。この手紙はそう言ってるんじゃないか。

それが私の淡い期待だった。

もちろん、不安が胸に燻り続けていたのは言うまでもない。

だが、希望は、例えそれが一つだけでも、私のことを縛り続けるものなのだ。


その日の放課後は、まず、いつも通りに帰る振りをした。確認のために、体育館裏にも言った。ひょっとしたら、あの手紙は永野からじゃなくて、彼女はいつも通りにそこにいるかもしれないと思ったからだ。二人の普段の待ち合わせ場所を覗いて、誰もいないことを確認した私は、いよいよあの手紙は永野からのものだったんだという、根拠のない希望を、強く持った。

人のすっかりいなくなった玄関口を通り抜け、階段を一段飛ばしで登った。教室のある3階には、すぐに着いて、私は踊り場で、荒げた息を、少し整えた。私の教室は、廊下の一番奥にあった。

廊下の向こう側からは、日の光が少し差し込んでいて、窓の辺りは輝いて見えた。私は、その光に向かって、少し早歩きで歩き出した。永野が待ってると思うと、胸が弾むのが常だった。早く永野に会いたかった。そこの教室に着けば、私は永野と会えるのだ。


私が彼女たちの声に気が付いたのは、教室まで残り数メートルの所だった。


キャハハハハハ、と笑う嬌声。

確かに、その教室から漏れ聞こえてきたものだった。

確かに彼女たちの声だ。

私をいつも遠巻きに笑い迫害する、彼女たちの、声。

私は、驚きに固まった。

なんで彼女たちがここにいるんだ?ここには、永野しかいないはずだ。永野が私のことを待っているはずなのだ。

何かがおかしい。何かが決定的に間違っている。

私は恐怖に囚われた。踵を返して、一刻も早くこの場から立ち去って、もう一度体育館の裏へ行こう。きっと永野はそこにいる。さっきはすれ違いになっただけなのだ。もう一回行けば、私の到着が遅いことを少し気にかけながら、それでも笑って待っている、いつもの永野がいるはずだ。

しかし、私は、そこから離れることができなかった。

教室の中から漏れ出す、彼女たちの声から、耳を離せなかった。

不快で、おぞましい幾つもの声に混じって、ある声が、確かに聞こえてきていたからだ。

少し擦れて、それ故に一層魅力的な、ハスキーな声。

私が、帰り道にいつも聞いている声。

いつも私のために語られる声。

永野の声だ。


私は、音を立てないように、そっと教室に近づいた。横開きのドアはかすかに開いていた。ちょうど、私が覗けるくらいに。

中を見ると、五人ほどの少女らが、教室の後ろの方で、輪になるように談笑していた。そこには、やはり、永野の姿もあった。

彼女たちは、私のことを迫害する時の、あのおぞましい笑顔そのままで、楽しげに笑い合っていた。永野も、そこに馴染んでいた。

早口で、一人の少女が何かを言う。同時に、破裂するように笑いが起こる。甲高い、心底耳障りな声。

一通り笑いが収まってから、また、別の誰かが言った。今度は聞き取れる速さだった。

「でもあいつ、理瀬のこと大好きだから。理瀬もあんなやつに付き纏われて大変だよね。」

また巻き上がる爆笑。心底おかしそうに、机を叩いて笑い転げる、醜い少女たち。

「あいつマジキモいわ。理瀬がちょっとからかったら、マジで理瀬のこと友達だと思い込んで。」

「違うって、友達じゃなくて親友なんでしょ? 他の誰に嫌われても理瀬ちゃんだけには嫌われたくない、私、理瀬ちゃん大好き!って、何様? マジウケる。」

「で、理瀬的にはどうなの、あの女。あんな付き纏われて、キモくないの?ねえ、理瀬?」

少女が理瀬に水を向ける。一瞬、少女らの視線が理瀬に集まる。私も、理瀬のことを見つめる。

そんなことないよ、と理瀬は少し照れたようにはにかんだ。

「実際、話してみると面白いよ。」

「は?それ本気で言ってるの?」

うん。と理瀬は少し戸惑ったように笑った。

私は、そんな理瀬を、ドアの影から見つめていた。

ああ、理瀬は本当に私のことを親友だと思ってくれてるんだ。泣きたいくらいに、私は感動した。すごく、嬉しかった。

理瀬はそんな私に気付くことなく、続けて言った。

「頭お花畑って感じで。」

「ん、それどういう意味?」と少女らが彼女に聞く。

「黒崎、私のことね、ホントに親友だと思い込んでるから。」

私は彼女が何を言っているのか分からなかった。

「そんなわけないのにね、理瀬大好き理瀬大好きって、黒崎、私に向かってずっと言ってくんの。理瀬がいなくなったら、死んじゃうって。ほんっと、マジで、気持ち悪い。」吐き捨てるように理瀬が言う。

「じゃあ、理瀬、黒崎のこと嫌いなの?」

「嫌いに決まってんじゃん。ちょっと話しかけたら、ずっとずっと付き纏われて、気持ち悪くないわけある? しかもあんなイタい奴に。正直。すっごいストレス溜まってるんだよね。」

理瀬は私の僅か数メートル向こう側で、私の全く知らない顔をしていた。

「この前なんかマジで悲惨だったんだよ。『あなただけには見捨てられたくない。じゃないと、私、死んじゃう。』って、泣きながら言われたんだから。もう、私ドン引き。」

理瀬は、わざわざ私の声を真似して見せた。少女たちは、どっと笑った。

「何それ、めっちゃウケる。」

「理瀬今のもう一回やって! その黒崎の声真似。似てるわ。」

理瀬は少し照れたように笑って、リクエストに応える。

再び巻き起こる爆笑。

今までのどの笑いより、激しくて、卑劣な笑いだった。

私の、親友の、理瀬。

私の言葉を、私の告白を、笑いものにしている、理瀬。

気持ち悪いと、私を笑う理瀬。

私の、唯一の、親友。

頭の中が真っ白になって、私は何も考えずに、教室のドアを蹴り開けた。


ガシャンと乱暴に開いたドアの音に、少女たちが一斉にこちらを振り向いた。

私は、その場に立っていた。

身体中を屈辱と怒りが駆け巡って、私はひどく混乱しながら、立っていた。自分のいる状況だとか、自分が今から何をしようとしているだとか、そんなことを考える余裕はなかった。

少女たちは、私のことをニヤニヤと眺めていた。

ただ一人、理瀬だけが私を見つけて呆然としていた。

「……何、ひょっとして黒崎さん、今の話聞いてたの?」

一人の少女が私に向かって、下品な笑みをその顔に貼り付けたまま、ゆっくりと近づいてきた。

「ね、黒崎さぁん。今、どんな気持ち? 親友と思ってた理瀬に」

私はその女が何かを言い終わる前に、足の裏でその女を蹴り飛ばした。それから、真っ直ぐに理瀬へと詰め寄った。

「痛っ……ちょっとなにしてんのよあんた!」

「……うるさい」

手の届くところまで理瀬に近づいた私は、そこで少女たちに羽交い締めにされた。

「……やめろよ!!私は理瀬に話があるんだよ!!」

地面に容赦なく叩き落される。鼻が床と思いっ切りぶつかって、変な感触がした。 痛みを感じるような余裕はなかった。

「ねえ、理瀬……今の嘘でしょ?」

私は、床に押し付けられたまま、目の前の理瀬を見上げた。理瀬が、引く顔が見えた。顔に生温かい感触があった。私は、どこからか血を流しているようだった。

「……何が。」

理瀬は、少し青ざめた顔で、それでも声を震わせずに、いつも通りのハスキーボイスで言った。

私は必死だった。

「私のこと、理瀬、前、見捨てないって言ったよね、嘘じゃないよね。ねえ、理瀬、嘘じゃないでしょ。」

理瀬は、その冷酷な顔のまま、目を真っ直ぐ私に向けた。

「ねえ、答えてよ。理瀬。」

後ろで、少女が一人吹き出した。すぐに、怖じ気付いたようにその笑い声は止んだ。

しばらく、沈黙があった。

私は、縋るように理瀬のことを見つめていた。

理瀬は、笑うように少し口元を歪めた。

今まで見たことのない、理瀬の、酷くグロテスクな顔だった。

彼女の目の中に、瞳が見えた。

どす黒く醜悪な色をしていた。

「そんなわけないじゃん。」

「……え、」

「だから、そんなん嘘に決まってんじゃん。今の聞いてたんでしょ。分かるだろ。」

私は息をすることができない。

「……嘘。」

「当たり前でしょ。大体私と文菜じゃ世界が違いすぎるじゃん。思わなかったの? なんかおかしいって。まさかホントに、私と友達だって信じてたの? バカじゃないの? 」

私は呆然として何も言えない。

「大体あんた気持ち悪いんだよ。聞いてたんだから知ってるよね。突然私に向かって変なこと言ってきて。見捨てないでとか、死んじゃうとか、私、鳥肌っ立ったわ。そういうのなんて言うか知ってる?知らないよね、メンヘラって言うんだよ。」

顔面蒼白の私を見て、理瀬は続ける。

「だからイジメられるんだよ。っホント気持ち悪い。前から言おうと思ってたけど、これから金輪際私に関わらないで。話しかけないで。気持ち悪い。」

呆然とする私に、理瀬は更に言い募る。

「ジロジロ見んじゃねーよ。穢れるんだよ。」

穢れるだって、と私を押さえつけていた少女たちがクスクスと笑った。いいこと言うじゃん理瀬。それでこそ私らの友達だよ。

理瀬は、その端正な顔を歪めてみせると、心から不快だという風に舌打ちをして、それから私の顔に唾を吐いた。

ぶはっと少女たちが笑い転げた。

私は、その隙に、背中の少女たちを払い落とした。肘で思いっきり脇腹を殴りつけた。痛い、と叫ぶ声が聞こえた。

私は立ち上がった。立ち上がって、理瀬の目を真っ直ぐに見ようとした。

目に、吐きかけられた理瀬の唾が入った。血と混ざって、私は目の前がよく見えなかった。

分かってても聞かずにはいられなかった。

「……理瀬、」

「さっきから言ってんじゃん。キモいんだよ。」

理瀬がそう言うのと同時に、私は、少女たちから背中を思いっきり蹴られて、もう一度床に叩きつけられた。

今度はもう、立てなかった。

ドアの音がして、少女たちの声が遠ざかった。

教室には誰もいなくなった。

私はもう立ち上がれなかった。

血と涙と理瀬の唾が混ざり合って、教室の床に染み込んで行った。


その後、私は学校に行くことができなくなった。今までどんなひどくても耐えることができたイジメに、もう立ち向かうことはできなかった。

私はしばらく不登校になって、それから転校した。

誰も私を知らないところへ行きたかった。


転校先では、私はもうイジメられることはなかった。私は、どうして自分がイジメられたかをなんとなくは理解していたし、どう振る舞えばいいのかも分かった。内気で、暗い少女には、その子なりの生き方があるのだ。ただ、外れないように生きていればいい。それに、新しい学校には、前のような嫌な空気はなかった。


それでも、私は、時々痛烈な虚無と絶望に苛まれて、ベッドの上でリストカットを繰り返した。


中学生になってから、私は、少しずつ自分を変えようと思い始めた。中二の夏休み、私は髪型を変え、スカートの丈を上げた。化粧も覚えた。一ヶ月ぶりの学校で、私を見る同級生の目が変わっているのに気が付いた。私は、話しかけられることが増えた。普通に喋っているうちに、少しずつ友達も増えていった。中学三年生になると、彼氏もできた。私は、残り一年の中学校生活を、友達や彼氏と遊んで過ごした。成績は良くなかったが、親は私に何も言わなかった。高校は、友達の多くが行くところを、あまり考えずに適当に選んだ。本を読むことは少なくなった。その代わりに、空疎なおしゃべりを以って、私は時間を浪費した。いつの間にか、高校に入ってから一年が過ぎ、更に数ヶ月が過ぎた。私は高校二年生になっていた。

私は、すっかり新しい自分を見つけた気分でいた。


そして今日、私は再び、思い出したのだ。

永野理瀬。

忘れる訳もなかった。忘れたくても、忘れられるわけがなかった。

彼女の顔を見て、私がどんなにショックを受けたか、言葉にできない。

私はパニックになりそうだった。

頭の中でクエスチョンマークが膨れ上がる。

なんで、どうして。どうしてあの女がここにいるの。私がやっと見つけた楽園に、どうして、あの女が。

これは何の悪夢だろうか。夢なら良かった。震える歯が、私の口の中でカチカチと音を立てた。それがこの世界を現実だと証明していた。私は、泣き出したかった。記憶がフラッシュバックして、私は自分がどういう人間だったか思い出した。

どうしようもなく逃げたかった。


「……静かに! それじゃ、永野さんには自己紹介をしてもらおうかな。」黒板を背にしたまま、まだうるさいけど、と担任が小声でぼやく。また、何人かが笑った。

私は、青ざめきった顔で彼女のことを見つめていた。

彼女は、幸か不幸か、私に気づいていないようだった。

それもそうだ、と私は心の中で呟く。自分自身を勇気づける。私は変わった。あの時は、地味で冴えない少女だった私も、今じゃあの時のあんたと同じように、クラスの中心にいる。

そう簡単に、気付かれてたまるか。

彼女が口を開く。教室中の注目が一瞬にして集まった。

「……永野、理瀬って言います。親の、都合で、転校してきました。皆さんと、仲良くできたら、いいな、と思ってます。よろしく、お願いします。」

それだけだった。ハスキーな声は健在だったにしろ、私は拍子抜けすると共に驚いた。

真帆が横で、ハイハイと先生の返事を待たずに手を挙げる。

「質問です! 部活は何かやってましたかー?」

ひっと、一瞬、永野は怖じ気付いたかのように息を漏らした。

「……帰宅部、でした。」

こらっ、と担任が声を荒げる。

「勝手に質問するな! 永野さんが怯えるだろ!」

「でもセンセー、私、今、手挙げましたよ?」

「手を挙げりゃなんでもいいってもんじゃないだろ、……ったく。」

担任と真帆のやり取りに笑うクラスメートをよそに、私は、永野の変貌ぶりに驚いていた。

あの頃のように整って魅力的な顔立ちはそのままなのだが、かつてあった華やかなオーラは失われ、幸の薄そうな、そんな雰囲気を醸し出しているようにも見えた。

久しぶりに現れた永野は、もはやかつての彼女ではなかった。

かつての彼女は、明るく、いつでも自信に満ち溢れているようなオーラを放っていた。こういう自己紹介が得意で、少なくとも、こんなにたどたどしく、怯えて話すことはなかった。

私は、彼女を再び凝視して、気付いた。

彼女の目は、いじめられっ子のそれだった。怯えて、動揺して、いつも周りのことにビクビクして、何もすることのできない、弱者の目。

私は、彼女の身に何があったのかを悟った。

同時に、私は、ある形容しがたい感情が、胸のうちから燻り上がってくるのを感じていた。黒く、重たい、煙のようなその思いが、私のことを捕らえた。

今の私は強い。ちょうど、かつての永野と同じように。

今の永野は弱い。ちょうど、かつての私と同じように。

私は、先ほどまでの恐怖、そして驚愕、それらが全て、胸の中で、一つの感情へと収束していくのを感じていた。甘美で、強烈な誘惑だった。

私はきっとこの誘惑に抗えない。

机の下でそっと手を握りしめた私は、自分がひどく汗をかいているのに気が付いた。なんだか気分が悪かった。ゾッとするほど体が重かった。

そんな私の様子に気が付いたのか、横から真帆が声をかけてくる。

「文菜、大丈夫?」

「ごめん、なんか私気分悪いみたい。」

「ちょ……先生! なんか文菜が気分悪いみたいです! 保健室連れてっていいですか!?」

大丈夫か黒崎、と声をかけてくる先生を尻目にして、私は真帆に肩を借りて教室から出て行った。

教室の中で呼ばれた私の名前に、永野が振り向いた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。



私は、あんたに、必ず復讐してやる。

どんな手を使っても、かつて私が受けた痛みを、そっくりそのまま味あわせてやる。

必ず。


保健室に連れてかれた私は、真帆の心配そうな顔に対して、大丈夫だからと教室に帰ってもらって、一人ベッドの上に横になっていた。

夏でも手放せない長袖をまくる。

リストカットの傷跡が目に入る。

私は、震える右手で、その傷跡を、痺れるままに握りしめる。

強く、強く。これ以上、私を痛めつけられないように。

疲れ切った私は、やがて手首から右手を話す。血が、まだ手にこびりついているような気がして、私は立ち上がって手を洗いに行く。

トイレには誰もいなかった。

石鹸でガムシャラに手を洗う。

洗面台の、鏡を見る。

私の顔が目に入る。

私の目が見える。

私の瞳。

どす黒く濁った、醜悪な瞳。

ああ、私はこの瞳を知っている。

かつて私が、世界で一番軽蔑していた、そんな瞳だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鈴川 @drmeobook

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ