異世界生活35日目昼、ビラレッリ邸にて


「チョコレート? チョコレートって何?」


「え、ザザさん知らないんですか……!?」

「うん」


 頷いたザザに、なにやら咲はひどく衝撃を受けていた。


「……なんという事でしょう……! という事は、この街にはチョコレートがない? という事はという事は、この先当分食べられない? ……ひえええええええええ」


 信じられないといったように首を振る妹の隣、幹人は照治と目を合わせる。


《照兄、普通の人よりは色んなものに触れる機会が多いだろうザザが知らないって事は》

《この街っつうか、この国、もしかするとこの世界にはないのかも知れんなあ》


 二人の間だけで交わしたそんな想話の内容はもちろん、大変なショックを受けているらしい妹にはとてもじゃないが聞かせられない。

 黙っておくという優しさもあるだろう。そう考えながら、ビラレッリ家のダラダラ部屋で幹人は今日のおやつとして出てきたカヌレのような菓子を齧る。ふわふわとした食感で、これがなかなか美味しい。


「チョコレートってそんなに美味しいの? どういうお菓子なの?」

「えっと、甘くて、でもちょっと苦くて、黒くて……」

「甘いのに苦いの? 黒いの? サキ、それは焦げちゃってるんだよ」

「焦げちゃってるんじゃないんですよ! 違うんです! とっても美味しい素敵な塊なんです! 砂糖とかもドバーって入ってて!」

「じゃあそれは砂糖が美味しいんだよ。……あ、わかった、砂糖を焦がしたお菓子だ。わざわざ焦がして食べなくてもいいのに」

「違うんです!」


 愛するチョコレートの尊厳を守ろうと必死の咲である。彼女はやがて、幹人と照治の服を掴んでグイグイと引いてきた。


「お兄ちゃん! 照兄! チョコレートの素晴らしさを説明してあげて下さい!」

「うーん、兄ちゃんたち、別にチョコレートに詳しくないんだよなあ……。なんかね、ザザ、カカオっていう植物の実を……何してるんだろ? 粉砕したり焙煎したりだっけ?」

「だっけなあ。そんで、砂糖とか牛乳とかと一緒の容器にぶち込んでグチャグチャにかき混ぜて熱を加えてドロドロにして、最終的に冷やして固めて食う」

「なんか、まったく美味しそうではないですね。回りくどいですし」


 ザザの反応は、そう言われるとそうである。


「うーん」


 とりあえず曖昧な記憶で製法の解説を試みたが、素晴らしさの説明にはまったくならなかった。何か表現を間違っただろうか。


「咲、チョコなんて別にそんな大したもんじゃないかも知れん。わざわざすったもんだやってあんなもん作らなくてもいいんじゃねえかな」

「あー裏切った! 私とチョコを裏切りましたね!」


 照治の言葉に妹は眉を吊り上げている。

 そんなやり取りをするこちらを見ながら、ザザは皿に盛られた菓子をパクパクと次から次にテンポよく口に運ぶ。彼女が買ってきたものなのでもちろんまさか文句などないが、かなりハイペースだ。

 チョコに疑問は呈しているものの、三日に一回はこうして甘味を買い込んでくるので、甘いものが好きなのだろう。


「バレンタインっていうイベントもあるくらいチョコは素敵なものなのに!」

「そのバレンタインっていうのは?」

「女の子が好きな男の子にチョコを贈るお祭りです!」


 妹がザザへ言った内容が果たしてバレンタインの本来的な内容かどうかというと違うのだろうが、日本での実状としては間違いがないだろう。


「ふうん、そういう風習があるんだ。サキは誰かにあげたりしてるの?」

「お兄ちゃんとー、お父さんとー、おじーちゃんとー、照兄、に毎年あげてます! バレンタインは家族にもあげるんです」


 もはや照治もまったく突っ込みを入れる気配がないが、咲の中で彼は家族にカウントされている。


「では、男性にとっては楽しみな日なんですね」

「そのはずなんだけどね」

「バレンタインはな……毎年な……俺たちにとってはなあ」


 幹人と照治、二人揃って渋い顔でううんと唸る。

 唸る他ないのだ。


「……お兄ちゃんも照兄も、高専に入ってからバレンタインの時って、もうなんか、死んじゃいそうだよね」

「兄ちゃんたちは、大きな大きな戦いの真っ最中だからなあ」

「天王山も天王山よ。殺らないのならこちらが殺られる、切った張ったの大一番。血で血を洗う天下の分け目、それこそがそう」


 ――後期期末試験。


 絞り出すように言ってから、照治は大きくため息を吐く。五年生の彼は三年生の幹人よりも二度多く、その死線を越えてきたのだ。


 大山高専では大抵毎年、二月十四日は後期期末試験の試験日である。

 大げさな話でもなんでもなく本当に、大山高専生的にはバレンタインどころではない。一歩間違えば単位が落ちるし、そうなれば最悪、上がるものも上がらなくなる。


「甘くねえんだ、うちの教官陣は……。カカオ100%だぜ」

「ね。……ああでも、あれは根強いよね、『後期の期末試験が毎年バレンタインに被るのは学校側の優しさなんだよ』説」

「んんー、ま、そうだな」


 後期期末試験の真っ最中だからそれどころじゃない、という言い訳をバレンタインに対して学生たちが述べられるように、わざわざそんな日程にしているのだという話である。

 毎年毎年、バレンタインの時期になると誰かが語り出す学説だ。


「よくわかんないですけど、じゃあミキヒトさんたちはバレンタイン、全然楽しみじゃないんですか?」

「ザザさんザザさん、聞いて下さい、でもお兄ちゃんも照兄もちゃっかりチョコを貰ってくるんですよ。ちゃっかり!」


 そう言う咲は表情も口調もあまり面白くなさそうだ。


「なんだかんだ、女子陣はそんな日程だっつーのに用意してたりすんだよ。男が多い集団だから逆に、特別なもん贈るっつうか、とりあえず配っとくかみたいな感覚なんだろう」


 照治の語る説はおそらく、一面の真実だろう。


「男の沽券がかかってるこっちとしちゃ、ありがたい話だけどね。……ただ、贅沢な事を言わせてもらうと、妙なエンジニアリング精神を発揮されるのは勘弁して頂きたいところ」

「なんなんだろうな、あれはマジで……横倉とか、本当にあの女、申し訳ないが頭おかしいからな。ココアパウダーまぶしゃあどんなもんでもチョコだと言い張れると思ってやがる」


 技術者気質がそうさせるのか何なのかは知らないが、ここぞとばかりにネタ方面に振った品をチョコを自作してくる女子学生はちらほらいる。

 一緒に異世界に来る事になった照治と同学年、五年生の横倉などはその筆頭で、幹人も照治も毎年捕まっては、異様に苦いチョコや異様に辛いチョコ、もはやチョコなのかどうなのか、広義で言えばギリギリでチョコかもしれない何かなどを食べさせられている。


「そこを行くと三峯なんかは、どさっと大量にキット◯ットやらの定番チョコ菓子を買い込んで部室に置いておいてくれるという実に安定的な振る舞いをしてくれるもんだから助かる」

「別に用もないのにみんな、とりあえず部室に行って置いてあるお菓子をありがたく貰って帰るもんね。部員が多いもんだから量も多けりゃお金もかかるのにあの気配り。みぃちゃん先輩さまさまだよ」

「本当にな。あとは毎年くれると言やあ塚崎か。あいつはもはやなんか試供品を配る業者みたいだよな、大量に作って」

「お菓子作りも趣味の内らしいからね」


 料理上手のギャルファッション化学科三年女子・塚崎は確かに、大量に様々なチョコを作って男女問わずに配っている。

 しかし元々ロボ研部員というわけではなく、照治とは学年も学科も違う彼女がどうして毎年欠かさずこの兄貴分にチョコを渡しているのかと言えば、もちろんバレンタインらしい事情があるからである。


「試験勉強の息抜きに作るんだなんて言ってるが、あの出来栄えを考えるに結構大変そうだよなあ。好きなのはいいが、単位を落としやしないか心配だぜ」


 このように当の照治はおそらく、塚崎にチョコを貰えるのは誰にでも配る彼女にたまたまエンカウントしているからとしか考えていない。それは観ている分にはやきもき感があってエンターテイメント性に優れてはいるが、塚崎が不憫でならないので何とかならないものかと思う。


「塚崎さんはしっかりしてるから大丈夫だよ。それに照兄、チョコ貰うついでに勉強教えてあげてるんでしょ」

「数学と物理くらいだ。学科が違うから専門科目はどうにもならんし、文系科目なんて俺は教えられん」

「なんか、色々あるんですね」


 パクパクパクパクとお菓子を食べながら、ザザはそんなコメントをくれた。


「あー……チョコ食べたくなってきました……あー……」


 ザザに負けじとこちらもお菓子を頬張りながら、妹は唸る。

 二人とも、色気より食い気という感じだ。


「なあ幹人、試験の話なんてしたもんだから思い出しちまったんだが、日にち的にもう、後期の中間試験って終わってるよな、俺たちが受けないままに……。とすると、期末試験を待つまでもなく俺たちの単位は」

「照兄やめよ! そういうのやめよ! ね! やめよやめよ!」

「試験だけじゃない、俺は五年だ……卒研が」

「照兄! 魔道具の話しようぜ!」


 兄貴分の言葉を遮って、幹人は必死の声を上げる。

 もしも次のバレンタインまでに元の世界に帰れたとしても、それはそれで甘くない現実がどうやら待っていそうである。


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